第2話 黒と白と灰色と
それから、長い時が流れた。
姉上は忙しい人で、仕事だと言っては頻繁に外出した。すぐに帰って来る時もあれば、なかなか帰って来ない時もあった。少し寂しかったが、コークスがいたので平気だった。ぼくらは議事堂でおしゃべりや飛ぶ練習などをして暇をつぶした。
姉上はここ以外を案内してくれなかったが、きっと地界にはここしかないんだろう。議事堂にはいろんな人が訪れた。声をかけても反応がなかったり、いきなり怒鳴ってくる人、何かぶつぶつ言うだけの気味の悪い人もいた。そんな中、ぼくらはふたりの仲間に出会った。
「しけたツラしてやがんなぁ、バニ公」
不意に上から声を掛けられた。顔を上げようと思った瞬間、視界に意地悪そうな笑顔が飛び込んできた。
「わあ! びっくりした……心臓に悪いからやめてよ~」
「俺たちにゃもう心臓なんかねぇだろぉ」
そう言って彼は下品に笑った。
彼の名はルカと言った。長耳族の男の人で、やることもすっかりなくなってぼくらが途方に暮れていたとき、嵐のようにやってきて、いつの間にか仲良くなっていた。
「てめーらの顔見てたらメシがまずくならぁ」
だったら見に来なきゃいいのに、と思ったが、ほんとに来なくなったら寂しいので言わないでおいた。代わりに、彼が汚くくちゃくちゃむさぼってる何かを指差して聞いた。
「なに食べてるんだい?」
「これかぁ? さっきその辺で会った魔物だぜぇ」
思わず、げっと声をあげる。
「また変なもの食べて……おなか壊すよ」
「俺たちにゃ内臓ねぇんだから壊れねぇよ」
再びケタケタ笑う。この笑い、初めは苦手だったんだけど最近は慣れてきた。ぼくは苦笑いして聞いた。
「おいしいの?」
「てめーらの顔見てたらまずくなった」
ルカは手にした塊をべちっと床に叩きつける。塊はどろりととろけるように消えていった。
彼の理不尽な発言も気まぐれ加減ももう慣れていたので、ぼくは特に気にせず軽く伸びをかますと、隣に座る妹に話しかけた。
「だって、暇なんだもの……ねぇ、こーたん」
彼女は紅潮した顔でぼうとしていた。
「こーたん……?」
反応がないので、正面にいた羽耳族の少年に話しかけた。
「ねぇ、ノギ」
「うん。暇だものね」
少年は柔和な笑みを湛えて頷いた。
「暇、ヒマってなぁ……」
ルカはぼくらを見回し呆れたようなため息をつく。
「こんなじめじめしたとこにずっといりゃあ暇だろぉよ」
ルカははっとしたように空を見上げると、突如、ばさっと翼を広げる。ぼくの視界を埋め尽くすほど大きな翼だ。
「じゃな! ばばぁが来やがったからいくぜぇ」
そう言い捨てると、一瞬にして彼は消え去った。後には二、三枚の黒光りした羽根だけ残された。ほんと、嵐みたいなやつだ、と思った。
隣で惚けていたコークスが、急に立ち上がった。舞い落ちた羽根を拾い、空を見上げる。
「どしたの、こーたん」
彼女はしばらくの沈黙ののち、聞き取れないほどの声で呟いた。
「……かっこええなぁ……」
「はあ?」
何を言い出すかと思ったら。ぼくは呆れた。
「今度はいつ会えるかな……」
すっかり自分の世界に入ってしまっている。
「だってさ、どう思う? ノギ」
「僕も、ルカ兄はかっこいいと思うよ」
少年も羽根を拾い上げてにこりと笑った。だめだ、すっかり毒されてるこの人たち……ぼくはため息をついた。
たしかに、ああいうワルに憧れる気持ちも分かるけど、ぼくが憧れるのは姉上のようなタイプで……。
「いまルカがおらんかったか」
突然背後から聞こえたハスキーボイスにぼくは身を凍らせた。
「あ、あ、姉上!」
背後からどす黒い気を感じる……ぼくはぶるぶる震えながら答えた。
「イマシタ……デモ、モウイッチャイマシタ……」
「そうか」
姉上はぽんとぼくの頭に手を置いた。ぼくの緊張はようやく解ける。見ると、ノギはコークスの後ろに隠れてまだぶるぶるしていた。対してけろりとした顔のコークスは、手に持った羽根をひらひらさせながら言った。
「なんで姉さまはそんなにルカさんを追いかけまわすの?」
姉上はギロリと威圧的な視線をコークスに向ける。コークスは依然ケロリとしたままで効果がなさそうだとわかると、姉上はため息をついて答えた。
「あやつは法を犯した。無断地上侵入数知れず……」
ちらりとノギを見やる。
「無断岸上陸までやらかしておる」
ノギは彼女の視線にさらに縮みこむ。コークスは半笑いを浮かべて肩をすくめてみせた。
「ちょっとくらいどうでもいいじゃん、プラスになってることもあるんだし」
「ルール違反は裁かれねばならん。例外はない」
姉上はぴしゃりと言い放つ。そして厳しい顔つきでぼくらを見回すと、低い声で言った。
「あまりあやつに肩入れするでないぞ。……あやつのように悪魔を演じても、辛いだけだ」
姉上は翼を広げ、飛び去っていった。ぼくの目の前に、ふわりと灰色の羽根が舞い降りた。
「……僕のせいかなぁ」
しばらくの静寂の後、ノギが呟いた。
「ルカ兄が追いかけられてるのって」
ノギはぼくらと違い、姉上に救われたのではなかった。岸まで流れ着いたところを、ちょうど居合わせたルカに救われたらしい。白い翼に殺されかかったりずいぶん怖い目にあったそうだ。ルカが岸に来ていなければ消されていたということもあってか、ルカの罪は自分の責任だと思っている節がある。
「きみは全然悪くないよ。姉上だって、きみを助けたことに関してはルカのお手柄だって思ってるさ」
「そうかなぁ……」
ノギは自信なさげに身を竦ませた。気が小さいというか優しいというか、ノギは黒い翼に似合わない性格だなと思う。
「悪魔、か」
ぼくはルカの羽根と、姉上の羽根を拾い上げて眺めた。黒くテラテラ光るルカの羽根、灰色のふわふわした姉上の羽根。
『俺たちは悪魔ってんだよ、知らなかったのかぁ?』
ルカはぼくにそう言った。姉上はぼくらのことを黒い翼と呼んだ。だから知らなかった。
ルカは姉上が教えてくれなかったことを色々教えてくれた。ルカは自分のことを黒い翼とは呼ばなかった。
『黒い翼ってなんだぁ? 俺たちは生まれてこのかたずっと「悪魔」よぉ』
姉上がそう言ったんだ、と言ったら、ルカはケタケタ笑った。
『黒い、白い、なんていうのはどこ探してもあいつだけだぜぇ。上でも下でも真ん中でも、俺たち黒いのは悪魔、白いのは天使って呼ばれるんだよ」
上、下、真ん中、というのはそれぞれ、天界、地界、地上のことを指すんだろう。ひどく笑われてぼくは赤面した。今まで姉上の言うことが全てだと思っていたが本当は違うのだろうか。
どうして、姉上はそんなことを言うんだろう、とぼくはルカに尋ねた。ルカは嬉しそうに馬鹿笑いしながら答えてくれた。
『そりゃあ、あいつは天使崩れだからなぁ』
天使崩れ? ぼくは問い返した。
『天界を追い出された堕天使ってやつだよ。天界にはもう帰れねぇのによぉ、天使のプライド捨てれねぇ、中途半端な灰色のまま居座ってやがる』
『あいつは悪魔の仲間にゃなりたくねぇんだろぉよ、だから黒白言って誤魔化してるんだぜぇ』
悪魔になっちまえば楽なのによ、とルカはケタケタ笑っていた。
ぼくは驚いた。姉上が恐ろしい白い翼の仲間だったなんて。ぼくは急に姉上が得体の知れないものに思えた。ぼくはぶんぶんと頭を振った。いや、姉上は姉上じゃないか、たとえ天使だったとしても、ぼくのただひとりの姉上……。ぼくの目覚めを待っていてくれた、姉上の優しいぬくもりを思い出した。あれが嘘だったわけはない。
ぼくが悩み始めたのをルカはおもしろそうに見ていた。ぼくは腹が立った。そうだよ、姉上とこいつとどっちを信じるかなんてわかりきったことじゃないか。ぼくの鋭い視線を感じたのか、ルカは笑いを止めた。
『まぁ、ともかくだ。黒い翼とか白い翼とかいう分類は、あのばばぁの妄想なんだよ』
『白いのは天使、規則正しく生きていーことをして誉めあって嬉しそうにしてるやつら、黒いのは悪魔、自分勝手におもしろおかしく生きてみんなから嫌われるやつら、それがジョーシキってやつよ』
ニヤリと笑う彼の顔は、ぼくの思う悪魔そのものだった。
『だいたい、罪なんてものはねぇんだよ。罪とか罰とかは強いやつが勝手に決めるもんだ。そういうめんどくせーもんがないってのがここの良いところなのに……それがわかってねぇんだあの堕天使さまは』
そこまで一方的に吐き捨てると、ルカは飛んでいってしまった。
ルカとの出会いから、ぼくは色々考えるようになった。
手に持った黒と灰色の羽根を改めて見た。ルカの羽根はぼくらと一緒だ。姉上には悪いけど、ルカの言うとおり悪魔の羽根にしか見えない。黒いだけではない、テラテラした輝きや、鋭く尖った毛先も、全部。昔、ぼくが人として生きていた頃だったか、どこかで習った悪魔の姿を連想させた。
たまに思い出すどす黒い感情だって、ぼくを悪い魂だと告げている。
もう二度と安息のもと生きることが許されないのなら、いっそのこと、ルカのように嵐の中を自由に生きた方が楽しいのかもしれない。雨宿りできる場所を必死に探して生きるよりも。
そう思う度に、姉上が言った言葉が頭をよぎるのだ。
『この世界を緑あふれる楽園にしよう……』
ぼくは姉上を信じたいのだ。それでいいじゃないか、と思った。
ぼくの手から舞い落ちた二枚の羽根は、地面にたどり付く前に、さらさらと崩れ去った。
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