30 新生活8

「電話か?」


 通話を終えて携帯を内ポケットへしまっていた芹澤に、トイレから戻った久志が声をかけた。


「松本くんからです。久志さんに連絡がつかないからと私の携帯に連絡がありました」

「夏樹から? 夏樹に何かあったのか?」

「いえ、特に変わったことはないようです。久志さんの家で山路くんと夕食を一緒にとりますとの報告でした」


 芹澤の説明に久志の眉がピクリと動く。


「いいんじゃないですか? 久志さんも、松本くんに友達を呼んでもいいと言っていたし」

「確かに友達を呼んでもいいとは言ったが……」


 呼んだとしても修一くらいだろうと思っていたのだ。

 世話好きなようだが、あの暑苦しい男にまさか夏樹があんなになつくとは久志は思っていなかった。


「松本くんも張り切ってましたよ。山路くんの好物は何かと聞かれました」

「――――何だって?」

「これから二人で夕食の買い物に行くんだと楽しそうに言ってました。松本くんの身はご心配なく。山路くんは見た目どおり強いですから、怪しい人物が松本くんに近づいてもちゃんと追い払ってくれますよ」

「…………」

「松本くん、山路くんのことを結構頼りにしているようですし。私も安心して留守を任せられます」


 夏樹が山路と一緒に買い物へ行くと聞いて、徐々に久志の機嫌が下降する。一方の芹澤は、なぜか楽しそうに見える。


「いいですねえ、松本くんの手料理。美味しいんでしょう?」

「…………ああ、美味い」

「それなら良かった。私もボランティアで山路くんに松本くんのボディガードを頼むのは悪いなと思っていたんですよ。松本くんの心のこもった手料理なら彼も嬉しいでしょうね」

「芹澤」

「はい?」


 笑顔の芹澤に対して、どこか思い詰めたような表情の久志。


「今から一旦、戻っ……」

「まさか今から戻るなんて言わないですよね? 誰かが無理矢理日程を詰めてしまったせいで、食事時間もまともにとれていないというのに。ねぇ、久志さん」


 芹澤の顔は相変わらず笑顔のままだ。きつい口調でもないし、声を荒らげてもいない。ただ、なまじ整った容姿をしているせいで、妙な迫力がある。


「さて……トイレ休憩も終わったことですし、今日の報告と明日の予定の確認をしますよ」

「今からか?」

「そうですが。今から打ち合わせをしないと、いつするんですか? 明日は朝六時には出ないといけないのに。それとも午前三時から打ち合わせをしますか? 久志さんがその方がいいなら、私は一向に構いませんが」

「夕食は……」


 今日は朝からの過密スケジュールで、昼はコンビニのおにぎりだけだった。せめて夕食はまともにとりたい。


「はい、どうぞ。久志さんがお手洗いに行かれている間に買ってきました」


 そう言って、芹澤が紙袋を久志に手渡した。


「ホテルのレストランにテイクアウトの予約をしておいたんですよ。昼食はおにぎりだけだったので、夕食くらいはまともなものが食べたいですし。これなら打ち合わせをしながら食事ができます」


 まともな食事と言われた紙袋の中には、具だくさんのサンドイッチが入っている。


「芹澤、怒ってる?」

「はい? 私は今回の出張のスケジュールが滞りなくこなせるようにしているだけですが。それとも久志さんは私を怒らせるようなことをされたんですか?」


 芹澤から訊ねられて、心当たりがありすぎるのか久志が口を閉ざす。


「五分オーバーしましたね。久志さん、部屋へ行きますよ」

「――わかったよ」


 長年の付き合いから、こういう時の芹澤には逆らわない方がいいと久志は知っている。

 もちろん夏樹のこのとも気にかかるが、芹澤が大丈夫だと言うのなら間違いないだろう。

 久志が頭の中を仕事モードに切り替える。芹澤が抱えている書類の束を眺めながら、今夜は遅くなりそうだと心の中でため息をついた。

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