アパテイアÅインシデント

垂季時尾

第1症 森に棲みたい

《  これはありふれてはいるけど、確かに奇跡のお話です 》


 例えば、「面積を求めよ」という問題で、点や直線の面積はどうやって求めたらいいのだろう?

 点は存在しないのか?線は?拡大していけば、点だって、線だって、ちゃんと形はあるだろう。四角の点もあれば、丸い点もある。直線だと思っていたものが、凸凹と波打ってたりもするかもしれない。

「極致集合論」は?否、そんな難しい話でなくても、単に、この世に完全な直線が存在しているのかって考えた時、完全な直線を見つけ出す事ができるだろうか?

 ブラックホールの中では、E=mc2は、別の証明に変化するのだろうか?

 Xn+yn=Znは?

 Åは?ωは?§は?εは?ξは?ζは?Жは?Зは?йは?

 今見ている☆の光が、今光っているわけではないと、本当に信用できるのか?


 って、そんなことばかり考えているから、心が満杯になって、怖い夢を見てしまうのです。だから、しばらく難しい考えは捨てましょう。

 「З=ζ」って、屁を嗅がされてる外人さんに見えるね。って程度の頭で。

 そしたら、きっとみーちゃんが最高の笑顔で、あなたを迎えてくれるでしょう。

 少々説法じみた出だしになってしまいましたが、お許しください。これが私の性分なもので。

 では、お話の、始まり、始まり。なんて。


 暗転のち、軽快なパンクチューンが流れ出す。


第1章「森に棲みたい」 


 メーカーが明治だからこのお薬はなんとなくお菓子の味がするのかな?みーちゃんはぼんやり考えながら、水も飲まず、小さな錠剤を舌でコロコロと転がしながら、ゆっくりと溶かしていく。

 本当はデパスの方が自分には合っている。でもお医者さんは、こっちの方が効き目も長いですよと、デパスは処方してくれなかった。みーちゃんは今日とても憂鬱で不機嫌だ。憂鬱なのは、だいたいいつもの事ですよ。不機嫌なのは否めないけどね。と、みーちゃんはボクに話かける。

 話しかけられて、初めてボクに命が宿る。ボクは、ホントは有名なキャラクターのヌイグルミらしい。みーちゃんが、その名で呼んでくれないので、自分の本名をボクは知らない。生まれはたぶん中国という国のどこかの工場だろう。部屋にあるボクの仲間達もほとんどが中国で作られたのだという。別に出身地がどこだろうと、まったく気にはしないけどね。

 みーちゃんが話しかけてこない間は、ボクはただのヌイグルミで、死んでいる状態だから、みーちゃんの言う、憂鬱も不機嫌も、よくわからない。ボクが知っている感覚は、「寒い」「暑い」「熱い」「眠い」くらいだろうか?名前を知らないだけで、他にも体験した感覚があるかもしれないが、どうでもいい事だ。

 みーちゃんは、お薬をコロコロと転がして、口の中で完全に無くなってしまってから、ペットボトルの水を一口飲んだ。次に、うまい棒のチーズ味を一本、一気に食べてしまった。水も、うまい棒もみーちゃんが教えてくれたのだ。うまい棒は今日の晩ごはんらしい。

 今年はこの国でたくさん人が死んだのだと言う。毎年、知らない間に世界中で、たくさんの人が当たり前に死んでいくのよと、みーちゃんは、この世のすべてを知っているように、ボクに話しかける。難しくて困ってしまう。特別な事じゃないのなら、どうして人は死を恐れるのかしら?と、死が特別じゃないと教えてくれたみーちゃん自身が、ボクに問いかけるのだから、なんと答えていいものやら。どっちみち、ボクはしゃべれないのだけど。

 普段、ほとんどの時間をみーちゃんは部屋で過ごす。時々出掛ける時もある。その間、ボクは真っ暗の部屋で死んでいるのだ。どこに出掛けるのか知らない。次に話しかけられるまで、ボクは、体に憑いているダニという小さい虫の、粗末な意識と、まったく面白くない感覚の疎通を続けるか、やはり死に続けるかだ。


 油といいます。店長の拘りで、サラダ油と、ラードとが、五分五分で調合されています。今、業務用のフライヤーに注がれてから三日目です。三日目くらいがちょうど素材の味が浸み出して、一番良い味に揚がるのだそうです。自分としては、色もずいぶん黒ずんできたし、そろそろ廃棄して欲しいのです。油が言うのもなんですが、油臭いのは辛抱できません。みーちゃんも、髪の毛がベタベタするし、古い油は大嫌いです。百八十度になった黄金色の油に、パン粉をつけてすぐの串カツを素早く放り込むのが好きなのです。プツプツと気泡がたって、練り粉から逸れた細かいパン粉のカスが、油の表面にシュワーと音をたてて散っていく瞬間が好きなのです。黒い油は、見ているだけで憂鬱になると、みーちゃんは言います。

 私も同意見です。

 みーちゃんは、私の中で揚がる串カツを眺めては、アルミのザルに取っ手が付いているような物で、揚がった串カツを掬い上げ、すぐに次の串カツを放り込みます。途中、三十分休憩を挟んで、作業は八時間続きます。以前は、週に六日、作業を行っていましたが、今は、体の具合が良くないという理由で、週に二日だけ、串カツを揚げるようになりました。二日だけなのに、みーちゃんは毎回、とても辛そうです。店長とも、朝の挨拶と、帰りの挨拶以外は、ほとんど口をききません。時々、晩御飯に誘われますが、いつも断ります。決まって、家が厳しくて晩御飯は家族で食べなくてはいけないのですと、みーちゃんは言います。その言い訳が嘘だと、店長は知っていますが、あえてそれ以上は誘おうとはしません。どうせ断られるのを分かっているのに、二、三カ月に一度は、みーちゃんを食事に誘います。店長は、誘う事も上司の務めだと本気で思っているようです。みーちゃんは心底ウンザリしています。

 油の私には関係のない話です。私は、新しい油にして欲しいだけです。休憩室で、店長が無理矢理みーちゃんにキスをした事も知っていますが、その時、泣きながら灰皿を店長に投げつけたのも知っていますが、やはり私には関係のない話です。

 厭なら辞めたらいいのにと私は思います。


 ニーソックス。正式には、ニーソックスとは膝丈まであるハイソックスの名称。膝より上まであるソックスは、ニーハイソックス、さらに太ももの上まであるソックスは、ハイサイニーソックス。

 でも、みーちゃんの言うニーソックスは、膝上まである靴下を指す。だから自分は、ニーソックスである。それに、みーちゃんはニーソックスとは言わない。ニーソと略して言う。最近は、ニーハイと呼ばれるのが主流になってきているが、ぜったいにニーハイとは言わない。昔から、ニーソはニーソだ。その呼び名の方がカワイイので、誰がなんと言おうが、ニーハイソックスを、ニーソと言い続ける。みーちゃんのお気に入りのニーソは、赤と白の縞ニーソだ。バイト先の店長も、みーちゃんの履く赤と白の縞ニーソが大好きだ。特に、太もも部分をゴムがしめつけて、お肉がぷくっと段になっているところが、店長のお気に入りだった。

 みーちゃんは、最近になって、バイト先にはスカートを履いて行かなくなった。もちろんニーソも履かない。ニーソを履くのは休みの日だけ。

 自分は少しだけ寂しい。まぁしょうがない。店長から、ニーソにむかって、臭い白い体液をかけられたのだから。かけられたのが自分でなくて良かった。同僚のニーソは、バイトの帰り、高架下の水溜りに棄てられてしまった。あいつの無念を想うと、怒りでゴムが千切れそうになる。店長は熱した油に浸かって死ねばいいのに。


 再び油です。今日、新しく生まれ変わることになりました。嬉しいです。こんなに心が清々しい気持ちなのに。みーちゃんは、もう私の中で串カツを揚げないらしいです。私が辞めたら良いのになんて言わなければ良かったのかもしれません。最後の日なのに、私のせいで、みーちゃんの手の甲に火傷をさせてしまいました。本当にごめんなさい。みーちゃんが私を使ってくれている間、仕合わせでした。関係のない話だなんて嘘です。油のくせに、ずっとみーちゃんが好きでした。店長は嫌いです。ラードなんか混ぜないほうが、油は長持ちするのです。臭くないのです。店長はみーちゃんを何度も泣かせました。あのビチクソ野郎は、二百度まで熱された私の中で、骨になるまで揚がればいいのです。その際私も、もう二度と生まれ変われなくなるでしょうが、みーちゃんの悔しさを考えたら、私がどうなってもいいのです。店ごと燃えてしまってもいいのです。


 みーちゃんがバイトを辞めてから、ニーソの同僚が一気に増えた。自分はごく普通の、黒ニーソで、同じ黒ニーソが他に十足ある。その他に、水色と赤と黄色と緑の縞ニーソ。白ニーソ三足。ドクロの絵が入っている黒ニーソ。イチゴの絵のニーソ。ヒラヒラのフリルのついた白ニーソ。同じフリルのついた黒ニーソ。ガーゼのような薄い素材で編んである、頼りない灰色のニーソ。ニーソと呼べるのかわからないが、ガーターベルトというゴムのバンドで腰から釣り下げるタイプの黒ニーソ。膝の部分だけ、網になっている紫色のニーソ。青の水玉模様のニーソ。自分が確認しただけで、それだけの仲間がタンスの中で、次の出番を待っている。自分は昨日、履かれた。ゴムが緩んできたのか、何度か膝下までずり落ちてしまった。今日は一日パンツと一緒に干されながら反省するとしよう。そろそろ棄てられるかもしれない。その時はその時だ。この世のすべての物には寿命がある。自分も例外ではない。


 みーちゃんは、バイトを辞めてから、お菓子だけで五キロ肥った。お菓子と言っても、高級スイーツなどではなく、一個十円から三十円くらいの駄菓子だ。うまい棒がそのほとんどを占める。みーちゃんは、食べ物と水分を一緒に嚥下する事ができない。口の中で、食べ物と水分が混ざり合うと、ひどい吐き気に襲われるのだ。湿り気を帯びた食べ物も、ほとんどうけつけない。唯一大丈夫なのが、ミカンとミカンの缶詰だけだ。他のフルーツも野菜も駄目。いつも飲んでいる精神安定剤も、水と一緒には飲めない。薬だけを唾液で溶かす。数年前までは、唾液と混ざるのも駄目で、ほとんどの食べ物を、噛まずに飲み込んでいた。涙の努力で、なんとか唾液だけは克服した。うまい棒を、口の中をパサパサにしながら食べ、後から水を飲む。本当は、水よりも炭酸飲料の方が好きだが、体重の増加に伴い、最近は水で我慢している。お茶は駄目だ。お茶は、緑茶でも、麦茶でも、ウーロン茶でも、紅茶でも、飲んだ事はないが、たぶんプーアル茶でも、飲めない。草の味が、やっぱり吐き気をもよおす。水も、外国の水は駄目だ。かならず日本のミネラルウォーターを飲む。水道水など、ビチクソだ。小学校のころ、校庭の端にある手洗い場で水を飲もうとしたら、錆の塊が蛇口から出てきて、一緒に飲み込んでしまった事がある。アレがトラウマで、水道水は、いくら高級な浄水器を蛇口につけても、ビチクソだと思っている。

 

 さて、みーちゃんはどこに向かうのだろうか?答えは森だ。森でクマさんを探すのだ。なるべく海より遠い場所をみーちゃんは選ぶ。そうすると必然的に山か森になる。海は鮫がいるから嫌いだ。鮫の目は、真っ黒で虫みたいだとみーちゃんは思う。魚のくせに虫みたいなのでクソ気味悪い。あれに似ているとも思う。あれ。そう、何かを本気で信じている人の目だ。雑踏で、世界の終わりを声たかだかに伝えていた宗教団体の信者達の目だ。あの目が鮫に似ているとみーちゃんは気づいて、気持ち悪くなって、往来で吐いてしまった。目の奥が笑ってなくて、深淵に闇を見たのだ。鮫と同じ目。だから街も人ごみも嫌い。森がいい。誰もいない森。クマさんと鳥さんのいる森。湧水ならみーちゃんでも飲める。うまい棒をリュックに詰め込んで、一応水筒に水を入れて、無くなったら湧水を探す。

 さぁ出かけよう。みーちゃんは少しだけ楽しくなる。


 小学校のころ、みーちゃんは今よりも二十センチほど身長が低かったが、今よりも十キロも体重が上だった。人と一緒にいるのが、そのころも苦手で、前髪で顔を隠して、自分を消そうと努力した。でも、すぐにまわりに見つかって、いろいろな物をぶつけられた。しょうがないのでトイレに逃げ込んで、休み時間はトイレに隠れていた。トイレもすぐにバレて、バケツの水が、バケツごとみーちゃんに降ってきた。びしょ濡れに何度もなった。濡れた服のまま五時間目の授業を受けた。先生も心配どころか気にも留めやしない。放課後まで、濡れた服のままやり過ごし、見つからないように急いで帰宅した。時々見つかって、下校途中の土手のあたりで、よく犬のフンをぶつけられた。家に着いて、親に見つからないようにこっそりお風呂で服を着替え、フンのついた服も風呂で洗ってから洗濯機に放り込んだ。夕ご飯までの二時間と、ご飯を食べてからの、朝方までの時間が、みーちゃんにとって唯一の時間だった。夜更かしすると次の日がしんどいけど、明日を想像しながら眠りに落ちる苦痛に耐えられなかった。他のもっと恐ろしい事、例えば世界滅亡の予言だとか、核ミサイルの事だとか、別の恐怖を考えて、現実を忘れようと努力したが、かえって怖くなって、朝方まで、ノートに黒いグリグリした物体を描き続けるしかなかった。睡魔が、すべての思考を停止させてくれるまで、ベッドに横になれなかった。いったん寝てしまえば、今度は起きられなくなった。週に三度は仮病で学校を休むようになった。仮病だとばれそうになると、用意しておいた腐った牛乳を一気飲みして、本当に身体を壊した。腹の痛みと高熱で、現実がふにゃふにゃした軟体動物になって、みーちゃんにはそっちの方がずっと楽だったのだ。楽になりたかった。森に棲みたい。クマちゃんと一緒に。クマちゃんと仲良くなれれば、あの、ビチクソ達をブチ殺して食べてくれるかもしれない。寒い日は、モコモコの毛で暖めてくれるだろう。

 腐った牛乳ばかり飲んでいたおかげか、みーちゃんはずいぶん痩せた。痩せたところで性格が変わるわけではない。相変わらず、ビチクソ達にクソ以下の攻撃を受けていた。ああ、どうして頭破裂してくれって願っても、あいつらの頭は爆裂してくれないのでしょう。まだまだ魔女になれないのかしら。みーちゃんは、クラスメイトが破裂する様を想像して、ふふと微笑んだ。微笑む事だってあるのだ。生活のほとんどが無表情ではあるけど、決して無感情ではなかった。感情をくみ取れないのは、まわりの人間がビチクソだからだ。みんなクマちゃんだったらいいのに。クマちゃんを想うほど、森が恋しくなった。みーちゃんの家の近所には森らしい森はひとつもない。せいぜい神社の裏の竹林くらいだ。森を探して、あてどなく近所をふらふらしてみても、変質者に下半身を触られるくらいで、なにも良い出会いはなかった。試しに神社の裏の竹林に行ったら、夜露に濡れた劇画のエロマンガが無造作に捨ててあって、何度か家に持って帰った。なぜか決まって、劇画のエロマンガしか落ちてなかった。「不思議の国のアリス」の絵本が好きで、どこかに夢の国へ続く穴があいていないか探した事もあった。近所の空き地に深い穴を見つけて中を覗いてみたら、底の方にキラキラ光る物を発見して、宝石かしらと手を伸ばしてみたら、指の先に鋭い痛みがはしった。よく見たら、穴の底にあった物は宝石ではなく、何百本もの注射針だった。消毒液の匂いが穴に溜まっていて、みーちゃんは気持ち悪くなって、穴に吐いた。胃酸で、無数の注射針がぴちゃぴちゃ鳴っていた。


 みーちゃんは高校三年生の時、体育館の外れにある用具室で、五人の男子から暴行を受けた。必死に抵抗したけど、パンツを脱がされ、五人中、四人は半分冗談のつもりだったのか、それとも急に怖くなったのか、そこまですると「なんか冷めるわ。引くわ」とか言いながら、用具室を出て行ってしまった。残りの一人はそのまま行為を続けた。みーちゃんは怖くて、天井に挟まったバスケットボールをじっと見ている事しかできなかった。男の鼻息が、耳元で、ふぅふぅと煩かった。声も出せなかった。男はズボンを脱いだ。みーちゃんは雑にスカートの中を弄られ、股間に痛みが走った。ちょうどその時、用具室に備品の整理に来た体育教師によって、寸でのところでみーちゃんは助けられた。みーちゃんを襲った男子生徒は、親が市議会議員ということもあり、問題はもみ消され、反省文と停学一週間の処分で済んだ。だけどみーちゃんはその日を最期に学校を辞めた。  

 もともと学校は嫌いだった。股間の痛みはしばらく続いたが、自分はただ人形として扱われただけだと感じていた。せいせいした気持ちだった。

 高校を辞めたあと、彼氏のような男も出来た。みーちゃんは、正直どうでも良かった。男に乱暴されたくらいでトラウマにもならないし、傷つきもしない。リストカットの真似事を何度かやってみたが、なんの感情も沸いてこない。思ったより痛くもないし、かといって、気持ち良くもない。あとの処理が面倒なだけ。リスカは止めておこうと思った。両親が心配して、心療内科という心の病を治す病院に連れて行ってくれた。医者の診断では、軽い鬱症状があるというので、安定剤を処方された。薬は今でも毎日かかさず飲んでいる。効いているのかいないのか、よくわからない。ただ、医者が飲み続けよと言うので、守って飲んでいるだけだ。時々眠れない夜は少し多めに飲むが、だいたいは、言われた通りの量をきっちり服用するようにしている。臨床心理士という人との月に一度のカウンセリングは、嫌いではない。静かな曲の流れる面談室で、心理士と向かいあって、ゆっくり深呼吸したり、身体をさすってみたり、目を閉じて、深い森を想像したりする。これがなんの役に立つのか、さっぱり分からなくても、なんだか心が落ち着く気がするのは確かだ。家にいると、なかなかゆっくり森を想像する事ができない。自分のまわりは雑音が多すぎるのだとみーちゃんは思っている。


 アイラブユーだとか、ドンチュークライだとか、アイニーデューだとか、歌の詞はどんなに使い古されていても成立してしまう。みーちゃんはありきたりな歌詞は大嫌いだ。脳ミソを使わない創作は、みんなクソだとみーちゃんは考える。V系のバンドは好きだ。でも、歌はどの詞もありきたりでつまらない。たまに難しい漢字をねじ込んで、退廃的な雰囲気を出そうと工夫している歌もある。低能なヤンキーの落書きとなんら一緒じゃんと、みーちゃんは不満でいっぱいだ。どの歌詞も上っ面。心にちっとも響いてこない。どうせ、自称霊能力者かなんかの、醜い金持ちオバサンのペットになって食わせてもらってるんでしょ?とみーちゃんは想像する。だから最近は音楽も聴かなくなった。音楽も雑音のひとつになった。


 パパもママも嫌いだ。もっともパパはもうこの世にはいないけど。


 夜中、廊下に落としたつけまつげをゴキブリと間違えて、みーちゃんは「ひゃっ」と叫ぶ。ひさしぶりにびっくりしたなぁと、その直後に思う。見慣れたつけまつげも夜中の廊下に落ちていると、別の生物にしか見えない事に気づく。台所のある一階に降りて、冷蔵庫から砂糖の入ってないヨーグルトを出して、容器のまま、スプーンをつっ込んで食べる。砂糖の入ってないプレーンヨーグルトなら食べられると最近になって分かった。冷蔵庫を開けっ放しにしているので、真っ暗な台所が、そこだけぼんやりとオレンジ色に浮かんで見える。今日は寝られるかな?と、食べ終わったヨーグルトの容器を流し台のシンクに雑に投げ入れて、冷蔵庫の戸を閉める。ママがまだ起きているのか、リビングの方から微かにテレビの音が聞こえる。ママはなにも言わない。みーちゃんも気にしない。パタパタとボア付きのスリッパの音をさせながら、暗い廊下を曲がって、二階の部屋に戻る。みーちゃんの部屋は、アロマキャンドルの微かな光と、その見た目とは裏腹に毒毒しいどぎつい匂いに包まれて、部屋全体が呪われているように歪んで見える。ゴミ箱は駄菓子の包装紙で溢れ、まわりにも入りきらなかった食べあとの容器が散乱している。

 明日は良い日になるだろうか?と考えながら、ピンク色の布団に潜り込む。アロマキャンドルの火が自然に消えるころ、みーちゃんはようやく夢の中だ。


 やっと森に着いたね。森ってホントにあったんだね。みーちゃんの小脇に抱えられたヌイグルミのボクが答える。森の事はいつもみーちゃんから聞かされていたのでよく知っている。みーちゃんの言うクマさんは、ボクと似ているのだろうか?ボクも一応クマのヌイグルミらしいのだけど、本物のクマさんとどこが違うのだろうか。生きてる者と死んでる物の違いは…やっぱりすごいんだろうなぁ。生きてるクマさん。

 ボクは初めて緊張という精神状態を覚える。これがみーちゃんの言ってた「緊張」ですか。みーちゃんが部屋を出る時に、必ず激しく咳き込むのも、この感情の仕業なのだと聞かされていたけれど、今ならすごく理解できるよ。ボクの口はただの縫い目でしかないのに、その縫い目を突き破って、今にも綿が溢れそうだよ。

 みーちゃん。クマさんて狂暴とかではないのだよね?


 みーちゃんはボクの質問を無視してズンズン森の奥へと進んで行く。質問?あれ?ボク言葉はしゃべれないはずなのに、確かに声が出たよね?みーちゃん、ボク今、話したよね?ね?

 みーちゃんは答えてくれない。ズンズンズンズン歩くだけ。あんなに森に行きたいって言っていたのに、なんだかまったく楽しくなさそう。森も、みーちゃんに聞かされていたような、鳥が唄い、たくさんの動物たちが踊っている、それは愉快な楽園って感じじゃない。ジメジメしてて、ボクの中身が萎んでしまいそうだ。湿気はこの世で一番嫌いなのに。正直言って、みーちゃんの部屋だって、衣類乾燥剤の入っているクローゼット以外は湿気が多くて、これまでボクも我慢してたんだ。でもここは、みーちゃんの部屋など比べ物にならないほどジメジメしてる。それにほら、ボクの顔についたままの、このベチャッとした気持ちの悪い糸はなに?この糸臭いよ!ボクの縫い目に使われている糸とはまったく違う、粘着質の糸。これ、最悪な感じ。え?蜘蛛の糸?まさかそんな、あの、時々、みーちゃんの部屋の天井に綺麗な幾何学模様を造っていた蜘蛛の糸なの?あれって、身体に着くとこんなに最悪なの?初めて知った。驚愕の事実だ。驚天動地だ。天井から垂れてこなくて良かった。でもショックだ。天井の糸が美しくて、ボクの身体もあの糸で縫われていたらいいのにって、密かに憧れていた糸の正体がこれ!

 あーホントにショック。絶望だ。

 ん?絶望って感情はこれの事か。「緊張」も初めてだったけど、「絶望」も初めての感情だ。一番、何度も何度もしつこいほど、みーちゃんから教えられていた感情だったのに、一番理解が出来なかった感情。そうか、絶望は蜘蛛の糸のことか。森は想像とは違って、臭くてジメジメした場所だけど、たくさんの感情をボクに与えてくれるなぁ。と、また「感心」という初めての感情がボクに芽生えかけた時、突然みーちゃんは歩みを止める。

 

ほらもう良いでしょ自分で歩きなさい。みーちゃんはなにを思ったのか、ボクを地面に放りなげた。ボクにはちゃんと脚はある。でも脚がただの飾りだってボク自身が一番知っているんだ。

ポスッと小さな音を立てて、ボクはお尻から地面に着地した。着地した瞬間から、地面に堆積している枯れ葉の湿り気がお尻に伝わってきて、気持ち悪すぎて生きてもいないのに死にたくなる。二本の脚があるのだから、立って歩けばいいの。みーちゃんはまだボクに無理を言ってくる。ボクは生きていないから、みーちゃんに抱かれないとどこにも行く事ができないのだ。ほら、脚に力なんて入らない。

そう思って、試しに力を入れてみたら、なんてことはない、ボクの脚はバタバタと動くじゃないか。でも、だからって、綿だけしか詰まっていないフニャフニャの脚では上手く立てる訳がない。またそう思って両脚に力を入れてみると、いや脚だけでなく、腕にも力を入れて、地面に手をついたら、ボクの身体は簡単に起き上がり、二本脚で立ててしまった。

歩ける。歩けるぞ!「興奮」「嬉しい」「楽しい」「なんだか恥ずかしい」「泣きそう」「笑いそう」ボクの世界。ここはボクの世界。足の裏に確かに枯れ葉を踏む感触がするよ。

自分の脚で地面を蹴るたびに、新しい気持ちが溢れだしてくる。これが森の力なのかわからないけど、確かに森はみーちゃんの言うように良い所なのかもしれない。「ジメジメして最悪」なんて言ってゴメンなさい。そうボクが思っていると、木々の数が減り、急に開けた場所に出る。



「よーこそ。アパテイアの世界へ。ひさしぶりだねみーちゃん。いや、もしかして初めてだったかなみーちゃん」


 そこだけ鬱蒼と茂った木々が一本も生えてなくて、地面もキレイに整地されている。森の真ん中に円に切り取られた空間。不思議とそこだけ、湿気もないし、空気すら動いていない。よく見ると、空中に薄いピンクの膜が見える。円の中に立っていると分からないが、俯瞰で見ると、その円の空間は、ドーム状の薄ピンクの膜に覆われている。


 円の中央に、少しだけ小高く土が盛られた場所がある。その上に、幾つもの宝石が埋め込まれてキラキラと輝いている大きくて豪華な椅子が置かれている。みーちゃんは椅子に向かってズンズン進む。


「なぁんだ。やはり初めてではないねみーちゃん。ワシに遭うのもこれが何度目かなみーちゃん」


 椅子には、立派なヒゲを生やしたタキシード姿の男が座っている。手には、椅子と同じ宝石が鏤められた杖を握っている。太く低い声で男は一方的に話をする。


「今日も可愛い服を着ているねみーちゃん。その赤と白の縞模様の靴下が特に可愛いねみーちゃん。白のワンピースの裾からちらちらと見えるワンピースと変わらないほどの白い太ももと、靴下の境目のポテッとしたお肉が特にいいねみーちゃん。そのくらいのお肉が付いていた方が、その縞の靴下は良さが出るようだみーちゃん。ぺったんこの赤い靴もよく似会っているよみーちゃん」


人間に見える。でも人間ではないのかもしれない。瞳が無いのだ。目はあるが、目玉がない。男の目玉の部分は、空間をドーム状に覆っているピンクの膜より、もう少し濃いピンク色に光っているボクが急いでみーちゃんの後ろに隠れる。


 誰?あの目玉のない親父は。みーちゃんの知り合い?ここは森じゃないの?森には誰も人間はいないんじゃあないの?


 大丈夫。あいつは人間じゃあないよ。とみーちゃんは、ボクの頭を撫でて安心させる。ボクはみーちゃんと、みーちゃんのママ以外の人間と遭うのはこれが初めてだったので、ブルブルと震えている。もちろん初めての「恐怖」に感動を覚えつつではあるが。

 

「なんだかご機嫌斜めのようだねみーちゃん。ワシがいつも好き勝手に呼び出すからかねみーちゃん」


 みーちゃんは止まらずズンズン進む。ついに、小高い丘を上がり、男のすぐ前まで到達する。近くに寄って初めて男の身長がゆうに三メートルを超える大男だと分かる。座っている椅子も、みーちゃんの背よりうんと高い。みーちゃんは男を見上げるかたちで停止する。


 さぁ、説明してちょうだいパパ。


 みーちゃんは、大男に向かって普段はぜったいに出さないくらいの大きな声で言う。


 パパ?パパって言ったよね?みーちゃんにはパパはもういないって、みーちゃん自身から聞かされていたから、ボクはてっきりもう死んじゃったのだと思ってたよ。でも、本当にこれがみーちゃんのパパなの?ボクから見てもちょっと大き過ぎない?それとも大人の男ってみんなこのくらい大きいものなの?


 ボクが足元でチョコラチョコラ動くので、みーちゃんはポフッとゲンコツで、ボクの頭を軽く殴る。ちょっと黙ってなさいと言われ、ボクはまたみーちゃんの後ろに隠れ、「ちょっとだけ哀しい」の感情に、胸をキュンキュンさせる。


 ピンクの空間越しに、森の木が揺らめくのが見える。きっと風が強くなってきたのだろう。木々は長い枝葉を左右に激しく震わせる。ピンクの膜を隔てて、風の音も、木々がざわめく音も聴こえてはこない。 


「ハッハッハッハッハッハッー!」


 突然男が笑い声を上げ、みーちゃんは眉間にシワを寄せて、明らかに機嫌が悪そうだ。男の笑い声に合わせるかのように、木々たちはさらに激しく体を揺らす。森が膨らんだようになる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る