第24話 問題が見つかりましたので、保護する為にシャットダウンします

 メールが来てから速攻で会社を出て、一駅先の喫茶店に辿り着いた果梨は頼んだコーヒーを見詰めながら胃が痛くなるのを感じた。極度のストレスから心臓がばくばくしている。

 部長がどんな理由で自分をここに呼び出したのかはわからない。だが休暇中一切会う事を拒絶した事実を鑑みれば、なんとなく見えてくる物もある。

 もし……身体が溶けて立ち直れなくなる笑顔を見せられたらどうしよう。甘い言葉を囁かれたら? 触れる、という物理的な温かさに抗えるだろうか。自分の気持ちを自覚している今の自分が。

 コーヒーカップに伸ばした指が震えている。冷たい指先を暖めるように握り締め、果梨は身体の奥から来る震えを飲みこむようにカップに唇を押し当てた。

 背後まで見えるのではないかと思うほど周囲を気にして緊張していると、そこそこにぎわっている喫茶店の喧騒を見渡し、入り口から入って来る人影を認めて凍り付く。

 冷たい風にやや乱れた髪と、無駄過ぎる会議の所為でいくらか疲れた表情の男がぐるっと店内を見渡している。すらっとした体格と背の高さ。堂々と立つ姿に溜息が出そうになった。

 実際、彼の姿に気付いたお客が数名、溜息を吐きそうな顔で彼を見て友人とひそひそ話していたりする。

 その様子に鋭く胸が痛んだ。

 彼から好意を持たれているのはあくまで『果穂』だ。それを取っ払い、『果梨』として彼に対峙した時彼はどう思うだろうか? 嘘を吐いていた果梨をどうするだろう。下手すれば二度と会いたくないと言われるかもしれない。

 彼の瞳が果梨を映した。

 一瞬だけ、彼の顔が強張り瞳がぎらりと光る。だが、果梨の目に留まる前にそれは消え、藤城はふっと小さく笑った。

 どこまでも甘い笑みに、果梨は既に痛んだ胸から血が流れるような気がした。ぐっと奥歯を噛みしめる。

「待ったか?」

 身体の芯を揺さぶる声。彼は伝票を取り上げると果梨に立つように促した。

「取り敢えず、場所を替えよう」

 コートと鞄を取って立ち上がる彼女の肘を、藤城は待ちきれないとでもいうように掴む。慌ててコートを着る果梨を、有無を言わさず引っ張って行く。

「あの……」

 鞄から財布を出そうとする果梨を制して、さっさと支払いを済ませた藤城が出てすぐの所に止めてあったタクシーに彼女を押し込めた。

「出してください」

 隣に滑り込んだ藤城がただそれだけ告げるとタクシーは滑るように街の中を走り出した。

 自身の抱える爆弾と、何も言わない藤城。どこに連れて行かれるのか全く分からない状況に耐え切れず、果梨は小さな声で「あの」と再度尋ねた。

「どこに行くんです?」

 囁くような果梨の声は決して誰かを驚かせるような響きは無かった。だがびくりと藤城の身体が強張った。

「……人目に付かない場所だ」

 しばらくの間の後、甘い低い声が答えた。どきりとする果梨の頬に、藤城が手を伸ばす。冷たく青白いそれに、男の乾いた指先が触れる。すべらかな肌を楽しむように、指先がゆっくりと掠めていく。

「それって……?」

 指先でなぞられた跡が燃えるように熱くなる。掠れた声で尋ねる果梨に、藤城は溶けそうな程甘く笑って顔を寄せ、唇にキスを落とした。

「着いてから」

 頬を辿っていた指先が思わせぶりに彼女の耳朶をくすぐり、喉を辿る。

 まともな思考がばらばらになる。思わず袖に縋りつくと、耳元に顔を寄せた藤城がくすっと笑うのが判った。

 このまま流されたい。

 そんな弱さが顔を出す。それがいけない事だと分かって居る。だが目の前に手にしたいものがある場合、それを否定するのには相当な精神力が必要だった。

 耳朶にキスを落とされ、腕を掴む果梨の手が震えた。

 やめて、と藤城を拒絶する前に、彼女を腕に閉じ込めるような勢いだった彼がすっと身体を離した。と同時に車が緩やかに止まった。

「ここだ」

 降りる藤城に続いて果梨のブーツが地面に触れる。

 顔を上げて周囲の様子を目にとめた果梨は、すとんと己の胃が足元まで落ちるのを感じた。

 彼の手が、有無を言わさず果梨の腕を掴む。

 頭に血が回らない。鼓動がうるさく、遠くから聞こえるような藤城の声が柔らかく甘く……そして無慈悲に響いた。

「今日は、お前の家が良いと思ってね」

 家。

 そう、果梨が見上げているのは高槻果穂のマンションだった。







 からからに乾いた喉が、ひりついて痛い。それでも何とか震える息を吸い込んで果梨は腕を掴む男を見上げた。

「なんで……です?」

 平然とした態度は無理だ。それでも懸命に平静を装うとしたが声は掠れて小さかった。

 だがそんな果梨の様子に構うことなく、藤城はにっこりと笑みを浮かべた。

 そう。にっこりとしか形容の出来ない笑みを。

「俺の家ばかりってのも楽しくないかと思ってね。たまには君の家にも行きたい」

「だ……からってあの……突然来られても……」

「どうして?」

 笑顔に似合わず視線が鋭さを帯びる。強引に抱き寄せられて、耳元で甘く囁かれた。

「初めて誘われた時はすんなり通してくれただろ?」

 かっと身体の芯が熱くなり、それから急速に冷えていく。彼の声に反応する自分が恨めしい。

「あの……時は……」

 しっかりしろ、と足を踏ん張りながら果梨は懸命に言葉を探した。

 ここで白状するべきなのか。それとももっと相応しいタイミングを計るべきなのか。そもそもここでばらして何かいいことはあるのか。彼に信頼して貰えるのか……。

 許して貰える可能性が高い方に、賭けたくなるのが人間だ。

「それとも、誰か別の男でもいるのか?」

「え?」

 はっと顔を上げると、青白い焔が彼の瞳の中で燃えていた。見詰める彼の、苦しげに寄った眉に気付けば彼女は「そんなわけないです」と声を張り上げていた。

「どうして私が別の男の人と暮らさなきゃならないんですか」

 その瞬間、炎の燃えていた彼の瞳が一瞬で冷たくなった。

 果梨の身体を冷気が貫く。

「そうか? 君が嬉々として俺を連れ込んだ様子からそうじゃないかと思ったんだが」

「馬鹿言わないでください」

 突然の侮辱に困惑しながらも、果梨は言い返す。

 そんなことしない。

 少なくとも……果梨は。

「……じゃあ、君の提案は何だったんだ? あれは誠意からだとでも?」

 真っ直ぐにこちらを見詰めて来る藤城の質問は、果梨が答えに窮する物だった。

(私……果穂と部長が何を話したのか知らない……)

 冷汗が背中を伝っていく。彼女が何を提案したのか、プロポーズに関わる事だとは分かるが詳細は知らない。

「……昔の事です」

 誤魔化すように、彼女は言いつくろった。これが通用するかはわからない。だが、ここで墓穴は掘れない。いや、本当のことを白状すべきなのか……。

 判らない。どれが正しくて、どうすれば信じてもらえるのか。

 動揺を気取られたくなくて、彼女は視線を彼の胸元に落とした。だから彼女は見ることが出来なかった。藤城の顔が苦痛に歪むところを。

「君のミスを庇って俺が先方に謝りに行ってくれたことで急に俺の事が気になり始めて、他の男は目に入らなくなった……そんな君の素直な告白も全部過去の話?」

 酷く穏やかに告げられたセリフに、果梨は顔を上げた。

 切なそうに見下ろす藤城に果梨の気持ちがぐらつく。

 あまつさえ、そんな事が有ったんなら果穂が藤城にプロポーズしたくなる気持ちも分かると真剣に考えてしまう。

「それは過去にしてません。私が言ったのは……その……そういう気持ちを酔った勢いで告げてしまった事を忘れたいっていう事です」

 見上げる藤城の顔に、何らかの変化が訪れるかと果梨は半ば期待しながら彼を見上げた。だが恐ろしい程に彼の表情は変わらず、ただ感情の滲まない目がじっと果梨を映していた。

(……え?)

 数秒の沈黙が、果梨を不安に叩き落とす。

 それを破ったのは、冷たい藤城の台詞だった。

「そうか」

 その瞬間、何故か果梨は熱い物でも触れた時のように勢いよく彼に振り払われたように感じた。

 くるっと向きを変え、藤城が再びタクシーに乗り込む。

「あの……」

 何もかもが突然すぎて気の回らない果梨の手首を藤城が引いた。

「今日は俺の家に行く。それでいいだろ?」

「……あ……その……」

「いいから乗れ」

 そのまま引きずり込まれ、果梨の不安は三割増しになった。

「すいません、次はここに―――」

 藤城が行き先を告げるのを聴きながら、果梨は身体ががたがたと震えているのに気が付いた。

 なんだか判らない恐怖が身体から消えてくれない。

 これで良かったのか? それとも何か重大なミスを犯したのか。

 告白すべきタイミングはここだったのではないか……。

(……でもここで自分の正体はばらせない)

 こんな路肩ではなくて。もっとちゃんと相応しい所で……。

 ぎゅっと膝の上に置かれた手を握り締める果梨を認めた康晃が、苛立たしげに視線を逸らした。

 嘘。

 真っ赤な嘘だ。

 高槻果穂の提案は「便宜的な結婚」。彼女のミスを庇った覚えも無ければ謝罪に行ったことなどもちろんない。

 失望が身体を侵していくのが良く判った。

(所詮はそういうことか……)

 一体何を期待していたのか。

 彼女が真実を話す事? それとも全ては勘違いで彼女は本当に果穂で騙してなどいないことか?

 だがそんな儚い希望は潰えてしまった。

 後に残ったのは、彼女を問い詰めなくてはならないという冷たい怒りだけ。

(黙ったままなんてのは許さない)

 身体の中心から凍って行く。そんな感覚に身を委ねながら、康晃は無意識に奥歯を噛みしめた。そうしなければまるで身体がばらばらになるのではないかと恐れているように。






 手を引かれるがまま康晃のマンションの廊下を行く。その間、彼は一言も口にしなかった。

 外気に晒された以上に冷えた身体を抱え、開いた扉から暗い部屋に押し込まれる。背後でばたんと扉が閉まった瞬間、強引に回された腕が果梨の肩を掴んで壁に押し当てた。

 息を呑む間もなく、噛みつくようにキスされる。

 壁と康晃に挟まれ、反射的に男を拒絶しようとした腕は無残にも一つにまとめられてしまう。後ろ手に手首を掴まれて引っ張られる。喉を逸らすようにして受けるキスは痛く、頭から飲みこまれているような気がしてくる。

 何度も角度を変えてキスをされ、抗う気力も甘さと強引さを前に砕けていく。やがて膝から頽れそうになったところで、手首を離した手が彼女の腰を抱いた。

「……ふじしろ……さ……」

 途切れた口調で責めるように抗議をうったえようとするが、再び落ちた罰するようなキスに飲みこまれてしまう。

 何度も何度も。噛みつかれ、押しやられ、激情に流されるうちに気付けば追いやられたベッドに押し倒されていた。

 履いていたブーツを脱がして放る。起き上がろうとする度に捕まり終いには康晃の両膝に腰を挟まれる格好で倒れ込んだ。

 キスの合間に服を脱ぎ、その合間に脱がされていく。視線に射止められたまま果梨はとうとう抗えず、温かな康晃の身体に両手を差し伸べていた。

 引き寄せて抱きしめる。と、一度彼の身体が強張った。

 微かに感じた小さな拒絶を掌に感じて、果梨の指先が強張った。だがそれが何か、顔を上げて確かめる前に、すっかり脱がされた身体をきつく抱き締められ思考を奪われる。

 柔らかな唇が果梨の首筋やデコルテ、胸の頂、お腹と滑って行き先々に甘美な熱をもたらしていく。そのいくつかは赤く鮮やかな華を肌に刻む結果にもなっているのだが、夢中になっている果梨はその鈍い痛みすらも心地よく、漏れる声を止める事が出来ない。

 不意に康晃の手が濡れて開こうとしていた花芯に触れ、強引に指が押し込まれる。びくりと腰を跳ね上げ驚いて見開かれた果梨の眼差しを康晃が真正面から受け止めた。下腹部からじわじわと込み上げる熱に視界が滲む。だがそこを通して貫かれる康晃の眼差しはどこか冷え冷えとして見え、果梨の胃が震えた。

 怒っているのか……それとも何かが気に入らないのか。それを問うより先に、ゆっくりと指先を引き抜いた男が間を開けずに彼女の身体を貫いた。

 十分に濡れていたとはいえ、早急な行為に果梨の身体が大きく震える。

 頭のてっぺんまで甘い痺れが走るが、その余韻を味わう事すら許さぬように激しく攻め立てられ果梨の脳裏に恐怖が生まれた。

「ちょ……」

 止めようとする言葉を封じるように康晃が強引に口付ける。高く脚を抱え上げられくぐもった悲鳴が喉から洩れた。身体の中心まで届けとばかりに突かれ、おかしくなりそうな程の熱が体内を駆け巡る。

 首筋に顔を埋めた康晃から掠れた吐息が漏れる。しがみつこうとする果梨の手を掴んでシーツに押さえつけ、己が主導するべく彼女を追い立てていく。

 身をよじる事も叶わず、ただ快楽の縁へと追いやられる事に心が引きつるような恐怖を感じた。

「やだ……」

 喘ぎ声の合間に拒絶が漏れる。だが男は容赦なく彼女の自我を自分の色に染め上げるかのように追い詰めた。

「なあ……」

 瞼の裏がちかちかする。飛び降りたいような、掴みたいような、そこにあるモノを求めて必死になっていた果梨は掠れた低い声が耳朶を侵してぶるっと背筋を震わせた。

「お前が俺に求めたのは……これか?」

 唐突に動きが止まり、あと少しで届きそうだった物が遠のいていく。思わず腰を動かし脚を絡めようとすると、ぎゅっと手首を掴む康晃の手に力が入った。

「どうなんだ?」

 顔を見たい。そう願っても彼は依然果梨の首筋に舌を這わせているために見えない。分かるようにと果梨は首を振った。

「じゃあ、お前は俺に何を求めてる?」

 微かに滲む緊張感に、しかし攻め立てられた状態では気付けない。ふるふると首を振りながら喘ぐように「お願い……」と懇願する。

「言わなきゃやらない」

 耳朶に歯を立てられ、走った衝撃で身体を貫く熱いものを反射的に締め上げる。それでも欲しい物を得られないじれったさに身をよじると低い呻き声が彼から洩れた。

「果穂」

 はっきりと告げるその単語に、果梨の背筋を寒気が走った。

「そ―――」

「それとも」

 ぐ、と果梨の腕を掴む手に力が入った。同時に脚を高く上げた状態の彼女を押しつぶさんとするように彼が身を乗り出す。熱い吐息が肌を掠め、ゆっくりと顔を上げた男が見知らぬ他人のような眼差しで女を見下ろした。

「…………果梨か?」

 その瞬間、高ぶっていた感情が地上へと落下した。ぎょっとしたように目を見開く果梨から康晃はすっと目を逸らすと身体を起こした。

「え……あ……きゃ」

 そのまま果梨をひっくり返すと、腰を掴んだ康晃が容赦なく身体を打ち込み始めた。

 ただ単に……己の欲望を解放するためのような。どこにも感情の滲まない、機械的な律動。

「や」

 顔が見えない、後ろから罰するように攻め立てられるが伸ばした手は掴まれぐいっと後ろに引っ張られた。背を逸らし胸を突き出すような格好で犯され、嫌だと抗おうとする。

 だが手を離した男はそのまま果梨の背中に被さり、痛いくらいに強く彼女の胸をまさぐった。

 痛みと快感と苦みと甘さと。

 それを縁取る、ぼんやりとした……なのに心の奥まで届く恐怖。

「なあ……お前の望みは何だ?」

 再びの質問。だが答えられない。ぐ、と胸を掴まれて頂を擦り上げられる。片方の手は、繋がって熱く滴る蜜へと延び、膨らんだ花芽を刺激する。中を抉られ身体中をまさぐられ気が遠くなる果梨に、康晃は容赦なく言葉を浴びせた。

「俺を騙す事か? 金か? それとも地位か?」

「なに……いって……」

「答えろよ」

 囁くような声が、告げる。

「高槻果梨」

 それは恐怖からか、痛みからか、甘さからか、快感からか。

 嵐のような感情のうねりが身体の中心を貫き、意に反して身体が解放を求めるから。

 果梨の喉から悲鳴のような嬌声が漏れ、真っ白な空間へと放り投げられた。







 ぎりぎりと己を締め上げるそれが、高まった気持ちからの物なのだと康晃は信じる程馬鹿ではない。

 彼女を罰するつもりで抱いた。

 それを撤回する気は無い。

 彼女は何も言わない。ただ康晃に攻め立てられて絶頂に身を震わせているだけだ。

 シーツの上に投げ出され、上下に揺れる背中と、顔に掛かる髪の間から覗く細い顎が震えている。まだつながったままの腰に指を這わせ、康晃は込み上げる暗い感情のまましなやかな肩甲骨に唇を押し当てた。びくりと彼女の身体が強張った。

「まだ終わりじゃないぞ」

 彼女の口から自身の存在を認める言葉が飛び出るまで。

 何度でも何度でも攻め立てるつもりだ。

「……お、ねが……」

「何がだ?」

 言いながらうっすらと笑みを浮かべ、康晃はぐいっと引き起こした彼女を後ろから抱え込み膝に手を入れて大きく開く。

「やあ……」

 もがく彼女を抱えたまま執拗に腰を打ち付けて、さらけ出した秘所を掻きまわす。身を捩り啼き声ともつかない声を上げる果梨に歯を食いしばる。

 身体が熱くなり、触れる肌がしっとりと手に馴染む。卑猥な音を立てながら彼女と自分を絶頂に押し上げながら康晃は自分が虚しい程空っぽになって行くのを感じた。それと同時に、耐えきれない怒りが募って行く。

 何の為に。誰の為に。どうしてこんな真似をしている!?

「くそ……ッ」

 振り返らせた果梨の唇を強引に奪い、二人が上げる嬌声を飲みこんでいく。自分の上で身を震わせる女を余すところなく奪い尽くした後、力の抜けた身体から身を引いた。

 痛みだけが澱のように身体の底に沈んでいる気がした。

 震える身体を丸める果梨の横に身を投げ出し、荒い呼吸を繰り返す。張り付いた前髪をかき上げ視線を横に向ければ彼女の丸い方が小刻みに震えていた。

 心無い抱き方をした自分を責めるように背を向けて、細い背中を震わせる女に康晃は苛立った。

 何故自分が責められる?

 俺を騙していたのはそちらなのに?

 その事実を認める気は無いと言う事なのか!?

(冗談じゃないッ)

 自分には責められる要因はこれっぽっちもない。

 言及すべきはこちらにあるのだ、

 再び怒りがこみあげ、康晃は素っ気ない声で告げた。

「それで? 君は誰なんだ?」

 ベッドを降りながら淡々と告げる。

「高槻果穂だなんてこの期に及んで言うつもりなら……こっちにも考えがある」

 余すところなく刻まれた康晃の熱。それに内側から焼かれながら、シーツの海に沈んでしまいたかった果梨は刃のように鋭い声に切り裂かれたような痛みを覚えた。

 胃が凍り付き身体中の熱を直ちに奪っていく。言い訳する余地もなく、真実を伝えるにはこのシチュエーションは最悪だった。

 ナイトの武装は剥がれ、ただのポーンが狼狽えるようにして暗闇に立っている。

「答えない気か?」

 決して和らがない彼の口調に、ようやく果梨はシーツから半身を起こした。両手を付いて身体を持ち上げのろのろと振り向けば、上半身にシャツを羽織ってズボンを履いただけの男がターゲットを撃ち落とせそうな程怜悧な視線をこちらに向けていた。

 その眼に映っているのは本当の自分なのだと気付いた途端、果梨は全身が鉛になったような気がした。指先一つ動かすのにも酷く神経を使う。

 何を言えばいいのか。どうすれば伝わるのか。どうしたら……嫌われないで済むのか……。

 外よりも冷え冷えとした空気が漂う中、果梨は精一杯気持ちを伝えようと口を開いた。

「私は…………」

 これ以上先延ばしには出来ない。そもそも辞める事を伝えようと決めていた筈だ。それでも真実を告げるには勇気が要り、彼の冷たい目を見て告げることは出来なかった。

「高槻果穂の妹の……高槻果梨です」

 その言葉が、刑場に響き渡る鐘の音のように周囲にこだまする。耐えがたい沈黙が落ち、すっかり冷えた肌が震えはじめてなお、果梨は顔を上げることが出来なかった。

 何か。

 何か言ってほしい。

 ダメでも……間違いでも……許してくれるような……そんな一言を……。

「―――目的は?」

 素っ気ない一言が沈黙を切り裂いた。はっと顔を上げると先ほどと何も変わらない、全く心の裡の滲まなない眼差しがそこにあった。

「…………え?」

「目的だ。君と高槻果穂が入れ替わった目的。俺にプロポーズして、その後アンタが来た理由だ」

 言葉が漏れる度に、彼の目に怒りが募って行く。

「ICHIHAへのスパイ行為か? それとも俺への当てつけ? 何の為にあの女の代りに入って来た? あんたが俺に取り入った理由は何なんだ?」

 最後には噛みつくように怒鳴られ、果梨は目を真ん丸に見開いた。

「違います! そんな……スパイ行為なんて!」

「じゃあなんで入れ替わったりなんかした!?」

 やり場のない怒りを発散させるかのようにひび割れた声が空気を震わせる。乱れた髪と怒りに歪む顔を前に果梨は何度もつばを飲み込み、言葉を探した。

「ただ……あの……あ、姉に頼まれて……それで……」

「頼まれた!? こんな狂気な行動を頼まれたからってだけで受けたのか!?」

「わ、私だって好きでやったんじゃ」

「あの女は横領でもしてたのか? それとも借金で雲隠れか?」

 酷いセリフは後から後から零れて来る。それになんとか反論しようと口を開いた瞬間。

「あんたはその罪の片棒を担いだってわけか」

 吐き捨てるような断定の台詞が、深く深く彼女の胸に突き刺さった。

 びくりと強張った彼女の姿に、康晃は一瞬動揺する。青ざめ、目を見開いてこちらを見詰める果梨に衝動的に駆け寄り「なんでそんなことしたんだ」ときつく抱き寄せて諭したい気持ちが湧き上がる。

 だがそれも、果梨の「違います」というきっぱりした物言いに消え失せた。

「私も姉も……そんな卑怯な事はしてません」

「ならなんであんたがここに居る!?」

 泣くもんか、と果梨は気を引き締めた。怒鳴られて委縮しそうになる気持ちを奮い立たせ、立ち向かおうと両手を握り締める。ここで引けば罪を認めたことになる。

 それだけは嫌だ。

「姉は酷く……混乱していて。私で力になれるのなら助けたいって思ったんです。それに……私も……ち、違う人の人生が……羨ましかったから……どんな感じなのか覗いて見たかったんです」

 所々詰まりながらもそう告げる。

 あんな自分が嫌だった。だから変えたかった。違う景色を覗いて見たかった。

 こんな自分を……ほんの少しでも変えられるなら……。

「そんなくだらない理由で?」

 だが返って来たのはそんなセリフで。

 青ざめた顔を上げると、軽蔑しきったような藤城の眼差しに直面した。

「そんな―――自分勝手な理由でこんな茶番を選んだのか? ちょっとした情事と腰かけOLの仕事と刺激が欲しかったからこんな真似をしたって!? 君の常識はどこにあるんだ!?」

 康晃の絶叫が、その場の空気を粉々に打ち砕いた。

 ベッドに座り込んでいた果梨は、自分の価値観も行動も気持ちも全部が打ち砕かれるのを感じた。それと同時に身に馴染んでいた諦めがじわりじわりと広がって行く。

「そんな事をして……バレたらどうする気だったんだ」

「………………そう、ですよね……」

 彼を見ていられず、果梨は首を下げて己の膝をじっと見詰めた。情けない事に世界が揺らぎ、その中でぽたりと落ちる水滴が二つだけはっきりと見えた。

「―――くだらない……理由ですよね」

 苦い痛みが身体中を満たしていき、もう一秒たりともここに居たくないという思いが膨れ上がって行く。胸の中ではそれに対しての反論が渦を巻いているが。

 くだらなくなんかない、精一杯の判断だ、私の気持なんか分かりっこない。

 そんな叫びが嵐のように胸にあふれている。これを吐きだす気は果梨には無かった。

 それすらも、多分正論を吐く藤城にとっては「クダラナイ理由」だから。

「それが本当ならな」

 だが更に冷やかな声で告げられて、果梨は驚いて顔を上げた。腕を組んだ康晃がこちらを睨んでいる。

「そんな理由でここまでするなら馬鹿だ。そしてその馬鹿を頭から信じる人間も馬鹿だろう」

 信じられないというように果梨の目が丸くなる。

「他の理由なんてありません」

「どうかな」

 つかつかと近寄った康晃が、果梨の手首を掴んだ。

「どっちにしろ、君は俺を騙した。そんな人間の言う事を信じて貰えると思っているのか?」

 強引に立たされ、真正面から彼と対峙する。必死に毛布を掴んで身体に巻き付けながら果梨は精一杯背筋を伸ばした。

「信じて貰うしかありません。それ以外の理由なんかこれっぽっちも無いんですから」

 この期に及んで胸を張る果梨に、康晃は暗い怒りがこみ上げるのが判った。何故この女は泣いて懇願しない? 何故執拗に自分を信じろと迫るのだ。

(先に裏切ったのはお前なのに)

 微かに涙の滲んだ眼差しを受けながら、康晃はゆっくりと手を離した。それから寝室を出て行く。

 戻って来た彼は一枚の紙を持っていた。

「じゃあこれは?」

 ひらり、と果梨の手に落ちたそれにすとんと血が足元まで落ちた。それからじわりじわりと苦いものが胃を焼いて行く。

「営業部員の事が逐一書かれているが?」

「……なんで……」

 指先が細かく震える。その様子に康晃は全身を失望が侵していくのを感じた。

「こんなデータをどうする気だったんだ?」

「データ?」

 掠れた声が問い返す。苛立ち、康晃は奥歯を噛みしめた。

「うちの内部を事細かに記して残し、それをどうする気だったんだって聞いてるんだ」

 そんな。

 じわりじわりと恐怖による震えが広がって行く。

「これは……私がここに馴染むようにって姉が教えてくれたことです!」

 必死に言い募るが、何も映していない彼の目に果梨は全く信じて貰えていない事を悟った。

 膝から力が抜けていく。頽れそうになるのを必死に堪えて、果梨は毛布を握り締める手に力を込めた。

「さっき言った以上の思惑なんて……何もありません」

 きっぱりと告げて顔を上げる。その果梨の様子に康晃は真っ二つに引き裂かれそうになった。

 信じたい思いと、裏切られた思い。

 ただやらなくてはならない事なら分かった。

 例え彼女が言う理由が正しいのだとしても、事は重大だ。それに自分には営業部におけるすべての責任を負っている。

「何にせよ」

 意図したとおりの冷たい声が出た。

「君と高槻果穂がやったことは見過ごせない」

 足元の薄氷が壊れていく。

「会社にどんな損害を与えたのか……高槻果穂が本当に罪を犯していないのか、見極めたうえで君をどうするか考えなければならない」

「私も果穂もここを辞める気です」

「当然だ」

 低く、間髪入れずに言われた台詞が、果梨の思考を麻痺させた。

「だがその前に我が社に取って不利益な事が生じないかどうか調べる必要がある」

 只で辞めさせるわけには行かないと言外に仄めかされ、果梨の肩ががっくりと落ちた。

 しょんぼりと項垂れる果梨に、康晃は必死に奥歯を噛みしめた。

 どんなに庇護欲を煽られたとしても、この女は軽薄にも「あんな」理由で入れ替わりを引き受ける女なのだ。

「……いつまで、ですか?」

 か細い声が尋ね、相反する感情を抱えていた康晃は自分の身体もまた、彼女と同じように強張っている事に気付いた。

 いつまで?

「財務と経理……後はセキュリティに確認させてからだな」

 高槻果穂の行動に不審な部分は無いのか、不正なアクセスは無かったか。不用意な残業や早出はないか等々。

「本来なら高槻果穂を呼び出したい所だが……」

 ちらと視線をやると、項垂れた果梨の細い肩が震えるのが見えた。

「君がその責任すらも負うというのならそのままにしてやる」

 有り難がれと言うのかと、果梨はどこか遠い所で考えた。

 きっとそうなのだろう。

「なら先に……辞表を受け取ってください」

 気付けば果梨は小さな声でそう告げていた。脱ぎ捨てられた服の所に歩み寄り、そろそろと手を伸ばす。着替えようとする彼女に見入っていた康晃は、腹立たしげに呻くと踵を返して寝室を出た。

 ばたんと勢いよく閉まるドアに背を向けたまま、果梨は何故か乾いた笑い声を上げた。

 確かに自分はトンデモナク愚かなことをした。考えなしだったのだろう。

 だが。

 あの人は何一つ、果梨の言葉を信じてはくれなかった。

 ぽろぽろと涙が零れ、彼女は乱暴にそれを拭う。

 泣いても何も変わらない。それに……こうなる事を予想しなかったわけでもない。

 判ってくれるなんて希望的観測に過ぎなかったのだから。

 それでも止まらない涙を堪えながら、果梨は必死に自分を立て直そうと無駄な努力を繰り返した。


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