第21話 これらのファイルはコンピューターに害を及ぼす可能性が有ります
今までは逃げよう逃げようと画策していた。でもこれからは……本当の自分で向き合うのだ。
その手始めにと、果梨は昨日自分で着て来た洋服を洗濯し、乾燥を待つ間ネットで『クリスマス・ディナー』の検索をしていた。
流石に鶏を丸々一羽購入して炙り焼きにする技術は無いが、なんとか自分で作れそうな、ちょっとお洒落料理を探していく。
前菜にマグロのカルパッチョ。スープにヴィシソワーズ。メインがローストレッグとミートローフ。デザートにクリスマスプディング。ホットワインも用意しよう。
(よし)
食材を求め漁港へ……とはいかず、果梨はシャワーを浴びるとアイロンを掛けてなんとか乾かした洗ったばかりの服を着ると近所のスーパー目指して歩き出した。
「これから飾りつけですか」
トランクに詰め込まれたクリスマスツリーの入った箱を引っ張り出して凍った地面に降ろす。ふう、と真っ白な息を吐きだすタクシー運転手の台詞に康晃は肩を竦めた。
「どうしても買って来いってね」
「お子さんですか?」
よっこいせ、とオーナメントの袋も取り出し、手渡す運転手に康晃は思わず笑みをこぼした。
「……そう見えます?」
果梨が見ていたら「何を照れてるんだッ」と速攻で突っ込みが来そうだが、人の好さそうな運転手はただ楽しそうな笑い声を上げた。
「いいパパさんだ」
「ええ、俺もそう思います」
楽しそうに返し、クリスマスシーズンだからとお釣りもそのままチップとして渡した康晃は機嫌の良さがまるわかりな足取りでマンションの自室を目指した。
組み立てると縦百八十センチ、幅二メートル弱になるそれは、取り敢えず一メーター位の箱に収まっている。その大きさからか、はたまた二万越えの値段からか最後の一個としてホームセンターに鎮座していたそれを買い、適当に綺麗そうなオーナメントを選んで来た。
その間、タクシーの運転手にからかわれた事態を既に想像したりしている。
(俺も末期かもな)
エレベーターに乗りながら康晃は苦笑した。ほんの少し前まで、女の笑顔が見たいと切望することなど無かった。だが今はどうしても家に居るであろう女の笑顔が見たいと思ってしまう。
昨夜、何度も彼女を奪い、絶頂に押し上げくたくたにした後。ただ眠っている彼女を眺めているだけで途方もない満足感を味わった。今までの人生で得た事のない瞬間だった。
大抵は気怠い空気が嫌で、相手を怒らせずに立ち去るにはどうしたものかと考えるのが常なのに、今朝に限っては自分も仕事を休もうかと真剣に考えた程だ。
他の女と何が違うのか。
相性なのか……何度も自分に言い聞かせている好奇心からなのか。
それとも、彼女がふとした瞬間に見せる心細そうな瞳に心臓が痛くなるからなのか。
恋愛における心の機微に置いて、全くのポンコツであると自覚の有る康晃は、イマイチ自分の感情に自信が持てない。
ただ一つの愛だと確信したものを、手放した過去が有るからかもしれない。だが今となってはそれが「愛」だったのか、若さ故の「思い込み」だったのか判断がつかない。
これがビジネスなら、果穂を手中に収めることで得る利益と損益を計算して、より打撃が少ない方を選べる。単純に利益は「円」という単位で計算できるからだ。
だが「愛」を「円」で計算するのは流石に康晃と言えども下衆のやる事だと知っている。
恋愛における利益とは一体何なのか。
(まあ……腕の中に果穂が居て……目覚めるまで眺めていられるっていうのは利益だよな)
彼女をからかう事や、何かを着せて脱がせる事。それから自分に信頼を寄せてくれるともっと嬉しい。
男なんて単純で、マンモスを獲ってた時代から変わらない。自分に寄り添う弱い者を守る事で自分の尊厳が護られるのだ。
大事に仕舞って誰にも見せず、ただ自分だけしか知らない者が欲しい。
自分の下で全身を委ね喘ぐ彼女は間違いなく、康晃だけのものだ。
不意に鋭い欲望を感じて、康晃は小さく笑う。このままでいけば、ツリーを飾り付ける前に頭から果穂を食べてしまいかねない。
自身の鞄と巨大な荷物を抱えたまま、玄関先で襲ってやろうかと男なら憧れるシチュエーションを思い描きながら、ようやく彼は自分の部屋へと辿り着いた。
「お帰りなさい」
自室に踏み込んだ康晃はその台詞に何故かどきりとした。振り返ると、リビングの奥にあるキッチンで女がせっせと料理をしている。辺りは丸くて優しい……家庭的な香りが漂っている。抱えていた箱を降ろし、冷たくなったコートを脱ぎながら、珍しく彼は感傷的になった。
こんなシーズンを歌った歌を思い出す。その歌では、恋人の為に買った椅子を持ち帰る歌だった筈だ。
そんなことを考えながらぼんやりと立ち尽くしていると、不意に顔を上げた女が眉間に皺を寄せた。
「ていうか部長! なんで起こしてくれなかったんですかッ」
視線で噛みついて来る女に、康晃は我に返った。
そうだった。
この女は高槻果穂で、康晃の奥さんではない。
例え、菜箸を握り締めて立ち尽くしているのだとしても。
「帰ってくるなりそれか」
「当たり前ですッ」
一体どんな風に思われたのか……考えただけでも怖すぎると果梨は身震いした。なるべく考えないようにしていたが、絶対に羽田や香月にはオカシク思われた筈だ。
「安心しろ。体調不良って事になってるから」
ま、あながち間違いじゃないしな。
一人納得する康晃を蹴り飛ばしたい。うーうー唸って睨み付ける果梨などどこ吹く風で、康晃は自分が下ろした箱を開けに掛かった。
「つか、なんでこんなもん買って来いって言いだしたんだよ」
「クリスマスだからですよ」
盛り付けを一旦止めて、果梨はいそいそと康晃の傍に寄った。ツリーは見るのも飾るのも好きだ。てっぺんに星を乗せる役を巡って果穂と喧嘩した事も一度ではない。
なかなか立派なそれを眺め、感心したように声を上げる。
「飯は?」
いそいそとオーナメントの箱を開け始める果梨は「もう出来てます」とあっさり答えた。
「……喰いたい」
「ダメです。まずは飾り付け」
それから電気を消して、買って来たキャンドルを灯して……。
「高槻~」
箱を開けていた果梨は、後ろから圧し掛かって来る康晃が意外過ぎて固まった。
「腹減ったんだケド」
言いながら何故か男は彼女の首筋に軽い音を立ててキスをしている。
「だからダメだって言ってるでしょうがッ! まずは飾り付けッ」
「男はそう言うの嫌いなの」
「ほー……営業部長殿は保守派なんですねぇ」
そう言われると、挑発だと分かって居てもむっとする。
「おい」
「大変申し訳ございませんでした。まさか会社で出来ると評判の藤城部長さまがまさかお嫌いな事は全くやりたくないという信念の持ち主だとは露程も知りませんでした。そうしましたら、お先にテーブルの方にお戻りください。わたくしの方で全て段取りいたしましてから、お食事の準備とさせて頂きます」
「…………飾ればいいんだろ、飾ればッ」
何とかじゃれようと思っていた康晃は、完全に馬鹿にした物言いに腹を立てる。これが自分を操るための言だという事は百も承知だ。だが……操られてやる事にする。腹立たしいが。
ぱっと果梨の手から金色の大きな星を取り上げて、康晃はさっさとツリーに向かった。
「って、ちょっと待ってください! それ、私が飾るんですッ」
「お前じゃ届かないだろ」
「知らないんですか、部長。世の中には踏み台という素晴らしい発明品があるんですよ」
「うちにはないな」
「だったらクッションの上にでも乗りますからッ」
「何むきになってんだよ」
「ムキになってるのは部長でしょ!」
ひょいっと手の届かない所に星を掲げ持つ康晃に、果梨が苛立って声を荒げる。傍から見れば飛んでもないバカップルぶりだが、当の本人たちは至極真面目だ。
「なら提案だ」
上司の提案程胡散臭い物はない。怪訝な顔で見上げる果梨に、手にしていた星をぽんと手渡すと。
「これなら文句ないだろう」
ひょいっと腰を抱いて持ち上げた。
声にならない悲鳴が果梨から洩れる。
「な、なにす」
「ほら、さっさと付けろ。重いだろ」
「失礼な上にセクハラですッ!」
「五、数えるうちに付けないとくすぐるぞ」
今度は悲鳴が上がった。
「も……もうちょっと……右……」
「先端掴め。ああもう、何やってんだよ」
「ぶ、部長の手が……ていうかどこ触ってるんですかッ!?」
たかが星をツリーのてっぺんに付けるだけで大騒ぎだ。何故か息を切らしながら、二人とも自然と笑みがこぼれるのが判った。
「これで、飯が食える」
「残念ですが部長。全部飾ってからです」
にっこり笑う果穂に殺意を抱きながら、それでも二人はあーでもないこーでもないとクダラナイ議論を戦わせながら買ったばかりのツリーを綺麗に飾り付けた。
これで、ようやく飯が食える。
前菜からメイン、果てはデザートまで全部がテーブルに並べられている。
コース料理を楽しむ高級店とは全く違う、家ならではという所か。
それでも果梨は精一杯、自分の特技を披露しようとテーブルに置かれたキャンドルに明かりを付ける。お洒落な康晃の部屋らしく、間接照明が置いてあるんで真っ暗にならず、良い雰囲気が出せた。ツリーの電飾も派手ではないが、綺麗だ。
ロマンチックにしようと精一杯頑張った果梨が、康晃には新鮮だった。
彼女曰く『爛れて』いた上に『ポンコツ』なのでこういうクリスマスの雰囲気を味わったことが無かった。このままカウチか何かに座り込んで、毛布に二人で包まってグラスを合わせるのも楽しいかもしれないと心底思う。
そう思ってから、自分の思考に心底驚いた。
「これ、全部手作りか」
人が美味しそうに食べる姿を見るのは楽しいものだと、改めて再確認していた果梨はその言葉にこくりと頷いた。
なんて返されるのかと身構えるが、康晃はただもくもくと料理を口に運んでいる。そう言えば、と前に二人で食事をした一件を思い出す。
割と綺麗に食べる康晃だが、食べている最中に話をする人ではなかった。イタリアンでも、蕎麦屋でも。果ては昼休みのお弁当でも……。
「美味しいですか?」
言わずもがなだが、何故か彼の口から「美味しい」と言わせたい。どストレートに聞いてみると、マリネを口に運んでいた康晃が顔を上げた。
「ああ」
「…………どの辺が?」
「全部」
言ってからまた、もぐもぐする康晃に果梨は遠い目をした。本当に……褒めてくれない上司だ。
「せっかく力一杯、丹精込めて作ったんですから……もうちょっと褒めてくれてもいいじゃないですか」
ぶつぶつ零す果梨に、康晃は「褒められたいのか?」と顔も上げずに聞いて来る。
「部長ですよ!? 先に俺も褒めてるだろー、とか言ってたの」
「それは仕事だろ」
仕事以外は褒めないと……そういうことかコノヤロウ!
今日は本当に頑張ったと思う。なにせ……ここで気に入って貰えてからようやく、果梨は先に進む勇気を貰おうと思っていたのだ。ここで認めてもらえなければ……自分の正体など告白できない。
そんな謎の強迫観念に縛られながら、果梨はむきになって「それでも」と語を繋いだ。
「褒められていものなんです、女子は。特に女子力高いことしてる時は」
(女子力?)
目を上げれば、何故か目元を赤くした果穂がそっぽを向いていた。数度瞬きをした後、ああ、と康晃はやっと気づいた。
ツリーを飾ったり、手の込んだ料理を作ったり、雰囲気有る演出をしたり。
これらは女子力を結集した物なのだ。
そうただ単に、「彼女が趣味でやったこと」ではない。
これらは全て、目の前に座る男の為だけにやってくれた演出なのだ。
ぎゅっとフォークを握り締めた手の白に、やっと彼は気付いた。
「…………なるほど」
ぼそりと零れた康晃の、なんとも言い難いセリフに果梨が顔を上げる。
そこに有ったのは、不可解な表情をした藤城だった。口角がへの字に下がっているし、視線は泳いでいる。なのに何故か……嬉しそうに見えるのは、やや赤くなってる目尻の所為だろうか。
どきりと、果梨の心臓が一拍強く鳴った。ゆっくりと肌が敏感になっていき、身体が甘さに痺れる気がする。
こほん、と康晃が咳ばらいをし、ゆっくりと笑うとそのブラウンの瞳に果梨を映した。
「つまり……これ全部」
周囲を軽く指し示す。
「俺の為?」
射貫くような鋭い視線。その奥にたゆたうのは満足感か。完全に上からなのに、果梨は激しくなる心音を聞きながら一つ頷いた。
「その通りです」
素直な言に、康晃は眩しそうに眼を細めた。いい年して照れるなんて……。だが、心の奥から嬉しさが込み上げて来て叫び出したい衝動を堪えた。
「……ありがとう」
低く、何気なく呟かれた感謝に果梨は、身体中に温かくて甘いチョコレートが流れて行くような感触を味わった。
ああそうか。これが……幸せなんだなと、彼女は唐突に気が付いた。
これが欲しい。ずっと欲しい。
ごくん、と喉を鳴らし、今度は緊張感から跳ねる鼓動を抑えようとした。
今ここに、二人の間には確かに何かある。それは眩しいくらいに二人の間で輝いているのだ。見えない人間など居ないというくらいに。
それならば、ずっと言えなかった言葉もきっと言えると思う。
震える手を抑えようときつく握り締め、果梨は意を決して自分が抱えている最大の秘密を告白しようと深呼吸をした。
「まさかお前が自主的に、俺の為に何かしてくれるとは思わなかった」
言葉を舌にのせるより先に、康晃が吐息と共に呟く。
「こんなに色々出来る程マメな人間には見えなかったしな」
ふっと目を伏せて微笑みながら言われた言葉に、果梨は微かに息を呑んだ。その様子に気付くことなく康晃が楽しそうに続ける。
「正直、単なる腰掛けで定時に帰れなきゃ発狂しそうになる人種だと思ってたんだが……俺も人を見る目が無いよな」
ははは、と笑い声をあげじっとこちらを見詰めてくる。康晃のその優しい視線に、果梨の心臓は不可解な……なんとも表現し難い不安を感じて駆け出した。
なんだか判らない。判らないが……それ以上聞きたくないと、心が警報を出している。
「それとも上手に隠してたのか? ま、あんな最低野郎と付き合ってたんなら警戒心も働くか」
口の中が感じたくも無い苦みに満ちていく中、藤城は明るい声で続ける。
「近年稀にみる最低さ加減だったもんな。あんな奴と良く付き合ったよ。ま、学生だったなら仕方ないか。それに今のお前なら」
藤城がにっこり笑う。
「随分強くなったようだし、良かったよ」
なにも良くない。
(―――あ……)
そこで初めて……改めて……見たくも無い物に気が付いた。心が拒絶していた事に。
そう。藤城にとって、果梨のベースには果穂が居るのだ。
果穂が居て、その上に果梨という新たな存在が上書きされている。つまりはどこまで行っても彼の中では果穂が先に来るのだ。
前と違って。一か月前と違って。果穂と、違って。
「どうした?」
急に黙り込んだ果穂に気付いて、康晃が怪訝そうに声を掛ける。見ればどこか青ざめた彼女がこちらを見詰めていた。どきりと胸が痛む。
自分の言葉がまたしても彼女を傷つけたのだろうか。
ざっと自分が話した内容を思い返すが、何が悪かったのか判らない。なので正直に話した。
「何か気に障ったか?」
優しい藤城の言葉が、痛い。
(この人が優しくしてくれてるのは……誰?)
ここに居る私に、優しくしてくれている。でもそれは……結局はイツワリで。
――――ココニ居ルノハ誰?
不意に手が震えているのに気付き、咄嗟に果梨は誤魔化した。
「いえ、なんでもないです」
心臓が激しく打っている。頭の中を色々な思いが駆け巡り、眩暈がする。
ここに居るのが果梨だと、そう証明したくて今日は頑張って準備をした。だが結局それは……果穂の情報を上書きするだけだったのではないか。
今この現状で……今日のような特別な日に果穂はきっと有名レストランでの食事やなんかを求めるのだろう。だが、果梨はそうしなかった。
それが違いになると思ったから。
それを認めて貰えれば、楽しんでもらえれば、果梨の自信になると思ったのだ。
だが、違う。
(ほんと……私、馬鹿だ……)
康晃はそれを、『果穂が変わった』と受け取った。彼女の知らない一面だと。
手の震えが大きくなり、果梨は吐きそうになるのを懸命に堪えた。
今ここを楽しめれば―――なんて、なんと愚かな願いだろう。そんな状況ではないのだ。
果梨が果梨であるためには。
(ここを……捨てなきゃダメなんだ……)
どちらも、なんて選べない。
ここを捨てて、無かったことにして、一から康晃との関係を築けないのであればそれは……いつまでもイツワリであり続ける。
身体の芯が、重く重くなって行く。このまま床に沈み込みそうな程。
「……ほんとにどうした?」
ずっと遠くの方で、藤城が心配そうに尋ねるのが判り、果梨は無理やり笑って見せた。
今ここで、床が抜けて奈落に堕ちていくのを実感していたとしても、それを藤城康晃その人には見せたくなかった。
なんででも。
どうしても。
「何でもないんです」
そう言った果梨は、精一杯悲しみを押し隠した。
何故か判らないが……今日が最後だと気付いたのだ。
告白すれば、全てが壊れるのはもうよく判った。ほんの少し、それでも藤城は許してくれるのではないか……このまま上手く行くのではないかと思っていた。
(愚かで……信じられない程自惚れてたわ……)
例え上手く行ったとしても、果梨がそれを許せなかっただろう。
だとしたら。
(………………終わりかな)
このまま週末を過ごして、仕事納めをしたら実家に帰る。多分そこに居るであろう果穂に何もかも話してそして、辞表を出そう。
それが一番いい。
その後で……康晃に会いに来るのが一番じゃないだろうか。
果穂としてでは無くて、果梨として。
顔を上げた女の顔に、康晃は胸騒ぎを覚えた。
普段、女の表情何て気にした覚えは無かった。
だが、すっかり何かを諦めてしまったような彼女の瞳が……康晃の不安を煽るのだ。
気付けば、男は向かいに座る女の手首を、伸ばした手で握り締めていた。
「どこに行くつもりだ?」
直感が、脳の指令を待たずに言葉を吐きださせる。指に触れる果穂の肌がやや冷たい。先ほどまで感じていた浮かれたような甘い感情がどんどん凍結していき、康晃は焦った。
だが、康晃の台詞に目を見開いた果穂は、次の瞬間に酷く落ち着いた様子でふわりと微笑みを返した。
「どこに行くんですか? こんな日に」
あからさまに艶っぽく笑う女に、彼はほっとすると同時に警戒も生まれるという奇妙な感情を経験した。
自分の心は、彼女の甘えるような笑顔を信じたいと訴える。だが理性が何かがおかしいと、康晃の目を見開けと促すのだ。
目を開けて、よく見ろ。そこにあるモノをよく見るんだ。
「そうだ、部長」
その康晃の思考を遮るように果梨がゆっくりと囁いた。
「お前、さっきからその呼び名だが前から言ってるよな、名前で呼べって」
「…………藤城さん」
こほん、と咳払いした果梨が席を立ち冷蔵庫の横に置いたままだったビニール袋から何かを取り出した。
「これ、何だと思います?」
必要以上に明るく笑う果梨の頬が、赤く染まっている。思わず立ち上がった康晃は、探るように見詰めていた彼女からむりやり視線を逸らして掲げる物を確認する。
瞬間、それが何か分かり吹き出しそうになった。
「…………それ」
笑いながら問いただそうとして、彼女が酷く恥ずかしそうにしているのに気付く。途端、康晃の耳も赤くなった。
何故だかわからない。彼女が持つ『それ』の所為で自分が赤くなるなんて信じられない。真っ赤になる果梨に触発されたためだろう。
それとも、微笑む彼女が可愛かったからなのか。
く、と喉の奥で笑いながら康晃は酷くゆっくりと果梨に近づき、長い腕を彼女の腰に絡めて抱き寄せる。
「いつの間に買ったんだ? 泡風呂の素なんか」
温かな蒸気が繭のように二人を包んでいる。灯りは落とされ、そこここに置かれたキャンドルが揺らめく光を放っていた。
良い香りのする泡で溢れたバスタブに、重ねたスプーンのように身体を合わせて入りながら、康晃は特に何をするでもなく柔らかな泡で彼女の肌を撫でていた。
腕を通り、鎖骨を撫で、胸の膨らみを辿って行く。自分の首元に温かな女の頬を感じながら、気だるげに身体をなぞっていると、不意に女が身をよじった。
泡で滑りの良くなった柔らかなお尻が、やや硬くなっている部分に触れて思わず呻き声が出た。
「藤城さんばっかり狡いです」
予想外の言葉が来て、彼は微かに目を見張った。
「何が?」
「私にも触らせてください」
きっぱり告げる果梨の頬が赤い。お湯の所為なのか……羞恥からなのか。
「いいぞ」
軽く言って、彼女を身体の上で回転させた。康晃に跨った果梨がくすくす笑いながら泡にまみれた手を男の身体に滑らせて行った。
泡が溶けて、指先が喉をくすぐって行く。黒い髪に絡めて引っ張ると笑いながら顔を倒した康晃が、果梨の鼻の頭にキスを落とした。
「おい」
そのまま何も言わず、身体を浮かせた果梨が首筋に抱き付いた。温かな肌が触れ、ただ抱き合うだけの二人の官能を徐々に高めて行った。
腕が絡み、脚が絡み、掌が互いの肌を滑って行く。
「高槻」
耳朶を齧りながら、康晃が低い声で促した。脚を撫でていた手が、開くように訴える。
「だ……だめ」
「大丈夫」
腰に回った腕が抱き寄せ、固く立ち上がっている物の上に、柔らかな果梨の身体を引き寄せた。
「入りたい」
喉にキスを繰り返し、吐息が肌を暖める。目の前にある膨らみを口に含み、舌先で転がされて果梨の思考はとろとろと溶けて行った。
終わりまでのカウントダウン。
リセットしてからまた、再び彼に会いに来る。
その為に。
「康晃さん」
はっきりと告げられた己の名前に、酷く驚くと同時に衝撃が走った。濡れた眼差しを見詰め、次の瞬間に赤く腫れた唇に噛みつく。
舌を絡めるのと同時に、ゆっくりと彼女の中を貫き、身体中の熱が二人の間を満たして行った。
バスタブに当たって泡が揺れる。柔らかくしなる身体に、己の欲望で硬くなったものを突き立てて、二人で掴みたいものを探して駆けあがって行く。
「康晃……さ……あん」
途切れる吐息の合間に、果梨はキスを強請って顔を引き寄せる。
「ん?」
辛そうに眉を寄せた彼が、誰かの名を呼ぶより先に、果梨は強引にキスをした。
呻き声を、「かりん」という呼び名に捉え、果梨は必死で康晃と一緒にいきたくて、無我夢中で抱き付いた。
背中に、爪痕を残す程激しく。
これから来る運命に耐えられるほど、ここに居たいという気持ちが強ければと願いを込めて。
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