ポーンの戦略 -三十六計逃げるにしかずー

千石かのん

第1話 深刻なエラーが発生しました

 とかく人生には想像を絶する出来事が起きるものだ。

 そして例外なく、高槻果梨の身にも降り注いだ。しかも……他に類を見ない形で。

(絶対無理じゃね?)

 自室の鏡に映る自分の姿をチェックしながら、果梨は絶望的な気分でそう断じた。

 胸まである髪は緩くウエーブが掛かり、金色に近い程色が抜けている。派手なメイクの為に目は普段の二倍は大きいし、目元にふわりと叩かれたピンクが何とも言えない色気と可愛さを醸し出している。ふわりとした白のスカートにピンクのシャツ。ジャケットという出で立ちはお嬢様風。これで話し方に「そうなんですぅ」と語尾に小さい「う」を付ければ完璧だ―――モチロン果梨の趣味ではないが。

 タイムリミットを告げるアラームがスマホから鳴りだし、更に顔色を悪くしながら果梨は鏡に映る人間をよく見た。

 姿形だけならば、双子の姉・高槻果穂にそっくりだ。自分でもそう思う。

 だからと言って、これから果梨が挑戦するミッションが成功するとは必ずしも言えない。

 言えないが。

「やるしかない……のよね?」

 絶望的にそう呟いた果梨は、自分のなけなしの運を全てここにつぎ込んでもいいからばれないでくれと切に願った。

 これから果穂と入れ替わり、果穂の会社に出社する自分に幸多かれと。


「おはようございます」

 大丈夫。出来てる出来てる。

「おはようございます」

 わかるわかる。よしよし。

「おはようございます」

「高槻さん、おはよう」

 びくり、と彼女の肩が震えた。

 何の害も無い決まりきった挨拶を交わし、震える脚を叱咤して三階にある営業部目指して廊下を歩いていた果梨は自らの苗字を呼ばれた挨拶に必要以上に驚いた。

 ばくばくと心臓が音を立てている。一瞬、脳に酸素が届かず目の前がブラックアウトする気がした。このまま気を失ったら……。

「高槻さん?」

 無視するのはオカシイ。絶対にオカシイ。

 そしてオカシイ事をしてはいけないのだ。

「おはようございます」

 唇を引き上げ目を軽く見開き「にっこり」しながら振り返る。

 目の前には、果梨とあまり変わらない年齢の女性が立っていた。

気合の入った巻き髪とばっちりメイク。きゅっとウエストの絞られたスーツにヒールの彼女は『羽田麗奈』。

 姉の果穂と同じ営業補佐(主に事務仕事メイン)だ。

 顔と名前を認識し、果梨はほっと息を吐く。

「おはよう、羽田さん」

「今日も一日始まっちゃったわね~」

 怠い~、なんて零しながら歩いて行く羽田に彼女は脳内フル回転だ。

 羽田麗奈とは、同じ役職でそこそこ仲良くしている。だが入社した時から営業部やそのほかの部署の男性人気を争って互いにけん制を繰り返している……という事だった筈だ。

 建前の会話の端に、互いを貶す棘をまぶす。心理戦に打ち勝ち、その日一日を相手よりも優位に立って過ごす。それが醍醐味……らしい。

(てか、けん制って何に対して?)

「あ、おはようございます、本橋さぁん」

 営業部一課のエースが出社早々メールチェックをしている。フロアに入った途端、秒単位で彼を見付けた羽田が猫なで声を出すのを知り、果梨は理解した。

 ああ、あれに対してのけん制か。

 エース、本橋は二十代後半にしてすでに営業成績の半分を担っている。甘いマスクに少年っぽい笑顔。プラス軽快な営業トークと来れば怖いものなしだ。

 彼の笑顔だけで渋ちんの企業もころりと騙されるとの事。

いや、騙しては居ないだろう。いつでも健全な契約をもたらしている筈だ。株式会社ICHIHAは優良企業だし。

「羽田さん、おはよう」

 朝からソーダのような喉越し爽やかな笑顔を見て、果梨はこれはローカロリーだな、と遠い所で思った。ダイエット効果抜群だろ。甘いジュースを買おうとして彼の笑顔を思い出せば、無駄なカロリー摂取を控えようと思う筈だ。

(ナルホド……)

 本橋圭一。彼には近づかないに越したことはない。ボロが出る可能性大だ。

「高槻さんもおはよう」

「おはようございます」

 礼儀正しく伏し目がちに挨拶をしながら、果梨は室内をぐるりと見渡した。

 営業補佐の机は課長の向いに設置されている。数々の書類、伝票、領収書が、人の出入りの度に押し込まれる為せめてもの分かりやすく……を目指して果梨の机には百均の平たい籠が三つ並んでいる。ざっくりと「急ぎ」「今週中」「その他」に分かれていた。

 それくらい「ざっくり」でないと忙しい人間は分類をしない。

 細分化すると「これはどっちだ?」と考える手間がかかり、そうなると面倒になって適当になる。適当になると結局は分類する意味が皆無になる……という仕組みだ。

(よしよし……これはちゃんと実践されていたか)

 師走の冷たい風から身を守っていたコートとマフラーを脱ぎフロアの隅に設置されているラックに向かう。自分のと思しきハンガーにそれらを吊るし、果梨は深呼吸をすると補佐の机に付いた。

「さっそくで悪いんだけどさ、高槻さん」

 ねちねちと話しかける羽田を適当にいなしていた本橋が声を掛けて来た。

「営業先の山形工業の専務、何が好きだったか覚えてる?」

 確か高槻さんにお勧めされた手土産が先月、バカ受けだったんだよね。

「あれ、また次の挨拶回り持って行きたいんだケド……どーしても思い出せなくてさ」

(まじかよ!)

 手土産、毎回半端ない程用意するからどれがどれかごちゃまぜなんだよね、と爽やか炭酸スマイルを見せられて、果梨は動揺した。

 おすすめ手土産だと!? しかも先月!?

 脳内フル回転、パート二。

(思い出せ……先月……先月何が流行っていた!?)

「……高槻さん?」

 微妙な沈黙に、本橋が不思議そうに声を掛けて来る。咄嗟に果梨は「思い出しました、あれですね」と必殺スマイルを繰り出した。

「待ってください。確実にお店にあるかどうか今から調べますから」

 たしか限定品でしたしね~。

 アドリブに声が上ずる。だが必死さをどうにか隠し、彼女はなるべく優雅に見えるように意識して鞄からスマホを取り出した。じっとりとした冷汗をかきながら画面をスクロールする。

「そっか。限定品だったら手に入らないかぁ」

 難しい顔で眉間に皺を寄せる本橋に、羽田が更に一ランクアップした猫なで声を出した。

「でしたら~私の秘密のセレクト、お教えしちゃいますよ~?」

「それは二課の連中に教えてあげなよ、羽田さん」

 軽くいなすも、羽田には通用しない。そっと本橋の袖を握るなんていう技を発動した。

 ここからさらに計算づくの上目遣い。

「本橋さんが営業部全体を盛り上げてるんですからぁ、本橋さんにお教えした方が会社の為です」

 その瞬間、師走たる本日の最低気温を下回る、冷ややかな声がした。

「会社の為を思うならとっとと仕事しろ、羽田」

 必死に『先月の流行』を探していた果梨も一瞬操作を止めて顔を上げた。

 本橋など目じゃないスピードで部長に昇進した三十代の営業部長が、媚びる羽田を絶対零度の視線で見下ろしていた。

(出たッ! 全女子社員の心臓を奪って返すのはブリザードのみ! 氷の営業部長、藤城康晃!)

 あんな視線で睨まれたら、心の強い営業マンでも一目散にデスクに戻る。

 だが羽田は怖いもの知らずなのか、大慌てで席に戻るどころか「えー」なんてほざいて頬を膨らませている。

「でも部長も本橋さんを買ってるでしょう~? 本橋さんをみんなで盛り立てた方が良いと思いますぅ」

 あんた馬鹿? 馬鹿だよね? と問いただしたいのを我慢し果梨は必死にスマホを見詰める作業に戻った。耳だけはダンボだが。

 ふ、と微かに藤城が笑うのが何故か判った。いや、字が違う。嗤うだ。嘲笑う。

「だったらお前は何もするな。士気が下がる」

 かちーん、とフロアの空気が凍り付く。本橋の炭酸スマイルも幾分引きつっていた。

 窓を背に据えられた大きな机にさっさと向かう藤城の、確固たる靴音に刺激され凍った空気が溶けだした。見計らったように電話まで鳴りだし、日常の人の声が戻るというドラマのような現実。

 その中でただ一人、羽田だけが眉間に皺を寄せて首を傾げた。

「どういう意味?」

 もうお前、何も話すな。

 心の中で果梨は突っ込んだ。


 無事に土産物の情報をゲットし、彼女は本橋に「午後の仕事はそれほど立て込んでないので買ってきますね」と笑顔で告げる。

 先月高槻果穂の中で流行っていたのは老舗和菓子店の苺大福だった。

(さむッ……)

 昼ご飯をどこかで食べがてら買いに行くつもりで外に出た果梨は、スマホにメモった和菓子店の住所をもう一度確認して歩き出した……筈だった。

「高槻」

 後ろから、寒風よりも温度の低い声がする。

 これはマズイ。部長だ。

 このまま無視をしようかと三秒ほど考える。だが、それが『正解』なのか判らない以上失礼な態度は不信感を生む。一つ深呼吸をして彼女は決意も新たに振り返った。

「っと!」

「っ!?」

 既に目の前に立っていた藤城部長にぶつかりそうになる。慌てて身を反らす彼から、ぱりっとした洗濯糊の香りがして、彼女は一瞬自らアイロンをかけているこの男の姿を想像した。

「すまない」

 一歩程後ろに引いた藤城部長が渋面で告げる。対して果梨も「すいません」と小声で謝った。

 やや灰色が優勢な冬空の、鈍い太陽光の下でみる藤城部長はその端正な顔立ちと漆黒の髪が相まって近づきがたいオーラを発していた。やや茶色掛かった瞳に見据えられると、チーターを目の前にしたガゼルの気分になって来る。

 身体が全力で「逃げろ」と訴えるのを無視し、果梨は必死に笑みを浮かべた。

「なにかご用ですか?」

 あくまで丁寧に、上司に対するに相応しい声音で尋ねる。途端、部長の顔に怪訝そうな色が掠め彼女はひやりとした。

 マズイ。何かあるんだ。

(しまったーっ!? 本命はこっちなのか? 本橋圭一を回避すればいいわけじゃないのか?)

 恐らく青白くなっているであろう顔に、それでもしつこく笑みを張り付ける。視線を合わせたら負けだと分かっているが、不用意な疑いを持たれても困る。

 ええいままよ、と果梨は上司の瞳を見た。

 そこには……とてもじゃないが果梨には高度過ぎて読み取れない色が浮かんでいた。

 強いて言うなら……。

(嫌悪と好奇心?)

「先週の件なんだが―――」

 先週? 先週何があった?

 脳内フル稼働、パート三。

 先週は確か大きな会議があった。

 某所駅前に巨大商業施設建設案が持ち上がったのだ。

 ICHIHAも建設に名乗りを上げ、切れ者の藤城部長を筆頭に戦略会議が行われていた。

 その会議に果梨が関わるとしたら……部長の補佐で資料作成や対抗馬の調査などだろう。

 何かデータに誤りがあったか?

 そこまで考えて彼女は即座に否定した。

 高槻果穂がそんな重要案件を任されるとは思えない。もしそんな事が有ったのなら自分が知らないわけがないだろう。

 もしかしたらその会議に出されたお茶とかコーヒーが不味かったとかそういう内容だろうか。

 ますます顔色の悪くなる果梨を見詰めたまま、藤城は不意に言葉を切ると「まあいい」とすっぱり告げた。

「兎に角少し付き合え」

「ど、どこにですか?」

 声が上ずる。動揺してはまずいと言うのに隠しきれない彼女を、しかし藤城は決まっていると言わんばかりにすたすた歩きだした。

「昼飯だ」


 連れていかれたのは、会社が立ち並ぶオフィス街から少し離れた蕎麦屋だった。

 一本路地を入った中に、ひらりと紺色の暖簾が揺れている。パイプ状の煙突から湯気が昇り温かな空気が白く雲を作っていた。

 からりと引き戸を開けて中に入ると、背広姿のサラリーマンが数名蕎麦をすすっている。

 カウンター横、テーブル席に連れていかれ向かい合わせに座る。

 コートとマフラーを取りながら、果梨の脳は忙しく色々な事象を照らし合わせていた。

 藤城がメニューを彼女に渡す。

 既に食べたいものが決まっているらしい藤城を恐る恐る見ながら、果梨は自分から言葉を発するのを控えた。

 兎に角、この部長が何を考えているのか多少なりとも掴まなくては、照らし合わせてはじき出した情報の使いどころが判らない。

「決めたか?」

 部長が飲んでいたコップを置く。からんと氷が音を立てた。

「えと……か、鴨南で……」

 すいません、と藤城が店員を呼び、鴨南蕎麦とえび天蕎麦を頼む。

 注文した品が来るまでの気まずい間を果梨は埋められずにいた。何を言ってもボロが出そうだ。

 そもそも本橋や羽田に関しては、接触があるかもしれないとチェックを重ねて来た。

 だが藤城部長は想定外だ。

 彼に関して持っているのは「女子社員の憧れ」であり「誰に対しても冷徹」で「決して部下を甘やかさない」事を徹底しているという事だけだ。

 そのイメージから一人で昼食を取るものだとばかり思っていた為、今ここに何故自分が部長と一緒にいるのか理由が全くわからない。

 ここは訊くべきなのか? 先週何が有ったのか。こちらから? それで墓穴を掘る事にならないだろうか……。

「それで?」

 考え込んでいたところに、藤城部長のひやりとした声が降りかかり、果梨はびくりと身体を強張らせた。

 それで? それでとはなんだ!?

「…………あの……」

「先週の事だ」

 それだけ言えば十分だろう、という渋面。だが部長の眉間に刻まれた縦ジワを見詰めても、彼女には「先週の事」がなんだか思いつかなかった。

 こうなったら少しずつ情報を出して、その反応で正解を当てるしかない。

 脳裏に浮かぶ人物の能天気な笑みに悪態を吐きながら、果梨は恐る恐る切り出した。

「戦略会議では何かミスでも……」

「戦略会議?」

 はあ? というように不審な視線を返される。彼女は大慌てで脳内リストにある戦略会議部分に二重線を引っ張った。

 そこでの失態ではない。では先週何があった?

「えと……部長の領収書でしたらすでに総務に回して」

「違う」

「……先月の営業成績でしょうか? トップの本橋さんはともかく他の一課のデータをもっと精査しろとか」

「違うッ」

 苛立ちを全面に押し出し、ぎろり、と人を殺せそうな眼差しが降り注いでくる。

 触れたら壊れそうな空気が満ち、果梨は息も出来ない。

 後は何があった? 部内の飲み会だろうか? その時は……確か酔っ払って記憶が無かったとかなんとか……。

(ま、まさか……!)

 記憶を喪失している間に、何かあったのだろうか?

 もしかして高槻果穂を…………。

「プロポーズの件だ」

 低く掠れたその声。イケメンらしく声もイケメン。耳元で囁かれたら腰砕け間違いなしの声音が、全女子社員が欲しい言葉を発する。

 だが、果梨にとってはまさに青天の霹靂たるセリフだった。

「…………ぷろ……ぽーず」

 ぽかんとして呟かれた彼女の台詞に、藤城ははあ、と呆れ返ったような溜息を吐いた。

 嫌悪を端々ににじませた態度で椅子にもたれかかる。

 ぷろぽーず。

 プロの坊主じゃなくて? ていうか、プロの坊主ってなんだ。坊主はみんなプロだろう。

 それともあれか? プロっぽいポーズを取る約束とか? 何のプロの? もしかして部長は絵描きなのか?

「まさかお前……全部無かったことにするつもりか?」

 全身に「やってられない」を満載して告げる部長の声に、どうにか精神を今に引き戻す。

 ぶっ殺してやる、と胸の内で相手を罵りながら、果梨はごくりと唾を飲んだ。

「そんなことは……」

「じゃあ理由を説明しろ」

 理由? 何の理由だ?

 プロポーズという言葉と、どう見ても機嫌が悪い部長。そして高槻果穂の現状を考えると答えは一つだ。

 部長からのプロポーズを―――断った。

(こんな好物件をなんで……)

 現状を考えると勿体ないの一言だ。

 まったく、何を考えているんだと思いながらも果梨は深々と頭を下げた。

「色々考えた結果……その答えに辿り着いたんです。悩んだ末の答えですから……あの……」

「色々考えてたようには見えなかったがな」

 低いその一言は北極のブリザードより冷たく、辛辣さを含んでいた。一体どんな状況でどんなふうに断ったのか今の果梨には判らない。

 判らないが、断られた人間の態度としてはデカすぎないだろうか。

まるで断られることなど想定していないかのような。

(まぁ……こんなハイスペックな人、断るなんて阿保は居ないわな)

 兎に角誠心誠意、心を込めて状況を説明せねば。

「例え悩んでいるように見えなかったんだとしても、私としては真剣に考えて……そして答えを出したんです」

 顔を上げることなく告げる。

 そのまま数秒の時が流れ、鼻で嗤うような吐息が聞こえ果梨は凍り付いた。

 ぱっと顔を上げると、頬杖を付いた男が呆れ返ったような眼差しでこちらを眺め下ろしていた。

 そう。

 眺め、下ろしていた、のだ。

「あれが? 真剣に悩んでいた? だったら普段のお前は相当深く考え込んでいるってわけか」

 せせら笑う、完全なる侮辱の言葉に彼女は絶句する。

 何なんだ? この上から目線は。ていうか、こんな人を見下すような視線が完璧に出来る男などこっちから願い下げだ、冗談じゃない。

(って事で願い下げしたってわけね)

 ナルホドナルホド、納得だわ。大、納、得。

「言わせていただきますが」

 むかむかと込み上げる苛立ちが、切れそうな自制心を乗り越えて零れだしてくる。

「部長のそういう態度が嫌いだからこそ、ああいった答えを出したんです」

 部長に負けず劣らずな山脈を眉間の間に築き、きっぱりと告げてやる。途端、藤城部長が驚愕に目を見開いた。

「嫌い? 俺の事が嫌いだからあんなことを言い出したっていうのか!?」

 氷の営業部長が怒りをあらわにしている。

 トンデモナク珍しい状態。

 嫌われていると判っただけで、普段の冷静さを失うとは……いやはやなんと高慢な男性だ。

 これは本当に断って良かったのだろう。間違いない。

 先程までの申し訳なさのような物が、どんどん消えていく。彼女は顎を上げるようにして背筋を伸ばした。

「むしろ嫌いだからこそです」

 それは言い過ぎだ、と心の奥が警告を出す。だがつるりと零れ落ちたセリフは取り返しがつかず氷の営業部長の片頬を引き攣らせた。

「なるほどな……」

 冷やかな呟き。じろりと睨み付けられ、果梨はひれ伏しそうになるのを堪える。

 しばし睨み合った後、不意に藤城部長が不敵な笑みを浮かべた。表現するならば「にやり」という所だ。

 途端、ぞくりと彼女の背筋に寒気が走った。

 彼に路上で呼び止められた際に感じた「危機感」が再び全身を襲い、身体が逃げろと訴えて来る。

 目の前のチーターがぺろりと口元を舐め、ぎらぎらした眼差しでガゼルを見詰める……そんなサバンナの画が果梨の脳裏を駆け抜けた。

(マズイ……)

 急に部長がまとう空気が変わった。

 先程までは完全に果梨の事を馬鹿にしていた感が強かったが、今は興味を惹かれたというような空気が滲みだしている。

 それと同時に……得体の知れない色気……のような物も。

「お待たせいたしました、鴨南蕎麦です」

 店員さんのその声で、色が変わりかけていた空気が正常に戻る。はっとしてそちらを見れば、湯気を上げた蕎麦の丼が彼女の前に置かれる所だった。

「えび天蕎麦です」

 丼の縁から尻尾がはみ出している豪華なえび天蕎麦。ゆっくりと割り箸を取り上げながら、藤城部長は何気なく彼女に尋ねた。

「確認するが、高槻……君は俺の事が嫌いだからプロポーズしたと、そう言うんだな?」

「はい」

 ………………ん?

 間髪入れず答えてから、ふと彼女は今の台詞に違和感を覚えた。

 たった今彼はこう言った。

 俺の事が嫌いだからプロポーズした。

 嫌いだから……プロポーズした?

 ……誰が?

「普通嫌いな相手に自分からプロポーズはしないだろ。なのに何故そうしたのか是非知りたい」

 巨大なえび天を箸でつまんで持ち上げる部長に、果梨の頭は真っ白になった。彼が告げたセリフが爆発する。木っ端みじんになった脳内を何とか元に戻そうと躍起になりながら、彼女は「あの……」と小声で答えた。

「それは……私が部長にプロポーズした真意が知りたいと、そう言う事ですよね?」

 違う、という一縷の望みをかけて聞いてみる。

「そうだ」

 だが返って来たのはあっさりしたその返事で。

「……高槻?」

 蕎麦をすすっている部長の声がする。イケメンボイスに随分と心配そうな色が滲んでいた。

 氷の営業部長の仮面が剥がれるのはこれで二度目だと思いながらも、果梨は自分が見て居た景色が百八十度回転するのを感じた。

 ああ、この人がさっきまで言っていたのは、プロポーズを断ったのはなんでなのか、ではなくなんで自分にプロポーズをしてきたんだ、という事だったのだ。

(頭痛い……)

 それどころか穴が有ったら入りたい。まさかこんな地雷を踏むなんてあんまりだ。

「お前……大丈夫か?」

 心配そうな彼の声に、彼女はがぶりを振った。

「はい……大丈夫です」

「顔色悪いぞ」

「ええ、そうですね」

 そりゃそうだ。こんな重要な事を知らなかったのだから顔色も変わる。ていうか、先週何が有ったか知らないが、プロポーズを自らしていたのなら……それについて教えてくれなくては。

 例え。自分が。物凄く大変だったとしてもッ!

「高槻?」

「―――それはですね、部長」

 怒りに震えながら、しかし自棄気味に果梨は早口で告げた。

「嫌よ嫌よも好きの内だと思ったからですよ。愛と憎しみは紙一重なんですから」

 それから猛烈な勢いで蕎麦を口にする。後の事など知ったことか。ただ脳裏に浮かぶのは、だからか、という妙に納得のできる理由だった。

 恐らく高槻果穂はこの、藤城康晃に全てを賭けたのだろう。

 そして玉砕した。間違いない。

(だからって逃げ出さなくても……って、部長が『相手』じゃないでしょうね)

 そんな恐ろしい疑問が過り顔を上げると、再びあの、捕食者然とした笑みを目撃し果梨は驚愕した。何だ? 私なにか失言でもしたか?

「――面白いな、お前」

「…………は?」

 ふっと目を細め、部長がまじまじと果梨を見る。

「ただの腰かけOLかと思ったが……意外だな」

 …………え?

 くすり、と男は怪しげに笑う。

「前言撤回」

 その台詞に果梨の目の前が回り出す。今度こそ気が遠くなる。

「考えてやろう。お前のプロポーズ」

酷く楽しげなその声を耳にしながら、果梨は出来るならこの場に倒れたかったのである。

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