第64話 カーテンコール・後

 泰介が呼び出しを受けた御崎南駅に到着すると、そこには葵一人の姿だけがあった。

 休日の所為か、駅は人でごった返していた。混雑を極める改札前を人の波に流されながらのろのろと歩く泰介は、そんな状態で葵を見つけたのだった。葵がこちらに気づいた様子はなく、手に握った携帯に視線を落としている。

 この所冷え込んできた所為か、葵の上着が厚手のものに変わっていた。紺色のスカートに黒のタイツを合わせた葵は携帯を上着のポケットに滑り込ませると、それでも少しだけ寒そうに、両手を合わせて震えた。

 病み上がりが何をやっているのだろう。泰介は混み合う改札に視線を寄越しながら、呆れを込めた目で幼馴染の少女を睨む。

 そんな目で見ていると、葵が泰介に気づいた。ぱっと表情が明るいものへと変わり、手をひらひらとこちらへ振ってきた。

 たいすけ。

 名前を呼ばれたのが、聞こえなくとも分かった。

「……」

 一緒にいる時間が、長すぎたのだと思う。蓮香が葵の容姿に触れた瞬間に身体を抜けた動揺が、まだ心に残っている。

 泰介は葵に手を振り返してやりながら人ごみを掻い潜り、改札まで辿り着く。定期を回収して葵の元へ向かうと、小走りに近寄ってきた葵が穏やかに笑った。

「おはよ、泰介」

「ああ、おはよ。風邪はもういいのか?」

「うん、もう治りかけ。こないだはありがと。じゃ、行こっか」

 葵はくるりと踵を返し、泰介を促して歩き始めた。

「おい、葵? 仁科は?」

「もう着いてるよ。仁科も泰介待ってる」

 葵が悪戯っぽく笑うが、泰介にはまだ状況がよく呑み込めない。

「そもそもこれ、何の呼び出しだよ? 俺まだ何も知らねえんだけど」

「来たら分かるから」

 葵がそう言って、笑った時だった。

 前方から四人ほどの高校生の一団がやって来て、泰介と葵の傍を通り過ぎた。

 すれ違った瞬間に、彼等の視線が葵へ注がれたのがはっきり分かった。

 葵は特に表情を変えずに、前を見て歩いている。だが泰介はその横顔を見ただけで、葵が視線に気づいているのだと分かった。

「……おい」

「大丈夫だよ、泰介」

 葵は立ち止まらないまま、泰介を振り返って笑う。

「空元気とか嘘とかじゃなくて、ほんとに。大丈夫」

「お前の大丈夫ほどあてになんねえものはねーんだよ。嘘つけ」

 言いながら、どんどん腹が立ってきた。

 何なのだ。あれは。泰介が怒りを隠さず振り返ると、まだこちらを見ていた高校生達とばっちり目があった。相手は連れ合いが振り返るとは思わなかったのか明らかに動揺して目を逸らしたが、それでも懲りずに見てくる者が半数いた。

 もう我慢ならなかった。

 泰介は葵の手を引っ掴むと、驚く葵を尻目に大股で前へ歩き出した。

「泰介……っ」

「さっさと行くぞ。不愉快だろ。っていうかお前、俺をどこに連れてく気だったんだよ。どこ歩いたらいいのか分かんねえじゃん」

「……ありがと。こっち来て」

 葵が薄く笑って、泰介を誘導するように手を軽く引いた。

 薄幸な微笑が癇に障り、泰介は葵を睨んだ。

「お前。……ああいうの。ずっとだったんだろ。今の奴らは歳一緒くらいだったから、マシだったってだけで……!」

 そこまで勢いで言って、はっとした。

 言葉を止めて固まる泰介を、葵が驚きの表情で見上げていた。

 二人の間に、沈黙が流れた。

「……泰介、ずるいよ」

 やがて囁くように、葵が言う。

 だが言葉とは裏腹に、それを言う葵の表情は明るかった。

「私、せっかく自分から言おうって思ってたのに。結局先回りされちゃってたんだね」

「……。俺が気づくより先に、言わないお前が悪い」

「えへへ、ごめん」

 葵は軽い調子で笑ったが、泰介は全く笑えなかった。

 そんな泰介を見上げた葵が、黙る。表情がすとんと悲しそうなものへと落ちて、二人揃って、足を止めた。

「……本当に、嘘じゃないよ。本気で言ってるの。大丈夫って。泰介、嘘じゃないの、ほんとは分かってるんでしょ?」

 葵が、拗ねたように言う。

「泰介が隣歩いてるんだから。怖い目になんか遭わないよ。大丈夫に決まってるじゃない」

「もう、いい」

「泰介?」

「いいから」

 肩を引き寄せようとすると、さっと葵の顔が紅潮した。「人、見てる、だめ」と抵抗されたが、もう知った事かという捨て鉢な気持ちの方が強かった。

 どん、と強く、身体のぶつかる音がした。

「……泰介、痛い」

 葵が、消え入りそうな声で言った。泰介は無言で、背に回した腕の力を少しだけ緩める。それでも、まだ離したくなかった。

 認めたくはなかったが、そういうわけにもいかないのだろう。

 どうやら泰介は、まだ引き摺っているらしい。あまりにあからさまに浮き出た自分の弱さに心底辟易したが、しばらくはこんな精神状態が続くのかもしれない。先が思いやられるが、そんな心とどう折り合いをつければいいのか分からなかった。

「……」

 葵が無言のまま、泰介の背に手を回す。そして頭を泰介の胸板へ倒しながら、抑えた声で囁いた。

「泰介。……泣いてるの?」

「泣いてなんか、ねえよ。誰が泣くかよ、こんな人ごみで」

「うん。……ごめんね」

 そう言って、葵が顔を上げた。

「ありがと」

「なんで、礼なんか」

「大事にしてもらってるって、思ったから」

「はっ?」

 たじろいだ泰介は、思わず腕を離した。

 葵が、少しだけ背伸びをした。風が吹いて、長い黒髪を揺らす。それが視界を遮って、景色が刹那見えなくなる。

「!」

 既視感と動揺で、動けなくなった泰介だが――目が点になる。

 くしゃり、と。髪が突然撫でられた。

 目の前には、葵の腕。

「……何やってんだよ? お前……」

 わしゃわしゃと犬でも撫でるような手つきで髪を撫でてくる葵を茫然と見下ろすと、そんな視線をものともせずに、葵は無邪気に笑った。

「だって、泰介よく私にこうするでしょ? 元気ない時に。……ね、元気出た?」

 動揺が反転して、激しい羞恥に変わった。

「……っ、お前なあ!」

「あ、元気になった」

 葵の笑顔が、ぱっと明るくなる。

「……」

 泰介は憮然と目を逸らしたが、言われてみれば、先程までの鬱屈はもう心から消えていた。

「泰介、どしたの?」

「……。なんでもねえよ」

 煩悶するのが、馬鹿らしくなってしまった。

 きっとこんな感情の振れ幅に翻弄されながら、泰介はそれでも葵と一緒にいるのだろう。そういう風に割り切ってしまえば、案外悪いものでもないような気が、ほんの少しだけした。

「葵」

「なあに?」

「お前、勝手にどっか行ったら承知しねえからな」

 葵が、泰介を見上げたのが分かった。視線に気づいたが、こんな時に顔を見られるのは絶対に嫌だった。殊更強引に葵の手を引っ掴んで歩くと、引き摺られるようについてくる葵が、背後で笑った気がした。

 そしてそんな折に、唐突に声が掛けられた。

「何昼間っからいちゃついてんだか。吉野、佐伯と付き合い始めた途端に羽目外し過ぎじゃないのか?」

 声を聞いただけで誰だか分かった。

「仁科……!」

 泰介はぎょっとして声のした方向を振り返る。

 駅舎の周囲に隣接するビル群を背に、仁科要平が立っていた。

 仁科は泰介達同様に私服姿だった。ラフなTシャツの上から丈の長い上着をざっくりと羽織った立ち姿はすらりとした体型に異様に似合っていて、妙に様になっているから面白くない。穏やかな青色に凪いだ空の下で、太陽光に照らされた仁科の顔は白かった。頬のガーゼもまだ健在だ。

「あ、仁科! 待っててくれてよかったのに、来てくれたんだ」

 葵の声が華やぐ。仁科は葵に目を留めると笑ったが、手を繋いだままの泰介を見ると、顔に揶揄の色が浮かんだ。

「なんだよ仁科、こっち見んな」

「見せつけてんのはそっちだろ」

「お前、休日も変わらずうるせえよ」

「まあまあ」

 葵が笑って、泰介をたしなめた。

「泰介、さっきまでね、仁科と旅行代理店の前にいたの。パンフレット見てた」

「はあ?」

 唐突すぎて、何を言われたのか分からない。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする泰介を、仁科が可笑しそうに笑った。

「吉野の所為で俺らの修学旅行、駄目になったろ。その埋め合わせでどっか行こうかって、佐伯と話してた」

「は? おい、ちょっと待て。お前ら、旅行に行く気なのかよ?」

「あ、そっか。卒業旅行にするっていうのもいいよね。気が早いけど、予定だけでも楽しいもん」

 嬉しそうにはしゃぐ葵へ、仁科が苦笑を返した。

「このメンツで旅行ってどうなんだか。佐伯、連れが野郎ばっかじゃ家族の人から了承もらえないだろ」

「うーん。泰介いるなら案外簡単に許可出そうな気がするけど。信頼厚いし、安心だろうって」

 とんでもない事を言い出された。

「お前、何言って……! 出るわけねえだろ! お前の姉ちゃんに殺される!」

 葵はきょとんとしているが、仁科はにやにやと笑うと、顔色を変えて叫ぶ泰介を一瞥した。そんな仕草が本当にいちいち癇に障る。

「ま、旅行は卒業までに考え直すとして。佐伯、どこか行きたいとこ決まったか?」

「? 仁科、何の話してるんだ」

 泰介が訊くと、仁科がさらりと答えた。

「せめて日帰りでどっか遊びに行こうって佐伯が言った。何だ、吉野。お前どこか行きたいとこあるのか?」

「今知らされたばっかだぞ。まだ何も考えてねえよ」

 ぶっきらぼうに言い放ち、泰介は葵を見下ろす。

 二人分の視線を受けた葵は、「えっと」と考え込むように小首を傾げ、やがて楽しそうな笑い声を立てた。

「えへへ、なんか分かんなくなっちゃった」

「おい」

 泰介は脱力したが、仁科はそんな葵の返答が余程愉快だったのか、面白そうに笑った。葵は少しだけ仁科にむくれて見せて、それからふと思いついたように言った。

「ねえ、ごはん皆まだでしょ? ちょっと早いけど何か食べない? この辺お店いっぱいあるし。さっきの代理店からパンフレット少しもらってきてるから、後で見てみようよ」

 葵の提案に、仁科が頷いた。

「それがいいだろうな。佐伯。何か食べたいのある?」

「なんでも……って言ったら困るよね。ねえ、仁科は?」

 仁科が動き、葵が動いた。駅周辺のファーストフード店が軒を連ねる方角へ、二人の足が動く。

 泰介の足が二人につられるようにそちらへ動いた時、今更のように手を繋ぎっぱなしだった事に気づかされ、何だか気恥ずかしくなって、離した。

 葵が、振り返る。

 そして泰介の表情を見ると、笑った。

「行こうよ、泰介」

 仁科も振り返り、泰介を見た。

「体育馬鹿が何もたもたしてるんだ。なんでお前が一番遅れるかな」

 もう幼馴染として見る事ができなくなってしまった少女と、以前より少しだけ距離が近くなった、学内随一の問題児。

 その二人を、泰介も見つめ返した。

 そして、笑う。


「言われなくても、行くに決まってんだろ!」


 泰介は前を歩く二人の元へ、大きく足を踏み出した。

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