第43話 衝突

「吉野!」

 思いのほか焦燥を帯びて車内に響いた声に、仁科は自分でも驚きを隠せなかった。

 だがそれどころではなかった。隣に座る泰介が突然蹲り、こちらの呼びかけに返事をしなくなったのだ。

 最初は、気にも留めなかった。というよりも、気づかなかったのだ。侑の事を考えて、消えた葵の事を考えて、これからどうなるかも分からない先行きに思いを馳せて、泰介に引っ張られるようにバスに乗せられた。そんな矢先の出来事だった。

「どうした」

 仁科は、短く問う。泰介は最初こそ「気持ち悪い」などと不機嫌極まりない声で応答していたが、その声は別人のようにしゃがれていて、無理に普段の調子を取り繕っているのは明白だ。

 思い返せば、泰介はまだ病み上がりだった。珍しく風邪を引いたとかで何日か学校を休んでいたが、まさか、ぶり返したのだろうか。なんてタイミングで再発させるのだ。悪運に祟られているとしか思えない。肝心な所で倒れた泰介への苛立ちから口の端を歪める仁科だが、そんな感情がどれほどお門違いなものなのか、すぐに思い至って言葉を呑んだ。

 今更気づいたのだ。吉野泰介が〝ゲーム〟開始時から、どれだけ身体を張ってきたかを。いや、もっと前から気づいていた。別たれた進路が再び繋がった駅前で。ただ過去を鑑賞していただけの仁科に対し、泰介は明らかに怪我の数を増やしていた。怪我の程度はどれも軽いものだったが、それでも泰介が自分の置かれた状況の中で、何らかの行動を起こしたと見て取るには十分だった。

 泰介が〝ゲーム〟を終わらせようと奔走している間、何もしなかった自分を突き付けらた気がした。

 仁科は首を振って、思考を締め出す。惨めさに囚われている場合ではないのだ。

「吉野。……吉野」

 泰介を、呼んでみる。一度呼んで返事がなく、二度目は少し大きな声で。

 バスが次の停留所名を告げ、ピンポーン、と間延びした音が響く。その音が厭味なくらいに、両者の沈黙を浮き彫りにした。がたがたと小刻みに揺れるバスの振動に従って、泰介の髪と服が揺れた。泰介は額を座席の手すりに押し付けたまま微動だにせず、鞄を握り締めた手は嘘のように白かった。その手の甲にうっすらと汗が浮いているのを見た瞬間、ただの風邪だという甘い考えが消し飛んだ。

「……吉野! おい! 吉野!」

 大声を張り上げた仁科へ、バスの乗客が冷たい視線を投げた。明らかに隣の高校生の様子がおかしいのに、そちらの方には誰一人として見向きもせず、ただ声を荒げた不良高校生の素行の悪さを迷惑そうに眺めるだけだった。

 異常だった。だが外野などどうでもよかった。

「吉野!」

 何度呼びかけても、泰介は動かない。

「……っ」

 意識が、ないのか?

 だが腕の間から垣間見える泰介の目は薄く開いていて、焦点の暈けた瞳がどこか遠くを睨んでいた。意識は、ある。あるように見える。だがこちらの言葉が耳に入っていない夢うつつの状態に、鬼気迫るものを感じた。その時。

「……あおい」

 掠れた声で、小さく。泰介が言った。

「なんで、お前、まで、わすれて」

 ――佐伯、葵。

 そんな低い呟きを聞いた瞬間、殺意に近い感情が芽生えた。

 がつっ、と。

 肩をきつく掴んだ。

「吉野! 起きろ!」

 掴んだ肩は熱かった。学ラン越しにでも分かる体温の変化に動揺する心は、たった今擦り切れた。泰介の身体は弛緩していて、頭がずるりと鞄へ沈んだ。配慮など既に仁科の心に残っていなかった。心配より苛立ちが先に立った。一向に顔を上げない泰介の襟首を仁科は乱暴に掴み、「吉野!」と繰り返し叫んで身体を揺すった。

 今。自分が、何を感じたのか。その瞬間に湧き上がった感情の色は多様で、どれが何の感情なのか、まるでラベルの剥げた絵の具をぶちまけられたかのように滅茶苦茶だった。だが、それでも思ったのだ。

 糾弾された気がしたのだ。

 侑に何もしようとしなかった自分に、触れられた気がしたのだ。

 吉野泰介という人間が、今ほど癇に障った事はなかった。いつだって真っ直ぐ前を見据えていて、決まったように正しい事をしてみせる。その規範から外れた者との衝突を恐れずに突き進む姿は、清々しいが愚かだった。仁科はそんな泰介が、反吐が出るほど嫌いなのだ。今ほどにその気持ちを強く持った事はなかった。

 笑ってしまいそうになる。

 これではただの嫉妬だと、さすがにもう気づいていた。

 羨望の感情が、こんなにもどろどろとしていて汚いものだとは驚きだった。だとしたら羨むのも悪い事ばかりではない。全く、格好が悪いにもほどがある。そしてそこまで分かっていても尚、この体育馬鹿を罵倒しなければ気が済まないらしい己の事がまるで道化のように思え、笑い飛ばしたいのに全く笑顔を作れない感情が、雲を掴むように手応えがない。それが何より不愉快だった。

「お前にとって、佐伯って何なんだ」

 言いながら、揺する。ぐらりと不安定に揺れた泰介の頭が、緩慢な動きで仁科を見上げた。その顔には感情が浮いておらず、薄く開いた瞳は硝子玉のように外光を映すのみだ。

 あまりの手応えのなさに、かっとなった。これではまるで歪んだ鏡を見ているようだ。こんな死んだ魚のような目を仁科は知っている。本当に鏡を見ればいつでも拝める顔がそれだ。そして今その顔をしているのが吉野泰介である事が言いようのない生理的嫌悪となって、一気に仁科の逆鱗に触れた。

「お前の大事な佐伯を、俺が殺そうとしてるかもしれないって、分かってんのか? それってお前としてはどうなんだ。吉野。なあ」

 襟首を持ち上げて、ゆっくり言う。そうやって挑発した。

 吉野泰介を怒らせるのに、これ以上ないというほど適切な言葉だった。それを敢えて口にする。言いながら言葉尻が少し震えたのは怒りなのか快感なのか仁科自身分からなかった。感情の振れ幅を示す針が、すっかり馬鹿になっていた。

 そして、それを口にした瞬間、手を掴まれた。

 ぱしっ、と。肉が肉を打つ音が、エコーを伴って車内に響いた。泰介の襟首にかけた仁科の手を、細かな擦り傷を負った手が掴んでいる。皮膚に食い込む爪の痛みに、一瞬だけ眉を顰める。だが、構わず仁科は笑った。

 やっと、お目覚めらしい。

「……うるっせぇんだよ……仁科……」

 泰介が、顔を上げていた。目に、光が戻っている。こちらを睨め付ける双眸には、激しい怒気が燃えていた。

 仁科は、やはり笑った。やっと体育馬鹿が元の体育馬鹿に戻った。大いに結構だ。だが一度自覚して火が付いた羨望と侮蔑に、もう歯止めが利かなかった。

「佐伯が学校で死んでたら、吉野、どうすんの」

「……どうするって、何だよ」

「お前の話だよ」

 仁科は揶揄するように笑い、言った。

「お前、佐伯なしで生きていけんの?」

 みしりと、手がしごかれた。

 泰介は返事をしないまま、襟首を掴んだままの仁科の手を掴み返し続けていた。躊躇なく手に圧をかけてくる泰介が怒りの形相でこちらを真っ向から睨み返すのを、仁科はただ笑って見返した。嫌な顔をしていると思う。意識して厭味に笑ったつもりだった。笑えば余計に怒りが加速するだろう。それが手に取るように分かったから笑ってやった。

 泰介は、そんな仁科を淡々と睨み付けていた。手に込められた力だけが、少し増した。その段になって仁科はようやく、様子が普段と違うことに気づく。

 一触即発の空気の中で、泰介は怒鳴り返すか殴るかのどちらかを選ぶと思っていた。だが泰介はそのどちらもしなかった。普段の吉野泰介らしからぬ在り様に微かな動揺を感じた時、泰介がとうとう口を開いた。

「葵が、お前なんかに殺られるかっての。仁科、馬鹿じゃねぇの? なめんなよ」

「……何言ってんのお前」

 仁科は鼻で笑った。

「現に宮崎侑は俺がらみで、あの放送であいつが言った〝アリス〟って言葉もあいつの生前の台詞なんだ。そこまで符号しといて、まだそんなぬるい事言ってんのか? めでたい頭してるんだな」

「葵は死なねえよ。決めつけんな」

「死んだらどうすんのかって、さっきも訊いた」

「死なねえよ」

 泰介は繰り返す。そしてひたと仁科を睨むと、意を決したように言った。

「仁科、お前。宮崎が死んだの、自分の所為だって思ってるだろ」

 バスが、一度大きく揺れた。

「俺、お前と途中までしか一緒じゃなかった。だから宮崎の最期なんか見てねえし、お前が何を気にしてんのか、分かんねえよ。……でも、葵は死なねえよ。葵が今危険なんだとしても、それがお前の所為だとしても、絶対死なねえし、止めてやる」

 泰介は、決然と言い放った。

「〝ゲーム〟、俺が絶対終わらせてやる」

「……なんでそう言い切れるんだ。吉野は」

 吐き捨てるような、言い方になった。

「俺が……俺の所為としか、思えないだろ、この状況は。それ、本当に分かってないだろ」

 仁科の目の前で、自殺した侑。その侑の言葉をなぞるような〝ゲーム〟の幕開けに、何も感じないわけがなかった。こんな歪んだ再現を見せつけられて、平静を保てるわけがなかった。

 葵の顔が、脳裏を過る。

 泰介がうわ言で名を呼んだ、クラスメイトの少女。


 ――仁科っ。


 あだ名を、聞かれて。

 ないと答えたら苗字で呼び捨てにされた。

 中学の友人に何と呼ばれていたかと訊かれ、苗字で呼び捨てと答えた所為だ。その呼び方があまりに躊躇が感じられないものだったので、思わず吹き出してしまった。葵と会話もろくに交わさなかった頃を思い出して、その落差に余計に笑えた。もっと引っ込み思案かと思っていただけに、突然の呼び捨ては不意打ちだった。

 いつも通りの、あだ名と言えるのか怪しい呼び名。自分を名前で呼ぶ者など両親くらいのもので、葵も周囲と同じように、仁科を苗字で呼び捨てにした。

 そして、いつからか。

 呼ばれている自分を脳裏で再生すると、決まってそれは葵の声だった。

 それまではずっと、もっと甘ったるい、呪いのような声だったのに。いつの間にか攫っていくように、呼ぶ声の主は変化していた。

 仁科はそれが、少しだけ煩わしかった。自分を呼ぶ声はどうしても、侑でなくてはいけない気がした。変わってはいけない気がして仕方がなかった。自分を呼ぶ甘い声が、遠のく度に思うのだ。喪失感にも似た何かと、それから少しの、確かな安堵。ああ、やっと終わりにしてくれるのか、と。

 だが、終わりなど果たして自分に来るのだろうか。

 人を一人殺したのも同然なのに、のうのうと暮らし、飄々と笑い、そしてまだまだこれからも生きていく。そんな自分を、侑はきっと許しはしないのだ。そして侑が許しても、他でもない自分が、自分を許しはしないのだろう。

「……なんだよ」

 無言で睨み合っていると、泰介が舌打ちしながら吐き捨てた。

「お前、やっぱ気にしてんじゃん」

 咄嗟に反論したかったが、返す言葉がなかった。

 そう、かもしれない。

 いや、そうだった。

 仁科は不意を突かれて黙ったが、それでも、言われた言葉をそのまま呑みこむ事はできなかった。

「……俺が責任を感じたとして、それを吉野なんかに咎められたくないよ。あいつの遺族になら、責め立てられたって仕方ないと思う。でも、俺は誰にも責められなんてしなかった」

「そりゃ、そうだろ」

 泰介は、厳しく仁科を睨んだ。

「俺には、お前が悪いようには見えない。周りだってそう思ったって事だろ」

 がたん、とまたバスが揺れた。

「お前が、どんなに宮崎の自殺に責任を感じたとしても……自殺、お前が追い込んだとか、そんな風には見えなかった。だってお前ら、なんだかんだ言って仲悪くはなかっただろ。あの時の仁科がこれから宮崎を追い込むなんて、そういう風には見えねえんだよ。……なんで、そんなに、お前は」

「俺は自分を責めてなんかない」

 台詞の先を読んで、仁科は強引に遮った。泰介が息を呑み、やがて仁科を睨む。仁科は、卑屈に笑った。泰介の襟首を掴む手に、知らず力がこもる。

「責め続けてるとか、そんな深い理由じゃない。自業自得だって分かってるだけなんだ。それ以上でも以下でもなくて、別に自分に酔ってるわけでもないさ。ただ、自業自得だって思ってる。それだけなんだよ。吉野」

「そういうのをっ、自分の事を責めてるって言うんだよ!」

 泰介が激昂した。

 バスが一度停車して、また、動き出す。車掌席からほど近い場所で突如勃発した高校生同士の喧嘩に目を向ける者は少なかった。異常な環境の中で、その異常をものともせずに泰介は仁科を睨み付ける。荒げた声の大きさなど、まるで気にした様子がない。泰介も、外野などどうでもいいらしい。それが分かると、揶揄だけではなく何だか可笑しくなってきた。

 泰介らしいことだと思う。単純に周りが見えていないのだろうが、注意力散漫もいい所だった。周囲を具に観察しない泰介は、いつかきっと足元を掬われる。詰めが甘いのだ。だからこんな土壇場で倒れる事になるのだ。そんな感情はやはり揶揄となって仁科の表情へ上がり、口の端が持ち上がる。その顔を見た泰介が気分を害すと分かっていたが、もう壊せる所まで何もかも、全て壊してしまいたかった。

 沈黙する仁科へ、やがて泰介が口を開いた。

「仁科。葵の事だけど。俺はあいつと付き合い長いから、考えてる事くらい分かるって言ったよな。覚えてるだろ」

「ああ。納得はしてないけど」

「聞けよ」

 泰介は怒りに染まった顔のまま、真面目な口調で言った。

「葵。絶対、何かやらかしてるはずだ」

「は?」

 思わず、頓狂な声を上げてしまった。

 それは、完全に予想外の言葉だった。だが泰介は的外れな事を言ったつもりはないようで、むしろ妙な驚き方をした仁科こそがおかしいのだとでも言うように、顔を思い切り歪めている。

「だから、葵だよ。もう過去からは帰ってるって仮定の上での話だけど、聞け」

 泰介は仮定を土台に据えるのが余程嫌なのか、不愉快そうな表情を見せた。

「あいつ、めちゃくちゃ動き鈍いだろ。ドジばっかだし。一人になったら、多分俺とお前を探そうとするに決まってる。けどな、あいつが一人で何かすると事態がややこしくなったりこじれる事の方が多いんだよ。昔っから」

「……何言ってんの、吉野」

 何だか、呆気に取られてしまった。

「何、って。学校にいるならおとなしく待ってりゃいいのに、多分余計な事してると思うって話だよ。探すのややこしくなってなきゃいいけど。骨が折れんだよ」

「いや、そうじゃなくて」

 仁科は思わず合いの手を入れながら、仕切り直すように訊く。

「俺が訊いてたの、そういう事じゃないだろ」

「じゃあ、どういう事だよ」

 泰介は真っ直ぐに訊き返した。その顔にはとぼけた様子は一切なく、この上なく真剣に、そして純粋に仁科へ向き合っていた。こちらが、躊躇するほどに。

「……死んでるかもしれないって、可能性。吉野、考えてないのか?」

「その前に助けてやる」

 きっぱりと、泰介が言った。

 潔い言葉だった。

「……目ぇ覚めたら、ぐちゃぐちゃ考えんのアホらしくなったんだよ。学校に、絶対あいつはいるんだ」

 言いながら、泰介は髪を掻き揚げて眉を顰めた。頭部を抑える仕草はまるで自らの不調を呪っているように見え、泰介が何かしらの葛藤を抱えている事に仁科は初めて気づいた。

 ほんの少し、意外だった。泰介だけは、そんなものとは無縁だと思っていた。同時にそれを盲信していた己にも気づかされ、嫌な気分になる。仁科のそんな感慨をよそに、泰介はこちらを振り返った。

「葵は絶対学校にいる。だからお前も気にすんな」

「俺が? 気にしてるって?」

「気にしてるだろ、葵の事」

 あっさりと言われてしまった。

「お前、俺にはすっげぇむかつく奴だけど、葵には優しかったじゃん」

「……別に優しくなんてしてないさ」

「何だそれ」

 泰介は露骨に怪訝そうな顔を向けてきた。

「お前は葵に惚れてるんだと思ってたけど」

「まさか」

「今みたいな友達になる前、葵のこと時々見てただろ。多分あいつも気づいてるぞ」

 間が、空いた。

「……吉野じゃあるまいし」

 そっぽを向いて茶化した。てっきり怒鳴り散らされると思っていたが、存外に静かだったので思わず泰介を振り返る。

 そして、驚いた。

「……は?」

 赤面していた。

 怒ったような顔をぐるりと背け、視線を膝の上の鞄へ頑なに落としていたが、頭髪が短めなので全く隠せていない。耳まで赤くなった泰介の横顔を見下ろしながら、仁科は固まる。

 妙な間が、空いた。

「……え、何。何なんだその気色悪い反応」

「…………うるせえよ」

「じゃあ、気持ち悪い」

「ほとんど同じじゃねえかよ! うるせえよ! このタイミングで茶化すお前が全部悪いんだよ!」

 ようやく怒鳴った。だがその声にはいつものような覇気はなく、隠しようのない羞恥と生来の荒っぽさで余計に赤くなっている。

「うっわ。なんだお前本当に気持ち悪い。俺に寄んないでくれる? っていうか佐伯にも吉野に近寄んなって注意しないと」

「うるせえって言ってんだろ! 黙れ!」

「まさか、佐伯と何かあったのか?」

 そう訊いてやると、泰介は明らかな狼狽を見せて言葉に閊えた。

 意外だと、仁科はまたしても思う。泰介はこれで案外飄々と、学校で注がれる好奇の視線を掻い潜ってきたはずなのだ。幼馴染とはいえ葵との付き合い方があまりに堂々としていて衒いのないものなので、一部ではかなり噂されていた。仁科の耳にさえ入るのだから、いくら体育馬鹿でも気づいていないわけがない。

 冷やかされる事も、度々あっただろう。そんな泰介が、仁科の指摘一つでここまで動揺するとは思わなかった。

「変態、スケベ、変質者」

 思いつく端から罵倒の言葉を立て並べてやったら、明らかに顔色が変わった。極められたままの手に、力が入る。

「痛いんだけど」

「お前が悪い!」

 泰介は吐き捨てると、「それより!」と無理やり話題を変えてきた。

「とにかく、こんな馬鹿みてーな事とっとと片付けて、三人で帰るんだからな! 俺と、葵と、あとお前」

「はあ?」

 仁科は語尾を跳ねあげて笑ったが、泰介は表情を変えなかった。

「はあ? じゃねーよ。約束しただろ。面倒だけどお前も連れ帰ってやるよ」

「約束? お前はあれを約束って言うのか? 吉野みたいな奴でも約束なんて言葉を俺に掛けるんだな」

「仁科、お前って本っ当にめちゃくちゃ面倒臭いやつだな」

 泰介は呆れ果てたように言い捨てると、仁科の手を自身の襟首から払い、ようやく拘束を振り切った。

 同時に仁科の手の甲からも泰介の手が外れ、引っ掻き傷と爪の三日月痕が、点々と赤く残る。ちりっとした痛みが走り、遅れてじわりと血が浮いた。こんなになるまで掴み合いをしていたのかと、仁科は少し驚いた。そんな喧嘩など初めてだった。仁科は物珍しい気持ちで手の甲を眺めていたが、泰介は泰介でこれほど強く掴んでいたとは思わなかったようで、決まり悪そうに目を逸らしていた。だが先に手を上げたのは仁科なので、謝る気はないらしい。それは仁科も望むところだった。

「仁科。聞け」

 言いながら泰介は、降車ボタンを押した。ピンポーンと間の抜けた音が鳴り、張りつめた空気が馬鹿みたいに緩んでいく。そもそも緊張感など泰介のずれた返答の所為でもうとっくに抜け切っていて、仁科の側だけにしか残されていないのかもしれない。泰介は何やら言いにくそうに顔を顰めていたが、やがて観念したように息を吐いた。

「俺、多分、風邪じゃないとは思ってるけど、またこうやって倒れるかもしれなくてだな……いや、倒れると思ってるし、むしろ倒れなきゃ駄目なんだと思ってる」

「はっ……?」

 意味が分からない告白だった。曖昧な事を嫌う泰介が、ひどく要領を得ない告白をしている。それだけでも仁科にとって衝撃だったが、泰介の顔は居心地の悪さこそ滲んではいたが真剣で、嘘は含まれていないように見えた。

「笑うなよ」

 そう前置きして、泰介は口を開き、

「俺、…………やっぱいい」

 結局途中で止められた。ずっこけそうになる。

「何なんだ今の。わけ分かんないんだけど。調子乗ってんじゃねーよ吉野」

「いいっつってんだろ!」

 泰介は顔を赤くすると首をぶんぶんと横へ振る。心底言いたくないらしい。仁科はそれとなく視線を送り、圧をかけてやった。

「なんだよ。こっち見んじゃねえよ。それより、次だからな。着いたらすぐ降りて、走るぞ」

「走れるのか、そんなんで」

 見る限り嘘のように元気になっているが、先程の虚脱状態を思うと一抹の不安が残る。泰介はそんな仁科の危惧を撥ねつけるように「当たり前だ」と断言した。

「あいつが待ってる」

 それを聞いて、仁科は黙る。やがて、薄らとした笑みを浮かべた。

「なんでそう信じられるかな。吉野は」

「お前、頑固過ぎていい加減鬱陶しいぞ」

 そんな悪態を食らった時、バスがついに停車した。

「仁科」

 料金を払い、バスのステップを降りながら、泰介が背後から仁科を呼んだ。横暴な態度でのしのしと歩き、仁科の隣に並んでくる。

「さっき言いかけた事、やっぱり一個だけ言うから、聞け」

 目の前にはもう、御崎川高校が聳えている。開け放された校門を抜けて学校の敷地へ入ると、仁科と泰介は誰もいない小石混じりの砂を踏んで、グラウンドを進んだ。走ると宣言していた泰介は走らずに、ただ、仁科へ言葉を掛けた。

「俺がもし、またあんな風になったり、倒れたら、……葵が、取り乱すかもしれない」

「……」

「だから、困るんだよ。お前が、しっかりしてくれないと」

「……お前さ。ほんとに佐伯の何なんだ」

 こちらと目も合わせずにそれを言う泰介の顔を、仁科は睨んだ。

 不意に、泰介が振り返った。

 突然だった。

 その眼にはっきりと浮かんだ感情は、やはり怒りだった。

 ざりっ、と砂を噛んだ上履きが乾いた音を立てた。泰介は立ち止まると、仁科に詰め寄った。襟首をがつんと掴まれて、身体が激しく揺れる。伸ばし気味の前髪が揺れて、視界がオレンジ色にぶれた。

 そんな最悪の視界の中で、鮮やかなほど明確な怒気を孕んだ泰介の目と、真っ直ぐに視線がかち合った。

 瞬間、罵声が響き渡った。

「ぶっちゃけ俺は! お前のトラウマなんざ、心底どうでもいいんだよ!」

 辺りを憚ることない、唐突な罵倒だった。

「でも、お前がそれでぐずついてる所為で! 葵になんかあったら!」

 きつくこちらを睨んだ泰介が、あらん限りの大声で、叫んだ。


「絶対許さねえ! ぶっ飛ばす!」


 その怒号が、青い空にすかんと抜けるように響いた時。

 グラウンドの真ん中に立つ二人を照らす太陽が、鮮やかに色を変えていった。

 白々とした朝の光が、泰介の声を呼び水に夕暮れの気配を運んでくる。険しい表情の泰介の顔を、茜色に染め上げる。

 二人とも、何も言わなかった。変化にはもう、慣れてしまった。

 火の粉のような燐光が、辺りを雪のように舞う。その光がさらさらと零れ、中空を飛翔し、本来の雪がそうであるように溶けて消えた時――辺りには黄昏時の静けさだけが、しんと穏やかに広がっていた。

 そんな静謐さの中で、先に表情を崩したのは仁科だった。

 思わず、笑みが零れたのだ。

「……俺、今すっげえ怒鳴ったんだけど。なんで笑ってんだよお前」

「ああ、悪い」

 憮然としている泰介に仁科は素直に詫びながら、可笑しくなってしまって笑い続けた。泰介はそんな仁科が余程気持ち悪く思えたのか、手をぱっと襟から離す。そして案の定「気持ち悪りぃ」と、口をへの字に曲げて言ってのけた。

「お前に言われたくない。さっきの佐伯がらみの忘れてないからな」

 仁科も負けじと言い返しながら、砂を踏みしめて歩き始める。心臓の鼓動が、胸を忙しく打った。

 ――馬鹿だと、思った。

 信じられなかった。何がそこまで、自分に響いたのかが分からない。

 だが仁科は思ってしまったのだ。今の泰介の台詞を聞いて、侑への感情を振り返り、消えた葵へ思いを馳せて、そして、今。

 何かが、ぱきんと音を立てて壊れていったような気がした。

 泰介が、壊した。まるで硝子を割るように。

 何年もかけて培ってきた後悔と贖罪と、背負い込んだ責任が、今、砕けた。そんな音を、聞いた気がした。

 なんだ、と仁科は思う。こんなにも、簡単な事だったのか、と。

 分かってしまえばあまりに簡単過ぎて、何だか余計に笑ってしまう。

 ――怒られたかった、だけだった。

 責められて、詰られて、それで区切りをつけたかっただけなのだ。

 責任ばかりが日を追うごとに重みを増して、自縄自縛に気づけなかった。それが、今、切れた。

「……仁科?」

 泰介が怪訝そうに振り返った。いつの間にか、仁科は立ち止まっていたらしい。

「吉野」

 仁科は薄く笑うと、泰介に言った。

「さっきの、すげぇうるさいお前の罵倒だけど」

「あ?」

「さっきの、いい。気に入った」

 それだけを言うと、仁科は泰介を追い越して颯爽と歩いた。背筋を伸ばして歩く仁科の身体を、秋の風が撫でていく。オレンジ色に染め抜いた髪が、ふわりと風を孕んで靡いていった。

 不思議と爽やかに凪いだ気持ちの残滓が、心地いい風に洗われていくのを感じながら――仁科は校舎へ続く階段を目指して、いつも通りの早足で、一歩前へ、踏み出した。


     *


 窓枠に寄り掛かるようにして目を閉じていた葵は、薄く瞼を開けた。

 外は茜色の光に彩られ、対照的に葵のいる教室は昏かった。

 心細さに、胸が締め付けられる。それでも自分の心が平静を保てている事に、葵は自分でも少し驚いた。

 泰介を、呼んだからだろうか。あの状況で、本当に助けに来るわけがないのに。思わず笑みが零れたが、ふと葵は、蓮香の顔を思い出していた。

 蓮香は一度、泰介に手を上げている。それは二年近く前の出来事だったが、その記憶の衝撃が大きすぎて、葵は一時泰介の事を考える度に、セットで蓮香の事まで考える始末だった。

「……」

 中学三年の、冬の日。こんなにも愚かな自分を無償で愛してくれる家族を、あんなにも傷つけた。そして今、葵は再び自問している。

 棚橋円佳。葵の実母。彼女に会って、何を話す気だったのか。

 答えはもう出ていた。最初からそんなものは、決まりきっていたのだ。

 訊きたい事など、何もなかった。

 だが、それでも会ってみたかった。顔を知りたい、声を聞きたい。そんな本能的な興味だけが、再会を切望する感情の全てだった。

 そして今はそれさえも――もう、いいのだと思っている。

 一度求めておきながら、身勝手だと思う。それでも葵は、今の家族が大事なのだ。

 たくさん傷ついて、それ以上にたくさん傷つけた。

 それは、過去を見た瞬間にも思った事だった。

 それに、もう一つ。

「……蓮香お姉ちゃん」

 ぽつりと、呼んでみる。

 義理の姉の名を、随分久しぶりに呼んだ気がした。

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