第86話「発動」

 ――焼けつくような胸の痛みに、目が覚めた。


 風が吹き、銀色の長い髪がパタパタと翻る。

 黒い空を背景に、城の別棟の屋根がぼやけた視界に映る。


 セシルはシュティリケ城の空中庭園に立っていた。


(なん、だ……?)


 今にも消えてなくなりそうな、陽炎かげろうのような意識。

 頭にもやもやと霞がかっているようで、身体に力が入らない。


(動け、ない……)


 それなのに、セシルはしっかりと地面に足を踏ん張り、一人で立っていた。


 裸足の足元には、赤黒い液体で複雑に入り組んだ巨大な魔法陣が描かれている。


 セシルはその中心に立って、ドレスの大きく開いた胸元に自分の手でナイフを突き刺していた。

 鼓動に合わせてどくどくと流れる血が、白いドレスに真っ赤なシミを作っている。


 魔法陣の傍らではジスランが日記を開き、低い声で絶え間なく歌うように呪文を詠唱していた。


(大厄災の呪文……?)


 セシルには古代語はわからない。

 しかし、そこに込められた憎しみだけは肌を刺すように伝わってくる。


(なんて、悲しい言葉なんだろう……)


 愛する人を失い、世界から切り離された少女の恨み言――。


 それを聞いていると、ルンベックの街でひとりぼっちだった日々を思い出す。

 たった一人の父が死んで、一人で生きていかなければならなかった日々を……。


 それがどんなに苦しくて……寂しかったかを。


(でも、この世界は……)


 風が轟々と唸る。

 ゆっくりと、黒雲が渦を巻きはじめた。


 渦の中心から、細い竜巻が一本伸びる。

 竜巻は城の中庭に尾をつけるようにして、地上に降りてきた。


 むくむくと、巨大な人の形を作りはじめる。


(術がもう……!)


 そのとき、笑い声が聞こえた。

 ジスランのでない。ジスランは絶え間なくことなく呪文を唱え続けていた。


 セシルはようやく、自分とジスラン以外の人間がこの場にいることに気がついた。


 その男は、手すりに手をかけて身を乗り出し、楽しそうに笑って竜巻から現れる女を眺めていた。


 豪奢な飾りのついた紺色の詰襟を着、長い栗色の髪をオールバックにした壮年の男の横顔は、ジスランによく似ている。


(ジスランの……父親?)


 竜巻から現れた銀の女は、項垂れていた顔を上げ、長い髪の隙間から顔を出す。


 その顔は、セシルと同じ顔をしていた。


 ……と、ジスランの声が止まった。

 屋内に続く階段の扉を、誰かが乱暴に開け放ったのだ。


 その人物は胸から血を流すセシルを見て、紫色の目を見開く。


「……てめぇ、セシルに何しやがった?」


 鈍色の鎧を着たラクロは、瞳を鋭く眇めてジスランを睨んでいた。

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