第26話「友情と約束」

 窓の外に夜のとばりが落ちる。


 長い髪を解いたセシルは一人用のベッドに大の字に寝転んだ。


 天井の木目を見つめ、静かに思う。


 この旅の途中で逃げ出そう。


 旅の目的地であるオルランディーニ公爵領地は、王女の隠れ蓑に選ばれる程度には安全が保障された場所だ。


 そこで息を潜め、ひっそりと生きよう。戦争が終わるまで、この目立つ銀色の髪と瞳を隠して。


 王都にも、王国騎士団にも近寄らず、ラクロとテレジオにも二度と会わずに。


「っ……」


 ぎゅっ、と胸が苦しくなった。


 ……でも、仕方がないのだ。弱者はこうやってこそこそと生きていくしかないのだから。


 そんなふうにしか、私は生きられないのだから。


 コツコツ、と窓が音を立てた。

 見ると、さらさらとクリーム色の髪が揺れていた。


 ぽかん、と目と口を開き、慌てて身体を起こす。


 窓越しのとろけるようなたれ目がいらずらっぽく笑って、ぷっくりとした唇が動いく。


 あ・け・て。


「……王女様!?」


 セシルは慌てて窓を開けた。


「ここ二階ですよ!?」


「えへへ」


 足場十五センチほどの、一階の客室の窓上の屋根にアメリアは立っていた。


 窓枠に裸足をかけ、部屋に上がり込み、得意げな表情でピースしてみせる。


「脱出アンド侵入、大成功!」


「なにしてんですか!? あ、危ないじゃないですか!」


「平気よ。慣れてるもの」


 アメリアはにこりと笑い、囁くように問いかける。


「あなた、セシル・エクダルね? わたし、あなたとお話してみたかったの」


「はあ……」


 ワンピースの寝間着姿のアメリアが、ぐっとセシルに顔を近づける。


「ねえ、どうして目が光るの?」


 飴色の瞳は好奇心にキラキラと輝いていた。


「入団試験を見てたの。矢も一本も外さなかったし、あれはやっぱり魔術なの?」


「いえ、そういうわけじゃ……」


 そういえば、と昼間のテレジオとの会話を思い出す。


 王女様は魔術が好きなんだっけ。


 個人の魔力の量は生まれつき決まっている。魔術を十分に扱えるほどの魔力を持つものはまれで、大多数の人間は魔術の初歩すらままならない。

 セシルもその大多数のうちのひとりだった。魔術など、生まれてこの方使えたことがない。


「違うの?」


 アメリアは黒目がちな目をぱちりと瞬く。


「シルヴィアが気にかけるくらいだから、あれも魔術なのかと思ったわ」


「シルヴィア?」


 セシルはひそかに眉根を寄せる。


「シルヴィアが僕を?」


「ええ。だから、あなたも魔術師なのかと思ったんだけど、違うのね」


 王女は少し気落ちしたように肩をすくめ、すぐににこりと花が咲くように笑う。


「シルヴィアとはお友達なの。わたし、魔術が大好きで、シルヴィアにたくさん本を貸してもらってるのよ。わたしには魔術の才能はまったくないんだけど……でもいいの。知るだけで楽しいから。シルヴィアから借りた本はすべて暗記してるんだ」


「はあ。丸暗記ですか」


「ええ!」


 アメリアは誇らしげに胸を張る。


 王女は勉強が苦手だと聞いていたが、勉強と魔術は彼女の中では別のようだ。


「ねえ、セシルもわたしとお友達になってね」


「え? ……と、友達ですか? 僕とアメリア様が?」


「ええ。ダメ?」


「ダメっていうか……あなたは王女様で、僕は一介の騎士にすぎなくて」


「そんなの関係ないわ。わたしはあなたと友達になりたいんだもの」


「……なんでですか?」


「綺麗だから」


 さらりと言う。


 虚を突かれたセシルに、王女は微笑みを浮かべた。


「矢を放つあなたはとても素敵よ。翻る銀髪も輝く瞳も、すごく美しかった。踊るように戦うあなたを見たときに思ったのよ……あなたと友達になりたいって」


 飴色のまなざしが真摯に見つめる。


「セシル。わたしとお友達になって」


 思わず、セシルはうなずいていた。

 アメリアがうれしそうに笑う。


「やった! これで二人目だわ」


「二人目?」


「わたしの友達よ! あなたとシルヴィアの二人。ねえセシル。いつか戦争が終わって、わたしが王都に戻ったら、三人で街にお出かけしましょうね」


「え。……シルヴィアも、ですか?」


「ええ。彼女のこと、嫌い?」


「そ、そういうわけじゃないですけど……」


 嘘だ。現段階の彼女の印象はすこぶる悪い。


 あら、とアメリアは困ったように笑う。


「シルヴィア、またやっちゃったのね。まあでも……うん、そうなるだろうとは思ってたわ。だってセシル、『天才アーチャー』だもんね。シルヴィアは天才っていう言葉が大嫌いだから」


 入団試験のときを思い出す。


 翡翠の瞳で睨むようにセシルを見たシルヴィアは、吐き捨てるように言った。


『嫌いなものは凡人、嫌いな言葉は天才』


「シルヴィアは本当はすごくいい人なのよ。頭が良くて、努力家で、優しくて。王都のカンデロ地区ってわかる? 都で一番治安の悪い、いわゆるスラム街って言われてるところなんだけど」


 セシルは首を横に振る。


「シルヴィアはそこの出身なの。彼女はあまり自分のことを語りたがらないから、わたしも本人から直接聞いたわけじゃないんだけど……。シルヴィアはきっと、マジスタになるためにものすごく努力したんだと思うの。マジスタになった今だって、シルヴィアは暇さえあれば図書室にこもって、ずっと勉強してるのよ。『天才』って『天賦の才能』、つまり『神様から与えられた、生まれ持った才能』っていう意味でしょ? シルヴィアは、そんなふうに努力してやっとの思いで手に入れた能力を、最初から持っていたみたいに言われるのが嫌なんだと思うの」


「はあ……」


 難民でもない、賑やかな大都会エンデスに住む人たちにもいろいろと苦労はあるのだな、と他人事のように思う。


「お城の中には、スラム街出身っていうだけでシルヴィアを馬鹿にする人がたくさんいるの。でも、シルヴィアはどんなときでもあの態度を変えない。どんなに陰口を言われても、僻まれても、絶対にいつも強気に笑っているの。その姿が、なんだかすごくかっこよくて、わたしは大好き」


 飴色の垂れ目が遠くを見るように細くなる。


「セシルにも、きっとシルヴィアの良さがわかるわ」


「はあ……」


 そのとき、廊下でドタバタと慌ただしい足音がした。次いで聞こえる野太い声。


「アメリア様がいなくなったぞ!!」


 アメリアの部屋の前には警備の隊士がついていた。彼らがついに王女の脱走に気がついたようだ。


「……あちゃ、バレちゃった」


 肩をすくめたアメリアが、ベッドから腰を上げる。


「戻らなくちゃね。それじゃあ、セシル。長旅で疲れてるのに、付き合わせてしまってごめんなさい。おやすみ」


「いえ。おやすみなさい」


「……ねえ、セシル」


 不意に、扉に手をかけたアメリアが振り返った。


「死んじゃダメよ」


 セシルを見つめる瞳は、怖いくらいに真剣だった。


「絶対に、死んではダメよ。どんなことをしてもいいから、生きて。……あなたは、わたしの友達なんだから」


 思わず息を止めたセシルに、王女は凛とした声で言う。


「約束して」


「……はい」


 気おされたようにうなずく。


 王女は満足そうに笑い、静かに部屋の外へと出ていった。


「もう、ちょっといなくなったくらいで大げさね! わたしはここよ!」


 セシルは大の字にベッドに寝転ぶ。


 ──友達って。生きろって。


 生きるためには、騎士団ここから逃げなくちゃいけなくて。


 逃げたら、僕は追われる身で。もう二度と王家には近づけなくて。


 王女様あなたのそばにはいられなくて。


「どうしろって言うんだよ……」


 全部投げ出したくなって、セシルは静かにまぶたを閉じた。

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