第24話
黒く塞がれた視界の中、不意に濃密な花と草木の薫りが鼻孔をくすぐる。
足元の地面は踏み固められていないように柔らかく、耳には鳥の囀りと思わしき心地好い鳴き音が聞こえてくる。
少しして閃光が収まり始め、創一はゆっくりと双眸を開いた。
眼前に広がる景色は、校庭の面影などは一切存在しない、緑豊かで長閑(のどか)な緑地が広がっている。
創一と繭羽は、幅広でゆったりと流れる川の畔に立っていた。
空は突き抜けるように真澄に晴れ渡り、視界に遠く、穏やかに連なる丘が映る。周囲は色彩豊かな草木に満ち溢れ、空気は汚れを一切感じさせない清浄さに満ちている。
木々の上には見たこともない美しい羽色の小鳥が羽根を休めており、愛らしい栗鼠(りす)が幹を走り回っていた。川辺を眺めれば、馬や羊、ソウに鹿、カバにサイにフラミンゴなど、日本では目にすることの出来ない様々な動物たちが安らいでいる。
辺りを見回したが、学校の生徒の姿は一人も見当たらなかった。
「……くくく、あははは、あーはっはっはっ! 成功じゃ! 招き果たせたぞ!」
先ほどと変わらず宙に浮遊するリリアが喜びに満ちた高笑いを上げた。
「……繭羽、ここはどこなんだ? リリアはいったい何をしたんだ?」
「……異界招誕(いかいしょうたん)。リリアは最悪と名高い召喚魔術を行ったのよ」
繭羽は端的に答えた。
「……どんな魔術なんだ?」
「破魂術の大規模版。現実界とパンタレイ内の任意の世界を繋ぎ合わせて、その境界に大穴をこじ開けたのよ。そして、その世界をセーヌ結界内に展開、横溢させる。アリス術式は、個人が現実界からパンタレイへ行くけれど、これはその逆で、規模を拡大したもの。つまり……リリアは異界そのものを現実の世界へ召喚したのよ」
「……じゃあ、ここは」
「そう。リリアが何かの目的の為に召喚した世界――その一部ということになるわ」
「左様、小娘の言う通りじゃよ」
空中から地上へ降り立ったリリアが答えた。
「僥倖……いや、必然か。予想通り、無事にこちら側へ来られたようじゃな、坊や。魔術師に特有の秩序の歪みも持たず、セーヌ結界内で自由に動き回れることから考えても、ただの人間ではなかったようじゃ」
「……どういう意味だ?」
「周りを見渡して見よ。先ほどは軍人のように整列していた学生の群れがどこにもいなくなっておろう? この空間は、ただの人間は足を踏み入れることは出来ぬ。人間が追放された楽園じゃからな。坊や、聖書は読んだことはあるか? コーランでも構わぬ」
創一は聖書やコーランを読んだ憶えは全く無い。恐らく、事故以前に読んだこともないだろう。
創一の代わり、繭羽が一つの可能性を呟く。
「……エデンの園ね」
「小娘の言う通りじゃ。ここは旧約聖書に記された、人類にとっての原初の園じゃよ。まあ、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教にとっての話ではあるがのう。人間の祖であるアダムとイブは、知恵の実を口にしたが為に、楽園を追放された。故に、人間はエデンの園へ足を踏み入れることは許されぬ」
「……ちょっとまて。僕は人間だし、繭羽だって人間だ。それなら、僕たちがここにいることは、おかしいんじゃないか?」
創一の疑問の言葉に、リリアは軽快な笑みを浮かべながら首を横に振る。
「それは違うな、坊や。悪魔と遊べば悪魔となる。魔術に限らず、人を超越した技を為す者は、人ならざる者と見なされ、迫害されるのが世の常じゃ。世の常ならば、それは確かな理となって世界に敷かれる。常人を超越した力を有している時点で、坊やも小娘も普通の人間としては扱われぬ。魔術を扱う者がセーヌ結界内で動けるのも同じ道理じゃな」
リリアの言うことは筋が通っているように感じられた。確かに、その理屈ならば、魔術に縁も所縁もない学生の姿が見当たらないのも頷ける。
「……創一、気分は大丈夫? 吐き気や倦怠感はしない?」
繭羽が何故か体調を気遣ってきた。
「え? ああ、うん……特にこれと言って問題ないけれど」
「本当? 臨界尽崩(りんかいじんほう)には達しなかったようだけれど、それでも連鎖した尽崩(じんほう)の衝撃波を食らったのよ?」
「尽崩……ってなんだ?」
「……破魂術には、その先に尽崩という禁忌の技があるわ。端的に言えば、自分の魂の全て砕き散らせる、捨て身の技よ」
「……もしかして、さっき傀儡の人が突然光ったり、鈴のような綺麗な音がしたのは……その尽崩ってものなのか?」
「そうよ。通常の破魂術では、魂を炸裂させる際、それが一部分で収まるように制御する。でも、尽崩は違う。尽崩は大量の魂を一気に炸裂させて、その衝撃によって、自分の魂を連鎖的に炸裂させるわ。尽崩を行うと、可視化される程の量の魂が放出されたり、魂が砕け散る鈴のような大きな破魂音が響き渡るわ。……原子爆弾のようなものなのよ。当然、術者は高確率で死に至る」
創一は、ぞくりと悪寒を覚えた。
傀儡の人々から奇怪な光が生じたり、神楽鈴を鳴らすような清音――それはその人達の魂が炸裂することによって生じた現象だったのだ。
ふと、創一はある重大なことを思い出した。
「繭羽、それ……本当なのか? 僕の見間違えじゃなければ、傀儡の人どころか、学生の中でも似たような現象が起きていたぞ!?」
「……そうなのよ。尽崩はあまりにも一度に大量の魂が炸裂する所為で、本人の至近にいた一般人の魂に衝撃を与えて、複数の爆弾が誘爆するように、他人の魂にも尽崩を引き起こしてしまう。一人の尽崩によって別の尽崩が引き起こされ、それが連鎖を繰り返して、結果として大量の人間の魂が尽崩を起こしてしまう。この連鎖尽崩によって、現実界とパンタレイの間にとてつもない大穴をこじ開け、異界そのものを現実の世界へ召喚する方法……それこそが異界招誕よ」
創一は頭は繭羽の話を理解することを拒んでいた。
もし、繭羽の話が本当ならば、尽崩は傀儡の人だけではなく、学生の間でも引き起こされていることは間違いない。つまり、それは、心陽や賢治、昴に陽太――創一のクラスメイトの魂も全て砕け散ったかもしれないことを示していた。
「じゃあ、あの場にいた人たちは、僕らを除いて……みんな死んでしまったのか? ……クラスメイトも全員」
「……」
繭羽は何も答えなかった。それは、暗に最悪の事態が引き起こされていることを示唆するものであった。
「いやいや、坊やよ。その結論は違うな。坊やの学友共が死んだと確定させるのは早計というものじゃよ」
繭羽に代弁するように、リリアが創一の考えを否定した。
「……どういう意味だ?」
「さっき小娘が言っておっただろう? あれは臨界尽崩に至っておらん。そもそも、尽崩は破魂術に習熟した者だけが扱える、一種の奥義じゃ。なんの魔術的訓練を積んでおらぬ我が従僕に完全な尽崩を発動出来る訳がないのじゃよ。精々、砕けて魂の半分と言ったところか。だからこそ、大量の学生と連鎖尽崩を利用して、数で質の悪さを補った訳じゃからな。坊や、本来はな、異界招誕は魔術に長けた術者を数十人犠牲にして執り行う召喚魔術なのじゃよ」
創一は繭羽の方を見た。特に、リリアの説明に対して否定的な態度を取る様子は無い。
「じゃあ……みんなは生きているのか?」
「従僕の尽崩自体が不完全な上、連鎖尽崩も徹底的に起きていた訳ではなかったからのう。だからこそ、数を揃える必要があった訳じゃが……。まあ、運が悪ければ魂が崩壊した者もおるやもしれぬ。少なくとも、起点たる我が従僕は、みな事切れたようじゃな。あるいは、死ぬ寸前じゃな。従僕との精神的な紐帯が切れておるからのう」
リリアの話を信じるならば、まだ心陽たちが手遅れの状態に陥っている虞は低そうに思えた。創一の所属する二学年は全校生の中央に並んでいたので、最前列や最後列でない限りは、尽崩の影響は少なかった筈だ。しかし、完全に楽観視することは出来ない。最悪の場合も十分に有り得る。
「……どうして、こんな酷いことをするんだ?」
創一は湧き上がる怒りに敵意を剥き出しにしてリリアに食って掛かる。
リリアはそれを見ると、場違いなものを見たかのように鼻で笑った。
「ははっ、面白いことを言うじゃないか。ならば、逆に問おう。どうして、幻魔たる妾(わらわ)が人間如きの生き死にを気に留めねばならぬのだ? どうして食らう側が食らわれる側の立場を尊重して、遠慮せねばならぬのだ?」
「そ、そういう意味で言っているんじゃ――」
「無駄よ、創一」
感情を激してさらに食って掛かろうとする創一を、繭羽が静かに制する。
「人と幻魔では、物の考え方が違うわ。幻魔にとって、人間は単なる餌に過ぎない。もしくは、欲望を満たす為の道具よ。人間の常識や正義感は、幻魔には通じないわ」
「くくっ、小娘の言う通りじゃ。まあ、坊やの言わんとしていることも分からなくはないぞ? しかしな、妾(わらわ)の感覚としては、飽食の時代に食べ物にいちいち感謝や遠慮をして食べろと言われているようなものじゃな。坊やは食事をする際、牛や豚にも家族はいるのだと考えて、動物の肉を食べることを禁ずるか? 野菜だって生きているのだと考えて、霞でも食べて仙人のような暮らしを望むか?」
「それは……」
創一は何でも良いから反論しなければならないと感じた。しかし、咄嗟に反論を思いつくことは出来なかった。
リリアは創一の沈黙を肯定と受け取ったのか、ほくそ笑む。
「そういうことじゃよ。……さて、そろそろ雑談に興じるのも止めじゃ。今回は本気でいかせて貰うぞ。妾(わらわ)は何事も遊びが過ぎる悪い癖があってな。またぞろ、ベルに窘(たしな)められてしまうわい。さあ、我が望みを達成させるとしようか」
瞬間、周囲の気温が一気に下がった。リリアの足元の地面は霜が生えて歪に盛り上がり、彼女の周囲の空間にダイヤモンドダストと思わしき微細な輝きが舞い散り始める。
明らかに、今まで見て来たリリアと様子が違っている。雰囲気もさることながら、リリアを中心として、秩序が乱れるような不気味な気配が発散されている気がしてならない。それは、魔術の発動の際に引き出される異法則が生み出す、違和の波動である。
「創一、下がって! 今までのリリアと違う……たぶん、本気で来るわ! 出来るだけ遠くへ離れて……もしくはセーヌ結界の外まで逃げて!」
「いや……僕も闘う! 幻魔相手なら、僕でも繭羽の役に立てる筈だ!」
「馬鹿を言わないで! リリアはキマイラ型のような雑魚とは格が違う、魔術を使う幻魔よ! 創一の力では、魔術に勝てないわ!」
創一は言葉に詰まった。確かに、創一には神狩りと似たような特性が備わっているが、魔術を打ち消すは出来ていなかった。
しかし、創一は引き下がろうとしなかった。これ以上、繭羽に守られるだけの立場は嫌だったし、何より一刻も早くリリアを倒して、尽崩の影響を受けてしまった心陽達の安否を確認したかった。
「じゃあ、僕でも出来るようなことは何かないのか!? どんな些細なことだって構わないから!」
「……それなら、一つだけ創一にお願いするわ。このエデンの園のどこかに、外から持ち込んだエデンの園を象徴する物がある筈よ。それを見つけ出して、破壊して頂戴。異界招誕は界孔を固定する為に、その象徴物に界孔を重ね合わせて、異界の基軸とするわ。恐らく、あのメイド服の奴が象徴物を持っている筈よ。あのメイドなら、創一でもなんとかなると思う」
「分かった!」
創一は後ろに振り向いて駆け出したが、突然、右から地面を這う氷の波が素早く襲い掛かって来た。それは創一の前を通り過ぎると、瞬く間に垂直に氷が増大し、行く手を塞ぐ巨大な氷壁に成長した。高さは三メートルほどで、創一と繭羽を囲い込むように円を描いてそびえ立っている。
氷の壁は厚く、見るからに堅牢そうで、ツルハシのような工具を用いても、突貫するまでに数時間を要するように思えた。よじ登るにしても、その表面は滑らかで、手掛かりや足掛かりとなる出っ張りが少なすぎる。
これほどの規模の魔術を一瞬にして発動したことから、今まで氷柱の弾丸や氷槍の魔術を使っていたリリアが、いかに繭羽との戦闘で遊んでいたのかを実感した。先の言葉通り、リリアは本気で戦いに臨もうとしているのだ。
「おいおい、坊や。つまらないことをするでない。そこでゆっくりと小娘が倒されるところでも眺めておると良い」
リリアは瞳を妖しく煌かせながら、いつかの氷槍を手に携えて、せせら笑う。
「繭羽、あの黒い炎だ! それで氷の壁を溶かしてくれ!」
「分かっ――!」
繭羽が大太刀を振るって瞋恚の焔(しんいのほむら)を放とうとした刹那、リリアの投擲した氷槍が繭羽を襲った。繭羽は身をよじることで危うく氷槍を回避したところに、立て続けに二の槍、三の槍と打ち放たれる。繭羽は回避行動に専念させられ、創一に被害が及ばないよう瞋恚の焔を放つ余裕を与えられない。
「だから、つまらぬことをするなと言っておろうが!」
リリアが思い切り地面を踏み鳴らした。次の瞬間、繭羽の足元に水色に輝く奇怪な陣が描かれる。繭羽が反射的に飛び退いた直後、その陣から氷の剣山が大量に噴き出した。リリアが連続して地面を踏み鳴らし、次々と地面に氷の剣山を生み出す。
「坊やよ、考えは悪くないがな、よく考えてみよ。いくら小娘の刀が生み出す炎が氷を燃やし尽くすとはいえ、溶かされたところで新しく壁を築けば良いだけの話じゃよ。別に小娘に頼む分には構わぬが、その徒労の故に隙が生まれた所為で、小娘が串刺しになっても、関知せぬぞ?」
リリアの指摘が現実性を帯びているだけに、創一は押し黙るしか無かった。繭羽に迂闊に何かを頼もうものなら、その所為で繭羽が致命傷となる一撃を負いかねない。
「くくくっ、だから、そこで大人しく眺めておれと言ったのじゃよ!」
リリアが背後に大量の氷柱を創り出し、それを一斉に繭羽に向けて打ち放った。
繭羽は回避行動が間に合わないとみるや、瞋恚の焔(しんいのほむら)を滾(たぎ)らせた大太刀を高速で斬り払って黒焔を重ね打ちし、自分に直撃する軌道を跳ぶ氷柱を焼尽する壁とした。それはそのまま炎の波となってリリアに襲い掛かるも、瞬時に展開された氷壁に無効化されてしまう。
氷壁が溶け切る前にもリリアの猛攻は止まらず、繭羽の現在位置に当たりを付けて、地面から三つの氷の剣山を飛び出させる。
創一はその死闘を眺めながら、自分には本当に何も出来ないのかと歯噛みした。どうにかしてでも突破出来る手立ては見つからないかと、縋るような思いでそびえ立つ氷壁を観察する。
しかし、いくら観察しても、その氷壁には、よじ上れる要素は見当たらない。堅牢過ぎて、爪を立てることすら敵わないだろう。
「……くそっ!」
創一は自分の不甲斐なさに嫌気が差し、苛立ち紛れに眼前の氷壁を殴り付ける。岩壁に拳を殴り付けることに等しいので、間違いなく拳を痛めることになるだろうが、構わなかった。むしろ、その痛みによって、繭羽の助けになることの出来ない自分自身を罰したかった。
氷壁に直撃した拳は、予想通り、なんの損傷も与えることも出来ずに跳ね返される――ことは無かった。それどころか、薄氷を砕くように、拳が氷壁の中にズボリと陥没した。
創一はその思わぬ現象に驚いたが、驚愕の事態はそれだけに留まらない。創一が殴打した部分を起点として、氷壁に罅(ひび)が放射状に走ったのだ。蜘蛛の巣を描くように走った亀裂は、それが氷壁の頂上にまで達すると、堅牢な見た目が嘘のように、大量の小片となって砕け散った。
バラバラと地面に積もる氷の欠片を見詰めながら、創一は何が起きたのか理解に戸惑った。
繭羽の行った実験では、創一は魔術によって操作した水に触れても、その魔術を打ち消すことが出来なかった。そのことから、創一の特性には、魔術を無効化する力は含まれていない筈であった。
では、ただ拳を殴り付けただけで、どうして頑丈そうに見えた氷壁や容易く崩壊したのだろうか。
「なんじゃと!?」
背後で、氷壁が破壊されたことに驚愕したリリアの声が上がった。
創一は頭を振って疑念を払うと、リリアに氷壁を再構築される前に、足元の氷の欠片を踏み砕いて、氷壁の包囲網を突破した。
「繭羽、リリアを頼む!」
創一は繭羽の背に向かって叫ぶと、その返事も待たずに駆け出した。
創一は界孔の基軸たる象徴物を持っていると思わしきベルの居場所に心当たりは無かったが、今までリリアやキマイラ型の幻魔、ディヴォウラーと遭遇する中で、彼らが放つ独特の気配――秩序が狂う不気味な感じの気配を肌で覚えていた。
全身の感覚を澄ませて、秩序と適合しない不協和音を探る。
「……」
背後から凄まじい違和の塊を感じる。恐らく、それはリリアの放つ気配だろう。その他に……もう1つ巨大な違和の塊を感じる。リリアに比べて遥かに大きなそれは、恐らく界孔が発しているものに違いないだろう。
創一は自分の直感を信じると、巨大な違和を感じる方に向かって駆け出した。
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