第1部-境界の海-第2話

 七月。日毎に暑さが増してゆく中、少し気の早い蝉が賑やかな鳴き声を上げるキャンパス。その一角で、黒板を背にして学生に呼びかける草平の姿があった。

「日本では昔から日々の生活に妖怪たちが取り込まれていた。それは生活において禁忌事項になったり、民間療法や気象現象の理由づけになったり、その地域で生きる人々の価値観を形成する一端も担ったんだ」

 教室はかなりの人数の学生が席についている。講義のテーマは「近代と妖怪」。このタイトルだけで受講を決めた者も多い。

「それだけ生活に密接な関係になっていれば、文学の題材になるのも自然な流れで、昔から多くの妖怪が文学には登場する。上田秋成の『雨月物語』、広島の三次市に伝わる『稲生物怪録』。平安時代の草子などには京の都に妖怪が現れるくだりが頻繁に描かれている。このように、本来日本は妖怪が大好きな国だった」

 草平の語りが過去形だったことに学生たちが顔を上げる。

「それが激変するのは、やはり明治維新以降だ。日本の近代化や西洋化を図った人々は科学的な根拠のない言い伝えを排斥していった。その一方、文学では西洋の幽霊譚や妖精を扱うことがもてはやされた」

 学生たちの口から不満げな溜息が漏れ、草平も苦笑を浮かべる。

「この頃から、日本は欧米に対するコンプレックスを抱えていたということだね」

 そして、息を整えると唇を湿した。

「このように、日本の妖怪が姿を消していったのは政府の思惑によるものが大きい。だが、それだけが原因ではない」

 草平は教卓に手を突き、学生たちを見渡す。

「皆に聞いてみるけれど、あれだけ生活に密着していた妖怪が生活シーンに現れなくなった大きな要因は何か、わかるかな」

 草平の問いかけに学生たちが顔を見合わせ、首を傾げる。

「ヒントは、人間の世界に顔を出しづらくなった、ということかな」

「あっ」

 女子学生のひとりが声を上げる。

「吉岡さん、わかった?」

「電気、ですか?」

 女子学生の言葉に、皆が納得したように声を漏らす。

「そう。正しくはまだガス灯なんだけどね。『明かり』が夜の街に現れた。言うなれば、妖怪が住むべき夜の空間に太陽ができてしまった」

「それで妖怪がいなくなったのか……」

 男子学生がそう呟きながらノートに走り書きをする。

「ところが、ここに皮肉な事実がある。日本が目指した近代化の最先端に位置していたのが、当時の大英帝国だ」

 黒板に向かって、「日本」「大英帝国」と記す。

「イギリスは、近代の幕開けとも言える産業革命が始まった国だ。イギリスと言えば?」

「紅茶」

「違う」

 男子学生のボケに皆が笑う。

「まぁ確かに紅茶の国だけど、イギリスと言えば、何が大好きかな」

「幽霊!」

 何人かが声を上げ、草平は満足そうに微笑んだ。

「そう。あの国も昔から幽霊や妖精といった話が大好きなお国柄だ。産業革命で街から暗闇を奪ったはずなのに、今も変わらず幽霊が大好きだ。ほら、最近は魔法使いのお話も大ヒットしているね。日本は街から闇がなくなり、妖怪が姿を見せなくなったのに、だ」

 学生たちは顔をしかめ、不思議そうにノートへ走り書きをしてゆく。

「しかし、イギリスの幽霊譚にはある特徴がある。昔から幽霊が大好きな国ではあるけれど、語られる幽霊は王侯貴族が圧倒的に多い。王に殺されたお妃。王の不興を買った貴族。王位争いに脱落した者、などだ」

 学生たちは真顔になって草平の言葉に引き込まれている。

「そして、市民や農民たちが語り出す。今年の飢饉は殺されたお妃の呪いだ、とか。王の暗殺に失敗した青年が恨みを口にしながら現れるそうだ、とか。処刑された伯爵が王の夢に毎晩現れる、とか」

 教室はしんと静まり返り、先を待つ学生たちは期待に満ちた表情で講師を見守っている。

「やがて噂話は具体的な内容を帯びてくる。お妃が殺されたのは、王が別の女性に心を移したからだ。王の暗殺を企てた青年は、王の秘密を握っていた。処刑された伯爵は、王の不正を暴こうとしていた。そして、そういった話の最後はこう結ばれる。『……と、幽霊が言っていましたよ』と」

 瞬間、教室内が感嘆の呻きに満ちる。

「このように、イギリスの幽霊譚は民衆の不満を表すためにも利用されていたんだ。それが根底にあるため、産業革命を経て近代化が進んでも、幽霊が廃れることはない」

「すげぇ」

 前列で身を乗り出して耳を傾けていた男子学生が興奮気味に呟く。

「話を本題に戻そう」

 皆の反応に満足そうに頷きながら、草平は黒板に向かう。

「実はイギリスの幽霊譚に少し似た妖怪が日本にいる」

 そう言って黒板に大きく「件」と書く。

「これ、なんて読むかな」

「けん」

 皆がばらばらに呟く中、何人かが「くだん」と言う。

「そう。『くだん』。くだんという名前の妖怪がいるんだけど、この漢字、人偏に牛だね」

 草平は拳で黒板を軽く叩く。

「こいつ、体が牛で顔が人なんだ」

 途端に皆が手を叩いて笑い、誰かが「ミノタウロスかよ!」と声を上げる。草平も穏やかな表情でプリントを学生たちに配る。そこにあったのは江戸時代らしき瓦版のコピー。牛の体に、どこか間抜けな表情をした人の顔が乗せられている。

「これはひでぇ」

「やだ、ほんとに人の顔だぁ」

 皆が口々に囃し立てる中、草平は声を高める。

「これは江戸時代の瓦版で、件が遺した予言について書かれている」

 予言。学生たちのざわめきがどよめきに変わる。

「件は予言をする妖怪なんだ。この瓦版では、来年丹波の国は豊作となる、という予言が紹介されている」

 皆は興味深そうにプリントを覗き込む。

「このように、件による予言は瓦版によって流布された。また、件の絵を家に飾ると厄除けにもなるとされて重宝されたんだ」

 草平は瓦版のプリントを黒板に貼る。

「件の予言を伝える瓦版の多くは江戸時代から始まり、それは明治時代になっても続いた。そして、その内容は戦争の勝利や、終戦を願うものへと変わってゆく。内容が内容だけに、軍部は厳しく取り締まった」

 そこで口を閉ざし、皆の反応を確かめる。学生たちは神妙な顔つきで聞き入っている。

「ほら、さっきのイギリスの幽霊譚に似ているだろう。人々の願いが妖怪の口を借りて語られる。それを裏付けるものがある。件は牛から生まれる。生れ落ちてすぐに人の言葉で予言を語り、語り終えてすぐに死んでしまう」

 女子学生のひとりが顔を歪めて「可愛そうもつけねぇ」と呟く。

「すぐに死んでしまうということに意味があるんだ。例えば戦争中に、日本が負けるといった予言がなされたらどうする」

 教室内がざわめく。

「そんな噂が出た村には、すぐに当局の捜査が入るだろう」

「そうか、それで……」

「そう。生まれてすぐに死んでしまったといえば、後は知らぬ存ぜぬだ」

 皆が納得したように何度も頷く。

「日本もイギリスも、抗いがたい権力に対する不平不満を口にするために、幽霊や妖怪の口を借りたわけだ」

 草平はそこで一旦口を閉ざし、黒板に張り出した件の絵を見上げる。

「……こんな風に、形を変えても妖怪を生き長らえさせようとしている。日本人の心の奥に眠っている、妖怪を愛する性さががそうさせるのだろうね」

「先生」

 学生のひとりが手を上げる。

「近代化のせいで、妖怪は文学に取り込まれなくなったと考えていいんでしょうか」

「妖怪が生きにくい世界にした、とは言えるだろうね」

 草平は優しい表情で答えた。

「妖怪を取り上げる作家がいなくなったわけではない。宮沢賢治がそうだし、内田百閒もそうだ。柳田國男の『遠野物語』も素晴らしい文学作品といえるだろう。ただ、日本の近代化は確実に妖怪を生きづらい世界にした」

 そこで息をつき、ところで、と言葉を継ぐ。

「最後にもうひとつイギリスの話を。イギリスが生んだ、世界で最も有名な妖精と言えば誰かな」

「妖精?」

 学生たちが目を丸くする。

「金髪で、緑の服を着た」

「あ、はいはい!」

 女子学生が立ち上がって手を上げる。

「ティンカー・ベル!」

「そう。ピーター・パンのお話に出てくるティンカー・ベル。あの話の中では、人間が『妖精なんていない』と言うたびに妖精がひとりずつ消えていくとされている。これは、妖精や妖怪の存在を如実に表していると思うんだ」

 ノートを取る手を休め、学生たちは真顔で草平に注目する。

「人が妖精や妖怪の存在を忘れてしまうたびに、彼らはその数を減らしていくんだ。明治政府が西洋化を推し進め、古くからの言い伝えを否定し、文学にも取り上げられなくなった時代、妖怪は確実にその存在を消されかけていた。だけど、それに抗った作家たちもいた」

 そこで草平は腕時計を一瞥した。

「と、いうわけで、課題を出します」

 途端に皆が悲鳴を上げる。

「明治大正時代の妖怪を取り上げた作品をひとつ探して、その作家が近代化をどう感じていたかを五千字程度にまとめるよう」

 学生たちが脱力してぶつぶつと文句をこぼす様子に思わず笑う。

「これが終わったら夏休みだ。がんばりなさい」

 夏休みという響きに、学生たちも嬉しそうに顔をほころばせる。

「あと、気温も高くなってきたから皆体調には気を付けるんだぞ」

 と、ひとりの女子学生が声を上げる。

「そういう先生こそ、痩せたんじゃないですか?」

 皆が同意するように頷き、草平は少し困ったような笑いを見せた。

「暑くて食欲が落ちてね。歳だよ」

「先生! その問題は!」

 男子学生が立ち上がると身を乗り出す。

「奥さんもらったら一挙に解決ですよ!」

「はい、岡崎が余計なこと言ったから課題の文字数を一千字増やします」

 澄ましてそう宣言すると、途端に学生たちが一斉に岡崎を責め立てる。その様子に吹き出し、草平は手を叩いた。

「今のは冗談! ちゃんとやってくるんだよ」


 すべての講義を終え、大学を後にする。部屋へ帰ると途中で買ったビールと幕の内弁当をテーブルに並べるが、男が食べるにしてはボリュームが少ない。半ば倒れ込むようしてソファに体を預ける。そのまましばらく仰向いていたが、やがて首を傾け、ベランダに広がる夕空を眺める。紅く染まった雲。すでに蒼い帳が降りかけている。深い吐息をついたところで、おもむろに体を起こすとビールを開け、乾いた喉に流し込む。アルコールが体中に染み渡ってゆくのを感じながら、もう一度溜息を吐く。そして、あまり食欲をそそらない弁当を見やる。草平は普段自炊するのだが、今はその気力も食欲もなかった。その原因は、押入れにある。草平は首を巡らすと押入れを見つめる。もう一度ビールを呷ると腰を上げる。歩み寄った押入れの前で膝を突き、扉をゆっくり開く。

 扉が開かれると、鼻腔を磯の香りがくすぐる。薄暗い押入れの下段に、大きな金だらいが置かれていた。注がれているのは海水。底に敷き詰めてあるのは海砂だ。そして、その海砂の上に寒天質の塊が静かに浮かんでいる。塊の大きさは大玉の西瓜よりも大きい。寒天質は肉厚の膜だけで、中は液体で満たされている。草平は膜をそっと撫でてみた。すると膜は音もなく震え、底から魚が泳いでくる。いや、魚ではない。人魚だ。

 塊を持ち帰って二カ月。人魚は倍ほどの大きさに育った。頭部は大きくなり、腕もしっかりした。だが、胴体の魚の部分は以前よりも細く小さくなった。それでも、人魚は液体の中で優雅に泳いでいる。草平がもう一度膜を撫でると、人魚がそこまで泳いでくる。首をもたげてこちらを見上げるが、三日月型の瞼はまだ固く閉じたままだ。それでも、草平の手の動きや声には反応する。丸い額。ふっくらとした頬。小さいが明らかに人間の顔だ。その赤ん坊の下半身は魚。どう見ても、尋常ではない奇怪な光景。草平も、最初は長く直視できなかった。半人半魚の醜悪な生き物。だが、このような表現が妥当なのかわからないが、人魚は草平に「懐いて」いた。仕事から帰るとこうして押入れを開き、撫でてやる。そのことを人魚は覚え、喜んでいるようだった。人魚の姿を気持ち悪いと思う。だが、それとは裏腹に、早くこの手でその体を撫でたいと思う自分もいた。すると不意に、大学での講義が思い出された。

「人が妖精や妖怪の存在を忘れてしまうたびに、彼らはその数を減らしていく」

 草平はごくりと唾を呑みこんだ。妖あやかしはまだ存在する。こうして、目の前に。彼は溜め込んだ息を吐き出すと、目を閉じて顔を振った。しばらく人魚と無言の会話を交わした草平は押入れの扉を開いたままソファへ戻り、食事を始めた。

 実は、草平には人魚を育てる「手引書」があった。例の「若狭国妖拾遺集」だ。拾遺集には人魚の逸話がいくつか収められているが、そのうちのひとつに詳細な人魚の子育ての記述がある。


 江戸時代前期の話である。

 ある時、仰浜を訪れた侍が浜辺で人魚と出会った。人魚の妖しい美しさに魅了された侍は、人魚と一夜を共にする。しかし朝を迎え、我に返った侍は人魚の異形の姿に恐れをなし、そのまま仰浜を去ってゆく。一方、人魚は卵をひとつ産み落とす。卵を大事に育てる人魚だったが、それから間もなく仰浜は激しい嵐に見舞われ、卵を守ろうとした人魚は死んでしまう。仲間の人魚たちは不憫に思い、皆で卵を育てることにした。やがて生まれたのは人の姿をした娘。人魚たちは、娘は人として生きた方が幸せだと考え、仰浜の漁師に託すことにする。捨て子としてとある漁師夫婦の手に渡った娘は美しく成長してゆく。だがその評判は方々へ知れ渡り、やがて噂を聞きつけた父親である侍が仰浜にやってくる。いつか出逢った人魚に瓜二つの娘に驚愕した侍だったが、娘は人魚と違い、姿は完全に人。侍は娘を手籠めにしようと襲いかかるが、娘の成長をずっと見守ってきた人魚たちが侍を八つ裂きにして殺してしまう。自分が人魚と人の合いの子であると知った娘は髪を落とし、尼となって両親の菩提を弔ったという。その娘が余生を過ごした寺が、美晴寺だ。寺には、娘のものとされる墓も遺されている。


 数ある人魚の逸話の中でも、草平が最も心を揺さぶられたのがこの伝説である。人魚の情の厚さと残虐さが際立っている。そして、この逸話には人魚の子育て、特に「合いの子」の成長の過程が詳細に記されていることも異彩を放っていた。

 まず、合いの子は当初は頭と腕が人のそれであり、下半身が魚体である。日が経つにつれ、頭と腕は大きく成長してゆくが、魚体の部分は小さくなってゆく。やがて魚体の先端が二つに割れ、それが足へと変化してゆく。そのうち魚体は完全に足となり、やがて卵から生まれ出る。生まれるまでは、人と同じ十月十日とつきとおかだという。若狭国妖拾遺集にはその過程が実に詳しく描写されている。しかし、拾遺集では卵と記述されているが、どう見ても塊の中ですでに孵化している。恐らく胎生する生き物だろう。どちらにせよ、草平が持ち帰った寒天質の塊は、今のところ拾遺集での描写のままに成長している。

 記述に基づき、塊の「産床」には海水と海砂を使っている。草平は一週間に一度仰浜へ行き、新鮮な海水と海砂に取り替えていた。本当はもっと頻繁に替えてやりたかったが、自宅から仰浜へは車で往復四時間。週に一度が限度だ。草平の食欲が落ち、疲労しているのは暑さに加え、この仰浜への往復が原因だった。だが、不思議と煩わしさは感じない。ただ、育てていかなければいけないという気持ちが自然とあった。本当ならば、あの日塊を浜辺に残したまま背を向け、立ち去ってもよかったのだ。だが、塊が埋められていた松の枝に草平のシャツが掛けられていたことが、塊を持ち帰らせる理由になった。あの人魚は、きっと自分に育ててもらいたいのだろう。確証はない。だが、育てなければ。これが、「我が子」に対する責任感だろうか。彼はぼんやりと思いながら、食事を終えた。


 それから、半年後。年も押し迫った福井は白雪に覆われ、静かな時を刻んでいた。気温はひどくは下がらないが、雪が多い。雪が降りしきる雪道を、ひとり車を運転する草平。いや、ひとりではない。

 助手席の足許には、寒々しい白いほうろうのたらい。冷たい海水が揺れる中、はち切れんばかりに膨れた寒天質の塊が静かに眠りについている。真夏の太陽が照り付ける海岸で海水を汲むのも重労働だったが、凍てつく冬の海も骨身に堪えた。夏は海水の温度が高くなることに気を付けていたが、冬は逆に冷えすぎてしまう。最適の水温などはわからないままだが、中にいる人魚の反応で大体のことはわかる。いや、もう人魚とは呼べないかもしれない。

 寒天質の中で息づく人魚は、すでに魚体の部分を失っていた。今ではむちむちとした足を折り曲げ、大きな頭を抱えるようにして丸くなっている。だが、つま先から膝にかけては鱗の模様がまだはっきりと刻まれている。塊を持ち帰ってから八カ月。見た目には人の赤ん坊とほとんど変わらない姿恰好だ。いつ生まれてもおかしくない。

 人魚は体を丸め、一心不乱に眠り続けている。五カ月ほど経った頃から動きが緩慢になり、以前のように活発に泳ぎ回ることがなくなった。寒天質の塊いっぱいに育った人魚はどうやら女児のようだが、まだはっきりとはわからない。そして、草平は今になって人魚が「無事に」生まれてきた後のことを考え始めていた。足の鱗はどうなるのだろう。それに、時々手のひらを開くと水掻きも見える。これらは生まれてから消えていくのだろうか。若狭国妖拾遺集では、生まれた合いの子は完全な人間だったとされるが、所詮は伝説だ。当てにはならない。草平は窓の外の雪景色に目を向けた。生まれてくる子どもは、この寒々しい空の下に投げ出されるも同然だ。結婚や子育ての経験もない男の自分が育てていかなければならない。本当に自分の子どもかもわからないのに。だが、その点に関しては、子どもは確実に自分と人魚の子だという自覚を持っていた。

 これは、罪だろうか。

 ふと、そんな思いが脳裏をよぎる。異界の住人との間に子を為したことは、罪だろうか。そして、自分はその罪の子とどう生きてゆくのか。今更ながら揺れる心。それでも月は満ちてゆく。遠からず、人魚はこの世に生まれ出るのだ。

 ハンドルを握ったまま、助手席のたらいを見やる。何の憂いもなく安らかな眠りにつく人魚が揺れている。昔ながらの地味な金だらいから白いほうろうに替えたのは秋を迎える前。ほうろう引きの方がぬめりが付きにくいと聞いたからだ。それに、白い方が塊全体を視認しやすい。同時に、暗かった押し入れも明るくなった。人魚の性別がどうやら女児のようだとわかった時、何となくたらいを替えようと思い立った。輸入雑貨を扱う商店で買い求めたアンティークなデザインのたらい。この子・・・は、気に入ってくれただろうか。草平の口許にかすかな微笑が浮かぶ。本当は、まだ性別ははっきりしない。だが、もう名前は決めていた。


 それは、一月の寒い夜。満月に近い、大潮の晩だった。何の前触れもなく、眠っていたはずの草平はふと目を覚ました。カーテンの隙間から白々とした冷たい月光が降り注ぐ。その眩い光に思わず目を細め、体を起こす。カーテンを開けると、銀白色の月が鏡のように光を放っている。室内は海の底のような静寂に包まれていた。どうして目が覚めたのだろう。不思議に思いながら布団を被り直した時。

 ぴちゃり。

 水が滴る音が、やけに響いた。草平はぎくりとして体を起こした。視線はすぐに押し入れに向けられる。まだ人魚が活発に泳いでいた頃は塊が水面を揺らし、こんな風に水が跳ねる音がしていた。が、最近では滅多に聞かれない。胸の鼓動が少しずつ早まるのを感じながら布団を抜け出そうとすると、今度ははっきりと水が零れ落ちる音が響く。慌てて布団を跳ね上げ、大股に押し入れへ向かう。と、

「あっ!」

 思わず声を上げながら後ずさる。押し入れの扉の下から漏れ出した水が裸足を濡らす。一体何が。草平は薄暗がりの中、明かりもつけずに押し入れの扉を開け放った。

 と、押し入れから、磯の香りと冷たい水が砂と共に溢れ出す。草平の悲鳴に重なるように、ほうろうのたらいががらんと音を立てて転がる。

「ぎゃあ……! ぎゃあ……!」

 丸い塊が転がり出るとけたたましい産声を上げる。そして、釣り上げた魚が船底を叩くように、びたん、びたんと大きな音を立てる。

「あ……!」

 言葉を失い、尻餅を突く草平。見開いた瞳に、必死に産声を上げ続ける赤ん坊の姿が飛び込む。思わず頭を抱え、声にならない絶叫を上げる。

「ああ……、ああ……!」



 薄暗い天井。目に入ったのはそれだった。自分の悲鳴で目が覚めた草平は張り裂けそうな胸を押さえ、震える息を大きく吐き出した。夢か。あの時の記憶は、忘れた頃にこうして自分をぎょっとさせる。額から脂汗が伝い落ち、ごくりと唾を呑みこむ。そして、静かに息をついた時。ドアの向こうで人の気配を感じる。小さくドアを叩く音。

「父さん……?」

 か細い声。草平はのろのろと体を起こすと額の汗を拭った。

「……衣緒いお

 ドアが静かに開くと、小柄な人影が目に入る。廊下のぼんやりとした明かりを背に受け、顔は真っ暗で見えない。肩まで伸びた髪を掻き揚げ、少し身を乗り出す。

「大丈夫?」

「ああ……。起こしたな、すまん」

 草平はもう一度溜息を吐き出した。

「変な夢をみてね」

 娘がくすりと微笑む気配。

「おんなじだ」

「夢みたのか」

「うん。でも、大丈夫」

 穏やかで丸みを帯びた声色は胸に染み入った。草平も同じく微笑む。

「ごめんな。寝てくれ」

「うん。おやすみなさい」

 そう囁くと、衣緒は静かにドアを閉めた。

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