③花咲穂乃パート「みんな……今日はわざわざありがと……そして、ゴメン」

◇キャスト◆

花咲はなさき穂乃ほの

清水しみず夏蓮かれん

篠原しのはら柚月ゆづき

舞園まいぞのあずさ

中島なかじまえみ

泉田いずみだ涼子りょうこ

―――――――――――――――――――

 今から六年前の、笹浦総合公園ソフトボール場。

 湖付近の風車に見下ろされたグランドは、良質な赤土と緑の天然芝で面している。周辺を見渡せば、ランニングロードに連なる桜木を始め、木陰から青空へ羽ばたくヨシキリや、チューリップ畑を舞う蝶の神秘的な姿まで映り込む。一方で、近くには大きな総合体育館や市営プールも垣間見え、様々な利用者たちが足を運ぶ施設として有名だ。

 長閑のどかな自然と愉快な人間が共存する、一つの小さな世界。

 その一部に属するソフトボール場では、笹浦スターガールズと名乗る少女たちが、土日祝日と辛い練習を乗り越えていた。その日は全国へ繋がる県大会一週間前で、夕方の練習後にスターティングメンバーが発表され、解散の合図が鳴らされたところだ。


「はぁ~……」


 夕陽の帰り道を早速辿る者もいれば、学区違いの戦友たちと残って話し込む者もいる、グランド敷地内。しかし、ベンチに座りため息を溢した一人のオレンジリボン少女こそ鮮明で、地に伸ばした影に丸みを型どらせていた。


「どうしよ~……」

穂乃ほのちゃん? どうかしたの?」

夏蓮かれん……そのね……」


 当時小学五年生の清水しみず夏蓮かれんが寄り添った相手は、別学区だが同学年の花咲はなさき穂乃ほのだ。両手を顎に付けて肘を膝上に置きながら、悩む瞳を足下に落とす。


「来週、セカンドで先発はいいんだけど……最近全然ヒット打ててなくて……困ってるの」


 再び大きなため息が溢れ、夏蓮にも儚く見つめられた。

 夏蓮の祖父である監督――清水しみずしげるからは、穂乃は堅守の存在として評価されている。人一倍の守備範囲をつかさどり、どんな打球も丁寧且つ素早く処理できる逸材選手だ。共に二遊間を守るショートの主将――泉田いずみだ涼子りょうこからも頼りの的で、先発出場に関してはチームメイト皆納得している。

 しかし最近の練習では、快音を響かせていない右打席の成績だった。どうやら穂乃には、ミートと同時に右脇を開いてしまう癖でバット先端ヘッドが下がり、劣勢した飛球フライが多い。

 俊足を活かすソフトボールにおいて、フライは基本厳禁とされている。どんなに足が優れようとも、フライは捕球された時点で一死。また走者も動くことができないため、多くの選手は最低でも地に転がすよう低く強い打球を意識し臨んでいる。その延長線で直線的打球ライナーや長打を放っているのだ。


「打球を転がそうとしたら、スイングが不安定になるし。開き直って普通に振ったら、やっぱりフライだし。このままじゃ、チームの御荷物だよ……守備専門FPにしてもらった方が、まだマシな気がしてさ……」

「穂乃ちゃん、そこまで考え込んでたんだ……」


 いわゆるスランプの状態真っ直中だ。ついには夏蓮もこうべを垂らし、二人揃って赤土を見下ろす。両者一言も発しない静寂が拡がり、夕陽が逃げていく錯覚さえ感じていた。


――「かれ~ん!! 帰ろ~!!」

「あ、えみちゃんにみんな……」


 ふとバックネット裏で待つ、夏蓮と同小学校の四人――手を大々的に振る中島なかじまえみと、抱きつかれて困っている様子の泉田涼子、また背後に篠原しのはら柚月ゆづき舞園まいぞのあずさたちが、立ち止まった穂乃の元に近寄ってきた。計六人の小さな団体が、練習終了後に珍しく集まる。


「穂乃……何か、あったの?」

 まずは一つ歳上の主将らしく、涼子がそっと穂乃に問うと。


「も、もしかして初恋!? 穂乃もいよいよ乙女ですなぁ~」

 咲が訳のわからないことを告げ。


「じゃなくてっ! ……穂乃ちゃん、最近打てなくて悩んでるの……」

 夏蓮が共に悩ましく説明すれば。


「考え過ぎなんじゃない? バッティングなんて、来た球を打つだけのことでしょ」

 素っ気なく柚月が呟き。


「それは柚月がセンスの塊だからだろ? 全然説得力ない……」

 梓が呆れた横目を向けるが。


「あ~ら失礼ね。不器用の塊な舞園梓ちゃんには言われたくないでございますわ~」

「く、悔しい……これが事実なのがホントに悔しい……」

 と、結局ドS女王様が核心を突いて勝つ。


 五年生という学年で関東代表メンバーにも選ばれた柚月と、毎度いじられて屈する梓、そのやり取りを見て笑い合う夏蓮と咲や涼子の姿。五人とっては日課のような一行いっこうなのだろう。


『いいなぁ……楽しそう』


 ただ、穂乃にはとても眩しく窺え、長く眺めることができなかった。単純に羨ましかったのだ。自分と同学区の選手がいないばかり、余計に。

 五人の存在は、決して嫌いではない。むしろ大好きに値する戦友で、大切な存在に他ならない。しかし、見えない心の距離こそ顕在だった。親友と言えるほどの関わりなど、ソフトボール以外に何も浮かばない。


『……邪魔しちゃ悪いし、帰ろ』


 五人の愉快な雰囲気が目前で拡がる中、穂乃は一人帰宅を決める。頭で悩んだところで、能力は成長しない。また苦悩を共有するように夏蓮が黙り込んだときには、嬉しい反面申し訳無さも生まれた。今は明るく戻ってくれて幸いだが、正直話さなければ良かったとさえ思える。他者にはできるだけ迷惑を掛けたくないため、静かにエナメルバッグを左肩に乗せる。


『五人の楽しい時間を、壊したくない……それにこれは、わたし一人の問題……わたし自身で、どうにかしなきゃいけないんだ……』


 大切な存在だからこそ、五人には負担を共有させたくない。自分の問題は自分自身で解決しなければいけないと考えた末、穂乃だけが輪から外れたときだった。



「あのね穂乃ちゃん……これは、わたしの提案なんだけど……」



「え……?」

 夏蓮の静かな声が、穂乃の狭まった背に送られた。自分と似て内気な彼女なのだが、何かを思いつき明るんだ表情が、夕陽でより鮮やかに浮かんでいた。


「穂乃ちゃんなら、できると思ってさ……」


 控え選手の清水夏蓮が考え出した提案――それは、レギュラー選手の花咲穂乃にとって、重大で重要な分岐点ターニングポイントと化する。



「――右バッターから左バッターに、変えてみたらどうかな?」



 確かにソフトボールでは、夏蓮の告げた左打者の方が有利とされる。右打席よりも一塁までの距離が縮まるため、内野安打の可能性が高まるからだ。セーフティーバントのみに限らず、打席内で走りながら打つスラップ打法など、戦術の選択肢まで大きく広がるが。


「えっ! いきなりそんなの、ムリだって……」


 唐突過ぎるだけでなく、あまりにも無謀な提案に聞こえてならなかった。大会までは残り一週間と、練習時間の高が知れているというのに。

 また穂乃が住む場所は、夏蓮たちと異なる学区外。スターガールズ内には近所の者が存在せず、本番までは平日の孤独な自主練習でしか磨けない。


「いくらなんでも、間に合わないよ……」


 短期間で打席を変えることなど、極めて不可能と思える。かえって追い込まれた穂乃は、再び諦めの俯きを放とうとした。しかし次の瞬間、下がる両手が夏蓮の手に包まれ、自分よりも一回り小さい少女の笑顔を見せられる。



「みんなといっしょなら、大丈夫だよっ! 早速、左バッターの練習してみようよ!」



「夏蓮……」

 まるで自身のための練習だと言わんばかりに、夏蓮の瞳は前向きに煌めいていた。自ずと吸い込まれてしまうような、優しい灯火と似ていた。

 もちろん穂乃だけでなく、周囲の戦友たちまで引き込まれていく。


「んじゃ、うちらも穂乃の練習、手伝うよ」

「涼子ちゃんがやるならアタシもやる~!!」

「涼子先輩……咲」


 先陣を切った涼子に咲が続くと、誰よりも練習量が多いはずのAZUKIアズキコンビまで声を交える。


「はぁ~。居残り練習とか、マジダルシストなんですけどー。早く帰ってシャワー浴びたいのにー」

「とか言って、もうミットめてるくせに……ウチらも協力するよ、穂乃」

「柚月……梓」


 絆の波紋に誘い込まれ、五人揃って練習に付き合ってくれるそうだ。梓がバッティング投手で、柚月が捕手。守備ではセンターに涼子、咲はレフトへ、そして夏蓮がライトへと散らばり、全体練習後の居残りバッティング練習が始まろうとしていた。


「穂乃ちゃ~ん!! ガンバれェェ!!」

「う、うん……」


 遠いポジションから高音を鳴らした夏蓮、アイドルのようなウィンクを見せた涼子、そんな先輩の真似を下手ながら行う咲、そして投球練習を終えた柚月と梓に微笑みで迎えられながら、穂乃はヘルメットを被ってバットを握る。言われたがままに左打席に入り、練習がスタートするが。



『やっぱり……バットに当たらない』



 日没寸前となった時点でさえ、穂乃のバットには白球がほとんど当たらなかった。元々右打者だったため見辛く、ミットの捕球音が何度も鳴らされた。時折打球を飛ばすこともできたが、当てるだけで精いっぱいのため快音とは程遠い。外野の三人に弱いゴロばかりが向かい、時には失速して内野で止まってしまうこともあった。

 途中で右打席に戻ってもみたが、結果は依然としてフライが多く、変化の兆しも感じられない。最早もはや脇の開きは癖となっているようで、意識しても直らず仕舞いだ。

 何をしても、結果に結び付かなかった。


『ダメだ……ダメなんだ』


 ついに日が沈み、穂乃の表情まで暗く落ち込み、結局報われないままの練習終了に至ってしまう。我ながら情けなく、自身の力量に失望していた。


「みんな……今日はわざわざありがと……そして、ゴメン」


 最後には、時間を割いて付き合ってくれた五人へ、穂乃は深々と頭を下げた。感謝の念こそ先に出したが、それ以上に謝罪の気持ちが胸を占める。最後まで期待に応えられない弱さに駆られ、あえて伏せた顔に深い皺と雫が浮かび上がっていた。


『わたしは、何をしてもダメなんだ……』


 一寸先も、どこまでも、闇が拡がっていたが。



「でも、スイングの軌道は左の方が良かったよ?」



「――っ! か、夏蓮……」

 思わず潤目のまま顔を上げた穂乃に、外灯無しの夜でも見える夏蓮の笑顔が向けられた。諦めかけた心を、穏和に支えるように。


「ヘッドは毎回上がってたし、ちゃんと転がせてたもん」

「でも、打球に勢いが無いし……」

「勢いは、これから付けていけばいいんだよ。今は、転がすことだけ集中してみよ! 穂乃ちゃんならきっと、スゴい左バッターになるから!」

「う、うん……」


 夏蓮の激励には、涼子たち四人も頷き認めていた。

 穂乃自身も応答はしたが、正直半信半疑である。現時点では空振りの方が多大で、打球を転がすこともままならない。基礎からの練習が求められ、時間は想像以上に掛かりそうだ。


「で、できるだけ、ガンバってみる……」

「うんっ! 応援してるよ穂乃ちゃん!」


 立派な左打者になれるかどうかの不安を抱いたまま、その日を終えた。

 次の日の月曜日は、普段通り登校し、いつも通り下校した。何も変わらない平日の午後四時に帰宅し、穂乃は二階の自室に入る。本日の宿題を済ませようと早速机に向かい、算数ドリルとノートを開いた。新たに入った体積の単元はどうも苦手で、悪戦苦闘の勉強時間がしばらく流れる。


――ピーンポーン!


 ちょうどドリルを終えた午後の五時頃。家内にインターホンが鳴り響く。誰かが訪れたようだが、玄関に向かったのは母で、一方の穂乃は部屋から出なかった。遊ぶ約束は誰ともしていないければ、この時間に来る相手も思い浮かばない。恐らくは母の知り合いだろうと決めつけ、椅子の背凭れに寄りかかるときだった。



――「あの、穂乃ちゃんってもう帰ってますか?」



『えっ! その声……』

 扉越しから僅かに聞こえた声に反応し、穂乃は飛び上がるように部屋を出た。しゃべり方と声質から訪問者を察することができたが、やはり驚きを隠せぬまま階段を降りて目にする。


「か、夏蓮……どうして」

「あ、穂乃ちゃん! わぁ~穂乃ちゃんの私服かわいい!」


 訪問者は紛れもなく、学区外の清水夏蓮だった。遠い地区に住まう彼女と平日に会うのは、実のところ今日が初めてだ。細い脚を見せるショートパンツと半袖ゆったりブラウスの私服姿も、確かに初御披露目である。

 しかし、どうして彼女が自宅に、しかもジャージ姿で汗模様まで浮かべて現れたのか、不思議で仕方なかった。昨日は何も言っていなかっただけに、眉間に皺を寄せて尋ねると。



「良かったら、昨日の練習の続きしない? 時間もあまりないけど、二人でできることをやろうよ?」



「そ、そのために、わざわざうちに来たの?」

「うん。だってわたし、穂乃ちゃんの力になりたいから」

「夏蓮……」

 胸奥に刺さる何かが、落ち着いた言葉に含まれていた。どうやって訪れたのかなど決して言わない、小さな控え少女の口からだ。


「……うん。お願い、夏蓮!」


 その日の練習は、近場のボール使用可能公園で行うことにした。内容は至って簡単で、穂乃がバットを持たず左打席に立ち、横から夏蓮がトス。打撃動作には欠かせない腰のひねりも加えながら、ボールを左素手で掴む練習――トスバッティングならぬ、トスキャッチングだ。まだ慣れぬ左打者の動体視力を鍛える、基本的且つ安全な練習法である。


「いいよ穂乃ちゃん、その調子だよ」

「うん。これなら、大丈夫みたい」


 腰の回転と同時に上手く掌握しょうあくできている。今回は夏蓮にも良い姿を見せられ、安堵の意味を込めたため息を出した。


「今日はありがと、夏蓮。帰りは、お母さんに頼んで送ってくよ」

「わぁ~ありがと!」


 日没を迎えた練習終了後、穂乃は笑顔を型どって公園を去ることができた。母の運転と夏蓮のナビによって、未だ行ったことがない清水家も無事辿り着く。しかし、家中真っ暗な様子からは誰もいないことがわかり、車を出た後に思わず立ち竦んでしまう。


「おじいちゃん、夜遅くまで仕事だからさ。先生って、忙しいみたいで……」

「夏蓮……ほ、ホントに、今日はありがと!」


 つい真剣な表情で、一人の少女に別れを告げると。


「うん。それじゃあ、また明日ね、穂乃ちゃん」

「うん。また、あし、た……って、えっ! また明日!?」


 思わぬ返信に、穂乃は驚愕を顕にしてしまう。どうやら夏蓮との練習は、今後も続くらしい。ただでさえ遠方に住む彼女だというのに、嫌な顔一つ見せなかった。



『そこまでしなくていいのに……だって夏蓮ん、家から車で十分以上掛かったんだよ? お金も持ってなさそうだったから……そうに違いない』



 上手くはなりたいが、誰かに迷惑までは掛けたくなかった。徒歩という、多大な労力を課していたことに気付いてしまったがために。

 しかし、穂乃の内に秘めた思いは無論叶わず、次の日も夏蓮が自宅に来訪してしまう。近場の公園で、再び左打者練習に臨むこととなった。

 今回からはいよいよ、実際にバットを握って行うトスバッティング練習。横からトスされた球から目を離さず、目前のネットに打ち込むことで、ミート力を上げる一種のメニューである。


「スゴ~い穂乃ちゃん! ほとんど当てられてる! フォームも力強くなってるし、バッチリだよ!」

「あ、ありがと」


 夏蓮の褒めて伸ばすスタイルには、穂乃も自ずと頬が上がる。真芯に当てられる回数は少ないが、気付いた頃には、空振りが無くなっていた。身体も慣れてきたのだろうか、二日前と比べてバットが振りやすく、スイングスピードも増した実感を覚える。


『スゴい……一昨日のわたしが、わたしじゃなかったみたい……』


 三日目の水曜日も、次の木曜日も、そして大会前日の金曜日も、夏蓮と練習を約束した。水曜日からは、申し訳無さのあまり穂乃が夏蓮の自宅に向かうことを決め、大会前日となった今日も母に近くまで送ってもらう。グローブとスパイクをしまったエナメルバッグ、そしてバットケースも肩に掛けて、清水家を探しているときだった。


「あ~穂乃だァァ!! 穂乃~こっちこっち~!!」

「咲……え? みんなもいるの!?」


 てっきり二人きりの練習だと思い込んでいたのだが、夏蓮の家前には、咲を含む他の少女たちも来ていた。梓と柚月に涼子と揃い、見慣れたジャージ姿で待っていたらしい。


「ヤッホー穂乃。うちも来ちゃった」

「涼子先輩まで……」

「さ、穂乃も無事に辿り着いたところで、移動しよ!」

「行こう穂乃ちゃん!」

「う、うん……」


 咲に相変わらず抱きつかれた涼子が先頭を歩むと、夏蓮と穂乃が続き、梓と柚月が最後尾となって、六人で移動を始めた。


「ゴメンね穂乃ちゃん。勝手にみんなも誘っちゃってさ」

「え……いや別に……みんな、忙しくないの……?」

ウチらも大会前で調整したかったし、問題ない」

「投手がこうもできないだと、捕手のあたしも付き合わなきゃいけないからねー。ジー……」

「……わ、悪かったね」

「おやおや、いつもの夫婦ゲンカですな~! 涼子ちゃんも、アタシといっしょにやろうよ!! アタシが妹役で、涼子ちゃんがお姉ちゃん役ね!」

「“ちゃん”じゃなくて“先輩”。アンタ直す気ないでしょ? てかそれ、夫婦ゲンカじゃなくて姉妹ゲンカだから」

「わぁ~い! 涼子ちゃんとの姉妹ゲンカ楽しい!」

「……うちの話、一ミリも聴いてないわね?」

「フフ! 咲ちゃんったら~」

「……」


 新鮮で摩訶不思議で、まるで知らない大都会に来てしまったような錯覚が走る。夏蓮たち五人に囲まれながら進む穂乃は、誰よりも黙る時間が長かった。愉快な雰囲気に溶け込むことができず、足下ばかりを見つめ続ける。


『できるのかな、わたし……大会前日に、みんなの前で、打てるかな……?』


 妙な緊張感を抱きながらの、練習開始。

 日曜の居残り練習同様のフリーバッティングを行うことになったが。


――バシィィッ!!


 梓が放ったストレートが、左打席の穂乃を再び空振りさせる。決して難しくはない直球ど真ん中で、以前よりからはバットに当てられている。が、打球の結果は弱い凡打ばかりで、依然として空を切る回数が多い。


「……ダメだ」

「チッ。あのさぁ! アンタはバッティングピッチャーなんだから、穂乃を打ち取ろうとしてどうすんのよ? もう少し気を遣いなさいってばぁ!」


 背後に座る捕手の柚月が、眉を潜める梓を叱った。


「いや、別にそんなつもりじゃ……加減が難しくて」

「はぁ……悪いわねぇ、穂乃。あれでも真面目にやってるみたいでさ……」


 柚月から捕手マスク越しの苦笑いを見せられたが、穂乃は首を左右に振り、最後には足元のホームベースに目を落とす。


「打てないわたしが、悪いんだよ……」


 落ち込んだ暗い発言は、傍にいる戦友の表情まで曇らせる。やはり打てないという諦めの猫背を、夕陽で延びる影にまで映して。


『わたしは……やっぱりダメなんだよ……ゴメン、みんな』


 仲間の想う未来を、体現することができない。

 己の無力さを直に理解し、穂乃の胸には罪悪感が押し寄せていた。夏蓮を始め、柚月や梓に咲、そして歳上の涼子までが貴重な時間を割き、学区外の自分に協力してくれている。誰一人として、嫌な顔一瞬も溢さないまま。

 しかし、それも時間の問題だろう。結果をなかなか出せない自分にいづれ呆れ、労力が無駄だったと嫌気を与えるに違いない。


『みんなには、迷惑ばかり懸けてる……わたしなんか、いない方がいいのかも……』


 終いには、弱き自己を否定し始めた穂乃。見つめるホームベースは蜃気楼の如くにじみ、握るバットの先端を地に落としてしまう。

 そのときだった。



――「穂乃ちゃ~ん!! 次はきっと大丈夫だよ~!!」



 ハッと目覚めたかのように、穂乃は歪みかけたおもてを上げる。声が聴こえたライト方向に自然と目を遣ると、そこにはもちろん、小さな全身をめいいっぱい伸ばして応援し、無邪気な笑顔をも放つ少女がいた。


「か、夏蓮……」

「自信持って~!! 穂乃ちゃんならできるから~!!」


 日没前の上空は、オレンジと蒼が相反して存在し、もうじき夜の訪れをしらせている。一日の終わりは地上にも近づく中だが、そんな自然の流れが止まりかけた気がした。花咲穂乃と似て、弱気と内気を抱える、清水夏蓮の透き通る声援によって。

 一寸先の闇を照らす、一里先の光。

 その明々めいめいたる輝きは、次第に打者の視界に映る全域へと伝承される。


「穂乃~!! 明日はいっしょに、ヒット打とうね~!!」

「涼子先輩……」

 センター正面から頼れる微笑みで叫ぶ、主将の涼子。


「穂乃~元気出して~!! ファイトファイトファイト~!!」

「咲……」

 大好きな先輩に繋がるようにレフトで轟いた、前のめりな咲。


「穂乃! ウチなら何千何万って投げれるから、気にしないで!」

「梓……」

 打席で最も見えるピッチャーズサークルにて親指を立てた、まだまだ余力を残す梓。


 応援する皆から、背中をそっと押される――そんな感覚がして不思議だった。正面且つ離れているというのに、夕陽よりも暖かなぬくもりさえ感じて立ち竦む。


「ウフフ……やっぱ夏蓮って、いつまで経っても補欠だなぁ~」

「柚月……どうして?」


 すると、唯一穂乃の背後にいた柚月が、不意にほくそ笑む。投手の梓へ返球したは良いが、捕手としてなかなか座らなかった。

 柚月が何に対して笑いを堪えているのか正直わからず、不思議なあまり見つめる。するとようやく目が合い、夕陽に照らされた微笑みのまま紡がれる。



「周りの選手を助けるだけじゃなく、成長までさせちゃうからよ。自分の練習も後回しにして、ね」



「――っ! ……確かに」

 思い当たるふしがいくつも浮かんだ穂乃は焦点を変え、ライトで未だ応援する夏蓮を目に映した。

 もちろん、夏蓮も同じく笹浦スターガールズの一員である。穂乃が入団したときには既に在籍し、多大な練習時間を共にした仲だ。しかし一方で、公式戦で出場した姿はほとんど見たことがない、万年控え選手の一人でもある。常にベンチをポジションとするように、レギュラー選手のサポートを欠かさず行っていた。それは練習中も変わらず、ボール拾いやグランド作りまで率先する姿こそ印象的だ。



『今、このときみたいに……今、このわたしに……』



「自分のことになると、すぐビビって何もできない……でも、仲間のためなら、人が変わったように直向きになる……」

「柚月……」

 背後にいた柚月が空かさず、穂乃の横で語る。


「ああいうが一人でもいるとね、レギュラーのあたしは、“ガンバらなきゃ”って思えるの。かゆいだ痛いだとか、言ってられないのよ……」

「柚月、やっぱり腰……」


 ふと後ろ腰に手を当てた柚月だが、再び捕手として着席し、オレンジリボンを靡かせる穂乃の背に声を添える。


「自分の活躍よりも、仲間の活躍を優先して、いっしょに喜ぶ。誰よりも孤独の悲しみを知ってる……そんな夏蓮が、あたしは好き。咲も梓も涼子先輩も、あたしと同じ気持ちだから、断らずココに来てるんだと思うわ」


 今こうして皆が練習に付き合ってくれているのも、誘ってくれた夏蓮が発端となったからだ。


「きっとあたしたちは、あのに支えられて、結ばれて、ソフトボールやれてるのよ……」


 ベンチで一人悩んでいた穂乃に気づいたのも、紛れもなく夏蓮である。仲間意識が誰よりも高いからこそできる偉業のおかげで、今この瞬間に繋がった。

 みんなといっしょなら、大丈夫。

 そんな絆の呪文を唱えて、結び付けてくれたのだ。


「フフ。伊達だてに、“ヒモ夏蓮”って呼ばれてるだけあるわよね」

「……な、なにその渾名あだな? 悪口みたいだし、柚月しか呼んでないと思うよ?」

「あらそう? あたしは愛情を込めて呼んでるつもりなんだけどー?」

「……ウフフ。やっぱ、柚月ってドSだよね」

「よく言われるわ」


 練習を開始してから、穂乃は初めて頬を緩ませた。得意気に笑う柚月の発言を聞いただけでなく、清水夏蓮の存在に嬉しさが込み上げたからだ。自分自身と性格が似ている、生まれつき内気で弱気な少女から。



『夏蓮がわたしを……成長させようとしてくれてる』



「さぁ穂乃。もっと自信持ってバット振りなさい。当てるだけで終わらず、振り抜くことも忘れずにね」

「……うんっ!」

 マスクを被って構えた柚月の応援を最後に、穂乃はバットと眉を立て、凛とした表情で構える。応援をめない仲間たち、そして誰よりも協力してくれた夏蓮の期待に応えようと、もう謝罪の心言葉こころことばを呟かなかった。


『ダメなら、ダメなりにやらなきゃ! “ダメなんだ”で、終わらせちゃダメなんだよっ!』


 弱気な顔色が失せた穂乃の立ち姿は柚月も確認し、すぐに赤いキャッチャーミットを構える。準備を整えた梓も投球動作に移り、いよいよフリーバッティング練習が再開。


――コーン……。


 積極的なスイングで立ち向かうと、梓のストレートにバットを当てられた。しかし、打球に力がなかなか伝わらず、貧弱な打ち損じが続く。


『まだだ! まだまだ諦めないッ!!』


 今まで見せなかった全力で立ち向かう強気な姿勢で、投球ごとにバットを振り抜いていく。すると打球が徐々に活き始め、かろうじて外野まで届くよう変化していた。プレーヤーにおいて求められる、必須事項に気付くと共に。



『それは、能力と闘志! 能力は、練習量で決まる。だったら闘志は……』



 疲れを見せない梓から再び白球を投じられ、柚月のキャッチャーミットに向かうストレート。球速の衰えは全く観察されなかったが、穂乃が最短距離で出したバットに衝突しようとしていた。バット先端に属する、真芯の部分に。



『――自分自身の覚悟で、決まるんだァァ!!』


――カキィィィィン!!



 聞き慣れない快音が、グランド中へ響き渡る。当たった感触さえ覚えない無抵抗で、軽々と振り抜くこともできた。

 気になる穂乃の打球――弾道が低く飛距離こそ短かったが、ライトとセンターの間をバウンドして引き裂く、直線的打球ライナーとして弾かれた。芝生に勢いを吸収されることなく躍進やくしんし、気づいた頃には奥のランニングロードで転がる。

 敷地外に止まった打球は、すぐに夏蓮が追って処理された。すると、遠くからでも窺える満面な笑みが掲げられ、左打席内の穂乃にまで送られる。



「――穂乃ちゃ~ん!! ナイスバッティングだよ~!!」



 夏蓮の言う通り、穂乃の打球はヒット――して長打と成り得る猛打だった。他のメンバーたち四人も皆納得した様子で、拍手も送るセンターの涼子、隣で先輩の真似をするレフトの咲、また投手の梓に捕手の柚月にまで、ナイスバッティングの褒め言葉を手向けられた。


『打てた……わたし、みんなの前で、打てたんだ』


 新たなる左打席という立ち位置で、穂乃は隅々までの景色を目に焼き付ける。

 見慣れない光景ばかりが連なっていた。

 全体練習ではないこの日に、チームの仲間たちと練習し励んでいる。それも決して近所ではない、他学校に通う同世代の少女たちに囲まれながら。


『ありがと、みんなッ……』


 不意に口元が微動してしまい、声を放つ余裕がなかった。次第に瞳の雫も溜まり始めた穂乃は心で呟くことにし、まずは目の前の梓へ、次に咲と涼子へ、一度背後を振り向いて柚月へと、一人一人に感謝を想う。当初は感じていた、見えない心の距離も忘れて。

 もちろん最後には、一番忘れてはいけない控え選手へ、堪えきれなかった涙を笑顔と共に放つ。



『――ありがと、夏蓮!』



 次の日は予定通り、全国大会へと繋がる県大会が開催。数々の親御や関係者が脚を運び、期待と緊張が局地的に集まる試合が織り成された。

 二番セカンドで先発出場した穂乃は、相変わらずの華麗な堅守で、チームをピンチから何度も救う勇姿を残した。飛び付くファインプレーも飛び出し、多くのヒットを一死に塗り替える。

 しかし、打撃においても光沢こうたくを見せた。

 公式戦初の左打席では、振り抜いて強く引っ張り、また逆方向への流し打ちと、多岐に渡る打球を見せる。外野まで運べなくても、俊足を生かした内野安打も成立させ、“送る二番”ではなく“打てる二番”のイメージを根付かせた。

 そして、笹浦スターガールズが全国大会出場を決めた決勝戦。

 結果は、二対零。

 舞園梓の圧巻的投球で完封勝利だ。その一方で、二点を勝ち取った打者も忘れてはいけない。一点目は、四番捕手の篠原柚月によるソロ本塁打。九番ファーストの中島咲と一番ショートの泉田涼子がチャンスメイクを果たし、そして穂乃のセンター前タイムリーヒットで二点目。

 みんなといっしょに、攻守双方で貢献できたのだ。

 大会終了後に集合写真を撮った、笹浦スターガールズの選手たち。全国大会への切符を手に入れた影響で、清水夏蓮を含める誰もがとても嬉しそうに歓喜し写る。ただ一人穂乃だけが、輝く涙を浮かべた姿も捉えられて。



『かけがえのない恩恵があったから……梓に柚月、咲に涼子先輩、そして夏蓮……みんなのおかげで、スターガールズのキャプテンにまでなれた……そして、筑海主将候補今のわたしがココにいるんだ』



 淡い思い出は、高校二年生になった現在にまで明確に残っていた。



――「ストライクツー!!」

「――っ!」

 六年前と同じソフトボール場で行う、笹浦二高と筑海高校の練習試合――ツーアウト満塁の最終回。

 現時点で八対九と、筑海高校が一点追う場面だが、左打席の穂乃は未だにバットを振っていなかった。


『どうしよ……』


 迎え撃つ相手投手は、見事復帰してくれた舞園梓。

 一方背後には、投手を前向きに鼓舞し続ける中島咲。

 また一塁ベンチを窺えば、レギュラーと変わらず応援する篠原柚月と泉田涼子。

 そして、ライトからは清水夏蓮の後押しがよく聞こえ、追い込まれた穂乃は一度打席から外れる。


『ココでわたしが打てなかったら……笹二が勝って、筑海が負ける……』


 左打席からよく見える三塁ベンチを覗けば、監督の宇都木うつぎ歌鋭子かえこからのサインは無し。

 必死に声を送る錦戸にしきど嶺里みのり呉沼くれぬま葦枝よしえからは必死の声援。

 また現在二塁走者の梟崎ふくろうざき雪菜せつなからも熱視線を飛ばされていた。


『ココでわたしが打てれば……筑海が勝って、笹二が負ける……』


 勝負として当たり前な過程だ。が、穂乃の胸中には迷える心が誕生しつつあった。笹浦スターガールズキャプテンと筑海ソフト部主将という、相反する立場を経験したがために。


『わたしが打ったら、夏蓮たちみんなが悲しむ……でも、わたしが打たなかったら、筑海のみんなが残念がる……』


 決断できぬ心は更なる渦に飲み込まれ、穂乃は左打席入場に強張りを放ち始める。

 カウントは、ワンボールツーストライク。一打逆転勝利のチャンスの中、立ち直った梓の全力ストレートが、いよいよ構えた穂乃のストライクゾーンへ投じられる。球速はやはり凄まじく、並の選手では当てることさえ困難な直球だ。

 対する穂乃の結果は……。



――「ファール!!」



 バットを振り抜いた穂乃の打球は芯に当たるも、三塁方向のファールゾーンへ転がった。無論走者も動かず、カウントも変わらない。

 改めて返球された梓はセットに入り、再度の投球動作へ移っていく。躍動感が足されたステップや左腕の回転、やがてブラッシングを効かすことで全力ストレートを放つが。



――「ファール!!」



「また、か……」

「……」

 同じ結果に至った打球を、梓は目で追い汗を拭う。ところが、一方の穂乃は俯いたまま見向きもせず、苦悩の白歯を噛み締める。



『わからないよ……どうすれば正解なのか……』



 三振に追い込まれながらも、粘り強い打撃姿を続けた。しかし、彼女がいくつも飛ばすファールは、決して打てなかった訳ではない。

 打なかったのだ。

 故意にファールゾーンへ飛ばし、自ら試合時間を延長させていた。自身の理想とする試合結果が見出みいだせず、一人の少女としての迷いに駆られながら。


 六年前に多大なる恩恵を受け取った、愛する元チームメイトのために演じるべきか。

 高校生になって共に努力し励み合う、愛ある現チームメイトのために応えるべきか。


 もはや敵対心など、梓が登板してから失せていた穂乃。当時の過去を一人勝手に再生してしまったが故に、覚悟が決まらなかった。



『――わたしは……わたしはどうすれば、いいの……?』



 サイドポニー少女が結ぶ、オレンジ色のリボン。突如舞い込んだ春風によって、本日最も揺らいでいた。

―――――――――――――――――――

   一 二 三 四 五 六 七 計

笹二|1|0|2|0|2|0|4|9|

筑海|0|0|0|1|0|4|3|8|


ランナー満塁

 B●○○

 S●●

 O●●


次回、決着ッ!!

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