②牛島唯→篠原柚月パート「梓は……その、かわいそうなの」

◇キャスト◆


牛島うしじまゆい

篠原しのはら柚月ゆづき

清水しみず夏蓮かれん

田村たむら信次しんじ

中島なかじまえみ

月島つきしま叶恵かなえ

星川ほしかわ美鈴みすず

植本うえもときらら

Mayメイ・C・Alphardアルファード

東條とうじょうすみれ

菱川ひしかわりん

―――――――――――――――――――

 放課後の午後四時。

 数々の生徒たちは部活動の元へ、 または帰宅する者と別れ、本日も苦しい勉学から解放された安堵あんどの空気が広まっていた。近き未来に社会へおもむく、学生諸君の忍耐をつちかう修行こそ勉学である。“好きこそ物の上手なれ”なのだが、嫌悪することも決して間違いではない。ただ、修行の放棄までしてはいけないのだ。嫌でもつとめ、己自身を強く成長させていく目的意識の過程に、知識よりも努力の精神を学ぶことができるのだから。

 そんな陽の色がだいだいへ換わる頃、新生笹浦二高女子ソフトボール部員たちはジャージ姿で、体育館倉庫前に集合していた。共に一台の白い軽トラックも停車し、一人スーツ姿の田村たむら信次しんじも加わり、倉庫の中からグローブ、バット、ボールが入った籠を黙々と荷台に積んでいる。

 本日より、校外のソフトボール場――笹浦総合公園で練習することが決まったため、どうやら信次は荷物を運ぶための車を、清水しみずしげる学校長から拝借してきたようだ。


「なんだ……お前運転できたのかよ?」


 すると、重いボールケースを載せた牛島うしじまゆいは、エンジンをかけた信次を睨みながら呟いた。以前に親友の植本うえもときららと、大切な後輩である星川ほしかわ美鈴みすずと共に自宅まで送ってもらったことがあるが、あのときは残念ながら徒歩だった。


「大丈夫!! 免許はあるよ……ほら!」


 唯は疑うばかり細目を向けていたが、ふと信次から免許証を提示させられる。そこには確かに彼自身の名前と住所、そして顔写真が写っていたが。


「くっ……だっせぇ顔……」


 思わず吹いてしまった唯が見た写真には、現在よりも少しふっくらとした、相変わらずの童顔な信次の幼き写真だった。見た目からは三十路みそじに近い男とは見えず、もはや高校生にも窺えてならないほど初々ういういしい。


「えぇ!? よく撮れてるはずだぞ!」

「どこがだよ~? これじゃあ年確ねんかくの役にも立たねぇっつうの~」

「偽造なんかしてないって!!」


 何度も自身の免許証を見直す信次の前で、唯はお腹を抱えるまでに笑っていた。さすがは公認の童顔新米先生だと、威厳も風格も感じない担任がおかしくて仕方ない。


「ハッハハ~!」

 ――「あの、あたし前から気になってたんですけど……」

東條とうじょう……?」


 すると唯は笑みを残したまま、荷台の用具を見つめる一年生――東條とうじょうすみれに目をる。どうも笹二ソフト部に入ってから気になっていることがあるらしく、彼女の親友である菱川ひしかわりんに寄り添われながら、体育館倉庫から持ってきたグローブを一つ取り出し始める。



「ソフトボールの用具って、グローブとボールにバット。それ以外に、何かあるんですか?」



「そう言われれば、確かに……」

 それは、同じく未経験者の唯も答えられない設問だった。今日まではジャージ姿で、必要最低限の用具を借りながら活動してきたが、果たして他にも必要不可欠な道具はあるのだろうか。



 ――「あったりまえよッ!! まだまだたくさんあるんだからァ!!」



 そこで菫に怒号で返したのは、現在部の先頭を立つようにしきる二年生――月島つきしま叶恵かなえだ。いつもイライラを放つ彼女らしい反応の仕方だが。


「てかアンタ! それも知らずに入部はいった訳ェ!?」

「き、聞いただけなのに……」

「化け物の……」


 あまりの強い言葉に顔を引きつった菫には凛も、叶恵には聞こえない大きさで呟き、った背中を静かに支えていた。

 菫の質問がまったくの素人的発言だと叶恵は思ったようだが、唯も気になる現実ではあるため、耳だけでなく身も向けて説明を吸収する。


「い~い? ソフトボールにはグローブ、ボール、バット以外にもた~っくさん用具があるのよ。スパイクや帽子、ユニフォームだってそうよ!! ねぇ篠原しのはら!?」


 叶恵は側で観察していたマネージャー――篠原しのはら柚月ゆづきにも話を振り撒きうなずかせる。


「確かにね。他には、スライディングのときに足を怪我しないためのサポーター。捕球のときに、手を痛めないための守備用手袋の“シュビテ”。それに打撃用手袋の“バッテ”もある。打撃のときだったら、ヘルメットだって必要よね。それから用具の保存のために、オイルやブラシだって必需品なの」


 柚月の詳細な説明には、叶恵も相づちを打ち続けていた。対して菫は、

「結構たくさんあるんですねぇ」

 と、眉のハの字を浮かべながら言葉を漏らし、続けて凛も、

「お金も掛かりそう……」

 と、荷台の用具たちを恐る恐る覗いていた。


「まあ、ある程度の負担は軽減できるようにするけど、やっぱりいつまでも体育倉庫頼みは、辛いよね~」


 困り顔の柚月も両腰に手を置きながら目を置いていたが、事実、現段階のソフト部は体育倉庫の用具を借りている。石灰がこびれ着いたグローブは、磨かれていなくカサカサの状態。ボールも縫い目がほとんどなく、投げる際にはすべってしまう。バットだってあっちこっちへこんだ物ばかりで、決して良い環境とは言えないだろう。

 唯も荷台のグローブを一つ手に取ると、続けてきららと美鈴も、それぞれボールとバットを窺う。


「いつかは、自分用のグローブとか、オレは欲しいな~。汚ねぇのばっかじゃ、なんかシラケるし……」

「ボールも全部ツルツルで、正直投げづらいっす……」

「きららも嫌にゃあ~。バットだって、もっとド派手でかわいいやつ欲しいにゃあよ~」


 贅沢な不満否めないが、素直な意見だった。

 いつかは個人的に所有したいと願った唯は、お気に入りの黒いグローブを握り絞めながら、柚月と叶恵、清水しみず夏蓮かれん中島なかじまえみMayメイ・C・Alphardアルファードにも顔向けする。


「お前ら経験者っていいよなぁ。自分用のグローブが元からあるんだしよ……。ちなみにさ、グローブの金額って、どのくらいすんの?」


 唯は経験者の四人にそれぞれ目配せすると、まずは夏蓮が、自身の右利き用茶色グローブを抱きながら答える。


わたしのグローブは、確か五千円くらいかな……。小学生のときから使ってるやつだから小さいし。みんなと比べたら、ずっと安いほうだよ」

「ご、五千で安い、のか……」


 確かに夏蓮のグローブは少年少女用の小さなグローブだが、金額を知った唯は思わず固唾を飲み込んで黙視してしまう。五千円もあれば、どれだけプリクラを撮ることができるだろうかと考えながら。

 夏蓮の次には咲が、荷台に積まれた右利き黄土色のファーストミットを指差しながら発表する。


「アタシのは一万と少しだね。アタシも小学校のときから使ってるやつだけど、大きくて好きだったから、無理して買っちゃったんだよね!!」

「い、いちペラ……」

「ねぇ? そういえば、柚月のキャッチャーミットは?」


 唯の表情は強張っていくばかりだが、咲の間髪入れぬ振りに柚月も、右利き用の赤色キャッチャーミットを見ながらおおやけにする。


「あ、これは確か~……三つ目だから、一万六千円だったかなぁ……」

「三つ目……。その値段のやつを、他に二つも隠し持ってるのか……」


 もはや寒気すら覚えてきた唯は、ついに沈黙を迎えようとしていたときだった。



 ――「フフフ……アンタたちも、まだまだ甘いわね……」



 すると叶恵の不敵な笑みが夏蓮と柚月と咲たちに向かい、仁王立ちで堂々と臨んでいた。


「フフッ。アタシのは左利きの外野用。しか~し! これを見てみなさい!!」


 叶恵は自信満々に叫ぶと、黒光りするまで整ったグローブを、夏蓮たち三人に見せつける。唯も後方からマジマジと覗いてみるが、未経験者でもわかるほど照り輝いていた。


「うわぁ~……すごくきれい……」

「へぇ~。月島さんはちゃんと手入れしてるのね」

「美味しそ~!!」

「食えるかァ~!! もう~どこ見てんのよ!? 中身よ中身! 中身を見てみなさい!!」


 夏蓮と柚月の後に、咲のまさかな発言に叫び返した叶恵は、三人の視線をグローブの中身へ送らせる。するとグローブの中身には、金の刺繍しんしゅうで文字が刻まれており、“希望”と達筆の太字で煌めいていた。


「うわっ! 刺繍までしてあるよ~!!」

「へぇ~。オーダーメイドって訳ねぇ~」

「ま、まれ……えっと~……」

希望きぼうよッ!! キボオォォオ゛!! なんで難しい方の読み方だけ知ってんのよ!? てかアンタ希望も読めないの!? もう一回小学生からやり直した方がいいんじゃないの!?」


 エヘヘと苦笑う咲を、叶恵は強く睨み苛立っていた。歯軋りまであらわにしていたが、一方で聞いていた唯は、柚月が告げた“オーダーメイド”という言葉に首を傾げていた。グローブでいうオーダーメイドとは、一体どのような意味があるのか、と。



 ――「How wonderful!! 叶恵ちゃん先輩のグローブも、order madeナノデスネ!!」



 不思議がる唯のそばには、高まる気持ちで金髪ツインテールを靡かせるメイが現れた。ただでさえ綺麗なサファイアの瞳も、キラキラと星の数が増している。


「お、オーダーメイドって、なに?」

「order made!! 見た目や形を、自分の思うままに作られたもので、店頭にはない唯一無二のgloveデス。要するに、自分専用のために存在した、世界に一つだけのgloveデスネ!! number oneよりonly oneということナノデス!!」

「……スポーツって、ナンバーワン目指すもんなんじゃねぇの……」


 高鳴るばかりの小さなメイに、唯は呆れて見下ろしてしまう。しかし、喜ばしいサファイアの瞳には叶恵の目も交差したことで、

「その通り!!」

 と頷き、あるのか無いのか、もしや凹んでいるのか見当が着かない胸を張っていた。


「……で、お前のその、オーダーメイドって、いくらなんだ……?」

「まぁ~、だいたい三万ってとこかしらねぇ~」

「さ、さんペラ~!?」


 思わず叫んでしまった唯は、ついに凍りついた。たった一つの道具に、三万円もの多額な費用が掛かるとは。要はこのグローブ一つに、母子家庭である牛島家の家賃一ヶ月分が込められているのだと、徐々に恐怖の念まで誕生していた。



『マジ、か~……。あんなの、オレにはぜってぇ買えねぇよ……。もしかして、ソフトボールの道具って他も高かったりすんの~……?』



 安くても夏蓮の五千円からのスタートだった。ましてや子ども用の。それに用具はグローブだけに留まらず、ボールにバット、他にも柚月が説明した多種も存在する。

 全てを集めたとして、そのときの合計金額はどの値を示すのだろうか?

 無論、考えたくもないホラー的未来だった。もしかしたら、とんでもない部に入ってしまったのかもしれないと思えるほどに。



『入ったは良いけど、これから先、オレはやっていけんのか……?』



 これから本格化していく笹二ソフト部を、続けていけるのだろうか?

 母子家庭となった今は正直言って、裕福な生活など送れていない。毎月の水道光熱費を懸念しながら過ごす日々で、質素に身を捧げている。もちろんゲームセンターにも行かなくなった。母親がパート労働で何とか生活できてる現状で、そんな余裕など無いのだから。

 不安でついに声も出せなくなった唯には、叶恵から得意気な笑い声を受けることになる。


「それが真の自分専用っていう意味よ。まぁ、オーダーメイドまでするのは、きっとアタシぐらいしか……」

「……Me too!! ワタクシもですよ!! 叶恵ちゃん先輩!!」


 しかし、叶恵の言葉尻を被せたメイが最後に、自身の青い右利き内野用グローブを指差す。するとグローブの親指部分には、赤色の刺繍で『May☆C☆Alphard』と、なめらかな筆記体で記されていた。


「そ、そう……。てか叶恵ちゃん先輩って、なに気安く“ちゃん”付けで呼んでんのよ!?」

「It's priceless!! もっとうとしとなすデスカラ!」

「は、はぁ?」

「ちなみにワタクシのgloveは、ママに買ってもらった思い出の一品ナノデス!!」


 ことわざを繰り出されたことで叶恵は勢いを失ったが、メイは、唯だけでなく部員全員から注目されながら、青色オーダーメイドの金額を世にさらす。



「――確か三百ドルだったノデ、yenにすると、だいたい三万五千yenデスネ!!」



「さ、三万五千……」

 メイのグローブの値段を聞いた叶恵は、自身より上の値段を聞いたためか、ポツンと押し黙ってしまう。心の中で猛吹雪が巻き起こっているかのように、立ち固まっていた。

 メイに対する驚きは、経験者の夏蓮を始め柚月や咲、彼女と同級生の菫と凛も反応していた。が、その一方で唯と美鈴ときららの三人は、得意気から沈黙した叶恵を見ていたため、口から溢れそうな笑いを手で押さえていた。


「へへ。アイツ、あんな偉そうに言ってたのに、負けてやんの」

「しかも年下に負けたっす」

「バッタモンにゃあ」

「だ、ドゥアァ~レのがバッタモンじゃアア゛ァァ~~!!」


 やはり叶恵の耳には届いてしまったようで、唯たち三人は怒涛どとうむき出し少女に追いかけられてしまう。


「へへッ! だって事実じゃんかよ~!」

「元はと言えば、アンタがグローブの金額なんか聞いたからでしょうがァ~!!」


 きららと美鈴と共に逃走する唯の背中には、叶恵の怒鳴り声が何度もぶつかる。なかなか辛辣しんらつな言葉でののしられ、彼女の怒りは計り知れないほどの有頂天に達しているようだ。

 しかし、唯は楽しかった。

 だからこそ、笑顔のまま逃げ続けてしまった。きららと美鈴と、揃っていっしょに。

 グローブの金額を聞いたときは、正直驚いた。いつかは購入するであろうソフトボール用具が、想像を超えた高級品だと知ったのだ。

 しかし、今はその不安も頭から遠く離れていた。


 なぜなら、楽しかったからだ。


 きららと美鈴以外に、親友とまではいかないが、相手にしてくれる仲間が増えた気がしたのだから。

 しょうもないやり取りかもしれない。どうでもいいと言われても仕方ないお遊びだ。しかし、そこに光を見出だした唯は笑顔で駆けながら、ふと心で呟く。



『――ゴメン、御袋おふくろ。家のこと考えたら迷惑だってわかっけど、オレはやっぱ、ソフト部続けたい!』



 親友のきららと、大切な後輩の美鈴が、そばにいてくれるから。また、愉快な時間を送らせてくれる、おもしろい仲間がいるのだから。

 真っ直ぐに続けたいと思える、金銭面よりも大切な物を見つけてしまったから。

 その後、唯たち三人衆と叶恵の追跡劇は長く続き、笹浦総合公園への出発時刻が遅れてしまった。



 ◇みんなのキャプテン――栄光の扉、開くとき◆



 荷物を積んでから二十分後。

 笹二ソフト部員たちはようやく練習場所への移動が始まった。夏蓮たち選手に関しては、叶恵を先頭にランニングで向かっている。

 その一方でマネージャーの柚月は、医師から運動を控えるよう告げられているため、軽トラックの助手席で発車を待っていた。乗り込んだ際にはきららから、

「ニャア゛~ユズポンめぇ~! きららの信次くんに何かしたら、絶対に許さないからにゃあ!!」

 と、恋乙女の嫉妬しっとを正面からぶつけられたが、ただでさえ男と呼ばれる生き物が嫌いなのだ。ドSの性格で何かするかもしれないが、恋のみちへ発進することは未来永劫えいごうあり得ない。


「ヨシッ!! じゃあボクたちも出発しよう!」


 部員みんなが走って消えた頃、信次が得意の笑顔で運転席に登場した。柚月と同時にシートベルトを着け、早速アクセルを踏み始めるが。


「……あれ? おかしいなぁ……」

「どうしたのよ? まさか故障?」

「いや~そんなことはないはず、なんだけど~……」


 車のエンジン音が高鳴るが、一ミリも進まなかった。

 心配の気持ちが増す柚月は眉間のしわを浮かべながら、辺りをキョロキョロと見回す信次を見つめていた。しかし、ハッと気づいたように原因を探し当てたようで、再び満面の笑みで紡がれる。


「ゴメンゴメン!! ブレーキ解除してなかったっけ!」

「え……」


 信次が柚月との間にあるチェンジレバーを“P”から“D”の位置に替えると、車はやっと動き始めた。どうやらブレーキの存在を忘れていたらしい。運転免許を持っているにも関わらず。


「ほら、何てことない!! さぁ出発だぁ!」

「ねぇ神様、どうか交通事故だけは……」


 窓越しからオレンジになりかけの空を仰ぎながら、柚月は両手を合わせて願掛けした。


 二人が乗った軽トラックはゆっくりと校門から出て、目的地へ繋がる大通りに進入する。

 頬杖を付いた柚月は、普段から見慣れた窓の景色を眺めるばかりで、車内は一時の沈黙を迎えていた。春の夕焼けが訪れる空は晴れ渡っているが、窓に反射した顔色は真逆であることがいなめない。


「……こうやって、篠原と二人きりになるのは始めてだね」


 すると信次は慣れていない様子のハンドル操作で呟き、柚月の表情を更に曇らせる。


「あのさ~、変なこと言わないでくれる? また植本さんに疑われるでしょ? とにかく今は、運転に集中しなさいよ」

「か、かしこまりました!」


 前のめりで運転する信次の姿まで窓に浮かび、柚月は大きなため息を吹きつける。


『でも、先生が言ったことは間違いないかな。あたしはいつも、夏蓮といっしょにいた訳だし……』


 緩やかに流れる景観を観察しながら、柚月はそう脳裏で語ってた。思い返せば、担任になった信次との一対一の会話は、今の今まで無かった。いつも夏蓮が間にいた気がし、言わば架け橋的な役割を果たしていたように感じる。

 先生と初めて出会ったときも、運動不可の自分が入部したときも、また後に入部してきた仲間たちと向かい合うときも、親友はそばにいてくれた。



『あの、シャイでドジな夏蓮が、か……フフッ』



「……ありがとね、篠原」

「え?」

 夏蓮を思い出し笑みを溢す最中さなか、再び信次から受けた言葉の意味がわからず、柚月はすぐに聞き返して振り向く。依然として変わらぬ前のめりの姿勢だったが、新たに穏やかな横顔が観察された。


「篠原がみんなに指導してくれるから、みんな少しずつ上手くなっている気がするんだ。だから顧問として、ボクは篠原に感謝してるよ。ありがと」

「な、なによ? いきなり……気色ワル~」


 柚月は苦笑いも浮かべられずそっぽを向き、元の外観観察に戻ってしまう。しかし笹二ソフト部の練習では、主に叶恵がチームを引っ張っている中、要所要所でみんなにアドバイスを送っているのは、マネージャーの篠原柚月自身だ。ボールの投げ方や捕り方、バッティングの正しいスイングや細かいポイントまで。経験者として培った豊富な経験と知識を、部内の誰よりも駆使している。少し鋭利に富んだ指摘も、多々加わることがあるが。


「こんな頼もしいマネージャーはいないよ。少なくとも、素人顧問のボクは大助かりだ!」


 そんな柚月のおかげで部員のみんなは上手くなっていると、常に練習を見ている信次は感じていたようだ。


「あ、あたしは、あたしが正しいと思ったことを言ってるだけよ……」

「ハハハ! ……そういえば、話が変わるんだけどさ……」


 すると赤信号で停止したと同時に、柚月は窓に映る信次から目を向けられる。



「最近の舞園まいぞのは、元気かな?」



「――っ! ……どうして、あずさのことを……?」

 突如信次の口から出た親友――舞園まいぞのあずさの名に反応したが、柚月はすぐに目を足元に送り、一人うつむいてしまう。正直言えば、あまり彼女のことを話したくなかったからだ。ケンカしてる訳ではないが、内心的事情を知る一人として。


「最近の舞園ってさ、常にひとりでいることが多いからね。ちょっと心配してる、一人の生徒なんだ」


 信次は相変わらずのにこやかさを保ちながら、目の前の信号を待ちわび続けていた。柚月の視界からは外れた、止まれを意味する赤信号を。


「舞園が、今どう思っているのか。お節介かもしれないけど、担任としてほおっておけなくてさ」

「梓は……その、かわいそうなの」

「か、かわいそう?」


 迷いの間を空けた柚月はジャージの膝をギュッと握り締めながら、内股うちまたの脚に目を落としながら紡ぐ。



「――梓にはね、トラウマがあるの……」



「トラ、ウマ……?」

 信次の微笑みが消え去った瞬間を、下を向く柚月は声のトーンから察した。梓の話をすれば、嫌な空気が舞い込むことなど既知きちだったが、頷いて六年前の真実を改めて打ち明ける。



「……小学五年生のとき、梓は相手バッターにデッドボールを与えちゃったの。それも、頭に。ヘルメットが割れるほどの、全力ストレートで……。それがきっかけで、投げられなくなっちゃって……辞めちゃったの……」



「そうか……。舞園に、そんなことがあったんだね……」

 暗いままで顔を上げられない柚月に、信次も車と似た重低音で返していた。

 こうして信次に話すことは初めてだ。梓に関係する六年前の事故など、柚月は部員にだって教えたことがない。他に知ってる者を挙げるとすれば、当時同じチームだった夏蓮と咲の二人だけのはずだ。


――梓が、投球恐怖症であることを。


 担任であり顧問でもある信次には、いつかは話す機会が訪れると予想していたが、やはり後の息苦しさが胸中に残る。辛すぎて、涙腺も緩みやしない。ここまで眺めてきた景色にも見向きせず、柚月の背はシートベルトに抵抗するように丸まっていた。



「でもボクは、舞園は復活してくれると思うよ?」



「え……。ど、どうして……?」

 希望めいた台詞を放った素人顧問に目を移すと、柚月には、陽が射す前方を向く信次の横顔が覗けた。まばゆい太陽を直視したように、残像まで残りそうな、煌めきを放つ微笑みを浮かべながら。

 なぜ信次がそんな事が言えるのか、不思議でならなかった。彼だって梓の過去など詳しく知らないはずなのに。

 しかし、柚月にとって担任であり顧問である信次には、すでに心に秘めた想いを見透かされていたようだ。



「――大切な親友たちが、待ってくれているから。部を立ち上げた清水に、転部まで決意した中島が、待ってくれている。試合ができなくても入部した篠原だって、その内の一人でしょ?」



「――っ!」

 柚月が息を飲まされてから数秒後、やっと信号が青へと換わり、軽トラックが再発進する。ウィンカーを出す行動までぎこちなさが見受けられるが、確かに目的地には向かっていた。


『あれ……? いつからだろ? 梓を待つようになった、あたしって……』


 道中には小学生たちの楽しげな下校姿も映る中で、ふける柚月は、部が創設してからの期間を思い出しながら、心の自問自答を始めた。



“「――わたしたち四人で、もう一度ソフトボール、できないかなぁ?」”



 夏蓮がそう呟いた当初では、梓の復帰など無理だと考えていた。あり得ないと怒鳴ったくらいだ。親友として無責任だと罵声を挙げたことだって、つい最近である。


『そっか……。咲がソフト部に来てからだ。あたしが、梓まで待つようになったのは』


 元チームメイトと言える部員は、発起人ほっきにんの夏蓮だけになるだろうと思っていた。新たに加わる仲間たちと共に過ごせればいいと、我ながら納得していた。が、九人目に咲が入部したことで、笹浦スターガールズ同級生が再結集する、希望の未来が垣間見えた瞬間を覚えている。

 だからこそ今では、最初とはまったく逆の立場にいるのかもしれない。投球恐怖症になってしまった梓を、大好きな先輩の泉田いずみだ涼子りょうこと離れる覚悟までした咲と、再び四人でやりたいと初めに告げた夏蓮と共に、復活を願いながら復帰を待っている。



『――そっか……。あたしも、また四人でソフトボール、やりたくなっちゃってるんだね……』



 ドクターストップを掛けられている身なのに、嫌な現実を無視した感情論だ。しかし同時に、それが率直な気持ちであることに間違いなかった。なぜなら、心抱く人は元より、感情で行動してきた生き物なのだから。

 いつしか自分は変わっていたのだと気づいた柚月は、窓に反射された自分自身に向けて、呆れて笑い吹いてしまった。親友の夏蓮に怒鳴り付けたほど諦めてた自分が、何とも弱々しく思えたために。


「……ねぇ、先生?」

「ん?」

あたしの方こそ、ありがと。笹二ソフト部の顧問、引き受けてくれて」


 最初は夏蓮の一言から始まり、後に嘆願した彼女の勇気を、信次が見捨てなかったからこそ今があるのだ。嫌いな男だとはいえ、感謝を申し上げるのが乙女の義理だろう。


「篠原……」

「だから、これからもよろしくね、せ~んせい」

「……うん! 任せなさい!!」

「それと、先生?」

「ん!?」

「もう少し、速度上げた方がいいんじゃない?」

「ホェ……?」


 笑顔な柚月は、軽トラックのドアに設置されたバックミラーを見ながら告げた。なぜならバックミラーには、背後に車が何台も並び、信次の車を先頭に渋滞が発生していたからだ。しかし、六十キロ制限の大通りを三十キロ未満のスピードで走行していたため、無理もない後ろ景色だった。

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