2話
英陵高校の夏休みの課題はそれなりに多いと思う。
とは言っても、各教科ドリル一冊やプリント集一束に読書感想文といったくらいなので、そこまででもないか。
有名な進学校に行った友人から聞かされた量の方が遥かに多かった。
一学期過ごしただけだが、英陵の校風と言うか通っている女の子達の性格的に、夏休みの宿題が終わっていないなんてありえないだろうな。
気を引き締めて頑張らないと大恥をかく事になるかもしれない。
一般の生徒ならまだしも生徒役員がやらかしてしまうと、生徒会の先輩達の恥にもなるんじゃないだろうか。
そう思えば俺の責任は重大である。
まあ、元々宿題はちゃんとやって学校に行く人間だったから、大した負担ではないんだが。
もうほとんど終わりだし。
順調に今日のノルマを片付けたので、肩をほぐしながら台所に降りていく。
当たり前だが誰もいない。
両親は仕事だし、千香も宿題をやっているんだろう。
冷蔵庫から冷えたお茶をとり出して喉を潤すと、再び自分の部屋へと戻った。
そろそろバイトの時間なのである。
結局俺が選んだのは有名ハンバーガーチェーンだ。
ウィングコーヒーとの二択でこちらを選んだのは、相羽の顔が頭をよぎったというのが大きい。
うん、同級生の親が持っている会社で働くというのは何とも言えない恥ずかしさがあった。
金持ちのお嬢様に対して見栄を張るなんて馬鹿馬鹿しいとは分かっているんだけどな。
ハンバーガーチェーンだって本体は有名大企業なので、もしかすると英陵に関係者がいるかもしれない。
だが、少なくとも俺の知り合いにはいなかった。
知り合いがいないというのは気楽である。
単に俺が知らない可能性だってあるとは分かっているが、そういう事まで気にしていたらバイトできないからな。
店から支給された制服を鞄に入れると、千香の部屋の前に行く。
「バイトに行ってくる」
「はーい」
ドアの前で声をかけるとすぐに返事があった。
あいつの事だから真面目に勉強しているんだろうな。
邪魔をするのは本意じゃないし、時間もない。
さっさと行こう。
ハンバーガーチェーン店は家から徒歩で十分ほど歩いたところにある、スーパーの中の一画にある。
そういう立地だからか、それとも店舗作りの影響だからか、子供連れの客が多いらしい。
家の外に出ると蒸し暑い空気に出迎えられた。
嫌になるくらい太陽が照りつけていて、蝉達の大合唱が頭に鳴り響く。
少しくらい遠慮してくれ、などと割と本気で思えるレベルだな。
風が吹いてくれたらマシになるのかもしれないけど、今のところ涼気を運んでくるつもりはないらしい。
人間にとってどころか、地上で生きているもの全てに対して優しくないのではないだろうか。
暑いほど元気になる生き物は例外だろうけど。
心の中でうだうだ文句を言いながらスーパーへと入ると、空気がひんやりとしたものに変わる。
うーむ、これは生きかえる。
そんな急に汗が引いたりするはずもないんだが、気持ちの方は一気に回復できた気がした。
エアコンの風に長時間当たると体に悪いなんて言うけど、そうも言っていられないのが現実だと思う。
目当ての店舗は一階入り口のすぐ右にある。
従業員専用の出入り口があるものだと思い込んでいたのだが、実はこの店舗にはないらしい。
だから早番の人と遅番の人は、スーパーの関係者用出入り口から出入りしないといけないそうだ。
多分俺には関係のない話だけど、交代を頼まれる可能性がないとは言えないしなあ。
今日が初出勤なので明るく元気のいい挨拶を心がける。
迎えてくれたのは店長の男性と女性スタッフ二名だ。
二人とも三十代のパートのおばさんなのが、ちょっと残念に思う。
なんて考えたら失礼かもしれない。
でも、せっかく一緒に働くんだから、若くて可愛い女の子の方が……なんて気もするのだ。
シフト次第では若い女の子もいるようだけどね。
スタッフの控室で着替えてさっそく業務を開始する。
俺がやるのは調理で、ハンバーガーを作ったりポテトを揚げたりだ。
あれ? 研修は?
疑問に思ったけど、忙しそうにしている人達を手を止めるのは悪い気がする。
何よりもお客さんを待たせたら問題だな。
とりあえず俺は様々な疑問を頭の片隅に封印し、店長の指示を実行できるように必死に頑張った。
「ふう……」
業務を終えてスーパーから出た時、俺は思わずため息をついていた。
昼飯を食べた後から入ったのに、ろくに休む暇がないなんて思いもしなかったな。
あそこ、流行っているんだなぁ。
だからこそ、未経験な俺でもそれなりの時給で雇ってもらえたんだろうか。
……うん、今日の晩ご飯の事でも考えよう。
五時間も立ちっぱなしで働いていたからか、腹の虫の自己主張が激しい。
今日一日で四千円以上稼いだ計算になるんだよな。
ただ、女の子達への手土産に換算すると、せいぜい二回分程度である。
これじゃ海に遊びに行く資金を確保したとは言えないだろう。
明日からも頑張らないとなあ。
本当はもう少し実入りがいい仕事もあったんだが、何となくうさんくさかったので避けたのだ。
それとも二学期になってからもバイトを続けるのもアリか?
一学期は新しい生活に慣れる事に専念したかったし、学校側の許可も取ったし。
やらない理由はないな。
家に帰ると「お兄ちゃん?」と千香が上から声をかけてきた。
「何だよ?」
珍しかったのですぐに返答すると、妹は階段を下りてきた。
そしてやはり普段はなかなか見せない神妙そうな顔で爆弾を投げてくる。
「おかえり。デジーレって人から連絡があったよ」
「えっ? マジで?」
俺は慌てて携帯をズボンのポケットから取り出して確認してみたが、着信履歴もメールも届いてはいない。
あれ、教えたはずなのに。
そう思ったのは一瞬だった。
やはり貴族のお嬢様、それも年頃の女の子が、同世代の男の携帯に連絡を入れるというのには憚りがあったんだろう。
あるいは避けた方が理由でも生まれたのかな?
いずれにせよ、家の方の電話番号も伝えておいたのは正解だったようだ。
「うん、二学期の事で相談があるって」
「分かった、連絡してみるよ」
俺が答えると千香は「任務完了」とつぶやいて台所に向かう。
あいつめ、先にご飯を食べる気か。
ここまで待っていてくれたんなら、もう少し待っていてくれよとは思う。
しかしまあ、待たせていたのは俺の方だけに、強くは言えないな。
さっそく電話してみよう。
……この場合、やはりデジーレの携帯じゃなくて、家の方に連絡をした方がいいんだろうか。
しばし迷った末、家の方に電話をかけてみる事にした。
二度目のコールの後、渋い男性の声が応じる。
名乗ってデジーレの同級生であると告げ、本人への取次ぎを頼んだ。
もしかすると断られるかもしれないと懸念したが、あっさりと受諾される。
……あれ、デジーレって例の女性と二人暮らしじゃなかったのか?
それとも夏休みだけに執事の人とかも来ているのかな。
さほど待たされる事なく、デジーレが電話に出た。
「もしもし、ヤス?」
清涼感のある女性ヴォイスが耳朶をくすぐる。
「ああ、デジーレ。妹から聞いたんだけど、連絡をくれたんだって?」
「ええ。二学期に体育会などがあるとお話したでしょう? その件でヤスに知らせておいた方がよさそうな点がいくつかあるのです」
実にありがたい。
こういうフォローがあるからこそ、俺は何とか英陵での生活をやっていけているんだ。
そう感謝の気持ちを伝えると、一瞬の空白が生まれる。
「いやですわ。わたくしは同級生として当然の務めを果たしているだけです」
それからどこか焦ったかのような、やや早口で答えが返ってきた。
普段冷静で大人びた淑女って感じのデジーレからは想像しにくい反応である。
ひょっとして照れていたりするんだろうか?
いや、まさかな。
小早川と共にリーダー的存在として、大概誰かのフォローに回っているのがデジーレという女の子だ。
言ってしまえば誰かから感謝される事には慣れているはず。
今更俺に感謝されたからって、照れたりするわけないか。
自惚れすぎるときっと痛い目にあうよな。
特にデジーレなんてヨーロッパのハンサムで金持ちの貴公子達の中から、よりどりみどりって立場だろうし。
「それでヤス、今後の予定はいかがですか?」
そう訊かれた時、俺の中ではためらいが生じていた。
正直に言うのが一番いいに決まっているが、正直に言ってもいいものだろうか。
幻滅されるほど俺の評価は高くないとは思うものの、失望されたくはないと思ったのだ。
……しかし、結局正直に打ち明ける事にする。
黙っていたところで、何らかの拍子に発覚してしまう事はあるだろう。
だったら訊かれた時に全部喋っておいた方が、結果的に最もダメージが少なくなるはずだ。
主に俺の人物評的なものが。
俺はアルバイトを始めた事、中学時代の男友達に海に誘われている事、更に女の子をナンパしようとうるさい奴が混ざっている事をあらいざらいぶちまけた。
「まあ、そうなのですか」
さすがの貴族のお嬢様もこれには驚いたらしく、実に淡泊な反応が返ってきた。
うん、これはちょっと堪えるね。
どうせダメージを受けるなら早い方がいい。
早いか遅いかの違いだっただけだ。
自分にそう言い聞かせておく。
「それではその日は避けましょう。その日はまだ決まっていないのですか?」
そりゃそうだろう。
そんな簡単にお金なんて稼げるものじゃないよ。
思わずそう言いかけたのをぐっと我慢する。
このあたりの価値観や感覚も違うんだから、言ったところで仕方ないんだ。
そもそもデジーレに悪気なんてあるはずもない。
「うん、ごめんな。まだ先の見通しがつかなくてさ」
なるべく波風が立たないよう、言い方に気をつけておこう。
それでも何かを感じとったのか、はっと息を飲む音が聞こえた。
「ごめんなさい。気がせいてしまったようです」
「いや、気にしなくてもいいよ」
しおらしい声での謝罪にそう返しておく。
何でこんな事になるんだろう。
まるで俺に会いたくて必死だったみたいじゃないか?
もちろん、そんなはずもない。
おそらく要領の悪い俺に教えるのは早い方がいいと思っていたんだな。
面倒見がいい性格だからこその先走り。
うん、きっとそうに違いない。
「デジーレが俺の為に骨を折ってくれているのは理解しているから。ありがとう、いつも感謝しているよ」
「なっ……わ、わたくしは同級生としてですね」
何やらデジーレは絶句したかと思いきや、声を震わせながらしどろもどろ説明を始めた。
これは照れているのか?
そういう意味じゃないと否定した方がいいだろうか?
いや、俺のただの勘違いかもしれないしな。
それにはっきりと同級生としか思っていないっていうのもどうなんだろう。
日本人相手ならともかく外国人にははっきり言った方がいい場合が多いらしいが、今回ばかりはデリカシーに欠けた行為になる気がする。
結論が出なかったので、とりあえずデジーレの言い訳をひたすら聞くだけにとどめよう。
それからどれだけ時間が経過したのか、はっきりした事は言えないがとりあえずそれなりの忍耐力は必要とされた。
その甲斐あって冷静さを取り戻した貴族のお嬢さんは、もう一度自分の非を詫びてから、後日改めて連絡すると言って電話を切った。
……ふう、何だか思いがけない展開にだったな。
要約すればあのデジーレが取り乱して、それもちょっと可愛らしかったってだけになるけど。
しかし、実際今後の事を考えるなら「予定は未定」みたいな事をやっているわけにはいかないか。
デジーレとの電話はそういう警句だったと考えよう。
スケジュールについて相談するべく、北川に連絡を入れてみる。
六回のコールの後にようやく応答があった。
「もしもし、何だよ?」
相手が俺だと分かっているからだろうが、実に遠慮がない口調である。
「海に行くスケジュールについてだけどさ」
「おっ? お前もナンパしたくなったか?」
何を勘違いしたのか、明るい声で答えが返ってきた。
「どうしてそうなるんだよ、単に早めに予定は決めた方がいいかと思ってな」
俺がそう言うと、北川は特に疑いもせずに受け入れる。
「それは構わないけどよ、何かあったのか? 思ったよりバイトで稼げたとか?」
こういうところでは察しがいいんだよな。
これを他のところで、とまあ不毛な話である。
俺は二学期対策を講じる必要性があるのでとだけ言っておく。
デジーレ達と会うかもしれないと言ったら、どういう風に騒ぐか想像もできないからな。
さすがにもう会わせろとは言う事はないと思うが……。
「そうじゃない。単にその方が色々とやりやすくなりそうだと思っただけだ」
「ふーん、まあいいか」
北川は明らかに納得してはいなかったが、追及する気もなかったらしい。
すぐに話を切り替えた。
「皆が集まれそうなのは、最短で明後日、その次が五日後だな。お前はどうだ?」
これを聞いて頭の中で色々と計算してみる。
明後日はかなりきついが、五日後なら何とかなるか?
「うーん、じゃあ五日後はどうだろう?」
「分かった、皆には俺から伝えておくよ」
「サンキュー」
真面目に礼を言うと照れくさいので、なるべく軽い調子で言ってみた。
「おう、じゃあな」
北川も気にせず気楽に応じて電話を切る。
五日後か……夏休み中、何回バイトに入れるか確認しておこう。
今日の感覚だと「出られる日がある」と言えば喜んでシフトを増やしてくれるに違いない。
……割と綱渡りな事をやっている店なだけに。
バイトのシフトを決めているのは店長だが、この時間帯だとまだ勤務中だろうな。
教わったメールアドレスに用件を送信する。
返事があるのは、早くても明日の早朝だろうなあ。
俺もご飯を食べに行こう。
手洗いうがいをしてから台所に行くと、千香は自分と俺の分を準備した状態で座っていた。
「ごめん、待っていてくれたのか」
さっき心の中で不満を漏らした為、余計にバツが悪かった。
「まあね」
妹はクールにそう受け流す。
足を組んでいるせいか、デニムのショートパンツから伸びている太ももが眩しく映える。
……まあさすがに血の繋がった実の妹相手じゃムラムラする事もないけどな。
ただ、一言言いたくはなった。
「何かお前、肌の露出が多くないか?」
「お説教?」
千香は眉間にしわを寄せる。
そういう捉え方をされても無理ないかもしれないけど、俺としては心外だった。
夏に女の子が太ももや二の腕が露になる服を着ていても責める事はできないが、そういう理性的な考えと下半身が切り離されているのが男という生き物である。
そりゃ勘違いしたりムラムラする男が悪いには決まっている。
しかし、それで被害に遭って泣くのは女の子じゃないか。
俺が遠回しに言うと、妹はため息をついた。
「何だかお兄ちゃん、シスコン男みたいで気持ち悪いよ」
これにはさすがにイラッときてしまう。
「兄が妹の心配するのはそんなにいけないのか?」
思わず語気が荒くなる。
「え……ごめん」
何が意外だったのか、千香は目を丸くした後、申し訳なさそうな顔をして謝罪してきた。
実にしおらしい態度で、こっちとしてもこれ以上は怒れないな。
「いや、俺こそ言いすぎたかもしれない。ごめん」
謝りあったところで沈黙が舞い降りて、気まずい空気が出来上がる。
割とやってしまったかもしれない。
幸いな事に目の前には美味しそうな料理が並んでいる。
「食べようか」
そう声をかけると千香もこの空気が嫌だったのだろう、すぐに賛成した。
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