3話

そして八月二日。

 皆で水泳をやる日になった。

 デジーレからの連絡で、本日のメンバーはデジーレ、小早川、相羽、大崎、恵那島だという。

 思ったより人数が少ない。

 でもまあ、これくらいの方が気楽かな。

 小早川が「もしよければ一緒に昼食を」と言っているらしいので、よばれる事にしようと思った。

 気を遣う事は確実だが、断っても気まずくなるのは目に見えている。

 思い切って楽しんだ方がまだマシと言うものだ。


「そういうわけで昼飯はいらないから」


 母さんには既に伝えていたが、今千香の奴に改めて言っておく。

 でなければこいつの事だ、律儀に俺が帰ってくるまで待っているだろう。


「え? お嬢様と昼食? やだ、そんなに進展していたの?」


 我が妹は何やら勘違いして、おろおろしている。

 黙って見ていた方が面白い気もするけど、ややこしい事態を引き起こすかもしれない。

 少し迷った末、本当の事を教えておく事にした。


「いや、二人きりじゃないから。五人いるから」


「えっ? ……なーんだ」


 俺の言葉で自分が誤解していた事に気がついてたのだろう。

 目に見えてテンションが急落した。

 全く、兄の事を何だと思っているんだ?

 大金持ちのお嬢様を口説いてデートするほど、俺の神経は太くないぞ。

 胸を張って言う事じゃないけどな。

 俺が靴を履き終えると再び妹は疑問を口にした。


「ところでお兄ちゃん、水着持っているみたいだけど?」


「え? ああ。泳ぎを教える約束だし」


 俺としてはそっけなく答えたつもりだったが、妹は素っ頓狂な声をあげる。


「ええっ。何人もの水着を着た女の子達にお兄ちゃんが囲まれるの?」


 考えないようにしていたんだから、いちいち言葉にするのは止めてもらえないかな。

 ただでさえ美少女揃いで俺の理性がやばいのに。

 意識したらマジで危険が危ないんだが。

 何を言っているんだ、俺?


「獣になっちゃダメだよ、お兄ちゃん」


 からかってきているならムッとして返事をしなかったかもしれない。

 だが、妹の顔も口調もかなり真面目に心配していた。

 それはそれで思う事はあるものの、無下にするのもためらわれる。


「おう。俺はまだ死にたくない。そもそも、俺が何かしでかしたら、親戚ごと消滅する危険が」


 比喩でも誇張でもなくそう思う。

 相羽、桔梗院の家、デジーレの家を見た感想だ。

 あれらを見てビビらない奴は庶民じゃない。


「うわー……いくら何でも大げさって言いたいけど、言えないんだろうね。英陵だし」


 千香も俺と似たような表情を作りながら言った。


「責任重大だね、お兄ちゃん」


 厳かな言葉にうなずく。


「全くだな。って、どうしてこうなった?」


 ノリツッコミをやったので満足し、俺は千香に別れを告げて出立する。

 本日も暑い。

 太陽は猛烈な勢いで照りつけていて、街そのものが釜か何かで煮られているかのようだった。

 人間が住む気候じゃなくなってきている気がするな。

 今日は学校までたどり着けば、迎えの車がきているから少しは気が楽だが。

 これまでのパターンからすると、小早川の車も冷暖房がばっちりだろうしな。

 予想にたがわず迎えは高級外車だった。

 やはりと言うか微妙な空気だったものの、さすがに慣れてきてしまった。

 そのせいか窓の外を流れる景色に目を向けるゆとりがある。

 だからこそ気づいたのだが、どうも相羽やデジーレの家とは別方向らしい。

 車で通学している以上、方向や距離がバラバラでも別におかしくはないのか。

 あまり遠くても大変な気はするんだが、そこは金持ちの感覚が違うのかもしれないな。

 近い普通の学校より、遠くてもお嬢様学校に通わせる方がステータスになるとか。

 英陵はそんなレベルのブランドを持った学校である事は確かだ。

 どれくらい座り心地抜群の後部座席を堪能したか、やがて車は豪華な屋敷の中へと踏み込んでいく。

 俺に分かるのは洋風のレンガ造りだという事くらいか。

 いっそ大理石造りの方が分かりやすいんだけど、そういう「目に見える分かりやすさ」みたいなものはない。

 そこが金持ち達の厄介なところなんだよなあ。

 俺のは庶民的発想、あるいは成金的発想のかもしれないけど。

 価値観の差なのか、センスの差なのか。

 あれ、この二つの意味はあまり変わらないか?

 何だか混乱してきたぞ。

 まあいいか。

 考えても分からないんだし、今は泳ぎの事に集中した方がいいだろう。

 小早川の家は桔梗院のものには及ばないけど、立派な庭があった。

 きっとプールもあるのだろう。

 今更家にプールがあるくらいじゃ驚かないし。

 それともどこかのプールに出向くんだろうか?

 そういう話はなかったし、逆に意外な気もするんだよな。

 英陵での生活のせいで、俺の感覚も少しずつマヒしてきているのかもしれなかった。

 玄関の前で車は停止し、運転手さんがドアを開けてくれる。

 俺が降りてお礼を言うのと同時に玄関のドアが開き、小早川が出てきた。

 偶然にしてはあまりにもタイミングがよすぎる。

 恐らくカメラか何かで見ていて、到着の知らせがいったんだろうな。

 小早川の私服姿って初めて見るんじゃないか?

 水色のブラウスに生地は分からないけど藍色のズボン。

 黒髪で真面目な彼女と清楚な感じの色合いはよく似合っていると思う。


「赤松君、いらっしゃい」


 微笑みかけてくる姿も実に絵になるよな。

 同級生達や先輩達で耐性ができていなかったら、間が抜けた顔で見とれてしまっていたに違いない。


「お邪魔します。何と言うか清冽な感じでとても似合っているね」


 照れくささを我慢して何とか褒め言葉を搾り出す。

 それを聞いた小早川は一瞬目を丸くして、ついで花が咲き誇るような飛び切りの笑顔を見せてくれた。


「どうもありがとう。嬉しいわ」


 やばい、直視したら俺の精神がやばい。

 健全な高校男子に対しては、圧倒的な破壊力だぞ。

 何とか踏みとどまった俺に優等生タイプの美少女は、どこか悪戯っぽい表情を作った。


「でも、あまり色んな女の子を褒めちぎるのは感心しないわね。女の子を褒めるのは殿方のたしなみで甲斐性のうちだと言ってもね」


「え? あ? ごめん」


 何を言われたのか一瞬よく分からなかったけど、理解できると顔が熱くなる。

 確かに色んな女の子にそれっぽい言葉をかけていく、女たらしなナンパ野郎みたいだった。

 これは反省した方がいいかもしれない。

 俺の落ち込みがはっきりと分かったのか、小早川は少し慌てる。


「あ、言い過ぎたかもしれないわ。ただ、あまり見境なく過剰にっていうのは、回り回って赤松君の為にならないってだけ」


「うん、ごめん。ありがとう。気をつけるよ」


 フォローしてもらったけど、俺の気は晴れない。

 褒めた方がいいのは間違いないが、褒めすぎはよくないのか。

 つくづく面倒くさいなあ。

 どうすればいいんだよ、こんなもん。

 また千香の奴に泣きつくか?

 でも、お嬢様と庶民じゃそのへんの感覚も違うだろうし、あいつに頼るだけでいいのかなあ。

 かと言って、他に頼りになりそうな知り合いはいない。

 いる事はいるんだけど、お嬢様の感覚について分かる奴はゼロだ。

 こちとら生まれてからずっと庶民だし、親戚も友達も庶民だらけなんだぞ。

 ……英陵から追い出されたりしたら困るから、何とかいい方法を見つけなきゃいけないな。


「ご、ごめん。何か言い過ぎたかも」


 小早川が珍しく困った顔でオロオロしている。

 そんな姿も日頃のきりっとした姿とはギャップが大きくて、とても可愛いな。

 おっと、これは口にしたらいけない。

 ふう、何とか立て直そう。

 これから皆と泳ぐわけだし。


「うん、心に留めておく事にするよ。……急には無理かもしれないけどさ」


「あ、うん。今すぐ止めた方がいいって言ったわけじゃないからね」


 強引にではあったものの、この話題は終わりだな。

 その方がいいだろう。

 俺は家の中へと招き入れられる。

 中には赤い高そうなカーペット、絨毯が敷かれていた。

 目に入るところに高級そうな花瓶に見事な薔薇が活けられているし、絵などもかけられている。 


「それで? 皆はもう来ているのかい?」


 似たような家を見て耐性ができていなければ、圧倒されていたに違いない。

 俺は意識を逸らすべく、また微妙な空気を何とかするべく質問を発する。

 その問いかけにどこかホッとした顔をしながら、小早川は首を縦に振った。


「ええ。赤松君が最後よ」


「げっ……」


 女の子達を待たせるのはよくないと思って頑張っていたのに、ここでパアになるのか。

 俺のうめきと表情で心情を察したのか、この豪邸のご令嬢は励ますように言った。


「気にしなくてもいいわよ。距離と移動手段で赤松君は大きなハンデがあるんだもの」


 家の車などで直接来れるお嬢様達と、一旦待ち合わせしてから移動しなければならない俺ではかかる時間は違う。

 それでよしとするわけにもいかないけど、そう言ってもらえると気が楽なのも事実だ。


「皆はもう着替えていたりするのかい?」


 とりあえず疑問点について尋ねてみる。

 まだ小早川のように服を着ているのかどうか。

 当然だと思ったのだけど、訊かれたご令嬢の方は何故かクスクスと笑った。


「赤松君が着ているのに先に水着になっているはずがないじゃない」


 ごめん、何を言っているのかよく分からないぞ。

 さっさと水着にならないのと、俺が来るのとどういう関係があるんだ?

 別に俺に私服姿を見せたいとかそういうわけじゃないはずだろう?

 今度の疑問は何となく口にしちゃいけない気がした。

 ただ、きっと表情に出ていたのだろう。

 小早川は意味ありげな視線を送ってきていた。

 何だろうな、少しもやっとする。

 俺が鈍感なのか?

 いくつか曲がって、俺は一つの部屋に案内された。

 高級そう、それでいて頑丈そうな扉を小早川はノックもせずに開ける。

 部屋の中ではデジーレ達お嬢様がたが寛いでいた。


「わたくし達が申すのも何ですけど、ヤスいらっしゃい」


 水色のワンピース姿のデジーレがにこりと微笑みながら言う。

 うーん、よく似合っていて可愛いなぁ。

 相羽は白、大崎は赤、恵那島はオレンジ色か?

 お嬢様達の間ではワンピースがブームなのかな。

 それとも標準服か何かか?

 正直相羽には似合わないイメージがあったんだけど、お嬢様の着こなしってやつを舐めていた。

 他の子達とは違って愛らしい感じではあるものの、ばっちりと似合っている。


「どうかな?」


 相羽がはにかみながら訊いてきたので、ありのまま答えた。


「似合っていて可愛いな。皆、こうして見ると深窓のご令嬢って感じで圧倒されるなあ」


 感嘆を込めた言葉を聞いた女子陣は、互いの顔を見合わせて嬉しそうな顔を作る。

 女の子ってやっぱり褒められると嬉しいのかな。

 あんまり褒めるなって小早川には釘を刺されたばかりだけど、訊かれたからには褒めないといけないよな。

 間違っても貶すわけにはいかないし。


「赤松君もどうぞ座って。お茶を用意させるから」


 小早川の勧めに従って席に着く。

 デジーレの右隣である。

 デジーレの左が相羽、その正面が恵那島、その隣が大崎って順だ。

 部屋は広く、上品で高そうな調度品が置かれている部屋ではあったが、何となく応接間って感じはしない。

 だからと言って机もベッドもない以上、小早川の私室ってわけでもないだろう。

 どういった感じの部屋なんだろうか?

 親しい人間を呼ぶ為の談話室みたいなもの?

 何となくそう思ったが、こんなものが一軒の家にあるのか?

 いや、プールがあるよりはずっとありえるのか……。

 軽く混乱している気はする。

 俺の事は置いて、女子達は話で盛り上がっていく。

 とは言ってすごい話題という事でもない。


「最近暑いね。そろそろ避暑地に行く時期かしら」


 など小早川が言ったり、


「軽井沢はすっかり避暑地で有名になってしまって。だから最近、新しい場所を開拓しましたの」


 とデジーレがさらりと何か言ったり、


「夏だからって海外に行くのも芸がないですよね」


 恵那島がさりげなく誰かを貶すような事を言った気はしたが。

 正直、新しい避暑地の開拓はどうやるのか知りたかったものの、そこまで突き抜けた話じゃないと思う。

 お嬢様と避暑地というのは俺でも連想できる事だからな。

 あるいは俺が同じ部屋にいるという事で、何らかの配慮がされたのかもしれない。

 何気ない気遣いというのは彼女達の得意とするところだし。

 あまり配慮を配慮と感じさせないのが、お嬢様のたしなみなんだろうか。

 それとも単なる英陵流か?

 どちらにしても、俺は精神的に疲れる事もなくお茶を楽しむ。

 基本的に聞き役だが、綺麗なお嬢様達に囲まれて色々な情報を聴く、というのもいいものだ。

 彼女達の容姿と性格が大きく作用しているのは否定しないが。


「ヤスは何歳頃から泳ぎ始めているのですか?」


 俺が話に入れないとみたのか、デジーレがそんな風に問いを投げてきた。

 心遣いはありがたいけど、女の子達の会話に入るのはちょっと苦手なんだよな。

 なんて思ってしまったが、訊かれたからには答えなくてはならない。


「物心ついた時にスイミングスクールに入れられたみたいだよ。あんまり覚えてないけど」


 記憶をさかのぼろうにも、幼少期の事だからあやふやだった。

 初めは水につかっただけで泣いたとか言われても、さっぱり記憶にないからな。


「やっぱり、小さな頃からやっていると上手になるのかな」


 相羽がぽつりと言う。

 俺は彼女に向かって肩をすくめて見せた。


「上手になれるとは限らないけど、何もできないままって事もないだろうね。すぐに止めたりしなければ、だけど」


 ただし、無理矢理やらされているとその習い事が嫌いになる可能性は高いと思う。

 お嬢様達はそのへんどうなんだろうか。


「それはそうでしょうね」


 恵那島と大崎が納得したようにうなずく。

 大した事を言っているとは思えないんだけど、それだけ庶民の感覚や生活が新鮮で珍しいのかな。


「皆は何か習い事をしていないのかい? お嬢様達ってそのへんやっているって印象なんだけど」


 俺が水を向けてみるとある者は微笑み、またある者は苦笑するといった反応だった。

 お嬢様と言っても習い事に対しては温度差があるもんだなあと認識する。

 彼女達も人間なんだよな、当たり前と言えば当たり前だけど。


「私は馬術とテニスをやっていましたね」


 デジーレはさらりとそう言ってのける。

 ば、馬術ですか……。

 乗馬じゃなくて馬術ってところがすごい。

 貴族って感じがする。

 テニスの方は分からなくもないって気分だ。


「馬術とか貴族の嗜み?」


「そうなりますね」


 俺の問いも嫌みなく肯定する。


「それからはダンスでしょうか。社交界に出るならば踊れなければいけないので」


 ダンスには驚きはないな。

 貴族なら社交界ってものがある事くらいはさすがに知っていたし、英陵にだってダンスの授業やダンスホールがあるんだから。


「私は茶道と書道ね」


 これは小早川である。

 書道はイメージに合っているけど、何となく茶道は意外だ。

 口には出せない事だが。


「私は日本舞踊です」


 恵那島はそう言う。

 これはイメージに合うな。

 おっとりとしていて、和風な習い事が似合う。


「私も日本舞踊、それとお琴ですね」


 大崎がやっていた事も意外ではない。

 と言うか皆習い事をやっているんだな。

 相羽も書道はやっているそうだ。


「やっぱり色々やっているんだなぁ」


 俺が嘆息すると「当然でしょう」と小早川が笑った。


「生まれが生まれだけに、ある程度の事はできないと恥をかいてしまうもの」


 大変だなぁ。

 俺達庶民なら、できなくても親や先生に怒られたり嫌みを言われたりするだけで、別に恥にはならない。

 言われた事ができない奴なんて、探せばクラスに一人くらいはいるもんだしな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る