5話

 先生の命令で俺は泳げないお嬢様達の面倒を見る事になったが、正直これは無茶ぶりだと思う。

 俺が教えたくらいで泳げるようになるなら、皆とっくに泳げるようになっているだろう。

 俺も困惑していたが、女の子達の方も似たようなものだった。

 そりゃ同級生にものを教えてもらうとか、お嬢様にしてみれば珍しいだろうな。

 英陵は割と困ったら助けあう風潮があるようだけど、それでも男にというのは初めてのはずだ。

 男が入学してきたのが今年からなんだから、初めてで当然なんだが。

 黙ってお見合いしていても埒が明かないよな。


「ええっと、どうしようか?」


 俺はとりあえず質問してみる。

 どうすればいいのか分からないのだから、まずは色々と話してみようと思ったのだ。

 女の子達は互いの顔を見合わせて、大崎が代表するようにおずおずと口を開く。


「あの、どうすれば上手に泳げるようになるか、コツみたいなものがあるなら、それを教えていただければと」


 なるほどコツかあ。

 ないわけじゃないと思う。

 ただ、そういう事は以前に先生達がとっくに伝えているんじゃないだろうか。

 今更俺が教えたところでできるようになるとは思えない。

 俺は名コーチじゃないどころか、そもそもロクに誰かにものを教えた事なんてないしな。


「うーん、とりあえず泳ぎやすいやり方でいいんじゃないかな?」


「泳ぎやすい、ですか?」


 女子達は瞬きをする。

 どうやら彼女達の意表をついたらしい。

 俺がこう言ったのにはもちろん理由がある。

 オーソドックスなやり方なら、先生達がとっくに試しているはずなのだ。

 運動や体育にあまり熱心じゃない英陵だから、補習がないも同然の可能性も否定できないけど。


「後は、息継ぎかな」


 皆が半信半疑といった風なので、つけ加える事にする。


「息継ぎをしっかりできれば、そんなに辛くないと思う」


 たぶん、という単語は飲み込んだ。

 あくまでも俺自身の感覚だけど、自信がなさそうにしすぎると、女の子達も不安だろうからな。

 まあ、教えるのが俺って時点で既に不安に思っている可能性も高いが、そういう事を考え出したらキリがない。

 それに嘘を教えたつもりもなかった。

 俺が知っている範囲だが、長い距離を泳げない奴は大体が息継ぎが下手だった。

 そこを改善すれば何とかなると思う。


「息継ぎ……確かによく分からないわね」


 女の子達は思い当たる事があったのか、納得した顔でひそひそと話す。

 よかったよ、全く見当外れの事を言ったんじゃなくて。

 しかし、何となくだが手本を見せないといけない流れになってきた気がする。

 口にした以上、俺がやらなきゃいけないんだろうな。


「よかったらやって見せようか?」


 そう訊いてみると視線が集中する。

 全員の瞳に期待の色があふれていて、少しだけ後悔した。

 大したものを見せられるとは限らないんだが……やるしかないか。

 ここでやっぱり止めるなんて無責任な事は言えない。

 やるだけやってみて、ダメだったら潔く謝ろう。


「お願いします、赤松様」


「お願い、赤松君」


 女の子達の期待の声援が痛い。

 自分を落ち着かせる為、バレないように深呼吸をした。

 そして壁の方に歩いていき、両手をつく。


「今からやって見せるよ」


 そう言って底を蹴り、クロールの体勢をとる。

 ゆっくりと腕を動かして、息継ぎをして見せた。

 ……これ、早くやらないと逆に疲れるな。

 自分でもたどたどしい事が分かるような酷さだったけど、息継ぎのやり方を見せるという点では悪くなかったと思う。

 そう思い込みたいというのが本音なんだが。


「分かったような、分からないような……」


 女子達は曖昧な笑みを浮かべ、ついで申しわけなさそうな顔になった。

 そりゃ一回で分かるくらいなら、とっくに泳げるようになっているだろう。

 少なくとも俺の出番なんてなかったはずだ。


「まずはやってみよう。見ないと分からない事もあるだろうから」


 見たところで分からない事だってありそうだが、黙っておこう。

 意欲を削ぐことになりかねないし。

 皆、戸惑っていたが、相羽が意を決した表情を固めて壁に歩いていく。

 そこまで真似をする必要はない気もするけど、やりやすいやり方でやってもらう方がいいか。

 相羽は俺の動きをそっくりなぞるべく足を蹴り、顔を水につける。

 それからゆっくりと腕を動かすが、ダメだな。

 顔をあげるタイミングが早い。

 胸のあたりをかく時にあげるくらいの方がいいはずだ。


「相羽、もう少し顔をあげるタイミングを遅くした方がいいんじゃないか?」


「え? そうなの?」


 俺は彼女の真横に寄って行って言った。


「もう一回やってみてくれるか?」


「うん」


 相羽は目を丸くしていたけど、素直に従う。

 底を蹴り、バタ足をして、ゆっくりと腕で水をかく。

 今度は顔をあげるのが遅すぎるな。

 手が腰を通過してから顔をあげても、息継ぎは難しいだろう。

 バランスを崩しかけた相羽の体を支えてやる。


「あ、ありがとう」


 相羽は両足をついて礼を言った。

 女子の体を触ってしまったけど、不可抗力だよな。

 不埒な目的は全くないので許してもらいたい。

 誰に言い訳をするわけでもなかったが、思わずそんな事を考える。

 それに正直相羽の体はまだ発展途上……余計な事を考えるのは止めよう。


「もう一回やって見せるよ」


 俺は相羽にさがってもらい、もう一度泳ぐ事にする。

 今度は一回だけではなく、何回も息継ぎをして見せた。

 うん、かなりきつい。

 女子達の視線を集中的に浴びている手前、辛そうにはできないけど。

 教師役としての使命感と言うより、一人の男としての意地みたいなものだ。


「どうかな?」


 俺は失敗せずに最後までやれた事に内心安堵しながら、女子達の方を見る。


「さっきよりはよく分かりましたけど……」


 大崎が自信なさそうに答えてくれた。

 自信が持てないのは仕方ない。

 練習しないと意味ないからな。

 泳ぎは一旦覚えると忘れないと言う。

 逆に言えば、一度覚えない限りは大変なんじゃないだろうか。

 俺は勝手にそう思っているのだった。


「こういうの練習しないと上手くなりようがないから。とりあえず練習を頑張ろう」


 そう言うと皆は素直にうなずいて、各々が練習を始める。

 予想はしていたけど、同級生に物を教わっているっていうのに、誰も反抗的な態度をとらないんだよな。

 それに適当に手を抜こうという子もいない。

 真面目でいい子達ばかりだ。

 それなのにも関わらず、なかなか上達しないのは教える側にやる気がなかったんじゃないだろうか?

 まあ、不熱心なのも分からなくはない。

 この子達って別に泳げなくても何も困らない身分だからな。

 まず、溺れるという状況に陥る事がなさそうだし、そうなったところでメイドさんや執事の誰かが迅速に救出してしまうだろう。

 そもそも料理だって不得手な子が多かったしな。

 「自分で料理をしなければならない」という発想がないと言うか、する必要を感じない。

 そんな世界の子達なんだ。

 いい加減慣れたつもりでも、事あるごとに感じる「異質さ」に俺とは住む場所が違う事を思い知らせてくれる。

 世間一般的に異分子なのは俺の方だろうけどな。

 金持ち達に混ざっている庶民、元女子高の中に男が一人って状況だし。


「あの赤松さん、どうでしょうか?」


 女子の一人が息を切らせて尋ねてくる。

 その面持ちはとても真剣で、そして端正に整っていた。


「いい感じだよ。もう少し頑張ろう」


 俺が励ますと「はいっ」と元気よく返事をして、再び練習へと戻る。

 急には名前を思い出せないような、接点があまりない子なんだけどそれでも美少女と評して差支えがない。

 つくづくレベルが高いよ、この学校の女の子達。

 中学時代、美少女と言える子がほぼいなかったのはここに原因があるんじゃないだろうか?

 中学が同じだった女子に知られたらひんしゅくを買いそうな事を思ってしまう。


「赤松君、私も見てもらってもいい?」


 相羽が恐る恐る聞いてくる。


「うん」


 俺はすぐに応じた。

 くだらん事を考えている暇はなさそうである。

 それを皮切りに、皆の泳ぎを順番に見ていく事になった。

 水着姿の女子をどれだけ見つめても咎められないのは僥倖だけど、それだけに下心は封印しないと。

 皆の胸のラインや腰のライン、むき出しの太ももはなるべく目に入らないように気をつけつつ、指導を頑張っていった。




 授業が終わって教室に戻ると俺は一人、深いため息をつく。

 結局、誰も進歩する事はなかった。

 せいぜいが「ちょっとはマシになったかも」程度だ。

 もちろん、俺が一回教えただけで急に上手くなるはずがない。

 俺は水泳の名コーチじゃないどころか、選手ですらないんだから。

 俺が教えたくらいで上達するなら、とっくに上手くなっているだろう。

 頭ではそんな事、十分よく分かっている。

 それでも目に見える成果が出なかったのは残念だった。

 せっかく頼ってもらえたんだから、何とかしてやりたかったという気持ちがある。

 もやもやしたものを胸に抱えながらこの日を過ごす事になった。

 そして放課後、ホームルームが終わって小笠原先生が教室を出た後、俺は女子に呼び止められる。


「ねえ、赤松君。少し相談があるのだけれど」


 そう声をかけてきたのは小早川だった。

 ただ、彼女一人ではなく他に何人か取り巻き達がいる。

 その顔ぶれを見て俺はピンときた。

 何故ならば相羽に大崎……水泳で泳げない組に分類された子達ばかりだったからだ。


「うん、何だい?」


 早とちりだったら恥ずかしいので、そう水を向ける。


「夏休みなんだけど、皆で泳ぎの練習をしてみないかって事になったの。それで赤松君の予定はどうかしら?」


「夏休みの予定……?」


 俺は少し考え込む。

 泳ぎに関して誘われる事は予想していたが、夏休みにってのは想定外だったな。

 夏休みの予定は残念ながら今のところ埋まっていない。

 中学時代の友達と遊んだりするかもしれないけど、あいつらなら変更させてもいいか。

 どうせ一緒に過ごすなら綺麗な女の子達の方がいいに決まっている。


「今のところ空白だけど」


 言ってからしまったと思う。

 もしかすると「今の段階で何の予定もない悲しい奴」だと思われた可能性に気付いたのだ。

 とは言っても、口に出した事を今更取り消したりはできない。


「そうなの……? 別に遠慮する必要はないわよ? 頼んでいるのはこちらだし、こちらで合わせるから」


 どうやら遠慮して予定はないと言ったと解釈されたようだ。

 ホッとすると同時に、お嬢様達にとって「休みに予定がない」というのはありえない事なんだろうか、と疑問がわく。

 だとすれば、こんなところにも格差があるわけか。

 いや、ここの子達は特別かもしれない。

 仲良しグループはあっても派閥みたいなものはないし、誰かが孤立する事もない。

 いじめなんて「聞いた事はあるわね。よく知らないけど」と真顔で言いそうなレベルだ。

 いくらお嬢様揃いの学校だとは言え、ここまでいい子達しかいないのはちょっと考えられないな。


「いや、本当に大丈夫だよ。変更がきかない予定はまだ入ってないから」


 俺は頭をかき苦笑しながらそう主張する。

 微妙に言い直したのは、本当の事を言っても信じてもらえそうになかったというのもあるが、一抹の見栄もあった。


「そうなの? そういうものなのかしら」


 小早川は怪訝そうにつぶやいたが、それ以上は食い下がろうとはしなかった。

 「庶民とお嬢様の違い」がここでもあるのだと解釈したのだろう。

 俺としては心苦しくはあるものの、好都合でもある。


「それじゃあ、いつがいいかこちらで相談してから連絡するわね」


「うん、それでいいよ……あっ」


 承知しかけたところで俺は肝心な点に気がつく。


「どうかしたの?」


 不思議そうな我らがクラスの委員長に対して、ある事を指摘した。


「俺、皆の連絡先知らない」


「あっ……」


 女子達は皆、異口同音に間が抜けた声を発し、口を押さえる。

 不謹慎ながら少し面白い光景だった。

 特に小早川のこういう表情は滅多に見られるものじゃないからな。


「ごめんなさい、うっかりしていたわ」


 神妙な顔で女の子達は口々に謝ってくる。

 かえって俺の罪悪感が刺激されてしまったほどだ。


「いや、いいんだよ。俺も今まで忘れていたんだし」


 これは嘘である。

 だが、ついた方がいい嘘だった。

 「誰からも連絡先を教えてもらえず、悲しい思いをしていた」なんて口が裂けても言えない。


「そう。でもどうしようかしら……男子に連絡先を教えていいのかな」


 小早川はそんな事を言い出す。

 何を言っているんだ……と思ったのは一瞬だった。

 そう言えばこの子達、婚約者がいるのは珍しくないんだったよな。

 確かに婚約者がいるのにも関わらず、他の男と仲良くしたり連絡先を交換するのは外聞がよくないかもしれない。

 少なくとも俺の口からは何とも言えなかった。

 あくまでも友達としてのつき合いで、彼女達にとってのスキャンダルとなるわけにはいかない。


「ごめんなさい。家に相談してみるから、待っていてくれる?」


「うん、いいよ」


 俺はそう答えるしかなかった。

 同級生の男と連絡先を交換してもいいのかどうか、自分の一存で決められないのか。

 豊かな生活をしているんだろうけど、いい事ばかりでもなさそうだな。

 申し訳なさそうな顔をして改めて頭を下げる同級生達に、気にするなと笑顔を向ける。

 まさかこういうところでお嬢様達との差が出るとは思わなかったな。

 もっとも俺の考えが至らなかっただけではある。

 その後、何となくだが気まずい空気になってしまう。

 普段ならこういう時に頼りになるのが小早川だ。

 しかし、今日はその小早川が空気の発生源の一つになってしまっている。

 さて困ったな。

 どうすればいいだろうか。

 いつも小早川に頼っていたツケが回ってきた気がする。

 次の休み時間、一人でぽつんといるとデジーレが話しかけてきた。


「何かありましたか?」


 別に隠すような事でもないし、相羽と仲がいいデジーレならすぐに話は伝わる。

 更に何らかの案を出せるかもしれないという期待を込めて事情を話した。

 結局のところ他人頼みになってしまったが、今はこの空気を何とかするのが先だと思う。


「ああ。日本にはまだそういうところが残っていますのね」


 外国の貴族令嬢は理解の色を表情に浮かべるが、他にも呆れが混ざっていた。


「いや、まあそうなんだけどさ」


 俺としては返事に困る。

 確かに古臭い風習みたいなものだけど、だからと言って頭ごなしに否定するのもなあ。

 家同士、企業同士の事を考えれば、アリだとは思うし。

 うん? ちょっと待てよ?

 「日本にはまだ」みたいな言い方をしたって事は……?


「もしかしてデジーレの家は、そういう事はないのかい?」


 俺の疑問に対しては会心の笑みが返ってきた。


「ええ。ですから、私と連絡先を交換すれば問題ないでしょう。私からリナに連絡できますからね」


「そうだな。ありがとう、デジーレ」


 嬉しくて思わず手を握る。


「どういたしまして」


 デジーレは一瞬目を丸くしたものの、そっと握り返してくれた。

 うん、握手みたいなもんだな。

 貴族令嬢の手は小さくてほっそりしてて柔らかい。

 白い頬に朱がさしたのはきっと照れているんだろう。

 実は俺も少し照れくさいしな。

 善は急げと言うし、さっそく小早川に報告しよう。

 とは言っても席はすぐ近くだし、今も離れた場所にいるわけじゃないけどな。


「そう」


 俺が言い終えると小早川は一瞬だけ表情を強張らせる。

 あれ、喜んでくれると思ったんだけど……。


「皆からは私が伝えておくね?」


「え、うん」


 そんなの手分けするなり、今からまとめて伝えればいいだけじゃないか?

 そう疑問に思ったけど、小早川が発する奇妙な空気の前に俺は舌が動かなかった。

 うん、委員長にお任せしよう。

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