3話

 デジーレはピンクのワンピースみたいな服に白い上着を羽織っていた。

 体のメリハリがはっきりと分かるものの、露出が多いとも言えない微妙な感じである。

 忘れる前に褒めておいた方がいいよな。


「デジーレは今日の服も似合っているな。清楚で綺麗なお姫様みたいだ」


 妹の助言に従い、やや大げさに褒めてみる。

 他に人がいるところで言うのはけっこう恥ずかしかったけど、人目がない状況になる事はまずないだろうからやむをえない。


「あら、ありがとうございます」


 デジーレは若干頬を染め、口元を綻ばせる。

 褒め言葉、気に入ってもらえたようで何よりだ。

 他に俺の言葉を聞いていた二人の女性だが、メイドさんの方は無表情で沈黙を守る。

 「いないものとして扱うべし」というルールが適用されているようだ。

 問題はもう一人の女性である。

 ニヤニヤという言葉がぴったりな表情で、俺とデジーレの顔をかわるがわる見ていた。

 いたぶる獲物を見つけた猫のよう、と言えばいいのだろうか。


「初々しくていいわね」


 と思ったけど、一言言っただけである。

 内心身構えていた俺はほっとして体の力を抜く。


「さあ、入って下さいな」


 デジーレはフリーダの言葉を無視して俺を招き入れる。


「小早川はもう来ているのかい?」


 俺も便乗する事にして、今一人の級友の事を尋ねた。


「ええ、つい先ほどね」


 どうやら一足くらいの差だったらしい。

 大して待たせなくてよかったと思う。

 招待されたと言っても勉強を教えてもらう立場だからな。

 メイドさんが扉を開けると俺は絶句する。

 うちの家の一階分丸ごとが平気で入りそうなくらいの広さだったからだ。

 俺から見て左側にダイニングとキッチンがあり、右側にリビングがある。

 小早川はリビングにある大きくて柔らかそうな黒いソファーに腰を下ろし、何か書いていた。


「フミカ、ヤスが着きましたよ」


 その言葉で小早川は立ち上がって振り返る。


「今日はよろしくね」


 優しい笑顔にうなずき、こちらこそと返す。

 小早川の服装は白い……なんだろう、ブラウスでいいのか?

 それに茶色いズボンだ。

 千香の奴でも持っていそうな代物に見えるけど、たぶん素材と値段は別物だろう。

 後、売っている店も。

 シンプルに見えて奥が深いというのが服ってものだ。

 高校に通い出してからだけど、何となく分かるようになってきた気がする。

 小早川は真面目な優等生って印象が強いが、それでも服の着こなしは見事なものだ。

 生まれ持ったものの差か、それとも環境に鍛えられたものなのかは分からないけど。


「お茶を淹れさせます。席におかけになって下さいな」


 デジーレの言葉に甘えてソファーに座る事にする。

 さて、どの位置に座るのが無難なのかと迷うと、小早川がそっと目で合図をして、自分の隣をさりげなく示した。

 一瞬ためらったけど、従った方がいいだろう。

 中学の友達同士なら適当に座っても誰も何も言わないだろが、上流階級の場合はそうもいくまい。

 そして小早川はそのあたりをよく知っているし、俺に助け舟を出してくれたのだ。

 少し離れたところにそっと腰を下ろす。

 食堂などで隣り合った事はあるけど、今日は私服姿なのだ。

 何だか新鮮で気恥ずかしさを覚えてしまう。

 いい匂いも漂ってくるし。

 どうも、英陵の女の子達は香水をたしなみとしてつけている節がある。


「それで、赤松君。どの科目がどれくらいなの?」


 小早川は単刀直入に切り込んできた。

 俺は内心おどおどしながら答える。


「えっと、中間テストは国語六十三、数学六十一、英語五十七、生物六十、日本史六十四だったよ」


「そう」


 短く言った小早川の心情は、横顔からは読み取れなかった。

 思ったよりは悪くないのか、それとも落胆したのか。


「別に格段に低いというわけではありませんね」


 俺の正面に座ったデジーレがどこか安心したかのように言う。


「それはそうでしょう。入学審査の時、学力もチェックされたはずだしね」


 何も言わなかった俺の代わりに小早川が応じた。

 うん、確かに学力を問われる筆記試験はあったな。

 むしろ他に審査があった事に驚いたけど。


「俺、そこまでできなかったんだよな。だから合格通知が来た時は嬉しかったんだよ」


 正直ギリギリだったと思う。

 だから、入学式の時、他に男がいない事にびっくりしたんだ。

 俺より成績がいい奴は何人もいたはずだから。


「まあ、学力だけでもだめなんでしょうけどね」


 デジーレがさりげない口調で言うと、小早川も首肯する。


「そうね。私が言うのも何だけれど、身代金目的の誘拐犯に狙われそうな子ばかりだから。変な男の子には入ってきて欲しくないわね。その点、赤松君はさすがよね」


 一体、何がさすがなのか。

 本気で思ったけど、声に出すと野暮もいいところだ。


「どうも」


 受ける言葉が思い浮かばず、適当に答える。

 会話が途切れたタイミングで、メイドさんがお茶と氷が入ったガラスのコップを持ってきてくれた。


「ありがとうございます」


 礼を言って受け取り、一口飲む。

 冷えた麦茶が渇いた喉を潤してくれてほっとする。


「それで、今日はどの教科からするつもりなの?」


 委員長の問いかけに俺は迷う。


「英語からでもいい?」


 数秒悩んだ後に決めて、二人におうかがいを立ててみる。


「ええ」


「私もかまわないわ」


 両者ともに賛成してくれたので、英語から始める事になった。



 美少女のお嬢様二人との勉強会。

 どちらも真面目な子だから「キャッキャッウフフ」な展開とは無縁だ。


「ここはね……」


 デジーレと小早川の二人は当然ながら真剣な顔つきで親身に教えてくれている。

 日頃からリーダーシップを発揮している優等生の小早川はともかく、穏やかで人当たりのいいデジーレに関してはギャップを感じていた。

 そんな事は口にできないが。


「なるほど」


 俺は小早川の説明にうなずく。

 シンプルで分かりやすいからとてもありがたい。

 先生の説明はイマイチ分からなかったりするんだよな。

 単純に俺の学力が足りていないって事なんだろうけどさ。

 その点、デジーレと小早川は俺に合わせてくれているのだろう。

 英語と数学が終わった後、一息つく事になった。

 タイミングを見計らっていたかのように、メイドさんが新しくお茶を持ってきてくれる。


「どうですか、ヤス?」


 デジーレが唇を湿らせてから尋ねてきた。


「はかどっているな。ありがたいよ」


 俺は照れ臭さから、おどけるようにして答える。

 これは本心だった。

 分からなくて放置していたところがどんどん消えていっている。

 そんな手応えがあった。

 もちろん、今日一日で劇的に成績がよくなるほど甘くはないだろうけど、爽快感みたいなものを味わえている。

 なかなかクリアできなかったゲームを達成しているような。

 これは言ってもたぶん、お嬢様達には想像しにくい感覚だろうから言わないでおくが。


「問題の解き方、考え方は分かったかしら?」


 小早川の問いかけにこくりとうなずく。

 目から鱗がぽろぽろ落ちるのを実感できたのだった。


「自分のだめさ加減がよくわかったよ」


 ほろ苦いものを込めた微笑を浮かぶ。

 笑うしかない、という感覚に近い。


「分かったならそれでいいじゃない?」


 小早川がそっけない口調で言う。

 突き放すような態度に見えるが、その実フォローしてくれている事は分かった。

 彼女はツンデレとかクーデレとかそういうタイプの女の子なのである。

 デレと言っても親切という意味で、それ以上の意味はない。

 今のところ誤解する余地が生まれる事もないのだから、間違いないだろう。

 残念ではあるものの、少なくともテストが終わるまではそんな事を考えている余裕はない。


「大切なのはこれからどうするか、だと思いますよ」


 デジーレの優しい言葉が胸にしみる。

 親切にされている、という実感が改めてわく。

 それと同時にこのままではいられないと思う。

 似たような事ばかり考えているような気がするけど。


「そう言えば話は変わるんだけど」


 小早川が不意に言い出す。

 何事かと思って彼女に視線を向ける。


「赤松君って泳げるの?」


「え? そりゃまあ、泳げるって定義にもよるけど、百メートルくらいなら……」


 何キロも泳げと言われても無理だし、下手をすれば死ぬ。

 でも学校の授業レベルなら、問題はないはずだ。

 一応、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライはできるし。


「へえ、すごいのね」


「本当ですね」


 小早川とデジーレは目を丸くして感心してくれた。

 あれ、今のどこに俺がすごい要素があったんだ?


「え? どこが?」


 仕方がないので訊いてみる。

 この二人に今のタイミングで尋ねるなら、さほど角は立たないはずだ。


「どこがって、百メートルも泳げるなんてすごいわよ」


 小早川は心外そうな顔で言い、デジーレもこくこくとうなずく。

 え? そうなのか?

 と思ったけど、基本的に乳母日傘のお嬢様たちなんだよな。

 これまでの体育の授業でも、体力を要求されるような内容は一度もなかった。

 それならたった百メートルでもすごいと見なされるのは、ありえない事でもないのか?


「そうなのか。二人は泳げるのかい?」


 泳げるなんてすごい、みたいな言い回しをしなかった事を考えれば、二人とも一応泳げはするのだろう。

 予想はしたけれど、確信は持てなかった。


「一応はね。二十五メートルくらいかしら」


「私も似たようなものですね。基本的に英陵ではこれくらい泳げれば、申し分なしと判断されますので」


 そういうものなのか。

 二十五メートル泳げたら確かに最低ラインはクリアしていると言えるだろうな。


「そうなんだ。まあ、こういう言い方はあれかもしれないけど、俺からすればあまりハードじゃないよね、体育の授業全般が」


「それは当然でしょう。男子でもきつい内容なんて、誰もついていけないわよ」


 小早川はそう言って苦笑する。

 決して不満を言ったり、ケチをつけたりしているわけじゃない、という事を理解してくれたのだろう。


「そりゃそうだ」


 俺もおどけて応じておく。

 そんな俺達を見ていたデジーレは小首をかしげる。


「ヤスはもっと厳しい方がいいのですか?」


「いいや。別に体育の授業に厳しさなんて求めていないしね」


 どちらかと言えば、男が一人しかいない方がずっと辛い。

 でもまあ、その代わりに実に華やかではあるけどな。

 夏用の体操服になると、目の保養になるし。

 ここで口に出せばセクハラになりそうだし、そうでなくても白い眼で見られないから心の中にしまっておくけど。


「そうなのですか? それならばいいのですけど」


 デジーレは安堵したように言った。


「今後、男子が増えてくるだろうし、私達が足手まといになるのはね」


 小早川もそんな事を言う。

 どうやら男女間の体力や運動能力の差を気にしていたらしい。

 考えすぎだと思うけどな。

 俺はそう感じた理由を述べる。


「男子が増えたら、たぶん体育は男女別になるだろ。だから心配いらないんじゃないか?」


「……ああ、そうね。そうだったわね」


 俺の指摘に小早川は、一瞬の間を置いて手を打つ。

 共学のところでは体育の授業が男女別だという事を、すっかり失念していたらしい。

 常識人のようではあるが、彼女もまた英陵で育ってきたお嬢様だという事なのだろう。

 デジーレも似たような反応をしている。

 俺にとっての常識が彼女達にとっては非常識であったように、彼女達の常識も俺にとっては非常識なのだ。

 もちろん、英陵という特殊な空間で過ごす以上、俺の方が擦り合わせなければならない。

 ただし、今後共学化されて男子生徒を受け入れていくのであれば、ある程度学校側も変わらなければならないだろう。

 ひょっとすると、俺はそのモデルケースみたいなものに選ばれたのかもしれない。

 そうなると色んな点に納得が……いかないな、やっぱり。

 オリエンテーションの時とか、そうでなくても学食や食堂の事とか。

 学校の経営状態に不安や問題があるとは思えない。

 そもそも生徒もOG達も皆、経済力がある上流家庭ばかりなんだから、寄付を募ればいいだけじゃないのか?

 まあ、上流階級達の学校だから、逆にそういう事はできないのかもしれないけど。


「それじゃあそろそろお暇するよ」


 ちょうど区切りはついたし、あまり遅すぎて帰るタイミングを逃してもまずい。

 いや、まずいと言うか申し訳ないと言うべきだろうか。

 このまま居座ったりすれば、おそらく夕食とかも普通に提供してもらえるだろう。

 だからこそ、今のうちに帰らなきゃいけない。


「あら、もうそんな時間?」


 二人のお嬢様達はどこか慌てたような表情で、それぞれ時計を確認する。

 そして少し怪訝そうな顔になった。


「まだそんな遅い時間じゃないわよ?」


 小早川がそう言うと、デジーレもうなずく。


「そうですね。夕食の時間でもないですし」


 この流れはよくない。

 強引にでも断ち切らないと、夕食もお呼ばれコースになってしまう。

 別に彼女達は俺に対して悪気がある訳じゃない。

 だからこそ、ある意味厄介なのだった。


「いや、あまり長居しても申し訳ないし、このへんで失礼するよ。せっかくだからさっそく家で教えてもらった事の復習もしたいんだ」


「そうですか。それでは仕方ありませんね」


 俺の意思は固いと見てとったのだろう。

 デジーレは残念そうに諦めてくれた。

 ホッとしたと言えば失礼になってしまうけど、それでも嬉しくないと言えば嘘になる。

 後ろ髪をひかれる思いがないわけじゃないが、さすがに女の子の家にだらだらと長い間いられない。

 後、あまり時間が経ってしまうと、教えてもらった事を忘れてしまうという危険もある。

 これは決して口実ではないのだ。

 俺の頭とは生まれた時からのつきあいなんだし、俺自身よく分かっている。


「お帰りになるなら、フリーダに送らせましょう」


「え? いいのかい?」


 俺は思わず訊き返した。

 確かに送ってもらえるのはありがたいんだけど、本人に確認しなくてもいいんだろうか。

 使用人ではなく従姉妹同士なら、命令する事もできないだろうに。


「ええ。ヤスが帰る際に送るという条件で、迎えに行ってもらいましたから」


 何だ、その条件。

 それだけ聞くと、フリーダさんはよっぽど俺を送り迎えしたかった事になるぞ。

 もちろん、俺自身に対してどうこうっていうんじゃない。

 きっとデジーレが連れてくる若い男が一体どういう人間なのか、実際に目で見てみたかったんだろう。

 あるいはデジーレの家族から頼まれているのかもしれない。

 そんな可能性はないとも言いきれないだろう。

 何せ娘の為に、高級マンションを三階も貸し切ってしまうような人達なんだから。

 まあ、それが事実だったとしても、俺にできる事はないんだけど。

 フリーダさんの判断に委ねるしかない。

 もし変な報告がいったらと思うと……かなり恐ろしいな。

 幸い、ここは日本だから何もないはずだ。

 日本は民主主義で法治国家なんだから。

 何やらネガティブな事を思い浮かべつつ、俺はフリーダさんと一緒に部屋を出た。


「どうだったかしら、デジーは?」


 ドアを閉めたフリーダさんが不意にそんな事を訊いてくる。

 何とも答えにくい質問だ。

 美人だとか優しいとか言えば、バズゼール家のブラックリストに載ってしまうんじゃないだろうか。 

 そんな不穏な考えが浮かんでしまう。


「教え上手でしたね。とても助かりました」


 そこで俺は無難な答えを返しておいた。

 案の定と言うべきか、フリーダさんはつまらなそうな顔で鼻を鳴らす。

 「面白みのない男」とでも思われたのかもしれない。

 人生がかかっているのに、危ない橋なんてわたる気にはなれないのだった。

 それに明日は先輩達と勉強会だしな。

 下手に弄られて精神的消耗をしたくはない。

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