九度目の願い

群青更紗

第1話

 黒猫のかすかは幸せだった。基本的には野良暮らしだけれど、人間の真由香に可愛がられている。病院での注射と手術は楽しくなかったけれど、毎日美味しい食べ物を貰え、昼の間は家の中へ招かれ、撫でられたり膝に乗って甘えたり、そのまま寝たり出来た。雨や風の強い日はもちろんだけれど、晴れの日だって呼ばれるのは嬉しい。外の散歩は楽しい反面、縄張り争いもセットになって、喧嘩の苦手な幽はいつも逃げ回る羽目になる。その点、真由香の部屋は穏やかだ。幽は毎日、真由香がサッシ戸を開けて自分の名前を呼んで招いてくれるのを、心から楽しみにしていた。真由香もいつも、幽が顔を出すと笑って迎えてくれていた。昼の間、幽はまるで飼い猫のように、しばしの天国を味わうのだった。

「ねえ幽、」

 真由香はしばしば口にした。

「大好きよ。ずっと傍にいてね」

 言葉の意味は分からない。けれど、柔らかく包み込むような穏やかなその言葉は、幽をいつも温かい気持ちにした。


 昼間は幽の天国だった。しかし、夜は必ず外に出されてしまう。

 それは最初に招かれた日からそうだった。日暮れが近付いて、洗濯物を取り入れた真由香は、しばらくそのまま室内と外とを出入りして何か作業すると、ソファーに転がる幽を撫で、「ごめんね」と言って抱き上げた。何だろう、と思っていると、真由香は外へ出て、隅の木製ベンチへ歩いた。それは物入れ兼用のベンチで、真由香は座面である蓋を開けて、幽をそこへ入れた。そこには猫用ベッドと、猫用トイレがセットされ、蓋を閉めても左右に猫用出入口がある。ベッドのフカフカ具合とトイレ砂の綺麗さから、先ほど作業していたのはこれだったのだと察せられた。しかし、

「ニャー!」

 幽は啼いた。

「ごめんね、夜は家の中に入れてあげられないの。そこを使っていいから。また明日いらっしゃい。ごめんね」

 真由香の声がして、足音が遠ざかる。幽は飛び出して真由香を追ったが、サッシは閉められてしまった。幽はしばらく啼いていたが、やがて諦めて先ほど入れられた小屋へと戻り、ベッドで丸くなった。人間なんてそんなものだ。幸いすぐに睡魔がやってきて、幽は間もなく眠りに落ちた。

 翌朝、目覚めて伸びをしていると、サッシの開く音がした。幽は小屋からそっと出てみた。洗濯を干す真由香がいて、目が合った。

「おはよう、いらっしゃい」

 呼ばれて幽は、すぐに駆け寄った。「少し待ってね」という真由香の足元をすり歩き、やがて抱き上げられて足裏を拭かれ、また室内に入れて貰えた。ご飯と水とを出して貰い、食べ終わって毛繕いをしていると、頭を撫でられた。幽は甘え、喉を鳴らした。そうして毎日、昼の間は室内で過ごし、夜は小屋で過ごすようになった。


 夜は外でも、小屋がある。昼はいつでも、家の中。

 だが時には、昼間でも締め出されることがあった。ある日、いつものように真由香と寛いでいると、突然玄関の開く音がした。思わず顔を上げると真由香が素早く幽を抱き上げ、外へやや乱暴に出された。何事かと思う間もなく室内が騒々しくなり、やがて怒号が聞こえ始めた。幽は直感で身の危険を感じ、素早く小屋へと逃げ込んだ。次の瞬間、サッシ戸が乱暴に開かれた音が聞こえた。幽は思わず耳を伏せて目を閉じた。硬く低い怒号が聞こえる。幽はじっと身を固め、喧騒が止むのを待った。やがて戸の閉まる音がして、そのままシンと静まった。幽はそっと小屋から顔を出したが、真由香が呼ぶ気配は無かった。幽は小屋へ戻り、そのまま眠った。

「ごめんね幽、」

 次に顔を合わせた時、真由香はいつも同じ言葉を繰り返した。幽にヒトの言葉の詳しい意味は分からないが、何度も聞く言葉である事は分かる。自分が幽と名付けられた事もそうやって覚えた。「かすか」と、自分を呼ぶ真由香の優しい声が幽は好きだった。

「あなたと暮らせたら良いのだけれど。でもダメなの。ごめんね」

 こう言う時の真由香も普段と変わらず優しいし、むしろ普段より沢山撫でてくれる。だが、顔が悲しそうなのが幽はイヤだった。大好きな真由香には、いつも笑顔でいてほしい。だから思い切り喉を鳴らす。そうすると真由香は喜ぶのだと、幽はいつしか覚えた。

「甘えんぼさんね、」

 真由香が笑う。幽の顎の下が優しく撫でられる。幽は目を細めて喉を鳴らす。真由香はよりいっそう幽の喉の下を撫でる。幽がコロンとお腹を見せる。真由香がその腹を撫で回す。

 至福の時間。ずっとこの時間が続けばいい。

 この時間さえあるならば、夜に外で過ごすのだって、時折理不尽に追い出されるのだって、全然構わないと幽は思った。


 幽が真由香と過ごすようになって、一ヶ月が過ぎた。いつものようにリビングのソファーでまどろむ幽を、真由香が撫でていた。昨夜、またひどい怒号が聞こえていた。今朝の真由香は、心なしかやつれて見えた。幽はだから、今日はいつにも増して真由香に甘えていた。真由香には笑っていてほしい。柔らかく穏やかな声で、自分を呼んでいてほしい。そのためなら、幽は自分に出来ることを、何でもするつもりだった。

 日暮れが近付いてきた。幽は体感で、そろそろ外へ行く時間かなと感じ、起き上がって伸びをした。最近はずっと、幽のこの様子を見た真由香が夕飯を用意してくれ、それを食べてから外へ出るのが習慣となっていた。はたして真由香は夕飯を出し、幽はそれを食べ始めた。いつものように真由香が、それを見つめていた。

 否、いつもとは少し違った。

 視線がいつもと少し違う。そう気付いた幽は顔を上げたが、それに気付いた真由香はハッとして、「気にしないで」と幽を撫でた。幽は真由香が気になったが、撫でられてまた食事を続けた。食べ終わり、毛繕いしていると、真由香がまた先ほどと同じ瞳で幽を見ていた。

 幽は毛繕いをやめて、真由香を見た。真由香も幽を見て、しばしそのまま見つめ合った。

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