第23話 ACT8 最後の希望1

数時間後。


 綾子は寝室で眠るのを嫌い、リビングの壁際にある長椅子で眠っていた。

 北條はそんな綾子に背を向ける格好で、一人がけのソファーに座り、常夜灯のみの薄暗い部屋の中、まんじりともせずにバルコニー側の掃き出し窓を見つめている。

 右手にしっかりと握られているものは、ぱっと目には木刀のようにも見えたが、それよりはかなり太めの、ケーキの生地をこねる麺棒だった。

 どれくらいの間、そうしていただろうか。時刻はとうに夜半をすぎている。

 継続する恐怖と緊張感。それがストレスとなって、精神をガリガリと削って行く。手持ちのタバコが切れて久しい。コンビニがあるのは心得ていたが、恐怖で部屋を出ることが出来ない。

 イライラが募る。溜まる。渦巻いている。

 北條の精神と身体、全てが悲鳴を上げていた。その結果、気絶に近い睡魔が繰り返し襲い出していた。

 辛うじて意識を取り戻し続けていられるのは、精神力とかそう言った、彼の意識出来るレベルの葛藤ではなく。

 もっと原始的な、恐怖に対する自衛の本能、生への執着、といった最後の砦とでも呼べるようなあさましい業によるものだった。

 気絶しては起きる。起きては気絶する。本人が気づかぬ内にその間隔が段々と短くなっていく。

 今、自分は気絶しようとしているのか?それとも気絶していて気がついたのか?そんな事すらあやふやになりかけてた、そのとき。

 麺棒を握っていた手からチカラが消え、棒はフローリングの床に転がり、北條の心臓を止めようとするが如く、がらがらと大きな音を立てて転がった。


「やべぇ……」


 彼はあわてて麺棒を拾い、椅子に座り直すと、チラリと後ろの綾子に目をやる。

 そして、長椅子に横になる彼女に変化が無いことをぼんやりと確認して前に向き直る。

 目の前のローテーブルの上に置かれた、コーヒーの入った白いマグカップに手を伸ばし、カップに三分の一ほど残る、すっかり冷めてすっぱさの増したコーヒーを一気に飲み干す。皮肉なことに、インスタントコーヒーの、そのあまりの不味さに意識が少しだけハッキリした。

 新しいコーヒーを入れようとインスタントの瓶の蓋を開け、大きなスプーンにたっぷりと一杯すくい、今飲み干したマグカップに開ける。

 お湯を注ごうと、電気湯沸かし器式のポットの「注ぐ」のボタンを押した。

 ほんの2~3秒、ポットの注ぎ口からお湯が噴き出したが、すぐにごぼごぼという不快な音と共にエアーと熱い飛沫だけが吹き出し始めると、北條は顔をしかめて舌打ちした。

 マグカップの底に1㎝に満たないお湯がたまり、コーヒーの粉末をどろどろの黒いペースト状に変えていた。スプーンでぐるぐるとこね回し、さらに液状に近づけて、試しに少しだけ口に含んでみる。


「ぐはぁあ!!」


 人の口にする物ではなかった。眠気は飛びそうだったが、これでは拷問である。


「水……。持って来るしかないな……」


 諦めて、ポットを手に取りると立ち上がり、台所へ向かおうと踵を返す。

 ドアの前まで行って武器を持っていないことに気づき、あわててソファーまで戻ると、床に転がる麺棒を拾い上げようと手をかけた、その時……。


「あのう……」


 北條は、予期せぬ突然の声に仰天し、途中まで持ち上げていた麺棒から手を外してしまった。

 棒は部屋の隅に放り投げられた格好になり、壁にぶつかった後、がらがらと音を立てながら怒り狂ったようにフローリングを転げ回る。

 北條は、ただ耳を塞いで暴れ回る麺棒が収まるのを見守るしかなかった。


「ごめんなさい」


 綾子がそう言いながら、ソファーに横になっていた身体を起こして座り直した。


「びっ、びっくりさせるな!」


 部屋が静けさを取り戻し、北條はさっきの声の主が綾子であったことを悟った。


「起きてたのか?」


 北條がそう言って脇に立つと、綾子は彼を見上げてはにかんだ。


「あっ……えーと、さっき……。北條さんが麺棒を落とした時……」


 目を覚ましたが気をつかって寝ているふりをしていたと言うことらしい。


「ああ……。悪かったな……」


 北條がそう言うと、綾子は小さく首を横に振る。


「いいえ、もうすぐいつも起きる時間なんです。だから。多分、起きたのはそのせいです」


 綾子がそう言って、何とも純粋で、楽しげな子供のような微笑みを浮かべた。

 その笑みは、本当に彼女の魅力を余すところ無く表していた。北條には何の下心も無かったのだが、少したじろいてしまっていた。


「ケーキ屋さんの朝は早いんですよ。もうあと1時間もしないうちに仕込みを始めなければいけないんです」


 綾子はそう言って今度は小さな声を出して笑った。なんと楽しそうに笑うのだろう。この魅力的な笑顔のために自分は何かしてあげられないのか。自分の置かれた状況も忘れて、ついそんなことを考えてしまう。


「すこし……」


 小さく伸びをしながら綾子が続けた。


「すこし、お話ししませんか?私、もう寝るわけにはいかないし。北條さんさえ良ければですけど」


 戸惑うように北條を見上げる綾子の申し出を、断わる理由は全く無かった。いや、むしろそれこそが自分の望んでいたことだと北條は確信した。


「ああ。そ、そうするか」


 そう言って、北條は長椅子に崩れるように座り込む。入れ違いに綾子が立ち上がった。


「じゃあ、私、お茶の用意をしてきますね。おいしい紅茶が有るんです。それと、うちの店の人気商品のリンゴのシブースト!鬼追師さんに食べて貰おうと思って作っておいたんです。ぜひどうぞ!」


 そこまで言って、綾子は「あっ」と声を上げて、神妙な顔つきになった。


「甘いモノ……。お嫌いですか……?」


「いや」


 今度は、北條が綾子を見上げて答える。


「いや、嫌いと言うことはない。むしろ……」


 彼は自分の精神と体がぼろぼろになりかけているのを感じた。


「今はありがたい」


 北條が、やつれた顔でそう言うが早いか、綾子は軽い足取りでドアに向う。


「すぐ用意しますね。待ってて下さい」


 ドアを開けようとして、ふと動きを止めて再び振り向いた。


「あっ、明かり。点けますね」


 そう言って壁にある室内の照明のスイッチを操作し、そのまま部屋の外へと出ていった。

 不意を突かれた北條が、照明のまばゆさに目を閉じる。 

 彼が再び目を開いたとき、部屋の中の様相が一変していた。

 疲労と焦燥と恐怖の対象だったその空間が、今は柔らかな彩りの、人をもてなす為の快適な演出がなされた空間に戻っていた。

 ただ一点。バルコニーに続く大きな窓の、外に広がる漆黒の闇を除いては。

 北條は、惑わされるように、しばらくその闇を眺めていたが、我に返ると身の毛立ち、一度大きく身を震わせてから、ソファーに深くかけ直した。

 話し相手がほしかった。睡魔が少しずつ、再び自分を襲い始めているのが感じられる。広い空間、柔らかな色づかい。人をもてなす空間。ここは居心地が良すぎるのだ。北條は、ぼんやりと綾子が来るのを待った。

 そろそろ見飽きた部屋の中をゆっくりと見渡した北條の視界の隅に、違和感のあるモノが写る。

 窓側、部屋の右隅。高さが一メートルほどの黒い影。

 初めそれは熊か猿の縫いぐるみかと思われた。しかし、半日ほどこの部屋に入り浸っていた北條だが、そんなモノを見た記憶がない。


「何だ?」


 立ち上がって半歩ほど近づく。明かりは点いているのに何故か輪郭がハッキリと確認できない。思わず掛けていた眼鏡を外し、目を擦って掛け直し、もう一度目を凝らしてみる。

 黒い。大きな。コケシ?

いや、よく見ると『こけし』の顔に当たる部分は『塗料で描かれた』ものではなく、彫像のように彫られたモノのように見えた。その姿は、こけしと言うより地蔵に近い。そのモノは、何故か段々と細部がハッキリしてくるように北條には思えた。潰れた鼻、固く閉じた瞼の皺。

 黒くゴツゴツとした、石で出来ていると思われた身体は、じつは短い黒々とした剛毛に覆われている事も見て取れる様になった。


 『剛毛』?


 前に出ようとしていた北條の足が一歩後ろに引かれた。


「ま、まさか……」


 気づくのが遅かった。

 黒い地蔵は、部屋のあちこちにぼんやりと出現し、実体化を始めていた。

 その数は、確認できるだけで10体は居る。

 恐怖の余り声も出ない。握っている麺棒に無意味にチカラが入っていく。

 やがて、最初に実体化を始めた地蔵の目が、ゆっくりと開いていった。その様は、瞼が開くと言うよりは、巨大な眼球がせり出してくると言う表現の方が適切で、瞼そのものは人のそれと変わらぬ比率で顔に付いていたのに、開ききった目の比率は顔の三分の二以上を占めていた。迫り出した眼球に押される格好で、小さくて潰れた鼻は尚も顔にめり込み、左右に引きつった薄い唇は、悪意のある笑いを浮かべているように見えた。

 北條には、この地蔵達が手足が無いように見えていたが、そうではなかった。それらは、身体にピッタリと張り付くように折って畳み込まれており、今まさに、ぱきぱきと生木が裂けるような音を立てながら伸ばし始めているではないか。

 身体の比率にしては異様なほど長い腕。だが足はガニマタで短かく、すべて伸ばしきった後でも身長は一メートル程度しかない。その姿は地蔵ではなくて、とことんふざけた、落書きの猿だった。

 あちこちで、手足を伸ばしきった猿が、千鳥足で踊るようによたよたと立ち上がる。その内の一匹が、定まらぬ焦点の目を北條に向けた。

 そして、何事か伺うように、離れて覗き込んでいたかと思うと、鋭いノコギリのような歯の並んだ口を大きく開け、体勢を低く構えて威嚇するように吠えだした。


「ヴェッ、ヴェッ、ヴェッ!」


 一匹が騒ぎ出すと、それに答えるように、短く、耳障りな叫びがあちこちの猿から上がり出す。

 猿たちは目の焦点を合わせる事が出来ないらしく、各々は有らぬ方向を向いていたが、その威嚇が北條に向けられているのは間違いなかった。


「ああああ……アアア……」


 恐怖で、見る見る北條の身体が固まっていく。

 やがて、また猿たちに変化が見られた。折り畳んでいた、両手の人差し指と中指をゆっくりと伸ばしだす。手の形状は、まさにシワクチャ剛毛の猿そのものだったのだが、その二本の指だけは違っていた。伸ばした二本の指の、根本から一センチほどの所から、ギラギラと輝く刃渡り三十センチほどの刃物状に変わっているのが見て取れた。

 一センチほどしかない短い指に、三十センチほどの、幅の広い刃物のような爪が生えている。

 刃物を持った猿。

 そして多分、自分を敵として認識し、憎しみの感情を抱いている猿。

 始末に負えない畜生どもが部屋を埋め尽くそうとしている。

 北條の足がすくむ。尚も下がろうとしたが腰が重くなり、その場にへたり込みそうになった、その時……。


「北條さん、どうかしましたか?」


 綾子の声がして、部屋に近づいてくる気配がした。

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