自動販売機

桜枝 巧

1.「彼女」

その自動販売機は、一階にある購買部の部屋の隣にあった。

丁度校舎の一棟と二棟の間の吹き抜け部分にあるその場所では、中庭からきた黄色く染まった桜の木の落ち葉が絶えず吹きこんでいる。


 帰宅部の僕にとって、夏服のワイシャツだけでは昼休み中とはいえ少し肌寒い。むき出しの高校二年男児とは思えない細い両腕を手のひらでさすり、一つ身を震わせる。衣替えの通知はまだだろうか。


 さて、とわざとらしく呟いた僕は、二つの自動販売機の前で財布から百円玉と十円玉三枚をとりだした。右手で握りしめると、不安と期待が入り混じった汗で少し湿り気を帯びる。


 ジュースメーカーのロゴが入った赤いボディと、缶コーヒーで有名な会社の青いボディは、微動だにせず寄り添うように並んでいた。

 運動部に人気のあるスポーツ飲料や炭酸系のジュース、コーヒー。おしるこやホットチョコレートといった変り種もあり、種類は豊富だ。


 体育祭も終わり最近寒くなってきたせいか、青い販売機の方の商品の配置が変わっている。三段あるうちの一番下のコーヒー達の表示が、「つめたーい」から「あったかーい」になっていた。


 汗ばんだコインを少しずつ、時間をわざとかけるようにして投入口に入れる。自販機の中で硬貨同士がぶつかり合う音が微かに聞えた。

百円玉、十円玉……不安に駆られながら二枚目の十円玉を入れた時、


「お、いるいるー」

 後ろから間延びした、柔らかで湿った絹糸のような声がした。


 思わずびくんと肩が跳ねる。振り返ると、秋のどこか哀愁漂う空気が一変、明るくなった。長いまつげに覆われた瞳を優しげに細めた彼女は、僕の隣にためらいもなく立つと手を軽く振る。他人同士の関係にしては親しみ深い、どこかいたずらっ子めいた笑みを浮かべた。


 少し茶色がかった髪を二つ結びにして揺らす彼女は、毎週金曜日のこの時間にコーヒーを買いに来る。


「よっ、……えーと、『三つ隣の同学年』くん」


 落ち葉を運んでくる風が、温かく感じられる。春はまだ先のはずなのに、桜の木の落ち葉の中に桃色の花を見た気がした。や、やあ、と震える声で返す僕に彼女はうん? と小さく首をかしげる。


「やっぱり金曜日はコーヒーの日だね。自分にご褒美だよ。君もそうでしょう? コーヒーじゃないけど」


 同年代の女子たちより幼い物の言い方の中に大人びた彼女が見え隠れするのはなぜだろう。焦げ茶色の瞳や何も塗られていない素朴な桜色の薄い唇が、僕に迫ってくるようだ。舞台に立って大勢の人に視線を浴びせられるとこんな表情ができるようになるのだろうか、と小さいころから演劇をやっているという彼女を見ながら思う。


 それに加えて感じる、小指の爪ほどの違和感。会えるのが自動販売機の前だけだなんて制限されたシチュエーションと、彼女の屈託ない、いや屈託のなさすぎる笑顔が、僕から現実感をなくしていく。


最後の十円玉を投入口に入れ、一番右上のボタンを押す。ガコン、と威勢のいい音を立てて缶が落ちてくる。


「あー、またこれなんだー」


と耳元で声が響いて、心臓が跳ねる。彼女はしゃがみ込むとおしるこの缶を取り出した。お礼を言ってから受け取る。一瞬彼女の細い指が触れて、自分の指先が震えた。冷たくなってしまった手のひらに、じんわりとした温かさが広がっていく。


 ぼんやり立っている僕の隣で彼女はいつも通り、あまり似つかわしくないブラックコーヒーの二百ミリリットル缶を買った。

 肌の色と対比するように真っ黒な缶のプルタブを開け、少し上をむいてそれを唇に当てる。こくり、と一度喉が動いた。ゆるく結んだ二つの髪の束が後ろに追いやられることで、小さな耳が一瞬見えた。


 一つ一つの行動が、僕をどきりとさせる。


 どこか幼く、無邪気な彼女は、僕らが大人になるにつれて失くしてしまったものを持っているような気がした。それでいて、どこかに僕らより一つ向こうにある一種の寂しさや不安を隠し持っている。


 そんな矛盾的な部分に、僕は惹きつけられているのかもしれない。

 まるで、突然現れた映画や小説のヒロインのようだ。


「……そんなに見られると、飲みにくいんだけれど」

「ご、ごめん」


 横目で見られ、慌てて自分のおしるこ缶のプルタブを上げた。腑抜けた音がして、甘ったるい香りが漂いだす。一口飲むと、あんこ独特の少し舌に残る甘さと小豆の皮の苦さが口の中で踊る。


 いつも通り、彼女のペースに乗せられっぱなしだ。


 ふふ、と鼻で笑うような音が聞こえて、視界の端に黒いスカートの裾が入る。次の瞬間、彼女は覗き込むようにして僕と視線を合わせた。


「君、やっぱり面白い人だね」


 一度治まった顔のほてりが再燃焼する。極限まで細められた瞼の奥に潜む黒い瞳が僕を突く。硬直する僕の隣ですぐに顔を上げた彼女は、じゃあまた金曜日に、と口にしながら、軽やかな足取りで教室棟廊下の曲がり角へと消えていった。

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