第46話 夕暮れ
ジールマンにとって甚だ不本意ではあったが、それでもこういった状況を愉しめる余裕があったのは事態がいかにひっ迫しているかということについて無頓着ではなかったが、彼にはいくつかの計算違いがあった。
第一に、彼は自分の生命の危険をこれっぽっちも思っていなかったことである。もちろん犯罪の片棒を担いだことについては、十分に身の危険を感じ、それに備えた行動をしているつもりでいた。しかしその共犯者から自分が騙されることはあっても害されることはないと考えていた。なぜなら彼は、死ぬほどに人を好きになったり、愛したりしたことはなかった。ゆえにブランデンブルクがそこまで思い詰めているとは考えられず、ましてその対象が人形<オートマタ>である以上、コレクターとしての偏狂は理解できても、自分がそれらに俗物的に興味を持ち、記事にしようとしていることについて、ブランデンブルグはある一定の取引には応じると考えていたのである。
ある一定の取引とは、警察の目をごまかせる最大期間、ブランデンブルグにはあの人形を愛でる自由をあたえ、いよいよ危なくなる直前に、アメリア夫人を模したオートマタが、事件に大きな関わりがあり、それを警察が隠しているという事実に基づく警察批判の材料として、ジールマンが記事を書く。そのタイミングでアメリア夫人のオートマタは大衆の目にさらされるような場所に放棄し、警察の身動きを抑えるというものであった。
もともとジールマンは警察をそのような形で批判するつもりはなかったのであるが、先日行われたブレーメン警察署での記者会見での醜態――アメリア・ベルンシュタイン殺人事件及び偽装連続殺人事件の記者会見のあと、署内を探っていたところをローベルト主任にからかわれ、トイレだと案内された場所であのオートマタを鉢合わせになり、腰を抜かしたこと――に対する復讐心は、警察とオートマタの両方に向けられていたのであった。前者は故意に、後者は無意識に、である。
しかし、当事者が無意識であってもオートマタをオートマタだとは思っていないブランデンブルグにとってはジールマンの態度はアメリア夫人に対する侮辱以外の何ものでもなく、何を置いても許されないことであった。
第二に、彼は警察の手がそこまで早く回るとは考えていなかった。それはジールマンがブレーメン警察署をよく知るが故に起きた誤解であった。実際、この段階で証拠品が警察署から盗まれたことを知っていたのは僅か3名――ベーレンドルフ、カペルマン、そして人形の制作者、ダミアンである。もし仮にベーレンドルフがこのことに気が付き、捜査にあたっているということをジールマンが想像できたのであれば、多少なりとも慎重になっていたかもしれない。しかしベーレンドルフを始めとした連続殺人事件の捜査の網は、ブレーメンの外に向けられているし、おそらくそのことと人形は関連性がないため証拠品として事件解決までこのままずっと保管庫で眠ることになる……事件が解決しなかったとしても、証拠品を別の場所に移動するには数週間か、数か月単位で先のことだと考えていた。
第三に、アメリア夫人のオートマタが、どのようなものであるのか。ジールマンはまるでわかっていなかった。そしてジールマンにとっての最大の誤算は、ダミアンという究極の人形師の存在そのものである。もしジールマンがダミアンの存在をしっていれば、そもそもオートマタの盗難など考えもしなかったかもしれない。まさかアメリア夫人のオートマタが夫の一物を噛み切ったなどと、誰が想像できようか。
そんなわけでジールマンは女装という今までしたことがない体験を少なからず楽しみながら馬車に揺られていたのである。御者とのやりとりは声を出さずに行うことができ、女性がお忍びで素顔を晒さずに馬車に乗ることなど珍しいことではない。加えてジールマンの体系は普通の男性に比べてやや華奢(きゃしゃ)であり、ブランデンブルグは目測での採寸は間違いがなかった。ゆえにジールマンは特に馬車を急がせることなく、悠然と滑稽なる移動を愉しんでいたのである。ただ不本意であったのは、急な呼び出しで仕事をほったらかして出てきてしまったことだった。
ジールマンは手荷物の中から本を二冊取り出し、馬車の中で読み始めた。一冊はヨハン・ゴットフリート・ガレの論文が掲載された惑星観測に関する天文学の専門書であり、もう一冊は子供向けにまとめられた天文学の入門書であった。ジールマンは分厚い論文の中で目に引く図解部分のページにしおり代わりに手帳の切れ端を挟み、ほとんど読むことをせずに本を閉じ、もとの場所に仕舞い込んだ。そして目的地に着くまでの間に天文学の入門書に目を通し、しばらく星の世界に思いを馳せた。
「たまには、夜空を見上げてみるか」
ジールマンがそうつぶやいたとき、馬車は止まった。
「お客さん、ここを左に行けばアハターディエク湖、右に行けばブロックティーク湖ですわ。アハターディエク湖でよかったですよね」
御者は目の前にある看板を指差しながら、ゆっくりと丁寧に話しかけた。ジールマンは声を出さずにゆっくりとうなずいた。
「では、ゆっくり進みますんで、おりたい場所で声を掛けて下さいまし」
老紳士は、丁寧な口調で案内をすると、帽子をかぶり直し、ゆっくりと馬車を進めた。その様子をブロックティーク湖に向かう道に止められたアドラー社の白いフェートンから見ている一行がいた。先回しをしたベーレンドルフらであった。
「どうやらブロックティーク湖に向かうみたいですね」
カペルマンが大きな体を屈めながら後部座席から前に座る二人に話しかけた。
「これでやっとブランデンブルグの居場所がわかる」
ベーレンドルフは煙草をふかしながら言った。
「そしてアメリア夫人のオートマタと感動の再会と言うわけですね」
助手席のダミアンはいたずらっぽく笑いながら言ったが、その瞳には深い、深い闇があることをベーレンドルフは見て取り、大きく一つため息をついた。
「さて、誘拐されたご婦人を取戻しに行くとするか」
車はゆっくりと走り出す。
彼らが停車した位置から更にブロックティーク湖に向かって数百メートル行った先の脇道にえんじ色のメルセデスが止まっている。
「ほう、どうやらあの場所に乗っている人物が追跡の対象のようですね」
後部座席に座っている背の高い男は、オペラグラスでベーレンドルフたちの様子を観察していた。ベーレンドルフの車からは気の影になって見えない位置である。
「へぇ、旦那」
運転席の男は卑屈に笑いながらエンジンをかけた。
「いきなりあいつらが止まるものですから、一瞬冷やっとしましたがね。どうやらうまくやり過ごせたようですね」
後部座席の男はオペラグラスをしまい込みながら苦言を呈した。
「ベーレンドルフという男を侮ってはいけませんね。ここからはくれぐれも慎重に、遅れを取らないように、お願いしますよ、フランク」
「へぇ、旦那」
フランクは車を静かに、そしてスムーズに発進させた。湖の分岐点まで行くと、いったん車を止めて、向こう側の様子を覗い車にもどってきた。
「馬車がこっちにもどってきていますぜ。どうやらここからそう遠くないところで客人は降りたようですぜ、旦那」
「そうですか。そうなると彼らは客人が下りた少し先まで行って、車を止めたでしょうね。鉢合わせになるのは好ましくない。その馬車を停めて、どこでどんな人物を降ろしたのか、聞いてみましょうかね」
後部座席の男は財布を取り出し、金をフランクに渡した。
「へぇ、旦那」
そして二人は馬車から降りたのは女であること、もしかしたら外国人かもしれず、言葉は一言も話さなかったということ、そして下した場所、その直後に白い乗用車が追い越して行ったことを知った。
「女……ですか。益々面白いことになってきましたね」
フランクはきょとんとしていた。
「さて、謎の女の正体を拝みに行きましょうか。私をその場所で下してください」
「へぇ、旦那」
フランクは言われたとおりに車を馬車が女性を降ろした場所まで回し、背の高い男を降ろした。
「フランク、彼らの車のタイヤに細工を施して、万が一私たちが追われるようなことがあっても、問題ないようにしておいてください」
「へぇ、旦那」
背の高い男はポケットから懐中時計を取り出した。時刻は4時を回り、背の高い男の影が馬車道に長く伸びている。日はもう、長くはなかった。
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