第23話 ~フィリピン~ 一九八四年九月 <23>


  (このストーリーはフィクションです。作中の人物、企業などはすべて作者が創作したものです)


       〈二三〉



  高野さんが次に口を開いたのは、タバコを二本たてつづけに吸ってからだった。

  「エヴェリンはいまから九か月ほど前に、不法滞在中のバーのホステスという境遇から抜け出して、あるいは、抜け出すつもりで、ボタン用貝殻の輸出入ビジネスを準備するためにフィリピンに帰ってきた。…小林から〔かなりの額の〕準備資金を手渡されてね。

  「小林が矢部に告げたところでは…。エヴェリンはまず、セブでボタン用貝殻を少し買いつけ、それを見本として小林に送ることになっていた。で、僕らがすでに知っているように、トゥリーナ、エヴェリンは実際にミスター・フェルナンデスという人物を見つけ出し、彼を通じて見本を送った。見本の貝殻はきれいな真珠色の光沢を持っていたし、厚みも大きさも、上質のボタンをつくるのに十分なものだった。小林はエヴェリンに見本が合格したことを知らせ、次の段階、貝殻が本格的に輸出されてくるのを待った。

  「けれども、エヴェリンからはそれ以上は何も送られてこなかった。代わりに、彼女が準備のために使った費用や彼女の活動内容が詳細に記された、英文の四半期報告書が郵送されてきた。その報告書の支出の中には―この国ではふつうに見られる習慣だと僕は思うけど―必要な認可を受けるための、小額ではない〔役所への手続き費用〕が含まれていた。ミスター・フェルナンデスへのコミッションや、ベニートやガブリエルなどといったエヴェリンの従業員たちへの〔給料〕も含まれていた。エヴェリン自身も〔彼女が日本に残って働きつづけていたとしたらこれだけは稼いでいたはずと思われる額〕の報酬を受け取っていた。

  「小林は驚いた。報告書に書かれていることが信じられなかった。エヴェリンは彼が頭に描いていた事業拡大計画を一年以上も先走りさせて進めているようだった。英語を読むのは楽ではなかったけれども、彼にもそれぐらいのことは分かった。彼は電話でエヴェリンに〔待て〕〔そんなに急ぐな〕と伝えた。

  「エヴェリンは〔待つ必要はない〕〔システムができたからいつでも貝殻が買える〕〔買いつけ資金を送ってくれ〕と言ってきた。電話を何度もかけてきた。小林は送らなかった。動かなかった」

          ※

  「エヴェリンの日本語力は、僕が思うに、トゥリーナ、ホステスとしての仕事をこなすのには十分だったのだろうけれども」。高野さんはつづけた。「その新しいビジネスをやっていくには、たぶん、ちょっと不足していたんだね。だから、ビジネスについて細かいことを小林に説明するとき、彼女は英語を使った。彼を説得してカネを早く送らせたいという思いがつのればつのるほど、彼女が使う言葉は英語に傾いていった。小林にはそう見えた。彼にはエヴェリンのそんな態度、そんな変化がおもしろくなかった。英語ができるという事実を背景に彼女が彼をリードしようとしているのではないかという疑いを彼は抱きだした。彼女とビジネスをやっていくことに彼は不安を感じ始めた。

  「小林が胸の中に描いていた計画では、エヴェリンに渡した資金の大部分は貝殻買いつけ資金として使われるはずだった。いや、〔システム〕のことは何度もエヴェリンと話し合っていたし、それをつくり上げる意図は当然彼にもあった。けれども、さっきも言ったように、トゥリーナ、小林は、それは一年以上先のこと、貝殻の輸出入の流れがある程度スムーズになってからのことだと考えていた。日本で話し合っていた段階では、エヴェリンもそのことを理解している、と思っていた。…にもかかわらず、フィリピンに戻った彼女はたちまち〔システム〕づくりに熱中してしまった。

  「そのことについての矢部の見方はこうだったよ。〈エヴェリンにとって、小林とのビジネスをちゃんとやっていくのに最も必要で、緊急だったのは、ボタン用貝殻を彼に安定して供給するための完璧なシステムをつくり上げることだったのだろうね。…万が一にも、小林の心変わりか何かである日突然にフィリピンに放り出されるみたいなことが起こらないように。日本でのホステス生活に戻る、というようなことにならないように。ビジネスの土台を先にしっかりとつくっておけばビジネスウーマンとして自分は安全だ、というので。しかも、実際に、見本の貝殻にはオーケイの合図があったわけだからね。システムづくりを遅らせなければならない格別の理由は彼女には見つからなかったのじゃないかな〉

  「たぶん、言葉がうまく通じ合わないという問題だったと思うよ。何しろ、〔外国語恐怖症〕の小林にエヴェリンは、大事なところは基本的には英語で説明するしかなかったんだからね。でも、小林はそうは受け取らなかった。何かが変だと思い始めた。彼女がフィリピンにつくり上げたという〔システム〕が小林には何か恐ろしいものに見え始めた」

  「〔恐ろしいもの〕?」

  「ああ、トゥリーナ。はっきり言ってしまうと、矢部は僕にこう言ったんだ。〈エヴェリンがフィリピンにつくったという〔システム〕が小林には〔彼のカネをどこまで引き出すための罠〕に見えてきたらしいよ〉」

  「まさか…。その小林という人とエヴェリンは愛人どうしだったのでしょう?」。わたしは高野さんに言った。…アンサーリング・マシーンから聞こえてくる克久の冷たく機械的な声をここでも思い出しながら。

  「そうだったんだけども…」。高野さんは答えた。「僕も、それはないんじゃないか、と思ったけれども…。いや、実際に、矢部にはそう言ったんだよ。…でも、〔罠に見えてきた〕というのは小林自身の言葉だ、ということだった」

  「ということは、高野さん、小林という人は、あなたの助けを求めてきたとき、エヴェリンの〔システム〕はちゃんと機能しないんじゃないか、というふうに、言ってみれば、技術的なところで、疑っていたんじゃなくて、彼女自身を疑っていたんですね。彼女がとんでもない詐欺師なんじゃないか、みたいに?」

  「小林にはやはり、僕に〔システム〕を〔こっそりと〕チェックしてもらいたい―それも相当に深刻な―理由があったんだね」

          ※

  克久の声がわたしの頭の中にこだましていた。〈中絶するんだ、トゥリーナ。言うとおりにしてくれ。頼むから中絶してくれ〉

  「その後の数日間を僕は、さっき話したように、トゥリーナ、マクタン島のタンブリビーチで過ごしたわけだけども」。高野さんは言った。「そのあとマニラのホテルに戻ってみると、エヴェリンが小林に郵送していた例の四半期報告書のゼロックスコピーが矢部から届いていたよ。これが几帳面すぎるほど詳細な報告書でね、そこから、前に働いていた食品卸会社での事務の経験を十分に活かしてエヴェリンがこれを書いたこと、エヴェリンが彼らのビジネスに格別に真剣に取り組んでいたことが知れたよ。…彼女の〔システム〕がある種の詐欺の道具かもしれないと疑わせるような個所は、少なくとも僕には、見つからなかった。

  「小林には違って見えたらしい。彼には、たとえばマクタン島の貝殻業者、ミスター・フェルナンデスがエヴェリンの不正行為の協力者だ、というふうに見えたんだろうね。エヴェリンの兄のベニートや従兄弟のガブリエルが〔小林をカネのなる木と考えている無頼漢〕でもあるかのように見えたんだろうね。…小林が彼らを疑ったのは、トゥリーナ、結局は、ほかでもない、エヴェリンが信用できなくなったからだよね。…エヴェリンのフィリピンでの懸命の働きに、小林はそんなふうに応えたんだ」

  〈克久もわたしの妊娠をそんなふうに受け取っていたんだろうか〉と自分にたずねていた。〈子供ができたことを幸いにして、わたしが…?〉

          *

     <二四>につづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る