進展
今日は日曜日だ。平井美紗は近くのデパートで買い物をしていた。僕は気付かれないように、その後をつけていた。「気付かれないように」と言ったが、キューピッドは普段人間からは見えないので、気付かれる心配はない。しかし、今の僕は人間の姿を借りており、他の人間にも見える状態だった。もちろん見えるだけでなく、話すことも触れることもできる。
日曜日のデパートは若い人たちで溢れていた。カップルで買い物を楽しむ者もいれば、同性の友達とはしゃいでいる者、平井美紗のように一人で店を回る者もいた。平井美紗はふらりと服の店に立ち寄った。おしゃれな店で、二十台前半と思われる若い女性の店員がいた。平井美紗は、なにげなくジーンズを手に取った。
「お気に入りのものがありましたか?」
女性の店員が話し掛けてくる。穴の開いたジーンズに、ほつれた感じのティーシャツ。ひとつ間違えればどこかのホームレスに見えてしまいそうな格好だが、彼女が着ると似合ってしまう。頭に巻いた黄色のバンダナが凛々しさを演出していた。
「いえ、少し見ていただけですから。」
平井美紗は、一歩後ずさりながら言った。
「よかったら、試着してみてはいかがですか?これなんか、似合いますよ。」
店員は、少し灰色がかったジーンズを手に取った。
「どうですか?試着するだけでも。」
店員の言い方は丁寧だが、どこかサバサバした印象を受けた。しかし、それは悪い印象ではなく、聞く方に爽快感を与える喋り方だった。
「いや、いいです。今、お金持ってないんで。」
「別に、今買わなくてもいいですよ。」
「あ、じゃあ、あたしはこの辺で。」
平井美紗は、店員から逃げるようにして店を出た。「ははーん。さては店員と話をしていると欲しくなって衝動買いしてしまうタイプだな。」僕がそんな分析をしていると、平井美紗が僕の方へ近づいてくるのが見えた。僕は慌てて物陰に隠れた。今はまだ顔を見られるわけにはいかない。今は。
平井美紗は僕の前を通り過ぎて行った。僕は再び尾行を開始する。靴屋の前を通り過ぎ、エスカレーターで二階へ行く。
「いいじゃん。こうかんしようよ。」
「やだよ。あっちいけよ。」
五、六歳くらいの兄弟が、何やらもめている。どうやらおもちゃの取り合いのようだ。
「こら。ふうちゃんが、こっちがいいって言ったんでしょう。」
その横で、母親らしき人物が兄弟をなだめていた。平井美紗はその様子を微笑ましく眺めながら通過していった。僕には微笑ましく眺める余裕などない。兄弟と母親の脇をすばやく通り過ぎようとした。と、
「やあだっ!」
弟らしき方が突然おもちゃを抱えて振り返った。そして不幸なことに僕の目の前に踊り出た。平井美紗の後ろ姿ばかりを追っていた僕は、よけきれずにぶつかってしまった。バランスを崩し、前のめりに倒れる。まったく、子供というやつは!
「大丈夫ですか!」
母親が僕に近づいてくる。
「ああ、大丈夫です。」
僕はすぐさま立ち上がった。平井美紗を見失ってしまうことが心配だった。
顔を上げて平井美紗を探す。彼女は母親の声に驚いたのか、こちらを振り向いていた!(やばい!)僕は顔を伏せた。平井美紗に顔を見られたのではないか。それが心配だった。
「ごめんね、痛くなかったかい?」
僕は心にも無いことを子どもに言い、その場を取り繕った。母親は「すみません、すみません。」と連呼している。僕はそっと顔を上げた。平井美紗の後ろ姿が見えた。どうやら顔は見られていないようだ。僕は胸を撫で下ろした。
「すみません。僕、急いでるもんで。」
僕は母親を振り切って、平井美紗を追った。
僕は、平井美紗が一人になる時を待っていた。しかし日曜日のデパートは人で溢れ、平井美紗はなかなか一人にはならなかった。トイレに行った時は一人だったが、さすがに女子トイレまで追いかけることはできない。
「こりゃあ、デパートから出ないと無理かな。」
僕は結局、一時間ほど平井美紗の買い物に付き合った。平井美紗は店と店とをブラブラしていたが、ほとんど何も買わなかった。買ったものと言えば、クレープにボールペン、ゴミ袋。コンビニでも買えそうな品々だ。
「そろそろ行くかな。」
平井美紗は誰にともなく言い、歩き出した。僕は後を追った。エスカレーターを下り、一階へ行く。寄り道もせずにまっすぐ歩き、自動ドアをくぐる。平井美紗はデパートを出た。デパートの出入り口付近は、デパートに入る人とデパートから出る人で混み合っていた。僕は歯噛みをした。
「まだか?」
だが、あせってもうまくいかない。僕は気持ちを落ち着かせるよう、自分に言い聞かせた。
デパートから少し離れたところで、ようやく平井美紗は一人になった。
「よし。」
僕は周りに人がいないことをもう一度確認し、行動に移った。僕は歩くスピードを上げた。僕と平井美紗の間にあった微妙な距離は、あっと言う間になくなった。僕はそのまま平井美紗を抜き去る。二、三メートル進んだところで、僕はわざと財布を落とした。
「あ。」
平井美紗の言葉が聞こえる。僕は無視して歩き続けた。
「財布、落としましたよ。」
僕に対して言った言葉であるのは確かだが、ここで待ってましたとばかりに振り返っては、あまりに不自然だ。僕は聞こえないふりをした。
後ろから平井美紗が追ってくる足音が聞こえる。平井美紗は僕の肩をポンポンと叩いた。
僕は振り返った。
「財布……え?」
平井美紗は目を見開いた。硬直してそのまま動かない。平井美紗が驚くのも当然だろう。僕は自分の顔を、上原優一とそっくりに作り変えていたのだ!
「優一?」
平井美紗が搾り出したように声を出す。僕は眉をひそめて見せた。
「どうかしましたか?」
「優一じゃ、ないの?」
もちろん僕は上原優一を知っていたが、「誰だ、そいつは?」という表情を作った。
「人違いじゃないんですか?」
顔は上原優一に似せてあるが、声は別の声にしておいた。平井美紗も僕が上原優一ではないことに気が付いたようだった。それでも、信じられないと言うように、僕の顔をマジマジと見た。やがて首を左右に振ると、落胆の表情を見せる。
「すみません。人違いでした。」
平井美紗は、魔法が解けたように冷静になった。言葉づかいは丁寧になり、態度もよそよそしくなった。僕に財布を渡すと、そのまま去って行こうとする。僕は彼女の背中に声をかけた。
「すみません。」
平井美紗は振り返った。その目が「何か用か。」と語っていた。
「僕にはですね、普通の人間と違うところがありまして。」
僕は切り出した。
「時々、予言めいたことが頭に浮かぶんですよ。もしかしたら、余計なことかもしれませんが……」
「いいですよ。言ってください。」
僕はうなずいた。
「あなた、何か捉われているものがあるんじゃないですか?詳しくは分かりませんが、何か過去のモノがあなたを縛っている、そんな感じがします。」
「どうでしたか?駄目でしたか?」
「いや、なかなかおもしろいと思うよぉ。彼女にはまず、過去の恋愛に目を向けてもらわないといけないからねぇ。」
僕と先輩は上空から平井美紗の動向を見守っていた。平井美紗は街の中を歩き回っていたが、どこか「気」の抜けたような顔をしていた。
「過去のモノかぁ。」
平井美紗は呟いた。
「もう、吹っ切ったと思ってたんだけどな。」
遠くを見るように目を細める。平井美紗は大きく息を吐いた。
よしよし、考えているな。僕は自分の作戦がうまくいったので、心の中でガッツポーズを作っていた。
「でも、よくよく考えたら、あたしはずっと引きずっていたのかもしれない。」
平井美紗は、手帳から例の紙切れを取り出した。懐かしむようにして文章をながめている。「そんなもの捨ててしまえ!」僕は心の中でエールを送っていた。
しかし、平井美紗は紙切れを捨てることなく手帳の中に戻した。僕は少し落胆する。
平井美紗は立ち止まって何やら考え込んだ。しばらくの間、ずっと腕を組んで考えていた。何か迷っているようでもあった。
「よし!じゃあ、断ち切りに行きますか!」
迷いが晴れたのか、平井美紗は大きな声を上げた。平井美紗は財布を取り出すと、中身を確認した。次に腕時計で時間を確認する。僕には平井美紗の行動が理解できなかった。何をしようというのか。
「うん。間に合うな。」
平井美紗は早足で歩き出した。何に間に合うというのか。僕は平井美紗の不可解な行動に不安を覚え始めていた。「おかしなことをしなければいいけれど。」僕は心の中で祈りつつ、平井美紗の後を追った。着いたところは駅だった。
「どこに行くんだろう。」
平井美紗は迷うことなく「みどりの窓口」に向かった。
「すみません。東京まで行きたいんですけど。」
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