第18話
「……」
「まだ、たった何十年か前の話だ。この少し後、黄泉族が大量に転生した事で、葦原中国の人口は爆発的に増えた。だが……」
黙って聞き続ける仁優に、瑛は淡々と話し続ける。淡々と話してはいるが、その顔は苦い物を呑み込んだ時のような顔をしている。
「この時を境に、この国の神は殆どが死んでしまった。高天原軍に従軍した天神の多くは戦死し、黄泉族化した。黄泉族は転生し、人間となったんだ。私のように」
「……」
仁優は、かける言葉が見付からない。仁優の困惑が伝わったのだろう。瑛は、いつに無く優しい顔で苦笑した。
「……以前、伊勢崎に言われた事は無いか? 今この状況なのは、全て私のせいなのだと。人が死ぬのも、近頃子どもが生まれなくなったのも、黄泉族が葦原中国を襲うのも……」
確かに、言われた事がある。葦原師団に来た、最初の日に。頷く仁優に、瑛は「そうだろう」と頷き返した。
「確かに、そうだ。私が……伊弉冉尊が、あのような――半端な蘇りと転生をするようなシステムさえ作り出さなければ、そもそも数十年前のあの事件は起きなかったかもしれない。そうすれば、伊弉諾が死ぬ事も、私が転生する事も無かった」
「? 伊弉諾が死んじまったのはともかくとして……伊弉冉――瑛が転生して、何か問題でもあるのか?」
首を傾げる仁優に、瑛は深々と頷いた。
「生を司る神と、死を司る神の立場が入れ替わってしまった」
「……!」
仁優の目が、見開かれた。
「お前も知っているだろう? 私と伊弉諾は、袂を分かった数千年前、千引岩を間に挟み、ある誓いを行った」
「……伊弉冉は、葦原中国の人間を一日に千人殺すと言い……伊弉諾は、ならば一日に千五百の子を増やすと言った……」
そうだ、と、目を伏せながら瑛は言う。
「実際私は、黄泉国から葦原中国に干渉し、一日に千人以上の人間が死ぬよう力を送っていた。伊弉諾も同様だ。毎日千五百人以上の子どもが生まれるように、干渉していただろう。だが、黄泉族となった伊弉諾――死んだ神が、子を誕生させる事はできない。それができるなら、私はとっくに、黄泉族全員を完全な生者として蘇らせていた。……勿論、私自身も含めてな」
そう言うと、瑛は泣きそうな顔になる。
「伊弉諾が死んだ事で、葦原中国は子どもが生まれ難い国となった。事実、この十数年、この国の出生率は下がり続けているだろう?」
「けど、瑛――伊弉冉が死んじまったんだから、死亡率だって……」
「私がやっていたのは、確実に一日に最低千人は死ぬようにする事だ。神にすら寿命をどうする事もできない以上、私が手を下さずとも、いずれ人は死ぬ。ただ、夭逝する人間が減っただけだ。生まれる子どもは減り、死ぬ人間は消えない。そうなれば、いずれ人間は死滅する……」
「……」
ニュースで、何度も聞いた話だ。聞く度に、実感が湧かないでいた。しかし、神――しかもこの国を創った始祖の神である瑛に言われると、それが非常に身近で、且つ、恐ろしい事であるように思えてきた。
「……例えば……例えば、さ。瑛が伊弉諾の代わりに、生命を司る神になる事ってできねぇのか? 二人は対の神様なんだし、伊弉諾ができるなら、伊弉冉である瑛にだって……」
瑛は、礼をギュッと抱き締めると、フルフルと力無く首を横に振る。
「やってはみた。だが、駄目だったんだ。生きていた時の伊弉諾と比べると、生命力が弱過ぎて、ほとんど数を増やす事はできなかった……」
「あ……」
思わず、呟いた。以前、大学で何気無く受講した東洋文化の講義を思い出したのだ。生者と死者、男と女を陽と陰で分けていた。一時期ブームにもなった、陰陽師を取り扱った書物にも出ていた話だと思う。
陰陽の考えでは、色々な物を陰と陽に分けていた。男は陽、女は陰。太陽が陽、月が陰。土地にも、陽の土地と陰の土地という分け方があったように思う。そして勿論、生者は陽、死者は陰だ。
これを当てはめてみると、生きていた頃の伊弉諾は陽陽、現在の死んでいる伊弉諾――ウミは陰陽、伊弉冉だった頃の瑛は陰陰、現在の瑛は陽陰、といったところか。
なるほど、陽陽――生きている伊弉諾でなければ、生きている子どもを増やすための生――陽の力が足りない、という事か。……あくまで、この仮説が正解であれば、の話だが。
そこまで考えが巡ったところで、この仮説が正解であろうと不正解であろうと、瑛に対する慰めには繋がらない事に気付く。仁優は、今の仮説を考えなかった事にして、サクッと捨て去る事を決意する。大学のレポートでもこれだけ思い切り良く不要な文章を諦める事ができれば良いのだが。
「……母様……」
瑛に抱き締められた礼が、不安そうに瑛を呼ぶ。己が小刻みに震えていた事に気付いた瑛は、表情を和らげ、礼の頭を撫でた。
「……大丈夫だ、礼。心配無い」
優しくそう言う顔は、間違い無く戦士でも、死を司る女神でもなく、母親のもので。その光景に胸を締め付けられるように思いながら、仁優は問う。
「あ、あのさ……母様って事は、礼は、その……やっぱり……」
「私が産んだ子――正確には、前世で産んだ子だが……火之迦具土神だ。生まれ変わり、人間の子として暮らしていたんだが……運悪く、黄泉族の攻撃で現世での親を亡くしてな……。そこを伊勢崎に発見され、保護されたとの事だ」
そして、瑛が葦原師団を裏切る事が無いよう、施設内に留め置かれたのだという。要は人質だ。
「……天が、瑛をそこまで信用してねぇのは、やっぱり……瑛が、伊弉冉尊だから……か?」
瑛は、頷く。考えてみれば、確かに天――天照大神から見れば、伊弉冉尊は信用できない存在なのかもしれない。
親は伊弉諾尊だが、天照大神は伊弉諾尊が顔を洗った時に生まれた神である為、伊弉冉尊とは血のつながりが一切無い。つまり、親でも何でも無い。嫌な言い方をすれば、父親の昔の女、と言ったところか。
それだけでも気に入らないのに、伊弉冉は一日に千の人間を殺すと宣言して実際に葦原中国の死人を増やし、その事で父である伊弉諾尊の手を煩わせ、更には黄泉族を生者のように復活させたり、その後葦原中国に人間として転生するという神からしてみれば七面倒臭いシステムまで創り上げた。おまけに、その伊弉冉を討つための戦いで伊弉諾尊が戦死してしまっている。
……天からすれば、瑛には嫌う要素しか見当たらないわけだ。更には――恐らくは己が伊弉冉尊である時に行った事の罪悪感からなのだろうが――瑛は中々葦原師団の面々に心を開かず、加えて黄泉族と裏で繋がっている様子まで見せていた。
信用されないわけだ。
「……辛く、なかったのか? その……天達に信用されないで、独りで戦って……」
「平気だった。……神谷と夜末は、昔の私を知らないから、先入観無く接し、支えてくれたし……それより何より、礼がいてくれた。礼を守る為と思えば、辛い事など何も無い」
そう言って、瑛は愛おしそうに礼を見詰めた。
「……元々、私が黄泉であのようなシステムを創ったのも、礼のためだった。……自分のためでもあったが」
「……?」
首を傾げる仁優に、瑛は苦笑する。
「首を斬られ、身体を切り刻まれた礼――迦具土が哀れで仕方が無くて……愛する夫に醜いと言われてしまった自分が不憫に思えて……それで、黄泉の住人に再び命を与える事ができるよう、腐心した」
「……」
「それが叶うと、それだけでは飽き足らなくなって……今度は迦具土に、陽の光が当たる世界の、楽しい暮らしを味わわせてやりたくなったんだ。だが、陽の当たる世界で暮らすためには、真に生きている身体が必要だった」
「……だから、黄泉族が死んだら、人間に生まれ変わるようにした?」
瑛は、頷いた。
「再び散った命――魂を腹に宿った子に宿らせるのには苦労したが……あぁ、そうだ。子は、女の腹に宿っただけでは産まれる事ができない。腹の中に宿った生きた身体に、神が――そうだな、魂の素のような物を宿らせる事で、生きた子として産まれる事ができるんだ。魂を宿し損なった身体は、残念ながら産まれる事は無く流れてしまう。私は、その魂が宿り損なった身体に、死んだ黄泉族の魂が宿れるようにシステムを創り上げたんだ」
私には、生きた身体を創る事はできないから……と瑛は少し俯いた。
「そんなシステムを創ったところで、致命傷を負わない限りは死なない黄泉族が転生できるとは思っていなかった。けど、万一の事があり、迦具土が再び身体を損なってしまう事があったら、今度こそ暖かい場所で幸せに育って欲しい……そう思ったんだ。それに、迦具土に限らず、私も……もしも生きた人間として生まれ変われば、伊弉諾は再び私を見てくれるかもしれない、愛してくれるかもしれない……そんな打算もあった」
だが、結果は見ての通りだ、と瑛は言う。
「私が理に合わぬシステムを創り出した所為で造化三神が怒り、黄泉国に攻め込んできた。多くの神々が死に、生の神と死の神は立場が入れ替わり……そして、黄泉の気に蝕まれた造化三神は黄泉国を支配して、今は葦原中国を滅ぼそうとしている」
「……え?」
思わず、仁優は話を止めた。
「ちょ、ちょっと待てよ。そう言えば、造化三神が出てきた時に伊弉諾――ウミが言ってたよな。造化三神のなれの果てだって。それに、瑛は俺がメノを追って黄泉族の門に入ろうとした時、黄泉の空気は、黄泉族以外の何者をも壊すって言って、止めた……」
瑛は、頷いた。
「そうだ。黄泉の空気に触れた者は、姿形も、人間関係も、信念も、ともすれば心まで……取り返しがつかない程に壊れてしまう。私や伊弉諾が良い例だ。私は黄泉に落ちた事で醜い姿となり、伊弉諾を殺そうとした。伊弉諾は、黄泉の空気に触れた事で、それまで持っていた優しい心を失い、私を見捨てた。……それだけではなく、黄泉国に攻め入り、私を討とうとし、そして迦具土を殺した……」
それほどまでに黄泉の空気は恐ろしいのだと、瑛は言う。だからこそ瑛は、死んだ者が黄泉族化する際に黄泉の空気に中てられない体質となるようにシステムを創ったのだと言う。
だから、黄泉族は黄泉国の中で正気を保っていられる。黄泉での戦いで黄泉族化した高天原軍の神々が、少し考えた後、迷いながらも黄泉族にあっさりと付いたのはそれがあるからだろう。彼らは皆、正気に戻った頭で考え、そして気付いたのだ。黄泉族よりも、先ほどまで味方であった高天原軍の方に異常を感じる、と。
そして、先の仲間であった高天原軍の神々を正気に戻すには、殺して黄泉族化させるしかない、と。
「だが、あの戦いで造化三神は死ななかった。生きたまま黄泉国に居座り、今も尚黄泉の空気に中てられ続けている。その結果が、あれだ。光を失い、邪悪な気を放つ混沌と化し、黄泉を支配し、葦原中国を攻め滅ぼそうとしている」
「……けど、その何十年か前の戦いで死んだ天神達は、皆黄泉族になったんだろ? 伊弉諾――ウミも然りさ。そいつらで、造化三神を何とかしようとか……思わなかったのか?」
「私はその時既に死んでいたから、聞いた話になるが……敵わなかったそうだ。邪悪さを纏った造化三神は容赦を知らず、おまけに始祖中の始祖だから力も相当なものだ。アレを倒すには、黄泉から引きずり出して邪悪な気を削ぎ、更に奴らに対抗できる力の持ち主を掻き集める必要がある。それは、伊弉諾――ウミや、私。それにできれば、三貴子と呼ばれる天照――伊勢崎や……今どこにいるのかは知らないが、素戔鳴尊や月読命。その辺りか」
「……地祇の俺の出番なんか、最初っから無ぇじゃねぇか……」
呆然として仁優が言うと、瑛は「いや」と首を振る。
「造化三神を倒せる条件が揃うまでは、黄泉族の侵攻を食い止める必要があった。それにはやはり、多少弱くとも神の転生者を一人でも多く集めたかったんだ。それに、前にも言ったが……万一にも、太陽である天照――伊勢崎を死なせるわけにはいかないからな。いざという時には伊勢崎を守る者も必要だ」
だから、仁優の存在も無意味ではないのだと言う。
「そういうもんか?」
「そういう物だ。……礼?」
不思議そうな顔をして、瑛は視線を下げ礼を見た。つられて仁優も見てみれば、礼が瑛にギュッと抱き付いている。
「母様、ぼくがいるよ。怖い敵がいたら、ぼくが守ってあげるし、寒かったら、ぼくが炎であっためてあげるから……だから、泣いちゃ嫌だよ。母様……」
言われて、瑛はハッと自らの顔に手を遣った。話しているうちに、また哀しそうな顔になっていた。
瑛は、何も言わずに空を見上げる。まるで、涙が零れ落ちそうになるのを堪えているようだ。そして、大きく呼吸をしたかと思うと、礼を力強く抱き締めた。
「……不思議なものだな」
「……?」
呟きの真意がわからず、仁優は首を傾げた。
「絶対に守らなければと思っていた我が子が、いつの間にか成長して、私の心を支えてくれるようになっている。……礼だけじゃない。この大地――大八島も、元は私が産んだ子なのに……今は、この子がいなければ私は立つ事もできないでいる」
礼を掻き抱いたまましゃがみ、優しく大地を撫でる。
「皆、いつまでも守られてばかりの子どもじゃないんだな……。神も、大地も、ヒトも……庇護者であった親を支えられる……いや、ひょっとしたら守る事ができるまでに成長する……」
その言葉に、仁優はふと思う。瑛――伊弉冉にとっては、この世に存在するモノ全てが、子どもなのかもしれない、と。この世に存在するモノは、ほとんどが伊弉冉の子か、その子孫なのだから。
神も、大地も、ヒトも。勿論、仁優も。それに、血の繋がりは無いが天だって、瑛にとっては愛しい子どもなのかもしれない。
「そうだよ……。皆、いつまでも子どもじゃない」
仁優の呟きに、瑛は視線を上げた。
「神谷も夜末も、奈子も、彦名も。要に天だって、もう大人なんだ。……あ、いや、彦名は、まだ見た目は子どもだけど。とにかくさ、皆本当は、わかってるんだよ。今は皆が力を合わせて、造化三神を何とかしなきゃいけねぇって。その為には、疑い合ってちゃいけねぇって。瑛の事も、信じたいって思ってるんだよ、本当は……」
「……」
「だからさ、瑛も皆の事、信じてやってくれよ。皆大人で、瑛に守られなきゃいけねぇ子どもじゃねぇんだって。瑛が皆の事を信じれば、きっと皆も瑛の事を信じられると思う。……な? 子どもを信じるのは、親の役目だろ?」
「……!」
瑛の目が見開かれた。その顔には、今まで仁優に見せる事の無かった感情の色が見える。
「……目から鱗が落ちる、とは、こういう事を言うのかもしれないな……」
そう言って、瑛は立ち上がった。哀しみは既に顔から消え失せている。
「……母様?」
不思議そうな顔をして、礼が瑛を見上げる。その頭を、瑛は優しく撫でた。
「母様はもう大丈夫だ、礼。お前のお陰でな」
その言葉に、頭を撫でられながら礼は「えへへ」と嬉しそうに笑った。子どもらしく、可愛い笑顔だ。この顔を、哀しみや恐怖で歪ませてはいけないと、結婚もしておらず、子どももいない仁優でさえ思うほどに。
一瞬、メノの姿が脳裏を過ぎる。哀しそうな顔をして、黄泉族の門へと駆け込む姿が。そうだ、メノの事も何とかしなければいけない。最後に見た顔があんな哀しそうな顔だなんて、絶対に嫌だと仁優は思う。
ならば、地祇だから必要無いなどと拗ねている場合ではない。そう、仁優が決意を固めた時だ。
ガサリ、と再び茂みが鳴る音がした。反射的に三人は音のした方を見る。そして近付いてくる人物を確認して、仁優は緊張し、瑛は複雑な顔をし、礼は顔を恐怖で引き攣らせた。
近付いてきた人物は、ウミ――先程まで話題の中心人物だった、伊弉諾尊その人だった。
「……もう、傷は良いのか?」
「あぁ。……流石に、少彦名神の薬はよく効く。それに、石長比売の命を永らえる力も大したものだ。
まるで何事も無かったかのように仁優に返答すると、ウミは視線を瑛と礼に遣る。礼が、ビクリと震え、慌てて瑛の背中に隠れた。
「私を恐れるか、迦具土。……無理も無いか。私はお前を、二度も殺してしまったのだからな……」
「伊弉諾……」
「今のお前は、伊弉冉尊では無く、瑛だろう? だから、私の事も伊弉諾では無くウミで良い」
困惑しながらも名を呼ぶ瑛を制し、伊弉諾は言う。その顔は、苦い物を飲み下したように歪んでいる。
「ウミと……闇産能天滅能尊と今の名で呼ばれる事で、私は私の罪を実感しているのだ。感情に任せて迦具土を殺してしまった事。黄泉に落ち、ただでさえ絶望していたであろう伊弉冉を傷付けてしまった事。造化三神に誑かされ、闇に包まれながらも穏やかに暮らしていた黄泉に侵攻した事。……そして再び迦具土を殺し、伊弉冉を傷付けてしまった事……」
「……」
ライとメノ――建御雷之男神と天宇受売命は転生前の名前をそのまま使っているのに、何故伊弉諾尊だけは闇産能天滅能尊なる新しい名前を使っているのか。ウミの正体が伊弉諾尊だとわかって、疑問に思ってはいた。己を戒めるためだったのだ。
「えっと……」
問いたい事は多々あるが、どう問えば良いのかわからずに仁優は頭を掻いた。そして、それでも何とか言葉を絞り出そうとするのを、ウミが制止する。
「猿。色々訊きたいのだろうが、まずは天照達の元へ戻るのが先だ。一度に話した方が、効率が良い」
そう言われては、反論のしようが無い。仁優は、黙ってこくりと頷いた。
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