ヘテロジ
monae
第1話
月末はいつも憂鬱だ。
お前が言うな、と口さがない住民たちには陰口を叩かれそうだが、事実なのだからしょうがない。
家賃の取り立てなんて、やられる方はもちろんたまったものではないだろうが、やる方だってまさか楽しいわけはない。
一部屋一部屋、厄介な滞納者の部屋を訪ねて、理不尽な罵声を浴びせられながら家賃を回収しなくてはいけないのだ。
とりわけこのアパートにはエレベーターも付いていないから、その作業の悲惨さたるや、想像に難くないだろう。
なにもせず不労所得が舞い込んでくる楽な稼業だと、そう楽観的に考えていた2年前のおれには説教をしてやりたい。
大家なんて、正気の人間がする仕事ではない。
おれが大家をやることになったのは、たまたま元の家を追われて引越し先を探していた時に、先代である祖父が亡くなった知らせを受けたからだ。
あとから聞くと祖父はもともと建築家で、もうずいぶん前にその仕事はすっぱりやめてしまっていたが、作品の一つであるアパートに住み着いて悠々と副業をやっていたらしい。
祖父と最後に会ったのはもう15年以上前のことで、正直なところ当時なにをしていたかはほとんど覚えていなかった。
ただ確かなことは、おれにそのアパートの相続権があるらしいということ。
そしてそれを他の権利者がすべて固辞していたということ……こちらにはもうすこし注意を払っておくべきだったが。
そういった経緯で、このオンボロアパート1階の南西の角部屋、1LDKの根城はまんまとおれの住処となった。
築40年だけあって水回りにはさすがの風情を感じるし、風呂がいまだにバランス釜なのはまあ不満ではあるが、別にそこに文句をいうつもりはない。
都会の一人暮らしでこれだけの空間を自由に使えるのは十分恵まれているといっていいだろう。
ただそれも、毎度毎度気の重くなる月々の仕事さえ無ければ、の話である。
このアパートが何階建てになっているのか、実は未だに判然としていない。
どうやら祖父が建築基準法の関連でなんらかのゴマカシをやったらしく、手元に一片の資料も残されていないせいだ。
一度この目で確かめてみようと探検を試みたこともあったが、そのときは結局50階まで登ったところであきらめた。
なんといってもこのボロアパートにはエレベーターがないのだ。
軽い気持ちで朝の10時から階段を登り始めて、50階に到達したのがおおよそ4時間後。
もうこのくらいの時間にはとっくに最上階にいるはずだと当初は踏んでいたから、いつまでも変わらない汚い漆喰壁の景色にそこで心が折れた。
スニーカーに軽装のリュックサックという装備ではあまりに心もとないと判断し、薄汚れた踊り場に一人腰掛けて弁当の握り飯を食って、再び同じだけの時間をかけて階段を降りていった。
翌日の筋肉痛はひどいものだった。
どちらにせよ、こちらのあずかり知らぬところで勝手にアパートの増改築が随時行われているらしいから、正確な数字を知ったところで大した意味は無いのかもしれない。
そんなわけだから、おれもこのアパートの住人全員をきちんと把握できているわけではない。
言っていることがよくわからないが、祖父がこのアパートを建てる前にすでに住んでいた者すらいるという。
だがいったい何者がいるにせよ、おれにとって重要な価値判断の基準はただひとつだ。
家賃をきちんと納める者は住人で、そうでない者は不法滞在者だ。
アパートの中にいるやつは、おれを除いてその二種類しかいない。
かつて807号室を占拠していた山本は中でもとりわけてひどいやつだった。
もう8ヶ月も家賃を滞納しているというのに、来月には金が入る予定だから待ってくれ、とそれしか言わない。
3時間も大声でやりあったものだから、おれももう頭に来てしまって、今すぐ荷物をまとめて出て行け、というたぐいのことを言った。
すると山本はピンク色の触手を震わせてなにか深海魚の臭いがするいやらしい粘液をおれに吐きかけてきた。
その強アルカリの液体をまともに浴びてしまったせいで、顔にできた火傷の痕跡は洗っても洗っても一週間は残ったままだった。
結局その日の示談にはシリカ社製の火炎放射器が二本も必要になった。
家賃を払っている住人だからといって、放っておいていいことばかりではない。
2302号室、田町という名の住民が密かに飼っていたホゾ喰い虫が増えすぎて逃げ出した時は本当に悲惨な目にあった。
もちろんホゾ喰い虫の飼育を無許可でやるなんてのは賃貸借契約以前の重犯罪だ。
あのときは最終的に、田町ももちろん、空き部屋含めて隣接する同じ階の合計12部屋が全てやられた。
そういうわけで、犠牲となった23階は使い道のないデッドスペースとして今もそこに鎮座している。
清掃業者を呼ぶ金もないので、復帰の目処はいまだに立っていない。
ときおり焼け焦げた廊下に花が置かれていることがあるが、それを誰がやっているのかおれは知らない。
噂によると最上階付近には急進的重力派のアジトまであるという。
光と電磁力に支配されて歪んだ現代社会をいにしえの重力によって取り戻す、とかなんとか主張している旧世代のテロリストどもである。
大地への回帰を信条とする連中がついにその住処を追われて、重力の及ばない高層階に追いやられているというのもなんとも皮肉な話だ。
一度通報を受けてアパートに当局が踏み込んできたこともあったが、なんせエレベーターがないので、かれらも途中で諦めて引き返したようだ。
いずれにせよ、これだけごちゃごちゃしたアパートだから、世界にあるようなものはなんでもあるし、世界で起こるようなことはなんでも起こる。
5階には肉屋、魚屋、八百屋がそろっていて、一人暮らしには実に便利だ。
この2年で料理はかなり上手になったんじゃないかと思う。
1301号室の女は中で探偵事務所を構えているらしく、ときおり妙な連中が訪れている。
10階の5部屋はぶち抜きの総合病院になっており、その横にはちゃんと大衆墓場がある。
1510号室の売春宿にはいやな思い出があるのであまり近づきたくはない。
けばけばしく塗装した入口の横に露出の高い服をまとった立ちんぼがいて、うっかりそれをじっくりと見てしまったものだから、ふんだんに小馬鹿にされてしまった。
坊やにはまだ早いのよ、とそいつが言ってきて、おれは思わずかっとなったが、家賃はちゃんと払ってくれているので何も言い返せなかった。
おれはこの童顔でずいぶん損をしていると思った。
家賃回収が思ったようにうまくいかないのも顔のせいで若く見られてナメられているからに違いない。
祖父はもっとうまくやっていたのだろうな、と思うとおれは少しさびしくなった。
そうしておれが意を決して、なるべく威厳が出るようなジャケットを選んで準備をしている時だった。
なにか細かい羽が震えるようなヴヴ……という音がして、おれは立ち止まった。
滅多に使われることもないので、それが壊れたベルの音であることを思い出すのにずいぶん時間がかかってしまった。
はたして、入り口の扉を開けるとそこには一人の女が待っていた。
真新しいセーラー服に逆に着られているような印象を与える子供で、こんなところにいたら5分も立たずに骨だけにされるぞ、と思った。
「あ……大家さんですよね。わ、わたし、原田といいます。あの、お部屋。もし空いていれば、お借りしたくて……」
しどろもどろの口調でそうおれにしゃべりかける。
「あとにしてくれ」とおれは言った。
ずいぶんいらいらとした口調になってしまい、悪いとは思ったが、その時はいたしかたなかった。
なにせおれは月替りまでに家賃を回収しなくてはいけないのだ。
エレベーターもないこのボロアパートの階段を一段一段と登って。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます