嫁が女子高生になりました。

日吉舞

夫の非公開ブログ -1-

「っつーか、オッサン……誰?」


 これが、その日の嫁の最初の言葉だった。

 十年目の結婚記念日の朝なのに、よりによってかなり性質の悪い冗談だと思った。


 は?

 俺が誰なのか、忘れたってことなのか?

 おっさんって、俺?

 そりゃまあ、嫁が寝てた寝室には、俺以外の誰もいないんだからそうなんだけど。


 俺は誰なんだと、一番身近な人物の筈の嫁に言われてプチゲシュタルト崩壊。

 すっかりパニクった俺は嫁の言ってることが瞬時に理解できなくて、つい何も考えてない返事をそのまんま口に出しちまった。他人が見てたら、さぞやマヌケな光景だっただろう。


「誰って……俺だけど」

「だから!俺って、誰なのかって聞いてんだよ!」


 いつもと違う甲高いキーキー声で叫ぶ嫁が、涙目でベッドの上で後ずさる。よくあるAVで、変質者に追い詰められた女みたいな感じ。目は何て言うかもう、怯えた子犬みたいで哀れですらある。


 勿論のことなんだけど、俺はこの十年間、嫁からそんな目で見られたことなんてただの一度もない。まして、そんな態度を取られるような原因も思い当たらない。だって嫁、昨日寝るときには手を繋いでたくらいなんだよ……


 だから、この様子はただごとじゃない。

 人間って、ありえないと思ってることに遭遇すると、何も考えられなくなるってホントなんだな。

 俺は喚く嫁が冗談じゃなく、脳の病気かなんかかと咄嗟に思っちまった。


「だから、俺は君の夫!結婚相手!もう結婚して十年経ってるの!って……ま、ままままさかの記憶喪失にでもなったってのか?」


 と、嫁に状況説明しようとしながらもうろたえまくる俺。

 記憶喪失って、マンガとかで色々ご都合主義的に使われるアレだよな?

 それに俺の嫁さんがなった?

 え?えええ?何が原因で?

 寝てる間にベッドから落ちて、頭でも打ったとか?


 初夏の朝で爽やかな空気のはずが、どんどんイヤンな感じの汗が背中に噴き出してくる。

 俺もまだ起きたばっかりで、短パンにくたびれたシャツっで寝癖つきまくりって格好だったんだが、そのせいで余計にみすぼらしく見えたんだろう。嫁が枕をぎゅっと抱えて一瞬呆然としたかと思ったら、ブルブル首を激しく振った。


「嘘……嘘嘘嘘、絶対嘘!大体、あたしまだ高校生なんだ!てめーみたいに小汚いオッサンと結婚なんか、するわけないだろがぁあぁぁぁぁあああぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」


 起き抜けの嫁から迸る、悲鳴みたいに盛大な大絶叫!

 って、あれ?

 嫁ってこんな柄の悪い言葉遣いだったっけ???

 ああ、ただでさえ最近暑くて窓開けて寝てたってのに……土曜の朝っぱらからこんな騒ぎを起こしたら、折角日々交流してきたマンションの両隣にどんな誤解をされることやら。


 って、冷静にんなこと考えてる場合じゃねー!

 だが。

 だがしかし、嫁の絶叫に引っかかるところがあった俺は、ものすごい敵意を込めた目で睨んできてる嫁をどうどうとゼスチャーで宥めた。


「ちょちょちょ、ちょっと落ち着けって!高校生って……第一、君は今年で三八だろ?どこでどう勘違いしたら、そんな狂いまくった年齢計算が」

「わかった、てめー誘拐犯だろ!あたしが寝てるとこをこっそりさらってきて、こんな……」

「はぁぁぁぁあ?んなわけねーだろ!ここは俺と君が、八年前に買ったマンションなんだってーの!」


 流石の俺もワケわからん嫁の言い種に、頭に血が上って堪忍袋の緒が切れそうになる。

 その切羽詰った形相と怒声が、怖かったのかも知れない。

 嫁は瞬間的に怯んだ後、ありったけの殺気を込めて叫んできた。


「でたらめ言うんじゃねー、この変態オヤジ!近寄ったらマジ殺す!」


 と同時に、俺の顔面目掛けて飛んでくる、サイドテーブルの上にあった立方体の間接照明。


「ちょ、おま……!」


 怒りと動転が同居してる俺には、そんな不意打ち避ける余裕なんぞある筈もなく。

 嫁が投げつけてきた分厚いガラスの間接照明が、回転しながら見事俺の額に命中。痛いとか感じる暇なんかなくて、重たい衝撃だけが脳天に響いた感じだった。


 角っちょが当たらなかっただけでも、ナイスだぜ嫁……!

 一瞬、青白い火花がスパークした後暗転する視界の中で、俺はこんなことになる直前の出来事がまざまざと蘇ってくるのを感じていた。






 というところで、俺と嫁のスペックを混乱しないように書いとく。

 俺、四十歳のIT系リーマン。背だけは無駄にでかいが、体型は普通。顔面偏差値は中の下か、下の上……だと思う。趣味はまぁ、オタク。ちなみに会社バレはしていない。そして最近、帰宅してからの酒と、甘いもの&油系つまみを共にしているせいなのか、健康診断の数値が滅法悪い。


 嫁、三八歳派遣社員。職種は俺と同じで、俺よりも上流行程担当してる……収入は同じくらい。くぅ、泣ける。顔は、俺基準でなかなかの美人。でかい俺が不自由を感じないくらいの長身で、年の割にスタイルもいい。んで、趣味は同じくオタク。やっぱり会社じゃ隠してるけど。


 そんな俺らが出会ったのもアニメ系のイベントで、お互い一緒に行ってた友達から紹介された。で、作品の感想やキャラの萌えどころなんかを飲み会で話してたら、すっかり意気投合してその日のうちに携帯アド交換。そこから付き合いが始まったんだけど、以降は普通のカップルと同じなんで割愛。

 今まで喪男だったのに、世間的に言う美人の彼女ができたなんて、ちょっと信じられなかった。


 ましてや結婚して家族になってくれたことも、本当に夢みたいだった。

 しかし悲しいけどこれ、現実なのよね。フヒヒ。

 それから何だかんだで、もう十年も嫁と一緒に暮らしてきたわけで。

 これまで色々あったけど、まあ平穏な日々は送れていたと思う。

 折角の節目だし、今年は盛大に何かやろう!

 もちろん、嫁だって喜んでくれるだろうし!

 そう思って当日に当たる昨日の朝に起きてから、キッチンに立ってるパジャマ姿の嫁に浮かれて声かけたんだ。


「嫁、おはよー」

「……あ、俺君。おはよ」


 起き抜けの嫁の声は、ちょっと掠れてる。

 彼女の背はかなり高いからもともと声は低いんだけど、俺にとっては心地よい高さ。

 にゃんこ柄パジャマが覆う背中はかなり細くて、その上に艶のある、サラサラの長い髪が軽く垂れてる。嫁はその茶色がかった髪を無造作に払うと、赤いセルフレームの眼鏡を直した。


 色白の肌に、鮮やかな色の眼鏡はすごく合ってる。

 目が覚めたばっかりだけど、嫁の横顔は瑞々しい美しさを感じさせていた。スタイルも、三十代後半なのにお尻はきゅっと上がってて、細い割に胸も意外とあるんだ。喪男だった俺には正直勿体ないぐらいの女性だと常々思う。


 ……と、あんまりじろじろ見てると変に思われるから、今度は目前に控えた朝食に注目を向けることにする。

 まだちょっとけだるそうな嫁の手元を見てみると、ホットドックと小さいチョコクリームパンなんかを乗せたプレートを、食卓に運ぼうとしてるとこだった。

 このチョコクリームパン、実は俺の好物。

 さすが嫁!


「お、今朝は俺の好きなのにしてくれたのかー。やっぱ、特別な日の朝だもんなー!うんうん。で、今日の夕飯はどうしたい?」

「え……んー、別に。普通に家で作ろうと思ってるけど」


 やたらテンションの低い嫁に、俺は一瞬固まった。

 ……もしかして、こんなにはしゃいでるのって俺だけ?

 しかし、ここで一緒になっていつもと変わらない調子になったら面白くない。

 俺はちょっと引きつった笑顔で、朝食のプレートを見つめながら言ったさ。


「いやいやいやいや、食べたいものとかさ、行きたい場所とか……何かあるだろ?遠慮しなくていいんだよ?」

「なんで?遠慮なんかしてないよ」

「なんでって……」


 俺、絶句。

 まさか、まままままさか嫁、今日が結婚記念日だって気がついてないのか?

 嫁、口パクパクしてる俺をスルーして飯の準備続けてるし!


 しかしカフェオレを注いだカップとヨーグルトの皿を追加で運ぼうとしたとき、つけっぱなしでいるダイバーズウオッチの日付が目に入ったらしい。嫁は一瞬きょとんとしてから、まだキッチンカウンターの向こうに立ちっぱでいる俺の方を振り向いた。


「……ああ、そっかそっか!ごめん、今日結婚記念日だったっけ。いやー、忘れてた。あっはは」


 本当に屈託がない笑顔で、嫁は明るく抜かしてくれた。

 おいおい、フツー逆だろ……

 あ。そう言えば去年も同じやりとりで、嫁の職場の上司にも突っ込まれたって言ってたような。


「そう言えば、前回もこうだったよなぁ……」

「ごめん、ごめんってばぁー」


 ぽつりと呟いた俺に、嫁は笑顔でいながらも慌てて走り寄ってきた。どうやら本気で忘れてたみたいだけど、悪気はないらしい。

 メイクもしない洗いっぱなしの顔なのに、こういう何も飾らない嫁の笑顔は本当にいいな、と思う。

 何て言うか、邪気がなくて。


 仕事ではビシッとしてて隙がない知的美人な感じなのに、素はちょっと抜けたような印象になるのが意外というか。

 こういう面があるから、素直に謝られると大概のことは許さざるをえないんだよなぁ……


「でも、俺君が結婚記念日忘れて私がキレるよりいいじゃない!ねっ」

「そりゃあね」


 そんで、結局今日もこうなる。まぁ、こんなことで怒るのも大人げないし。角度を変えた切り返しのうまさは、嫁の方が何枚も上手だし。


「カフェオレも冷めちゃうから。まずは食べよ?」


 にっこり笑った嫁に背中を軽く押されて、俺はダイニングの自分の席についた。

 キッチンとカウンターで仕切られたダイニングにはもう朝日がいっぱいに射し込んでいて、電気をつけなくてもいいぐらいに明るかった。少しだけ窓を開けると、五月の爽やかなそよ風が新緑の香りを一緒に運んでくる。


 仕事に行く平日で慌ただしい中にいるはずなのに、嫁と一緒に食べる朝食はささやかなご馳走だと、俺は思っていた。お揃いのプレートは、ホットドッグにミニチョコパン、ジャム入りのヨーグルトとりんご二切れっていうものだけど。

 ホットドッグを一口かじってから、嫁がさっきの話題を持ち出してくる。


「折角だから、今日一日で色々調べて明日出掛けることにしない?記念日のお店は厳選したいでしょ」

「今日は何もしなくていいのか?」


 マスタードのきいたホットドッグを速攻でたいらげた俺に、嫁は頷いた。


「ケーキくらいは食べたいけどね。私は別にお祝い自体は今日じゃなくてもいいかなぁ、って」

「じゃあ、そうするか。今日帰ってきたら、レストランは一緒に調べてみよう」

「うん!私も、日中にある程度は候補を絞っとくね」


 嫁は心底嬉しそうだった。

 俺ら夫婦は、二人して結構な食い道楽。店を調べるのも、実際に食べるのも大好きだ。

 が、ここ最近の嫁は仕事が忙しいみたいで、終電帰りもたまにある。ひょっとすると、浮かれてる俺に調子を合わせるために無理してるんじゃ……

 不意に心配になって、俺はヨーグルトの皿を取り上げながら嫁の顔を見てみた。


「けど、そんな余裕あるのか?確か、修羅場中なんじゃなかったっけ」

「昨日まではね。でも、何とか解決方法が見つかったから大丈夫になったの。問題のシステムに入ってるパッケージの××に対する依存性はさ、無視して一気にやっちゃおうかなーと思ってたんだけど、それを片付けてくれそうなのが●●で云々」


 と、そこから先は嫁のマシンガントーク。OSがどうたら、バージョンが何で、そこで要求されるモノがなんたらかんたら。

 ……その半分ですら、俺は理解できない。

 聞きながら、無心でブルーベリーのヨーグルトをかっ込むしかない。


 いつもいつも何かに全力投球で臨む嫁は、仕事にも打ち込んでる。それだけに、家にいる時も色々と考えることが多かったようだった。

 けど、それじゃ気が休まる時がない。

 家を家族が安心してゆったりできる場所にしたい俺は、カフェオレのカップを持ったまま飲むのを忘れてる嫁の前で軽く手を振って見せた。


「ストップ、ストップ!仕事の話はそこまで」


 まだ何か言いたそうにしてる嫁に反論の隙は与えずに、俺は続ける。


「家にいるときぐらい、仕事のことは考えないようにしなって。じゃないと、気がつかないうちにストレスがたまって倒れちゃうぞ」

「倒れるって、そんな大袈裟な」

「結婚してすぐの頃に家事全部引き受けて、ひっくり返ったのはだーれだ?」

「う……」


 そのことを言われると、嫁がぐぬぬ顔になって降参するのはいつものことだ。女にしてはあんまり感情的にならない嫁のそういうところは、数少ない子供っぽさが残る面だと言えるだろう。


 物事に対して一生懸命になるのはいいんだけど、度が過ぎるのは良くない。

 それは仕事だけじゃなく、家事に対してもそうだった。

 だから新婚の時に嫁が倒れて以来、家事は完全分業。掃除と洗濯は俺が、炊事とその他の家事は嫁ということにして、後はその時その時で臨機応変に。

 だけど嫁は、俺が何をするにも「ありがとう」の一言を忘れないし、嫁を支えてる実感があるから、全然負担なんかじゃない。家事も、慣れれば手の抜きどころがわかってくるし。


 何かにつけてズボラで楽観的な俺と、隅々までやり込まなきゃ気が済まない嫁とでは、お互いに諫め合うことができていいバランスだ。

 話題閑休になったところで、俺はりんごを食べつつお祝いのことをまた持ち出した。


「んじゃ、修羅場が一段落したお祝いも兼ねてぱーっといくか。家で飲むシャンパン、何本買おう?」

「一本だけね。俺君、ただでさえ肝臓の数値がやばそうなんだから控えなきゃ。それにちょっと前も、調子悪いって言ってたじゃない?」

「ええっ、そんぬぁ……」


 嫁の節制宣言に、ショボンと声が萎む。シャンパンを何本も買ってきて飲み比べするの、楽しみにしてたのに。

 確かに俺は酒好きで、呑まない日の方が珍しいくらいだ。事実、会社の健康診断ではいつも肝臓系の結果がギリギリだし、血糖値も高い。最近は呑んだ翌日の朝に背中がものすごく痛かったり、身体が尋常じゃないくらいだるかったり、胃がメチャクチャ重かったりするけどさ。

 それでも、特別な日くらい我慢なんかしたくないじゃんか……

 その俺が余程不憫に見えたのか、嫁が笑って言った。


「わかったよ。その分、朝食のこれはなしね」


 そして言うが早いか、最後のお楽しみに取っておいたチョコパンが乗った俺のプレートを鮮やかにかっさらっていく。

 あっあっあっ、俺のチョコパンがぁ!

 元気の源がぁぁぁあぁぁああ!

 て言うか、酒とチョコパンって関係ないだろぉ!


「ええええええ!」


 絶望の表情で絶叫する俺。

 けど嫁は、ころころ笑ってからプレートを俺に返してくれた。


「もー、冗談だってば。でも、自分の体のことなんだから。気をつけてね」

「……はい」


 ううっ、こう言われると弱い。

 嫁はよくこうやって俺をイジって遊ぶけど、考えてみたら、ネタは俺の健康に関することが殆どだ。つまり、それだけ心配かけちゃってるってことなんだよなぁ。


 今俺らがいるこの白木のLDKは、いつもいつもこんな優しい空気に満ちていた。

 家具が日焼けで傷むことを考えて、朝しか陽が射さない東向けのこの場所を二人で選んだ。それでも、夫婦の会話が絶えないこの家は常に明るい。子供を持たないことも、相談して決めた結果だった。


 本当に結婚して良かったと思えるのは、こうやって他愛もない話を嫁と二人で続けてる時。

 結婚前に独り暮らししてた頃は、全てが自分の時間!自分の金!喪男の俺は絶対結婚なんかしねぇ!独身貴族ヒャッハーマンセー!だったんだけどさ。誰かと家族になって、穏やかな時間を一緒に過ごしてると、もう独り身に戻りたくはなくなっちまう。


 結婚してからは少しでも嫁と一緒にいたくて、用事がない限りは仕事から殆どまっすぐに帰宅。

 それは結婚したての頃から変わってなくて、嫁にも「たまには友達と遊んで来たっていいんだよ」って呆れられたほどだ。


 勿論俺も嫁の全てを把握しておきたいとかじゃないから、嫁が遊びに出るのは止めないし、遅くなる場合は車を出して迎えに行ってたりした。それも、嫁が来なくても大丈夫だって言ったときは行かなかったし。

 嫁には、自分の時間も大切にして欲しいと思ってたし。俺のことをと言うか、二人のことをちゃんと考えてくれてる嫁だから、俺はずっとずっと大事にしていきたいと考えてた。


 これからも、お互いにそうやって居心地のいい関係をずっと維持していきたいと思う。だから、この十年っていう区切りは結構大きなものじゃないかと俺は考えてた。


 そんな調子で、仕事からは二人して早めに帰宅。

 お祝いのケーキを買うパティスリーも、ちょっと豪華なディナーを出してくれる評判のレストランも、シャンパンの種類も、話し合って決めた。それぞれが自分のパソコンで情報検索して、あれこれ迷ってる時間すら楽しかった。

 で、全部決まってから寝たんだけど、いざ横になってから、嫁がぽつりと言ってきた。


「ねぇ」

「ん?」

「手、つないでていい?」


 寝室にはシングルベッドを二つくっつけて置いて、俺たちはキングサイズのダブルベッドに寝てるのと同じ状態だ。だから寝返りを打てばすぐ傍にいることがわかるのに、嫁は手を伸ばして、ごそごそと俺の毛布の中を探ってる。

 ほどなく俺の手を探し当てると、嫁はきゅっと握ってきた。


 女にしては大きいと言えるが、細くてきゃしゃな手。

 最近またちょっと痩せたのか?

 と思えるくらいに骨の感触がある嫁の手をそっと握り返すと、俺は途端に心配になった。

 嫁の方から手をつなぎたい、なんてあんまり言ってこなかったから。


「……どうしたん?」

「最近ちょっと夢見が悪くて寝不足だから……こうしてれば、安心できるかなって」

「夢って、どんな?ひょっとして仕事の夢?」

「ううん。仕事の夢じゃないんだけど……ええと……」


 嫁はちょっと口をつぐんでから、小さく溜め息をついて言った。


「とにかく印象が最悪で、目が覚めても寝た気がしないって言うか。却って疲れちゃうみたいなんだ」


 嫁の声には、いつもの明るさがない。

 いざ眠りに落ちる寸前なんだから当たり前と言えるかも知れないが、それでも酷く弱っている印象があった。

 本当によく眠れずに、疲労が溜まってるのかも知れない。


 嫁、限界まで疲れを圧して我慢するタイプだから、ある日突然パタッと倒れるんだ。

 前も一度入院手前まで行ったから、正直心配でたまらない。

 しかし体力に過剰なまでの自信を持ってる嫁は、大の病院嫌いでもある。駄目元でも、心配なことを伝えたくて俺は言ってみた。


「あんまり続くようなら、病院に行った方がいいよ。睡眠外来とか、心療内科とか」

「そうするよ。けど、今日は手もつないでもらってるし……多分大丈夫だと思うから……心配かけちゃって、ごめんね」


 意外と素直な嫁の返事。

 ということは、やばそうな自覚があるんだろう。

 場合によっちゃ、明日は晩のレストランだけにして、嫁を病院に連れて行かなきゃな。

 ってことを嫁に言っとこうと思ったら、嫁は早々に落ちたらしい。すぐに、穏やかな寝息が聞こえてきていた。

 寝つきはいいみたいなのに、夢見は悪いのか。

 そんなになるまで疲れてたなんて……

 俺はもう一度嫁の手を握り返してから、軽く瞼を閉じた。

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