File060. 左脚と右手の指
レイウルフはカイリの呪文詠唱を聞きながら、少し離れた位置からベッドに横たわる白髪の女を見ていた。
ビャッコという名の女はゲンブより先に生まれた竜であり、
ゲンブが築いた高さ二十メートルの岩壁を
(目覚めても問題ないと、ゲンブは言いましたが……)
ベッドの脇に立つドワーフの男が、落ち着かない様子でカイリを睨んだりビャッコを見つめたりしている。
この男がかつてエステルの
だがそれでも、今ベッドに横たわる女の脅威には到底及ばない。
(いざとなれば、この身をていしてでもエステル様をお守りしなければ……)
そう考え、無意識にこぶしを握ろうとするレイウルフ。
だが握れたのは左手だけだった。
彼の右手の指は、ゲンブを発見した時にすべて失われている。
薄手の
布が詰められただけの指の部分に、少女の指が重なる。
「父上……」
隣に立つゲンブが、レイウルフの右手に両手を添えていた。
彼女はレイウルフの心の動きに敏感だ。
君のせいではないとレイウルフが何度言っても、他の誰も気づかない彼の心の動きを察し、その黒い瞳に悲しみの色を
だがこの時のゲンブの様子はいつもと少し違っていた。
顔から血の気が引き、緊張しているように見える。
彼女の手はわずかに震えており、それがレイウルフにも伝わった。
「どうしたのですか、ゲンブ」
「この奇跡を起こせるのは、カイリさんだけですわ。ですから、わたくしは――」
完成するカイリの呪文。
「〈
ビャッコの下半身が白い光に包まれ、それが左脚の形へと収束していく。
突如、簡易宿舎を地震が襲った。
立っていた者は慌てて壁に寄りかかり、リュシアスがビャッコを
部屋の外からは騎士たちの動揺する声が聞こえた。
地震はそれほど大きいものではなく、二十秒ほどで収まった。
レイウルフはまずエステルが壁から身を起こすのを確認し、次にベッドに視線を走らせ、ビャッコが眠ったままであることに安堵する。
リュシアスが彼女を両手で抱えるようにうずくまっていた。
そこでようやく右手の違和感に気づく。
皮手袋が右手から外れかけており、落ちないようにゲンブが両手を添えていた。
「いえ、そんな、まさか……」
動揺したレイウルフが再びベッドに目を向けると、リュシアスが身体を起こすところだった。
ビャッコの白い両脚が美しい曲線を描いており、それを見て言葉を失ったドワーフが口を開けたり閉じたりしている。
再生した左脚には傷一つ見当たらなかった。
レイウルフは、ふと視線に気づいてカイリと目を合わせた。
カイリは何も言わないまま視線を外し、眠るビャッコに対して〈
「父上」
ゲンブが外れた皮手袋を左手に持ち、右手をレイウルフの右の素手に添えていた。
「父上……」
見上げるゲンブの両目に涙が浮かんでいる。
「父上……っ!」
レイウルフが意識を向けると、右手にある五本の指が当たり前のように動いた。
その指で、ゲンブの震える右手を包むように握る。
「ゲンブ……君の手は暖かいですね」
皮手袋に遮られて光は見えなかったが、確かに失われたはずの五本の指が再生していた。
それを見て微笑むエステルとマティ。
〈
「
ぺこりと頭を下げるカイリ。
レイウルフは再生した指をもう一度見つめ、それを震えるゲンブの背中に置き、エステルを振り返った。
「弓の練習をしておけよ」
上司からかけられた言葉は短かった。
その言葉の意味を噛み締め、レイウルフの目に涙が浮かぶ。
「あ、ありがとうございます、カイリ殿」
「ありがとう……ございます……カイリさん」
涙を隠すように顔を伏せるレイウルフと、頭を深く下げるゲンブ。
「き、気にしないでください。俺は呪文を唱えただけですから」
動揺するカイリを見て、くすりと笑うマティ。
そこに別の声が聞こえた。
「リュシアス、あなたが無事でよかった」
「ビャッコ」
目を覚ましたビャッコの腰に抱きついて大泣きするドワーフの姿がそこにあった。
ビャッコを警戒して身構えるレイウルフだったが、やがて他の者に続いて部屋を出ることにする。
廊下では赤髪の少女が黒髪の青年に文句を言っていた。
「カイリっ、私はビャッコ姉と話がっ」
「今は駄目だ、後でな」
すでに遠ざかるエステルとマティの背中を見たレイウルフに、廊下で見張りをしていたラウエルが近づいた。
「見張りを強化しますか?」
「見張りを千五百人付けたとしても無駄だとわかっているでしょう? 私も彼女を警戒していましたが、エステル様はリュシアス殿を完全に信頼しているようです。そしてリュシアス殿がいる限り、あの竜が無茶をすることはありません」
頭に疑問符を浮かべて口ひげをさするラウエル。
部屋の中では、ビャッコとリュシアスが唇を重ねていた。
「これで数だけは三体てことになる。けどな、問題は四体目なんよ」
若い女の声。
とがった長い耳にかかるショートボブの金髪が揺れる。
簡易宿舎の窓の外で、見張りの騎士が倒れていた。
「セイリュウちゃんとその主人は甘ないん」
〈
広大な範囲を燃やす山火事の黒い煙が、一日たった今も空の四分の一を覆っていた。
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