File030. 生還


 カイリがリザードマン族のガーディと、砂漠の向こうにある山脈を眺めた日の前日。

 カイ・リューベンスフィアの屋敷があった崖の上から、カイリとフェスが光の柱を眺めていた頃。

 そのはるか北方の山岳地帯にある発掘現場に現れたエルフの族長エステルは、作業員が全員無事であることに安堵していた。


「素直に神殿へ戻らずここへ寄り道したうえに、単独でこの下へか。レイウルフらしいな。おまえが気に病むことではない、ラウエル」


 目の前には謎の白いガスが溜まった直径三十メートルの穴。

 前日には見おろせた百メートル下の穴底が今は見えない。

 ひとつにまとめられたストレートの長い白髪を背にした族長に、口ひげの騎士隊隊長が言葉を続けた。


「ですが、すでにかなりの時がちました。レイウルフ様に万が一のことがあれば、エルフ族全体にとって大きな損失です。やはり私が行くべきでした」


 その表情から本気で悔やんでいることが伝わってくる。

 彼の周囲にいる部下の騎士たちも神妙な面持ちだ。


「ばかを言うな、ラウエル。おまえとて様々な部隊を歴任した貴重な人材だ。それに……」


 ヒューマン族でいえば二十代にしか見えない整った顔が静かに振り返る。

 灰緑色グリーニッシュグレイの美しい瞳がラウエルをとらえた。


「レイウルフは必ず戻る。なぜかわかるか?」

「は、いえ、それは……」


 騎士隊の隊長は族長からの突然の問いかけに戸惑った。

 長寿のエルフ族の中でまだ二十一歳のレイウルフは、経験豊富な歴戦の勇士というわけではない。

 千年に一人の逸材と言われる弓の名手ではあるが、手にしていたのはダウンコートのみで弓矢は持っていなかった。

 そして危険に対して慎重な性格とは思えない。


 答えが出ず視線を戻したラウエルの前で、族長の口元が笑っていた。


「多くの者がレイウルフのことを無鉄砲とさえ思っているが、そうではない。もしそうであればとっくに死んでいるし、そんな阿呆を私が登用などするものか。確かに私もひやひやさせられることが多いが……」


 族長の眼差しは真剣そのものだった。


「奴は未知の状況に対し、危険を軽く見ているわけではない。あの若さで、三百歳を超える六神官どもより遥かに冷静沈着なのだ」

「どういうことでしょうか?」


 無意識のうちに右の親指で口ひげをさするラウエル。

 それが彼の困り果てたときに出るくせであることを知るエステルが微笑んだ。


「未知の状況を前にすると、人はどうしてもリスクを過剰に高く見てしまう。それは身の危険を感じた生物としての生存本能だろう。だがレイウルフは違う。冷静にリスクを評価し、必要な行動を選択する。もちろんノーリスクという場面はまずないし、選択した行動が裏目に出ることもあるだろうが、それはリスクを許容した上での結果だ。レイウルフがガスの中に飛び込んだということは、我々が感じるほどの危険がないか、あるいは危険を冒してでも行く必要があると判断したのだ。そういう判断を瞬時に下せる者は、私の知る限りレイウルフだけだ」


 ラウエルは言葉を失っていた。

 無茶に思えた元上司の行動が、重要な行動のように今は思える。

 最初から今まで、危険性ばかりに気をとられていた自分が愚かに思えた。


(穴の底には“箱”がある。そして白いガスはそこから噴き出したこともわかっていた。安全基準をはるかに超える危険な足場で、作業員たちが何か月も命をかけて発掘を進めてきたのは何のためだ。我々にとって最も重要なことは、その箱が今どうなっているのかを一刻も早く確かめることではないか)


 そして今さらながらラウエルは思い出していた。

 レイウルフが防寒具を用意した理由を。


 ――どういうわけか下はかなり寒そうです。


 白いガスは寒暖の差で生じた霧にすぎない。

 そういう意味が込められていたのだ。


――目やのどの痛みを訴える者もおりません。


 そう報告したのは自分自身だったにもかかわらず、冷静な判断ができていなかったことを自覚するラウエル。


「未知の状況に置かれたとき、冷静にリスクを見積もったレイウルフだけが行動を起こせる。それが我々の目には無茶な行動に見えているだけなのだ。ガスの中に入った後も、戻ることを第一に考えているはずだ」

「だから、レイウルフ様は必ず戻ると……」

「そうだ」


 ラウエルと目を合わせてニヤリと笑い、エステルは穴の方へ向き直った。

 同時に彼女の口元が緩む。


「遅かったな」


 白いガスの表面が大きく揺れ、人影が現れた。

 ガスの正体がただの霧であることを見抜いていた男が帰還したのだ。


「レイウルフ様!」


 駆け寄ったラウエルが、もう一つの人影に気づいた。

 レイウルフが手にしていたはずのダウンコートに身を包む者が彼のかたわらにいた。

 一見すると逃げ遅れた作業員の一人を救出してきたようにも見えるが、彼らが全員無事であることは確認済みだ。

 そしてファー付きフードからのぞくストレートの黒髪も、コートの外に出ている白くて華奢きゃしゃな手足も、わずかなけがれさえ知らぬように美しい……。

 見たことがない十五、六歳の少女だった。


「な、何者かっ!?」


 ラウエルが誰何すいかすると同時に剣に手をかける部下の騎士たち。

 そんな彼らを、前に立つエステルが右手を水平にあげて制した。

 レイウルフが同行していること、武器を持たない少女であること、特に怪しい動きがないこと、と危険がないようにも見える。

 だが彼女が騎士隊を制した理由は逆だった。

 レイウルフが視線を落としていること、いるはずのない者が現れたこと、それだけで異常事態だと判断できる。

 制止の理由は、未知の相手を迂闊うかつに刺激しないためであった。


 穴から現れた二人はその場で止まったまま動かない。

 やがて全員が気づく。

 少女の肩が震えていることに。

 顔をこするように動く手がれている。

 ピンク色に染まる頬に涙があふれていた。


「うっ……、えぐっ……」


 少女の泣き声に戸惑うラウエルの前で、エステルが落ち着いた様子で口を開いた。


「その娘が、“竜”なのか?」

「……箱の中にいたのは、この娘だけです」


 顔を伏せたまま答えるレイウルフ。

 その言葉を聞いたエルフの族長は、少女が竜だと確信したようだった。


「今からどうしたいか、おまえの考えを言え」


 族長の命令にレイウルフがようやく顔をあげた。

 その目からは、いつもの控え目でありながらも自信に満ちた光が消えている。


「……わかりません。許されるのであれば、少し休養を取らせていただき……」

「だめだ」


 エステルの強い視線がレイウルフを貫いていた。


「おまえが判断できないというなら、私が決める。何があったか報告しろ」


 いつもより低く重い族長の声を聞いて、レイウルフの表情が固まった。

 彼は生まれたときから族長のことを知っている。



 エルフ族はヒューマン族よりも長命で、老化のスピードに波がある。

 幼いうちはヒューマン族と同じように成長する彼らだが、成人を迎える十五歳頃から成長が遅くなり、二十代前半から二百歳前半まで二十代の外見を維持すると、その後は急速に老化が進む。

 ヒューマン族の学者が作成したと言われるエルフ族の外見年齢表に当てはめれば、二十一歳のレイウルフと二百歳のエステルの外見は、それぞれヒューマン族の十九歳と二十四歳に相当する。


 レイウルフが生まれたとき、エステルはすでに二十二歳の外見をもつ族長だった。

 十二歳で森林防衛隊に入隊したレイウルフは、特に弓の才能を見込まれてエステルから厳しい指導を受けた。

 そして彼が十四歳の時だった。

 成人前という若さで初めて“双角バイコニュエート”――エルフ族に伝わる弓術七奥義のひとつであり、二本の矢を同時に放って二百メートル先にある二十メートル離れた二つの的に当てる技――に成功した。

 その時の族長の嬉しそうな笑顔を、レイウルフは一生忘れることはないだろう。



 長い付き合いゆえに、レイウルフにはよくわかったのだ。


(エステル様はお怒りになっている。信頼していた部下の不甲斐なさに……)


 若きエルフ族の男の目に、わずかに光が戻った。


(何があっても信頼に応えねばなりません。それが私の選んだ道なのですから)


 意識が前に向き、右手をつかんでいた左手から力が抜けた。

 その拍子に、右手から五本の指が離れて地面に落ちた。

 穴の底で箱の亀裂に右手を掛けたときから、その手首から先は完全に死んでいた。


 黒髪の少女が慌てて地面にうずくまり、どす黒く変色した五本の指をかき集めた。

 うずくまったままの少女のすすり泣きが大きくなり、その声がエステルの耳まで届く。


「申し訳ございません……申し訳ございません、父上。私のせいで……」


 謝り続ける少女に一瞥いちべつもくれず、落ちた指を気にする様子もないまま、レイウルフは穴底での体験を族長と騎士隊の前で語った。

 騎士隊隊長のラウエルが、右の親指で口ひげをさすりながら声を漏らした。


「ではレイウルフ様、その右手はもう……」

「二度と弓を引くことはできません。早々に森林防衛隊隊長の任を解いていただくつもりです」


 再びうつむくレイウルフに追い打ちをかけるようなエステルの言葉が続いた。


「たった今、森林防衛隊からの除隊を命じる」


 隊長職の解任どころか森林防衛隊にとどまることさえ許されないことをレイウルフは知った。

 誰も何も言わなかった。

 族長の命令は絶対なのだ。

 そうでなければ二百万人を超えるエルフ族の統制は取れない。


 レイウルフは、ただ地面を見つめていた。

 何をどう考えていいのかさえわからない。

 尊敬する族長を支える立派な存在になることを目指して生きてきた彼は、これまでの人生におけるあらゆる努力が否定されたようにさえ感じていた。



 レイウルフの視界に見えるのは、地面にうずくまって震えている少女の姿だけだった。

 その少女の丸めた背中に、白い皮手袋レザーグローブが重なる。

 エステルの右手だった。

 エステルがしゃがんで、少女に話しかけていた。


「おまえ、名は何と言う?」




 その瞬間、場の空気が変わった。




 信じられないほど強い緊張感が、そこにいる全員を包み込む。

 ラウエルが腰の剣に手を掛けようとするが、思うように動けなかった。

 誰もが地面にうずくまる少女を見つめていた。

 レイウルフが氷の中にいる少女を見つけたときと同じである。

 意識の奥底から噴き出す本能的な恐怖が、全身の筋肉を硬直させているのだ。


 土にまみれたレイウルフの指を両手で包んだまま、ゆっくりと顔を上げる少女。

 見上げた黒い瞳は、氷のように冷たかった。


「あなたは、父上の敵ですか?」



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