File028. 氷塊の少女
カイリが子竜をそっとバスケットに入れた。
ごつごつしたウロコ。
生きていることを主張するかのようにペースが速い心臓の鼓動。
それらの感触が手に残った。
全長十五センチ程度の
「おとなしい奴で助かるよ」
気性の荒い個体であれば、今頃はカイリもマティも蒸発していたかもしれない。
スザクの上から白い布をかぶせると、「ミィ」というくぐもった声が聞こえた。
「スザクは生まれたばかりだから、世話や教育をする必要がある。マティとフェスにも手伝ってほしい」
サンドイッチを抱えたままのマティがバスケットを見おろして尋ねた。
「エサは何をあげたらいいでしょうか? 食べ物がわからないと
「エサは、いらないよ」
視線を上げたマティの頭が傾いている。
きれいな黒髪が流れるその仕草と、きょとんとした表情が相変わらず可愛いなと思ってしまうカイリ。
「竜は精霊に近い存在だって話したの、覚えてる?」
「えーと……そうでしたっけ?」
覚えていないのも無理ないか、と笑うカイリ。
――そうだな……存在としては、こいつに近いと思う。
そう言ってカイリがポケットから取り出したのがアーモンドによく似た
それを地面に落としてしまい、フェスが登場した。
その後フェスとの契約が成立して今にいたる。
そういうわけで、竜についての説明はほとんどできていなかった。
「スザクは生きているように見えるけど、マティや俺みたいに本当に生きているわけじゃない。フェスと同じ
「
竜もまた精霊と同じで、その本質はプログラムであり学習能力を備えている。
外観はやはりインターフェースで、敵を威圧する力の象徴でもある。
そして人と一緒に行動しやすいように、また作戦に汎用性を持たせるために、人型になることもあると予言書には書かれていた。
(本当は生物と言ってもいいのかもしれない。ただ、この
「ではエサは必要ないかもしれませんが、世話や教育の必要もないのでは……」
マティの疑問は当然だった。
精霊は人に使役されるために存在する。
教育などしなくても言葉や常識を理解し、従順に命令を実行する。
それがこの世界の常識であることは、カイ・リューベンスフィアたちの日記を読んだカイリも知っている。
「精霊にも教育は必要だったんだよ。生まれたばかりのフェスを教育した人物が過去にいたはずだ」
(フェスの場合は、どこかの時代に非常識も教えられたみたいだけどね)
マティの白い太ももを思い出して顔を赤くするカイリ。
カイリの説明を聞いてもマティはまだ納得できない様子だった。
彼女が二千年間当たり前だと思っていたことを、カイリはあっさりと
彼女の知る限りすべての精霊は生まれたときから従順で、例外はなかった。
「でも、精霊は生まれたときから従順です。スザクのように私を威嚇したりしません」
「精霊はね、死なないんだ」
説明するのが難しいなと思うカイリ。
「死んだように見えても、生まれたように見えても、それはそう見えるだけ。もちろん精霊にも初めて誕生した瞬間はあるけど、それはマティが生まれるよりもずっと前――予言書が書かれた
精霊とはプログラムである。
プログラムにしたがってインターフェースである身体を形成し、学習し、命令を理解して実行する。
姿が消えても死んだわけではなく、姿を現しても生まれたわけではない。
その部分をマティに理解してもらうのは難しい。
……と思ったのだが。
「精霊の本質は
マティはプログラムを魂という概念で理解したようだった。
生まれ変わって知識を引き継ぐ魂も、最初に生まれたときには何の知識もないということだ。
「スザクに必要なのは
自分に言い聞かせるようにカイリは断言した。
学習能力は人間の赤ん坊よりはるかに高いはずである。
生まれた瞬間から学習は始まっていて、マティとのこうした会話さえ言語学習の役に立っている可能性が高い。
「躾ではなく教育と言ったのは、そういういことなんですね。ただ言葉で教えればいいと……」
マティは彼女なりに納得したようだった。
「ところでカイリ」
「うん?」
「今日はもう時間が遅いので、エステルを訪ねるのは明日にしましょう」
はっとして腕時計に視線を落とすカイリ。
太陽が沈まないこの世界では、体内時計とピージの位置だけが時間を知る手がかりだ。
そして空が曇っている今はピージを見ることができない。
腕時計は夜の八時を示していた。
「ごめん。今日中にエルフの族長さんを訪ねるはずだったのに、俺がいろいろと頼んだせいだ」
瓦礫の中からローブを手に入れ、呼び方について議論し、竜を孵化させたのだ。
かなりの時間が
にっこりと微笑むマティ。
いつもの笑顔になっていた。
「それより屋敷を焼いてしまったことのほうが問題ですよ。今夜はガーディの……リザードマン族の世話になりましょう」
リザードマン族。
昼にもその種族名を聞いたし、カイ・リューベンスフィアの日記にも名前だけは登場していた。
だがどんな種族なのか、カイリには見当がつかない。
マティとは良好な関係にあるようなので、危険はなさそうだとは思うのだが……。
「いいのかな? 最近の食事はずっとその人の世話になっているみたいだし、小さいマティはともかく俺まで泊めてもらうっていうのは、さすがに迷惑では……」
三日間森をさまよっている間は、弾力のある大きな葉っぱを重ねた自作の寝床を毎晩作っていた。
太陽が沈まないこの世界では、夜の時間帯に暗くなることもなければ気温が下がることもないため、たき火をする必要もなかった。
カイ・リューベンスフィアの屋敷にあったベッドの快適さは恋しいが、いざとなれば野宿でもかまわない。
そう覚悟を決めると心に余裕ができ、カイリはあることに気づいた。
「いや、うん、夕食や宿の世話になるかはともかく、直接会って俺からもちゃんとお礼を言ったほうがいいな」
どこの世界でも礼儀は大切なはずだと気づいたのである。
「では、参りましょう」
〈
***
レイウルフの視線の先。
黒い箱の壁にぱっくりと開いた亀裂の向こうに、巨大な氷の塊があった。
微結晶が降り積もった外の青白い氷とは違い、透明度が極めて高い。
まるでブリリアントカットが施されたダイヤモンドのように、壁の外を舞う光を反射している。
その中に、十五、六歳のヒューマン族に見える全裸の少女がいた。
立ち姿はスリムで、シミひとつない白い肌と腰まで伸びるストレートの黒髪が作るコントラストが印象的だ。
少女の漆黒の瞳がレイウルフを見つめていた。
死んだように冷めた視線。
二十一歳になるレイウルフの背筋に冷たいものが走った。
恐怖が全神経を活性化させ、逆に筋肉は固まって動かない。
小娘にしか見えない相手を前にして、まるでヘビに睨まれたカエルだった。
理屈では説明できない何か――生物としての圧倒的な力の差を、本能が感じている。
彼女がその気になれば、自分は一瞬で死ぬ。
そう直感した。
動けないでいるレイウルフの前で、氷の中にいる少女の口が動いたように見えた。
次の瞬間。
少女を包んでいた氷の塊が。
砕け散った。
死の恐怖の中にいたレイウルフには、それがスローモーションに見えた。
粉々になった氷の破片が、キラキラと光を反射しながら放射状に飛んでいく。
手を広げて両腕を伸ばした少女が、ゆっくりと自分に迫ってくる。
少女の長い黒髪が、流れるように後ろへなびく。
――トン、と軽い音がした。
気がつくと、少女がレイウルフの胸板に抱きついていた。
「初めまして、父上。わたくしがゲンブです」
嬉しそうに頬を染めている少女の身体は、確かに温かかった。
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