竜を連れた魔法使い Rev.1

笹谷周平

Folder01. 沈まない太陽

File001. 瞬間記憶能力


 視界を埋め尽くす草木のせいで十メートル先の様子がわからない。

 頭上を覆う枝葉は重なりあい、空の欠片さえ見ることができない。

 そんな深い森の中で、一人の青年が誰かと言葉を交わしていた。


「逃げるって……どこへ?」


 戸惑う青年の名はカイリ。

 その黒髪は汚れ、腕まくりした白シャツとグレーのズボンはボロボロで泥だらけだ。

 お世辞にもたくましいとは言えない十八歳の身体は見るからに頼りなげである。


「マスターの屋敷へ、です」


 カイリの前方二メートルに、細身の女が真剣な表情で向かい合っていた。

 二十歳前後に見える彼女のつややかな黒髪は胸の高さまでストレートに伸び、そこから緩やかなウェーブを描いて腰まで達している。

 七分袖の白シャツと濃紺色ネイビーブルー胸当付サロペットロングスカートは清潔でさっぱりとした印象だ。

 そんな彼女の身長はわずか三十センチほどしかない。

 その小さな身体は地上から一メートルくらいの高さに浮いていて、背中には青みがかった透明なはねが生えていた。



  ***



 カイリが森で黒髪の“妖精”と出会う三日前。

 彼の記憶によれば、その日は朝から雪がちらついていた。


 通う高校は公立の進学校で、毎年それなりの人数を有名大学に送り出している。

 三年の彼はすでに全国共通試験を終えており、最近の授業は志望校の入試対策に特化していた。

 志望校や実力に応じた臨時のクラスが作られ、大学別の過去問や予想問題からなるテストをひたすら受けては答え合わせを繰り返している。

 そこでは三年間一度も同じクラスになったことがない生徒どうしが机を並べることも珍しくなかった。


 雪がちらほらと舞う天気は午後になっても続いていて、校舎の窓越しに見える生徒たちの姿は真剣そのものである。

 その中に、コピーでかすれた文字のテスト問題を目で追うカイリの姿があった。


 午後一のテストは英語で、まずは単純な英単語の意味を答える問題が十個並んでいた。

 ただし全国共通試験と違い、高校の授業では覚えないような専門用語ばかりである。


 となりの席から小さな唸り声が聞こえてきた。

 この教室は東大を狙うトップレベルの生徒を集めており、そんな優秀な生徒でも難しい問題なのだろう。

 カイリの志望は東大ではないが、志望する大学の情報工学科が東大レベルの難関なのでこのクラスに振り分けられている。


(こういう問題なら、楽勝なんだよなぁ)


 スラスラとシャーペンを動かし解答欄を埋めていくカイリ。

 彼には生まれつきの才能があった。



 担任の教師さえ彼の言葉を冗談として信じなかったが、彼は本を開いて少し眺めるだけでそのページの文字を一字一句正確に記憶できる“瞬間記憶”という能力を持っている。

 記憶できる対象は文字列だけで挿絵さしえや図表までは含まれないものの、便利であることにかわりはない。

 彼の頭には何百冊という辞書や事典、教科書、参考書の文章がそっくりそのまま納まっていて、その中には各種専門用語の英和辞書も含まれる。

 彼だけテスト会場に電子辞書を持ち込んでいるようなものであり、受験には大いに役立っていた。


 ただし文章を暗記することとその内容を理解して応用することは別なので、教科書を一度暗記したらテストで満点が取れるというわけではない。

 教科書の例題がそのままテストに出るわけではないので、やはり勉強は必要なのである。

 それでも“瞬間記憶”のおかげで勉強が格段に楽になるし、暗記に頼る問題には抜群の強さを発揮するので、カイリは学年でトップクラスの生徒だった。

 ただし彼は、自分の能力をそれほど特別なものだとは思っていない。


 カイリが昔見たテレビ番組に“サヴァン症候群”と呼ばれる人々を特集したドキュメンタリーがあった。

 彼らの中には、千ページを超える電話帳を丸暗記して新しく電話帳が発行されるたびに変更箇所を見つけることを趣味にしている人や、一度見ただけの写真の風景を細部まで精巧に描くことができる人や、とんでもなく複雑な計算を暗算で解いてしまう人などがいた。

 実に様々な能力が存在し医学界でも認められている症例だが、その原因はわかっていないらしい。

 ただ、テレビで紹介された“サヴァン症候群”の人々には共通点があった。

 全員が人とのコミュニケーションが苦手で自閉症の人もいたのだ。


 カイリは勉強以外で目立つ生徒ではないし読書が好きなインドア派ではあるが、人とのコミュニケーションが苦手ということはなく付き合いの長い友人もそれなりにいる。

 だから自分の“瞬間記憶”はサヴァン症候群とは違うものだろうと思っていたし、かといって超能力と呼べるほど突飛な能力でもないことを知っていた。


(う……)


 次の問題でカイリの手が止まった。

 英語の長文問題だ。

 単語の意味はすべてわかるし、各種文法も記憶しているので内容は理解できる。

 だがしかし。

 解答欄に並ぶ四つの選択肢はどれも同じような意味だった。

 どれも文法が間違っているわけではないし意味も合っている。

 つまり様々な言い回しの中から長文に書かれたシチュエーションにぴったりの解答を選べということだ。

 生きた英会話を知らなければ答えられない問題である。


(く……)


 全国共通試験と違い、大学別の入試ではこういう難問が混ざってくる。

 難関と言われる大学の試験ほど実践力や発想力が求められることが多い。

 さらに今回のテストでは、最後に三十分間のリスニング問題まであった。

 英語の聞き取りに文字列限定の記憶力が役に立つはずもなく……。


(あーっ、全然ダメだぁっ!)


 テスト終了の合図とともに悔しそうな顔を見せるカイリであった。

 全国共通試験では満点に近い点をたたき出したカイリなのだが、今の臨時クラスに入ってからはクラスの落ちこぼれと化していた。

 先ほど小さな唸り声を漏らしたとなりの男子生徒が「ふふん」と勝ち誇った視線を送ってくる。

 しかしカイリにやり返す気力はなかった。




 休み時間に入るとカイリを職員室に呼び出す放送が流れた。

 職員室では担任で三十代後半の物理教師が、開封済みの封筒を手にして待っていた。


「おめでとう、滝谷」


 手渡された書類に「滝谷海里たきたにかいり殿 合格」の文字が見えた。


「なんですか、これ?」


 事態を飲み込めていない生徒を見てあきれ顔になる担任教師。

 それは先月受けたばかりの全国共通試験の結果と、過去四回の全国模試での成績を判断材料にして、カイリの志望大学により決定された“推薦合格”の通知書だった。

 つまり、入試が免除されたのだ。


「あ、そういえば先生が推薦書を出してくれていたんでしたっけ……」


 こうして彼の大学受験はあっけなく終わった。

 春からの大学生活が約束されたのである。




 数分前まで次の授業を受ける心づもりだったカイリは、職員室から廊下に出てもまだ合格の実感を持てないでいた。

 卒業式まで学校に来なくていいと言われたので、下校するしかないことはわかっている。

 こんな時間に家に帰れば専業主婦の母親が驚くだろうが、理由を言えば喜ぶに違いない。

 その笑顔を想像してカイリの口元がようやくほころんだ。


 廊下の窓枠に雪が積もり始めていた。




 カバンを取りに教室に戻ろうとしたその時、は突然起こった。


 前触れらしきものは何もなかった。

 謎の光に包まれたわけでも、神の啓示を聞いたわけでも、未確認飛行物体が現れて連れ去られたわけでもない。


 気がつくとカイリは、深い森の中に立っていた。



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