4話 離れ森の魔術師④
「うーん……」
意識の回復と共に訪れたのは、身体の痛みだった。打撲に擦り傷、逃げる時は夢中で気付かなかったが、あちらこちらに切り傷もできている。
逃げる――自分は何から逃げていたのだろう。混乱する意識を落ち着かせ、先程までの出来事を思い出す。
「そうだ、森の影は!?」
リリアは慌てて上半身を起こすと、辺りを見渡した。馴染みのある家の外壁が見える。どうやら、自分は玄関先にいるようだと理解する。
今まで自分を脅かしていた影は、どこにも見えない。
「た、助かった……の?」
大きく息をつくと、身体が
首に触れると、ヌルリとした感触が指を濡らした。爪で裂いた傷から流れたものだろう。しかし不思議な事に、その傷が見当たらない。
自分がどれほどの間気を失っていたのかは分からないが、そう長くはないはずだ。辺りは夜の闇に包まれたままで、浮かぶ星の位置にも大きな変化は見られない。傷が自然に治るには、短すぎる時間だ。
考えられる方法は、ただ一つ。
「
足に力を入れて、ゆっくりと立ち上がる。物音一つ聞こえてこない家から、ぐるりと視線を巡らせて、森に通じる小道を見つめる。
リリアの瞳が捉えたのは、闇の奥から向かってくる、ボンヤリとした人影。白いローブを
リリアが彼を――師匠を見間違える事はない。
「師匠―!!」
大声で呼んでみる。反応が薄いのは、いつもの事だった。
しょうがないなぁ、と呟いて、リリアは駆け出した。
いつだって師匠を出迎えるのは、弟子である自分の役割なのだ。
「師匠ー、ししょーーう!!」
「はいはい。そんな大きな声を出さなくたって、ちゃんと聞こえてるよ」
男がそう答えた声は、弟子の馬鹿でかい呼声にかき消され届かない。
手を上げて制しても、彼女は賑やかな声を上げながら、
リリアを自らの弟子として引き取り、共に暮らし始めて早数年。決して短くはない月日の中、「師匠、師匠」と呼ばれ続けたせいで、たまに自分の名前を見失いそうになる。
先日、そんな事をリリアに漏らしたところ、
「じゃあ、『シショー』に改名しましょうか?」
と、にべもない言葉で返された。
こちらとしても、それはいい思い付きだ! 採用!――なんて考えには至らなかったので、せめて自分を見失わないようにしようと心に誓った。
男の名は、ラクラ・グランフェルト。
この離れ森に住む魔術師であり、リリアの師匠である。
「師匠っ、おかえりなさい!!」
のんびり歩いている間に、リリアは目前まで迫っていた。腕を大きく広げて、一直線に懐へ飛び込んでくる。
反射的にその身体を受け止めたラクラだったが、思った以上の衝撃に足元がぐらつく。リリアを抱えたまま体勢を立て直す事は困難で、二人はそのまま地面に倒れこんだ。
「……減速も手加減も無しに体当たりをしてくるのは止めなさいと、何度言ったら分かるんだい?」
「体当たりじゃありません。師匠がちゃんと受け止めてくれれば良い話です」
「君はもう子供じゃないんだし、流石に無理だよ」
「そんな事言って、子供の頃だって受け止められなかったじゃないですか」
「そうだっけ?」
「そうです!!」
ラクラの腹の上で馬乗りになりながら、リリアは頬を膨らませた。
成人男性が少女に組み敷かれている光景は、傍から見れば異様に思えるかもしれない。もしこの場に親子連れの通行人がいたとすれば、「見ちゃいけません」などという台詞と共に、親が子供の目を塞いでいる事だろう。
二人にとっては日常的に起こるスキンシップの一種なので、特に気にした様子もなくこの体勢のまま
「そんな事より、一体どこまで行ってたんですか? こんなに帰りが遅くなるなんて……」
「あれ、行き先伝えてなかったっけ?」
「聞いてません」
リリアがきっぱりと答える。弟子に上から詰め寄られ、ラクラは困ったような笑みを浮かべた。
「王立図書館に行ってたんだよ。王都にあるだろ?」
「王都って……ここから二日は掛かるじゃないですか。よく帰ってこられましたね」
「まあ、君を残してきたしね。色々と心配だったし……」
何かやらかしそうで――という声は、心の中に留めておく。
「私、師匠がどこかで行き倒れてるんじゃないかって、心配してたんですよ。スリにあってお財布盗られたり、置き引きにあったり、家の鍵無くしたりして、帰って来られないんじゃないかって……」
「……相変わらず、君の想像力の
ラクラは大きく溜息をついた。
馬乗りになっているリリアが、呼吸に合わせて上下する。土や葉屑が付いたままの細い身体には、あちこちに傷が走っている。首には生々しい血の痕がこびり付いていた。
その痕に手を伸ばし、
「僕の事よりも、自分の心配をしなさい。帰ってきたら弟子が死に掛けてるなんて、心臓に悪い」
言いつつ、目を伏せた。
「まぁ……今回の事は、君を一人にさせた僕の落ち度だな。怖い思いをさせてすまなかったね、リリア」
「師匠が謝ることないですよ。私が
首に触れる指を握りながら、あっけらかんと笑うリリア。こういうときの顔は、実年齢よりも幼く見える。出会ったばかりの頃と思い比べながら、ラクラはぼんやりとそんな事を思う。
「この傷、師匠が治してくれたんですよね」
「うん」
「じゃあ、森の影は……」
「追い払ったよ。さっき辺りを確認してみたけど、いなくなった」
その言葉に、リリアは少し残念そうに肩をすくめた。
「やっぱり師匠か。じゃあ、私の精霊術は……」
「失敗だね。術式に穴があったよ。その事については
「……けど?」
深呼吸する腹の上で、リリアはじっと言葉を待つ。
いつになく真剣な表情に、ラクラもつられて目元を引き締めるが、
「とりあえず、帰って汚れを落とすのが先かな。それに……いいかげん、重くなってきた」
すぐに空気が抜けたように、顔を緩ませた。
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