賭けと夕陽と女と、そして

永坂暖日

第一話

「あんたの目、夕陽みたい」

 ルアソルを見上げる小麦色の肌の女は、そう言った。

「夕陽?」

 思わぬ言葉を聞いて、ルアソルはわずかに眉間にしわを寄せる。

「そう。その目の色、よく似てる」

 そんなルアソルの表情を見て、女はくすりと小さく笑った。

 小麦色の指先が伸びてきて、ルアソルの顔、彼女が夕陽のようだと言った目元に触れる。

「きれいな色だね」

 組み敷いた女を見下ろすルアソルには、そう言われても大した感慨は湧いてこない。

 ただ、女の指は、女の体と同じく温かいと思った。



 試合に勝てば、その褒美として望むものが与えられる。だが戦い方によっては、要求が通らないこともあるし、決して与えられないものもあるが、褒美は闘士たちにとっての数少ない励みだった。

 今日の試合で勝利を収めたルアソルは、褒美として今日の一夜を共に過ごす女を望んだ。女ならば誰でも良かったし、そもそもルアソルたち闘士には褒美として女を望むことを許されても、どんな女がいいと選べる権利までは許されていない。毎回違う女が与えられた。

 ルアソルのもとにやって来たのは、小麦色の肌をしたこの女だった。もちろん初めて見る女だったが、肌の色が白くないという以外、今までルアソルに与えられた女と大差ないと思った。

 ルアソルよりいくらか年若い。褐色の肌は滑らかで、太りすぎず痩せすぎていない、程良く豊満な肢体。黒い目は長い睫毛に縁取られ、化粧がなくとも大きく見える。その目が印象的な顔は、素直に美人だと思ったが、遊女であれば誰でもその程度の容姿は持っている。ルアソルを贔屓(ひいき)にしている貴族が手配したのだと、彼女は言った。

 試合後で疲れているルアソルの気分を害さない程度に話し、疲れた体をもみほぐしてくれた。声音は控えめだが、性格は決してそういうことはなく、ルアソルがその気になると、惜しげもなくその体を預けてきた。

 頼りない蝋燭の灯りの中でルアソルが女を味わっていた時、不意に言ったのが、先の一言である。

 ルアソルの双眸は赤い。

 それが稀な色であることは、自分以外の闘士やこの女、他の遊女たちの目を見て、いつの頃か、気づいた。


 倒した相手の血で染まったような目ね――。


 ルアソルが闘士であるから、そう言う女はこれまで何人かいた。赤い目を見て、明らかに怯えて見せた女もいた。

 自分の目を見て怯える女がいようとも、気にしたことはない。生まれついての色であるし、数え切れないほどの闘士の屍を越えて生きてきたのは事実だった。

 だから、手にかけた闘士たちの血で赤く染まったのではないか。生まれついては別の色だったのが、本当に血で染まってしまったのではないか。そう思うことも時折あった。だが、生まれついてのものであってもそうでなくとも、ルアソルの目は赤い。それだけのことでもあった。

「夕陽は、俺の目のような色をしているのか」

 だが、夕陽のようだと、血以外のものにたとえたのはこの女が初めてだった。

「あんたは、見たことがないのね」

 顔に触れる小麦色の手が動きを止める。女は少し驚いた顔をしていた。それから、笑みを浮かべる。そこに哀れみが混じっていることに、ルアソルは気づく。

 今度はルアソルの動きが止まる。

 闘士は、闘技場から出ることを許されない。闘士として闘技場に立つまでの間は、訓練場を出ることを許されない。もっとも、どちらの場所も高い壁に囲まれているし、壁に窓はなく、登ることもできないから、逃げ出すことは不可能だ。数少ない外と繋がっている出入り口と壁の上にも、常に見張りの姿があった。

 ルアソルたち闘士は、壁で仕切られた四角い空しか知らず、そこを通り過ぎる白い太陽と月しか見たことがなかった。朝日も夕陽も、見たことはない。ただ、朝方と夕方、赤く色を変える空を見るばかりだ。

 女の身上も、ルアソルと似たようなものだろう。だが、境遇は違う。女はルアソルの知らない闘技場の外の世界を知っていて、夕陽を眺めることもできる。だからこそ、女は哀れみのこもったまなざしをルアソルに向けたのだろう。自分よりもずっと、籠の中の鳥であるルアソルを知って。

「でもあんたなら、きっと見ることができるわ」

 女の目から哀れみが消えた。

「あんたは、とても強いもの」

 指先は頬から顎、顎から首筋、首筋からたくましい肩へと滑っていく。

「おまえに、何が分かる」

 彼女の指の動きに心地良さを感じながらも、ルアソルは眉をひそめた。貴族ではないこの女が、ルアソルの闘う姿を見たことがあるのか。



 闘士。それがルアソルの肩書きであり、すべてだ。

 物心ついた時には既に、壁の中にいた。周りにいたのはルアソルと同じような男の子供ばかり。皆、闘士になるために集められた、親のいない子供、あるいはその親に売られた子供だった。多くの子供たちと同じように、ルアソルは詳しいことを何も知らなかった。

 闘士になることを定められた子供たちは、そのための訓練に明け暮れることを余儀なくされ、訓練についてこれなければ容赦ない制裁が待っていた。

 痛みがどういうものか徹底的に叩き込まれ、痛みに対する恐怖、すぐそばにある死を否応なく感じた。訓練中に命を落とした闘士候補も少なくはない。

 殴られたくなければ、課せられた厳しい訓練を確実にこなしていくしかない。日々を過ごすことに精一杯で、なぜ自分がそんなことをしているのか考える余裕がどれほどあっただろうか。自分の境遇について興味を持つゆとりをなくし、そして興味を持つこと自体をどうでもいいと思うようになるまでに、それほど長くはかからなかった。

 過酷な訓練を乗り越えた仲間を殺せと、そのために集められ育てられたのだとやがて知った時でも、大きな動揺はなかった。自分たちには闘っていくほか道がないのだと、誰もが薄々と感じていた。

 貴族と呼ばれる、金と時間を持て余す連中が始めたらしい賭け事。

 真剣を持った人間同士を闘わせ、どちらが勝つかを賭ける。連中は酒を片手に笑いながら、時には怒号を上げて、ルアソルたち闘士の命がけの戦いの行く末に金を賭けている。真剣を使い、どちらかが息絶えるまで試合は続行される。闘士たちは己が生き残るために相手を殺し、貴族たちはそのさまに大いに盛り上がる。訓練場と闘技場の中の世界しか知らないルアソルには、それが良いことなのか悪いことなのか分からない。

 ルアソルに分かっていることは少ない。一度闘技場に立った闘士は、相手を負かさなければならないということ。そうしなければ、自分が死ぬだけだということ。闘士となってから十年の間、勝ち続けて生き延びた闘士は、その褒美として闘士から解放され、闘技場の外に出ることを許されるということ。それくらいだ。

 そして、闘士たちは解放されるという褒美を得るために、かつての仲間である闘士の屍を築いていく。それ以外のことを考えたことなど、ほとんどない。まして、夕陽の色がどんなものであるかなど。



「あんたなら、いつかきっと『外』に出られるわよ」

 女は再度言った。先程よりも言葉に力がこもっているようだった。

「どうしてそう言い切れる」

 仮にルアソルの闘うさまを見たとしても、勝ち続けられると言い切れないはずだ。ルアソルが今日、同じように育った闘士を殺してこの女を得たように。次の試合ではルアソルが別の闘士に殺されて、その闘士がこの女を抱くことも十分にあり得るはずなのに。

「女の勘よ」

 女は悪戯っぽく微笑んだ。ルアソルは暗がりの中に浮かんだその笑みに、しばし見とれた。

 勝利の褒美として与えられる女は、これまで誰も似たり寄ったりだった。抱ければそれでいい。だから、いちいち顔など覚えていなかった。名前すら、訊いたことがない。

 だがこの女は違う。肌の色などではなく、今までの女とは確かに違っている。

「……おまえ、名は?」

「一夜限りの女の名を知って、どうするつもり?」

 訊いたつもりが、逆に聞き返されてしまった。

 女の言う通り、名を知ってどうなるというのだろう。褒美に与えられる女を選ぶ権利は、ルアソルにない。今宵一夜限りの相手であることは、今まで同じ女を二度見たことがないから分かり切っている。それでもなお知りたいと思った理由が、ルアソルは自分でも分からなかった。

 それを誤魔化すように女の唇を塞ぐ。女はルアソルの唇を受け入れ、ルアソルの首にしなやかに腕を回してきた。

「ねえ、強く抱いてよ。あんたを忘れられないくらいに、強く――」

 唇を離すと、女はねだるように言った。

「一夜限りなのに、か?」

 ルアソルは怪訝そうに訊いた。

「一夜限りだからこそ、よ。あんたほど強い男に抱かれるのは、きっと今夜だけだから――」

 今度は女の方からルアソルの唇を求めてきた。女の剥き出しの胸が柔らかくルアソルの胸を押す。ルアソルはそれ以上何かを訊くのをやめ、女が望むように彼女を抱くことに専念した。


◇◆◆◇


 根元近くまで突き刺した剣を一気に引き抜くと、胸を貫かれた闘士は土の上にできた自分の血溜まりの中に倒れ込んだ。試合終了はまだ告げられていなかったが、彼が既に死んでいることは、彼を殺したルアソルがいちばんよく知っている。

 彼は、ルアソルより三年遅れてに訓練場にやって来た闘士だった。幼いうちから負けん気が強く、闘士候補だった頃、訓練する側に回っていた闘士に何度も歯向かい、その度に制裁を受けていた。闘士となってからもその負けん気は健在で、十年を必ず生き延びて自由になるのだと息巻いていた。

 あと五年で年季が明ける。試合直前、彼はそう言っていた。五年生き延びた。あと同じだけ生き延びれば自由になれる、とも言った。

 ルアソルは、あと三年。あと三年勝ち続ければ、壁の外に出られる。だから負けられなかった。

 判定役が倒れた闘士の死亡を確認し、試合終了が告げられる。同時に歓声や怒号が飛び交った。ルアソルに向かってにこやかに拍手する者、逆に唾を飛ばして罵倒する者――闘技場の中心部、試合が行われるこの場所を取り囲む壁の上から賭けの行方を見守る貴族たちの表情は様々だ。長く勝ち残っている闘士同士の試合ほど、掛け金も高くなると聞いたことがある。

 金がどういうものかルアソルは知らないが、ルアソルたち闘士が命がけで闘うことと同じ価値があるのだろう。しかし、ルアソルたちは真剣そのものなのに、貴族たちが金を賭けるのはただの遊びだという。解せないことであるが、勝てば褒美を与えられる。外に出られる日に一歩近付く。深く追求しようという気は起きなかった。

 試合が終わると、闘士候補たちが死んだ闘士の死体を運び出していく。闘技場で死体を運ぶのは、間もなく闘士になる候補たちの役目だ。負けた闘士の惨めな行く末を教えるために、やらせているらしい。

 運び出されるかつての顔馴染み。彼は今日ルアソルに勝っていたら、何を褒美に望んだのだろうか。

「おまえのおかげで今日も稼がせてもらったよ、ルアソル」

 返り血を浴びて目だけでなく全身が赤いルアソルに向け、壁の上から声が降ってくる。壁の上に目を転じると、知った顔があった。数年前からルアソルを贔屓にしている貴族のヴァラトナだ。あの小麦色の肌の女を手配したというのも、あの男だ。

「相手のあの男、ギブスールと言ったか、あの男もなかなか強かったけれど、やはりおまえの強さには敵わなかったようだね」

 運ばれていくギブスールの方をちらりと見て、ヴァラトナが笑う。

「今日の試合では、ギブスールに賭けた者の方が多かった。おまえの強さを疑う者の方が多かったんだよ、ルアソル」

 彼は信じられないという風に続けた。

「ギブスールも確かに子供の頃から強かったがね、やはりおまえに勝てるほどではないよ。負けん気が強いだけじゃ、おまえには勝てない」

 ルアソルのことならばなんでも知っている。まるでそう言いたいかのように、ヴァラトナの話はなおも続いた。ルアソルは訓練場と闘技場の中だけで生きてきた。闘う以外のことは何も知らない。そんなルアソルのすべてなどたかが知れていて、この男が知っていたとしてもおかしくはないだろう。

 ルアソルは無感動にヴァラトナの話を聞いていた。貴族に話しかけられたら、最後まで話を聞けと教えられていたからだ。

「ルアソル、今日の褒美は私が用意しよう。おまえの見事な闘いぶりに対する、私からのささやかな贈り物だ。何がいい?」

 ヴァラトナは上機嫌に、壁から身を乗り出して訊いてきた。

「……」

 いつもならば、試合に勝ってから褒美は何がいいかを考える。試合の前から褒美を考えると、負けた時に無駄になるからだ。しかし、今回は違っていた。

「前回の試合の褒美と同じ女を――」

 女を望むことは許される。けれど、女を選ぶことは許されていない。それはよく知っている。しかしそれでもルアソルは、この前の、小麦色の肌をした女にもう一度会いたかった。

「……今日の試合は、見事な闘いぶりだったと思うよ」

 上機嫌だったヴァラトナの顔が、渋い表情に変わる。

「だが、前回の試合は今日以上に見事なものだった。実に素晴らしかった。だから、特別にあの女を与えたのだ。あれは高い。今回程度の闘いでは、褒美にするのは無理だ」

 自分を贔屓にしているこの男ならばもしかして、と淡い希望を抱いていた。だがやはり、闘士には選ぶ権利がないらしい。大きな期待を抱いていなかっただけに、落胆もそれほどではない。

「だが、今日の闘いぶりにふさわしい女を与えよう。それで、次の試合も頑張ってくれよ、ルアソル」

 ヴァラトナはそう言うと、ルアソルには見えない壁の向こうへ行ってしまった。

 予想していた結果だったが、ルアソルは小さく溜息をついて空を見上げた。四角く切り取られた空は、夜に向けてその色を変え始めていた。

 壁の向こうから昇り、壁の向こうへ沈んでいく陽の色は白。小麦色の肌の女は、目を灼くほどまばゆく白いあの太陽が、それ以外の、ルアソルの目のような色になると言った。

 自分は、あの女に会って、そのことをもう一度聞きたかったのだろうか。あるいは、ほかの女とひと味違っていた彼女が、単に物珍しいからもう一度見たいだけなのだろうか。

 ルアソルは、女に名を尋ねた時と同じように、褒美として小麦色の肌の女を望んだのか、その理由がはっきりとは分からなかった。


◇◆◆◇


 夕方が訪れるたび、いつしか空を見上げるようになっていた。陽は見えなくとも、赤く染まる空は見えた。昼間あれだけ青かった空の色を赤く塗り替える夕陽というものを見てみたいと、いつのまにか強く思うようになっていた。

 小麦色の肌の女とは、再会を果たしていない。褒美として望もうにも、闘士にはその権利がない。あの女を褒美として与えられた時と同じような闘いをすればいいのかと思い闘ってみても、あの女が与えられることはなかった。

「そんなにあの女に執心しているのか、ルアソル」

 あと一勝すれば自由を得られるという闘士に勝った時、ルアソルはヴァラトナに、褒美としてあの女を望んだ。ルアソルの望みを聞いた時、ヴァラトナは以前と同じように上機嫌な表情を一変させた。そして、呆れるように言った。

「おまえたち闘士に与えられる女は、貴族であってもそう簡単に抱けない女ばかりだというのにな」

「貴殿が甘やかすから、闘士風情が図に乗っているのであろうよ」

 別の貴族の男が、ヴァラトナの隣で笑った。

「稼ぎ頭に長く励んでもらうためには、幾ばくかの投資も必要なだけよ」

 ヴァラトナは男の言葉が不本意とばかりに言い返した。そして、壁の上からルアソルを見下ろす。

「ルアソル。おまえがこのまま勝ち続けて、自由を得る日が来たら、おまえの望む女を手に入れることもできるかもしれないな。その調子であと少し、ぜひ頑張ってくれ」

 それで話は終わりだった。ヴァラトナは連れの貴族と共に、壁の向こうへ顔を引っ込めてしまった。

 ヴァラトナたちが顔を覗かせていたあたりを見上げながら、ルアソルは口だけを動かして呟いた。あと半年。あとたった半年生き延びれば、闘技場の外に出ることができる。



 壁の向こうへ行くことは、『自由』になることだ。いつか、闘士の誰かが言っていた。

 『自由』とはなんだと誰かがその闘士に訊くと、彼は自慢げに答えた。今の俺たちは持ってないが、十年生き延びると得られるものだと。具体的なかたちはないが、どこへでも自分の行きたいところへ行きたいように行くことができ、闘うことを強制されないことだと彼は言っていた。

 それがどれほど素晴らしいことか切々と語っていたが、おおかた女から聞いた話をそのまましゃべっていただけだろう。それでも、彼は『自由』を欲しているようだった。

 ルアソルは、どこへでも行けると言われても、そもそも知らないところのどこへ行けばいいのかさっぱり分からず、彼が語る『自由』がそれほど魅力的とは思えなかった。闘うことは生きることに繋がる。それを強制されず、どうやって生きていけばいいのかも分からなかった。



 闘わずにどうやって生きていけばいいのかは、今でも分からない。だが、今ならば、彼の気持ちが分かる。



 行きたいところができた。



 外へ出れば、壁に切り取られていない空を、壁から昇ってこない陽を、赤く染まる夕陽を、見ることもできるだろう。自分の目の色と同じだというそれを見てみたい。そうすれば、小麦色の肌をしたあの女にもまた会えるのではないか。

 夕陽を見たい。

 女に会いたい。

 ルアソルの中に湧いた二つの願望は切り離せるものではなくなっていた。だから、根拠もないのに夕陽を見れば女に会えるような気がしたのだ。

 いや、そう思わなければならなかったのだ。十年の年月を生き抜くためには、死にたくないという欲求だけでは足りない。長く勝ち残ればその分、ほかの願望が湧いてくる。『自由』を語った闘士のように、死にたくないから闘うのではなく、十年生き延びて得られるものを欲することで、生きることへの執着がより強くなる。

 だから、夕陽を見れば女に会えるはずだと願っているのだ。それが根拠のない思い込みであることには目を瞑り。

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