第10話 4日目/夜-3

時はすでに丑三つ時。

商業区の一回り背の高いビルの屋上に月光を受けて少女が一人、黒いマントをなびかせて佇んでいた。

慎ましやかな風が黒い髪を撫で、風の音が耳朶に触れる。

不意にその穏やかな世界は青い暴風によって乱された。

「待たせたわね、ヨルちゃん♪」

砂袋が地面を叩くような重く鈍い音を立てて豊満な女の身体に青く凶悪な獣の四肢を備えた芳乃が姿を現す。

「……駄犬?手伝ったわね」

『すまないな。無駄な力を使わせたくなかったのだ』

「それに永綱はもうこっちの味方よ。ヨルちゃんでは私を抑えきれない。私に無駄に力を使わせるだけだってさ」

『そういうことだ。頼んでおいて済まないが、儂には儂の目的があるんでな』

「あなた達が強いのは認める。まさかここまでとは思っていなかったわ。でも、強さだけで勝てると思うのはやめておいたほうがいい」

「あの蛇みたいなのも私にやられたというのに?」

「力の強さだけが、強さではない」

「じゃあ、見せてみてよ!その強さっていうのをっ!」

芳乃は苛つきを荒ぶらせると、すぐさま全力を持ってヨルに向かって駆け出し、飛びかかる。

ヨルはそれを最小限の動きで躱す。芳乃の動きは凄まじく早いが単調。その傾向を幾度のやりとりで読んでいた。

だが、自身の背後へと虚しく突貫していったはずの芳乃の青い豪腕が地面から形を現し、ヨルの細く白い首を捉えた。

「っ!?う、ぐ」

「うふふ、つーかまえた♪」

黒い少女は視線を声の聞こえた地面に落とす。青い毛皮の豪腕は冷たいコンクリートに出来た奥行きのない穴から飛び出しており、その穴の中心には東洋系の意匠の札が一枚。

札が創りだした穴からから生えるように芳乃がゆっくりとその姿を現す。

「ここに来る途中に永綱が思いついて準備したんだけど……上手くいっちゃった♪」

「これは、異空間への移動……?そんな高度な術まで……使えるよう、に」

「そう、その通り。えーと、異空間に入る札と出る札を作って、ヨルちゃんに襲いかかるときに出るための札を地面に貼り付け、躱された時に異空間に入る札を使ったの。そして、バレないように少しだけ分身も使ったわ。……さすがね、永綱。見直しちゃったわ」

少女の首を捉えた指の力を弛ませることなく陽気に浮かれる芳乃を、否、老練の犬神をヨルは睨む。

『そう睨むな。悪いことをしていると思っている。だが、優先順位というものがあるのだ。許せ、とは言わぬ』

「油断したわね、ヨルちゃん!まぁ、今までは殴ってばかりだったものね、仕方ないかな。うふふ」

ため息混じりのバツの悪そうな意識の声が響くが、それを上機嫌な黄色い声がかき消した。

その声の主は前触れもなく苦悶の表情を浮かべる黒い少女を真顔で見つめて言った。

「ねぇ、ヨルちゃん。お願いがあるの。……私の物になって?」

「……どういうことよ」

「私ね、ヨルちゃんのことが好きになっちゃったの」

「……」

「貴女は私が知ってる誰よりも強くて、可愛くて、綺麗で、愛が深い。そして、私を退屈で狭くて独りの世界の外側を見せてくれた。……私はそんな貴女が欲しいの。貴女の冷たくて熱い愛が欲しいの」

潤んだ瞳を愛する者に向けて懇願する様は恋する女そのものだが、この状況に於いてはそんな甘美な物ではなかった。懇願しているが、その実は脅迫に等しい。

「……犬の馬鹿が移ったのかしら」

「私は本気。ヨルちゃんが好き。好きなの」

ヨルの首を持ち上げる力がわずかに強くなる。

「ぐ……」

「貴女に触れて生きていたい。貴女に触れられて生きていたい。貴女に語りかけて生きていたい。貴女の声を聞いて生きていたい。貴女を見つめて生きていたい。貴女の視線を感じて生きていたい。……だから、私の物になって」

「……いやよ。私は誰のものでもない」

苦悶に歪む顔と笑っていない笑顔の視線がわずかに絡んだが、ヨルは明確に拒否を示す。

「聞こえない。私の物になって欲しいな。そうじゃないとこの綺麗な首が取れちゃう」

芳乃は一層ヨルを捉える手に力を込める。

「それは、困るわ。私が誰よりも愛する人の体だもの」

言葉は強風のように一瞬にして芳乃から表情を奪い去る。瞳の色が濁り、その握力が更に強まる。肺へ送られる酸素が欠乏していくのを体感する。

芳乃が言葉を紡ごうとした、その刹那。

黒く重い衝撃と共に芳乃の身体は吹き飛ばされ、ヨルも同様に跳ね飛ばされるが緩まった首元の拘束から逃れることに成功した。

「何よ!何なのよっ!!」

一寸の間も置かず、喚きながら芳乃は体勢を整える。その相貌はすでに愛を語るものではなく、憎を振るう者のものであった。

彼女の眼前には今の彼女と同じぐらいの背丈の漆黒の人型がいた。

右手が棘の生えた鉄球の形をしたソレは両腕を前身に揃え、黒い意匠の少ないマスクのような兜の奥から敵意の眼光が青い獣に注がれる。その全身からは質量すら感じさせんばかりの闘志が放たれていた。

「邪魔あぁっ!するなぁぁぁっ!!」

芳乃はその黒い闘士に向かって獣のように突進する。彼女の命を刈る爪が振り下ろされようとする。

その瞬間、黒い闘士は素早く、そして極々最小限の動きでそれをくぐり抜け、青い獣人の無防備な側面にポジションを移すと、隙のない拳が数発、ほどよい肉付きの白い横腹に打ち込まれる。

不意を突かれた芳乃はバランスを崩しながらも横飛に距離を開ける。彼女の横腹には無残な痣が出来ていたが、永綱の治癒能力によりすぐに白い肌に戻った。

低い獣のような唸り声を小さく響かせながら芳乃は体勢を整える。黒い闘士はその様子を絡みつくほどに予断なく注視する。

芳乃は目の前のそれが黒い少女よりも、大蛇と百足のキメラよりもずっと弱いことはわかっていた。

だというのに何故であろうか。目の前の黒い闘士に気圧されていた。

「あなたの相手はしばらくそいつがする。殴るのが好きなあなたにピッタリだと思うわ」

いつの間に下層へと続く階段へ繋がるペントハウスの縁に腰掛けるヨルの声が響いた。

ヨルの言葉から、眼前の黒い闘士は時間稼ぎの囮であることを察した。そしておそらくは穴を塞いだあの魔法陣も同じなのだろう。

芳乃は物理的な手法が効かない先ほどの魔術の障壁を体験して、単純な力では届かないものが存在ことを痛感していた。黒い少女が手間暇をかけて準備するそれは間違いなく自分では対処できない何かであると見做した。

永綱であれば対処できるだろうが、教えられながらではスピードは遅いのは間違いなく、かと言って体を明け渡すことは考えられない。

黒い少女の準備が終わる前に、目の前の敵を攻略しなくてはならないのは明白だった。

青と黒の巨躯の間には空気が弾けんばかりの緊迫が漂い、膠着状態が続く。

肉弾戦の技術では圧倒的に負けていると芳乃は先ほどの攻防で悟っていた。あの身捌き、比較的弱い箇所を的確に攻撃してくるその力量には感服せざるを得ない。

しかし、単純な力では芳乃がはるかに優っている。どれほど打たれても自己治癒を重ねれば良い。今、芳乃にとってすべき事は少しでも早く目の前の敵を倒すことだ。

このまま時間を消費すればするほどヨルに天秤が傾くと判断した芳乃は黒い闘士に向かって駆け出す。

青い軌道は目標を前に左に大きく折れ、芳乃は黒い闘士の側面に回り込み5つの爪を浴びせる。

その一撃も敢え無く紙一重で躱される。そればかりか伸びきった彼女の右肘に鉄球の一撃、そして脇腹にも一撃浴びせられた。それらは決して致命傷ではなかったが身体の芯に響く重く丁寧なものだった。

芳乃はダメージのある箇所に治癒を行いながら、転進。体術に覚えのない彼女であったが目の前の敵の一挙一動に注視しながら、攻撃を繰り返す。しかし芳乃の攻撃ことごとく躱され、稀に当たることもあったがしっかりと防がれてしまっていた。まるで動きが予め読まれているかのように。

彼女の中の苛つきは徐々に募っていく。だが、感情に任せて動けば一層不利になるのは目に見えていた。

爆発しそうな憎悪を理性で押さえつけつつ、黒い闘士の攻防を行い、更に有効打を考える。彼女の理性はオーバーヒート寸前を維持していた。

芳乃はふと思った。目のまえの敵は確かに肉弾戦、いや格闘技に精通している。

では、術はどうだろうか。

そう思いついた芳乃は自身の攻撃に術を織り交ぜる。何かすること自体は伝わっているのか防がれたり躱されたりするが、その動作は今までのものとは大きく異なり隙の生じる過剰反応にすら感じた。

なるほど、と芳乃は得心する。この敵は格闘技の練れ者だ。だが、それだけだ。魔法、法術、呪術を知ってはいるが、それに長けた者ではない。

芳乃も術の使用には慣れておらず、集中することも出来ないため、大した威力はなかったが、拳闘士の動きを牽制するのには十分な効果があった。

彼女の形だけの攻勢は、転じてその内容を伴うものとなった。

術を防ぐために余剰な反応をする黒い闘士は青い獣人に拳を浴びせかける機会を大幅に減らし、防戦一方になりつつ在った。

しかし、芳乃の攻撃もほとんど直撃することなく、防がれ事態は拮抗していた。

「ふふふ、どうしたの?さっきまでの勢いは何処行ったの?」

最適かつ最小限の鋭い打撃にも慣れてきた芳乃は言葉を発するまでの余裕を浮かべる。それもそのはず、単純な力の差であれば圧倒的に自身が上であり、相手の類まれな技術も弱みに付け込むことで相殺しているのだから。

その余裕は更に状況を流転させる。

「ふん、爆ぜろっ!」

芳乃は自身の青い腕を黒い闘士の腹部に忍ばせ、単純だが威力のある爆発を発生させる術を当てるまでに至る。

その強力な爆風は青い巨躯を地面に跡を残させながら後退させ、黒い巨躯を大きく吹き飛ばし地面に転がせさせる。

拳闘士は起き上がるがその腹部は黒い表皮が開け、人間の筋骨隆々たる腹筋が見え過剰な衝撃によって痛々しく変色していた。

「もう諦めていいのよ。私が用があるのは、ヨルちゃんだけなんだから」

勝ち誇ったように腰に手を当てて、見下ろすように顎を上げて芳乃が言った。

その言葉は不屈の闘士には届かず、その瞳は依然、炎のようにギラついていた。そして、両手を頑なな構えに揃え、青碧の敵に突進する。

「もう、しつこいわね……っ」

芳乃もそれに応じるように、黒い闘士に向かってゆったりと駆ける。その両の手にはつい先程使用した爆裂の術を込められている。

ふと、黒い拳闘士は構えを解いて立ち止まり、その右手のモンゲルシュタインを振りかぶる。力を込められたそれはガチリガチリと一回り、二回り大きさを増していく。それは渾身の一撃。

それを認めた芳乃は口元をわずかに上げて加速にする。

そして、2つの巨躯、異形の拳、青と黒は―――ぶつかり合うことはなかった。

芳乃は黒い闘士の間合いにはいる寸前に爆発的な加速をし後ろに回り込む、そしてその渾身の一撃を放たんとする鉄球を掴み上げた。

「残念。格闘技以外なら全てにおいて私が上なのよ。格闘家さん」

黒い闘士はその拘束から逃れようと試みるが、びくともせず、背後の姑息な難敵に一矢報いることも出来ずにいた。

「あなた、強かったけど……。それ以上に、鬱陶しかったわ」

芳乃はそう言って拳闘士の首元に術の込められた手をかざす。その瞬間、「走りなさい」静かで涼やかな声が異様な鮮明さを持って空間を駆け抜けた。

突如、芳乃が捉えた黒い人型から同じ形をした人間が放り出された。

「走るの。まっすぐに」

沈黙を守り傍観していたヨルの言葉が再び響く。

ほんの一瞬、呆気にとられ思考を停止していた青い獣人は、敗走者を目にして追い打ちをかけようとするが身体の自由が効かない。

彼女の身体は黒く揺るぎない泥に拘束されていた。それは先程まで目の前の敗走者が纏っていた鎧だった。

「くっ……」

芳乃は人並みの速度で自身から距離を開けていく男に向かって、指先から理力の矢を放つ。しかしそれは黒色の短剣によって叩き落とされた。

葉が落ちるように音もなく黒いマントを羽織った黒い少女が青い獣の四肢をもつ女の前に降り立つ。

「ヨル……」

その姿を認めた芳乃は憎々しげにその名を呟いた。

ヨルは降り立つと同時に口元を素早く動かし声未満の声で呪文を唱える。

すると芳乃の周りに形も硬さも持たない固定の概念のみを携えた幾層もの結界が現出する。

「壁?そんなの、いくらやったって無駄よ!」

結界の中心で黒い泥の拘束を解いた荒ぶる青碧が叫ぶ。

「もう、油断はしない。最大の秘術でこの夜を終わらせてもらう」

そう言って黒い少女は蝋燭のように白い腕を天頂点に掲げ、言葉を紡ぐ。

「―――失いし者共よ」

その言の葉が宙を舞った瞬間、世界が暗く凍りつく。

猛り狂う青い獣人の身体と精神が冷たい空虚な感覚に浸された。それは底冷えするような不安と恐怖を芳乃に覚えさせる。

"これ"はどうしようもないモノ。本能で感じ取った獣人は黒い拘束を渾身の力で振りほどき、遮二無二前面の無色透明堅固の壁を殴りつける。

それは中空にひび割れを創りだしたが用意に破壊するには至れない。そしてその壁は何層にも張り巡らされているのだった。

「奪われし者共よ。飢えと孤独に充ち満ちた者共よ」

軽やかさすら感じられる破砕音が響く。一つ目の障壁を破壊した芳乃は獣じみた雄叫びを上げ、止まること無く次の壁を打ち据える。

「拝聴せよ。幻想妄想の耳朶」

芳乃を中心として、巨大な魔法陣が鮮やかな黒さを持って現出する。

黒い災いから逃れようと試みる芳乃は自身の腕を凶器の形に肥大化、強化、変形をさせながら渾身の一撃を連打する。

「感受せよ。求め掴むのみの身体」

黒く広がる魔法陣の方方からゆったりと異様な長さを持って腕が無数に生え伸びる。

再び、破砕音が広がった。芳乃は構え動きを止めて、必壊の一打の準備をする。しかし。

「刮目せよ。暗闇を写す眼(マナコ)」

しかし、黒い少女の詠唱により、幾多に開かれた黒い瞳の視線が、青い獣人を縛り、その意思と力を奪っていく。

「え、何、きも……」

「汝らの供物はそこに。―――許す。求め狂え。」

ふと、芳乃を囲む最小の円陣が暖かな光を灯す。それは凍てついた氷を溶かすような、泣き崩れる肩を抱きしめるような暖かさ。

だが、それは芳乃にとっては恐怖を与える物にすぎない。

「ひっ、い、嫌よっ!!やめて、やめてよ!ヨルちゃん!私は、私はぁっ!」

強さも、驕りも、誇りも打ち捨てられた本当の芳乃の声が響く。だが、その言葉の行く先はなく。

「終幕閉劇(カーテンフォール)」

ヨルの一言と共に幾千の黒い腕が芳乃の悲鳴を影の底へと引きずり込んでいった。

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