第五話 光明懊悩
馬が駆けるまでは駆けた。馬が倒れてからはひたすら歩いた。甲冑は歩くのに邪魔なので捨てた。『昇竜漆黒縅』、光明が誕生した折に祖父の平高飛が送ってくれた物と聞く。「最強になれ」、と祖父は何かと言えば幼い光明に言った。最強になる。一番になる。何事につけ光明は努力した。下地が良かったのであろう。何をやっても上手くいった。だから何事にも苦労する兄弟達が疎ましかった。嘲笑してやりたかった。だがしなかった。慈悲の心も重大な課題だった。いつしか兄弟の愚鈍を哀れむ心が生まれたのだ。また一つ強くなった気がした。
兄弟の中で一人だけ違う者がいた。次郎だった。奴は目立った事をするわけではない。日夜読書をしていた。光明が「いくら書物で知恵を得ても実践しなければ意味はないぞ」というと奴は「実践は兄者がやってくれます」と言った。なんだかそら恐ろしかった。しかし自分の次席に置くにはもってこいの人物だった。だからいつも側に居させた。すると自分の立場を理解して的確な言動をした。そうだ、継母の盛子が父の死後、次郎を平氏の頭領に置こうとした時、第一に光明側に着いたのが次郎だった。旗頭を失った継母は出家した。だから自分と次郎は考えを同じくする盟友だと光明は思っていた。なのに、今回は見事に裏切られた。そして負けた。安房で別れた同志達はみな征東軍と兄弟軍に大敗し、殺されたり、捕われたりしたらしい。次郎は動かぬ手足を諦め、動く手足だけ使って槍を持ち、輿の上から相手を蹴散らしたという。
光明は何故逃げたのかを考える。あの時、梅田大輔は「上手くいけば逃げられる」と言ったが光明は断った。逃げるくらいなら、死んだ方がましだ。死ぬつもりで、兄弟軍に突入したのだが、本当に次郎のいない兄弟軍は弱かった。皆、光明を恐れていた。あまりの脆弱振りに敵陣を通り抜けてしまった。また戻ろうかと心で思ったが、同じ事の繰り返しだ。自棄になった光明は馬で猛烈に駆け出した。逃げたのではない。敵があまりに弱かったのに苛立っただけだ。
そして今、何もかも失って、ここに居る。
「自刃しかあるまい」
光明は近くにあった寺の境内を借りる事にした。切腹は作法通り、腹を十字に切り、内臓を取り出してから頸動脈を切る。そう考えていると、
「腹を切ると痛いぞ」
と年老いた坊主が後ろから言って来た。
「それは痛いでしょうが、武士は我慢です」
「そなた武士か。行き倒れ寸前の乞食かと思ったぞ」
「な、なんと」
光明は反論しようとしたが、みすぼらしい姿に空腹で腹の音がしている。言い返せなかった。
「切腹は後でも出来る。まずは飯を食いませ」
坊主は光明を本堂の脇へ連れて行った。
「お純さん飯はあるかね」
坊主が言う。
「あら、さっき食べたばっかり……キャー、落ち武者!」
当たっている。光明は落ち武者だ。
「違うよ。ただの行き倒れだよ、お純さん。この者に飯を食べさせてくれ」
坊主が頼む。
「ああ、はいはい。驚いてごめんね」
と言いながらお純は飯の支度を始めた。食欲はないが、好意を無駄にしてはならない。
「頂きます」
一口食った。止まらなかった。飯を食い、汁を吸う。飯を食い、香の物を齧る。そんなこんなで二十五杯も食べてしまった。
「ありゃあ、凄い食いっぷりだねえ。夕餉のご飯、炊き直さなきゃ」
お純がびっくりして炊事場に行った。
「ほれ、頭は死のうとしても体が生きようとしている。切腹はできないな」
坊主が顔を出して言う。
「お恥ずかしい物をお目に掛けました。さて、あなたは御住職ですか」
光明は聞いた。
「いや、愚僧は諸国を旅している、ただの客人」
「えっ、さようですか」
それにしては寺中我が物顔で闊歩しているなあ、と光明は思う。彼は身なりを整えて、
「それがし、相模の住人、風花太郎平光明と申す。最前の戦に破れ逃走している者である。もしここが坂東なら国衙に連行されよ。賞金が貰えるであろう」
と名乗った。すると坊主は笑い、
「ここは越後じゃ。よう走ったの。ここならば心配ない。そんな戦のことなど誰も知らぬからな」
と言った。そして、
「わしも名乗ろう。わしは奥州の奥、津軽という俘囚の治める地に華麗宗御示威山二王寺を開いておる、求名(ぐみょう)という者だ」
と話した。
「陸奥、では我が叔父陸奥守高見はご存知か」
「言ったであろう、わしは俘囚の地にて布教しておる。陸奥守など逢った事もない」
「俘囚ごときに布教して何になる」
「俘囚と侮るなかれ。あれらは他国と交易し高い文化を有しておる」
「しかし、なぜ俘囚の地に」
「それはな、我らが始祖、嵐真(らんしん)が唐の国から都に来ようとした時、船が嵐にあってな、俘囚の地に辿り着いたからじゃ」
「なら、それから都に行けばよかったのでは」
「うぬ、本人もその積もりだったようじゃが、長きの修行で足腰が立たなくなってしまい。やむなく彼の地に残ったそうじゃ。それに俘囚の豪族、安倍氏が援助してくれたそうで、居心地が良かったのじゃな」
「そうですか。で今、求名様は何故、この越後に居られます」
「うぬ、布教活動と新人発掘の旅だな」
「新人発掘?」
「そうだ、今いる修行僧は経典や典籍を読んでいれば修行が成り立つと思っておる。頭でっかちじゃな。しかし本来の修行とは山林に入り、自然の中で、己の心と体を鍛え、その後御仏の前で心を鎮め経を読むもの。それがいつしか変わってしまった。口惜しいのう」
「何となく分かり申す。武士もまずは武芸の稽古と実践で体を鍛え、後に兵法書を読み理解を深めるもの」
「そうじゃろ」
「はい」
ここで求名はハタと気がついたように、
「お主、陸奥へ。我が寺に来ぬか」
と光明に尋ねた。
「俺が坊主ですか」
乗り気でない光明。
「話しを聞けばお主に武士としての再起はない。ならば我が寺で修行をせよ。お主なら心と体の両方に力をもつ僧侶になれる」
「そうですか」
「お主なら我が華麗宗の荒行『孤之辺耶苦歳妖』を成し遂げられるかもしれぬ」
「なんですか? 『このへ……』」
「『孤之辺耶苦歳妖』じゃ。千日掛かりの荒行じゃ。途中で命を落とす者もある」
「体力なら有り余っておる。頭とて人並み以上と自負しておる。やってみましょうその『孤之辺耶苦歳妖』を」
「その前に基礎から学ばねばな。華麗宗の三大経典、『栖語彙項集』、『緋土意安久集』、『苦才堆集』を読み、理解せねばならぬぞ」
「はい」
こうして光明は仏門の道に進む事になった。
そのころ坂東では、本格的な光明捜索が始まっていた。武蔵守の次郎水盛が上野まで出張って陣頭指揮を取る。
「相模、武蔵には影も形もない。この上野で捕まえねば、他の地に逃げ込まれてしまう」
上野介の九郎舟盛では心持たない。不自由な体を押して水盛は命を下した。
「甘楽で光明殿の馬が死んでいるのが見つかりました」
「良し」
「渋川で『昇竜漆黒縅』が見つかりました」
「いいぞ。近隣を探せ」
しかし、高山、水上を探しても光明は見つからなかった。
「兄者のことだ。潔く自刃しておろう。寺も探せ」
「はっ」
だが駄目だった。そこへ、
「殿、光明殿が越後方面を歩いているという情報がありました」
家宰の渋谷近春(しぶや・ちかはる)が報告してくる。
「これは越後守の城祐介(じょう・ひろすけ)殿に頼まねばならない。筆と硯を持て」
水盛は一筆したためて家臣の三鷹公次(みたか・こうじ)に持たせて越後国衙にやった。
半月後。
城越後守からの返答が来た。光明に似た者が、坊主に連れられて北方に去った、という内容だった。
「出羽か陸奥か」
水盛は慌てて高見、高音の叔父二人に部下を走らせたが、『光明は来ておらぬ』という返事だった。
「坊主に連れられてか。ご出家なされたか。それならばいい」
水盛は捜索を諦めた。
その夜。
「不恩はいるか」
静かに言う水盛。
「兄者には赤子が出来ていたな」
「はい」
「館の焼け跡から赤子は見つかったか」
「いえ」
「兄者の家臣、大斧大吉と梅田大輔も見つかっておらぬな」
「はい」
「赤子が二人に匿われているかもしれん。探せ」
「はい。見つかりましたら」
「言うまでもないだろう」
「御意」
不恩は闇に消えた。
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