空と地の狭間

森村直也

002:夢を見た夢

 放課を告げるチャイムが鳴る。はっとして木葉このはは顔を上げた。西向きの窓は柔らかく光を通し、眼鏡の教師は好き好きに伸びをする生徒を苦笑と共に眺めては声を張る。気の早い生徒は既に教科書もペン入れもしまい込み、木葉の前の女生徒は明るい笑みを浮かべて振り返った。

「今日買い物行かない?」

「え、あ、う、うん」

「あれ、なんか用あった?」

 慌てて返事を返した木葉は、続けて首を振った。そう、用はない。今日は部活動の日ではない。塾の日でもない。習い事などしていない。

「何もないよ。ちょっとぼーっとしてただけ」

 教師は名簿を抱えて二三の注意をしながら教室を出て行った。どっと緩む教室は、いつもの光景だ。

「タゴサクの授業、眠いよね」

 担任である数学教師、田後幸策先生は、子供らしい遠慮のなさでタゴサクと見事に略されていた。まだ若いはずだが、愛称だけ聞けば年齢不詳だ。

「……そうね」

 まだ幾分ぼんやりと木葉は返す。女生徒に邪険にされながらも教室での着替えを敢行する柔道部、掃除道具を振り回す委員長、冷やかされながら二人揃って出て行く公認カップル達。

 なんだか、どれもが眩しい。

「ほら、時間無くなっちゃう、行こう!」

 小林沙樹は促すように、木葉のカバンを取って歩き出した。


 見知った服屋、行きつけの喫茶店、通学に使う駅、生まれた時から親しんだバス、勝って知ったる自分の家、毎晩寝ている小さなベッド。壁に掛かっているポスターは大好きなバンド、本棚に並ぶお気に入りの少女漫画。高校に上がる時に母親にねだって買ってもらった小花柄のカーテン。

 一つ一つを目にしていく度に、木葉はもう、何が気になったのか判らなくなっていた。幸い、今日は宿題も無く、受験にはまだ遠い。夕飯を食べて、ドラマを見て、ゆっくり風呂に浸かって沙樹と共に歩き回った足をほぐす。ゆっくりできるって良い。ゆっくりできる間に、身体をほぐして疲れを取らねば。次に休めるのは一体いつになるだろうか。

 ふと、足をもむ手を止めた。休めるってなんだ? 確かに明日はWEEKDAYだが、朝から体育で鬱陶しいが、同じような一日を過ごし、同じように友人と騒ぎ、同じように帰宅し、同じようにゆっくりすれば良いだけのこと。そして、明後日は土曜日で、明々後日は日曜日だ。今週は予定もないから映画でも見に行こうかと思っていた。

「なんか、疲れたのかな?」

 手足を伸ばして、ゆっくり浴槽にもたれかかる。目を閉じて、湯船に身を任せる。父親が奮発した家に見合わずここだけ豪華なジャグジーが、柔らかい水流を吹き付けていた。


「コノハ!」

 はっと、目を開いた。飛び起きようとして後頭部に傷みを覚える。

「動けるか。すぐに移動する」

 ディコングラードは横目でコノハを一瞥すると手探りで背嚢を掴むと投げて寄越した。視線は壁の向こうへ向いていた。いや、壁ではない。砲弾で穿たれた穴に、彼等はいた。

 頭を押さえながら、木葉は二三度瞬きする。寄越された背嚢を手で受け取れず身体でどうにか止めた。自分は小さな自宅に似合わないやたらと豪華な風呂にいたのではなかったか。

「やつらの気配は消えてる。うごくなら今だ」

 月明かりに白っぽく浮かぶのは灰色の眼。シルバーブロンドの髪は目立たぬように黒く染められている。……根本はもう、銀色が覗き始めていた。

「……動ける」

 頭を降って今度こそ飛び起きた。背嚢を一息で背負い、辺りをうかがう。ディコングラードの言葉は嘘ではないようだった。聞こえてくるのはひゅるひゅると笛のように響き渡る戦場特有の風の音のみ。発砲音も人の声も足音も押し殺した呼吸の音も聞こえない。

「よし」

 一度覗くように辺りをうかがい立ち上がったディコングラードに続き立ち上がり、ふと、違和感を覚えた。かかとの低い軍用ブーツで穴を出る。

 遠くまで見晴らせる平原には穴の他に何もなかった。太い月は十分な光を投げかけ、ただ進む分には問題などなさそうだった。……逆に言えば、敵にも良好な視界が確保されているわけではあったが。

 身軽く走り出すディコングラードに続き、足を踏みだす。重い爪先が小石を踏みしめ細々と揺れる草を根本から折った。

 ふと、草を眼にして足を止めた。身が軽い。そして……視線が高い。

「どうした」

「なんでもない、行こう」

 頭を振り先に立つ。大丈夫。『今』が見えている。だから、大丈夫。自分は学生ではない。ハンドボール投げで標準にも届かない非力な少女ではあり得ない。大分減ったとはいえ、一〇キログラムを超える背嚢を背負い鉄板を仕込んだ軍靴で戦場を駆ける。子供ほどもあるライフルを担ぎ、狙い定めて撃つことができる。性別を超えて、まごうことなき戦士である。

 そもそも、木葉は『学生』を知らない。この国は木葉が生まれるより前から内戦が続き、学校へ行くことなどできなかった。内戦が起きる前は、揃いのひらひらした制服を着て、成人するまで勉強に励むのが当たり前だったのだと、夢物語に聞いていた。

 そんな世界であればいい。そう願って今、こうして銃を手に取っている。木葉自身には間に合わなかった。弟、妹世代にも間に合わなかった。けれど、子供達なら。いま木葉の中に育ちつつある、ほんの小さな命なら。

 明るい笑みに充ちた、安寧と退屈と怠惰に充ちた懐かしい世界を。

 ぼやけた視界に、足を止めてしまった。一足先に森へと駆け込んだディコングラードが大きく手を振り木葉を促す。

 見知ったはずの灰色の眼を遠く感じた。


「木葉、まだ入ってるの?」

 母親の声で眼を開けた。湯はすっかり温くなってしまっていた。

「うん、もうちょっと!」

 これで出たら風邪を引いてしまう。追い炊きのスイッチを入れて、伸ばしていた足を抱く。温いとはいえ、寒いわけではない。体温と同じくらいの温度は、心地よすぎるくらいだ。なのに。

「もう、ちょっと……」

 鳥肌が立っていた。

 抱きよせた足は体育の時にジャージを脱ぐのをためらうちょっと筋肉の少ない……その分贅肉の多い足だ。胸と足の間に挟まれる胸は、クラスメイトの間でもまな板と称されるほど。ニキビが気になるようになってきた肌は大福とからかわれるほどぷにぷにと柔らかく、木葉自身に間違いはなかった。間違いはない、はずなのに。


 戦場が見える。硝煙の香りがする。踏みしめる土がある。命を賭ける仲間がいる。


 宿題の心配をする。先生の愚痴をいう。恋愛話に期待する。ドラマの話題に花を咲かせる。


 どちらもが真実で、どちらにも違和感があった。

 熱く感じる湯の中で、ようやく辿り着いた補給線で、鳥肌が収まらない。


 広い世界のどこかで、ただ一人立ちつくしている気がした。


初出:2008/02/03

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