朔風
二章 朔風
冴えた空気はさながら張り詰めた弦のようだと辰次郎は思った。季節の変わり目に比べ、音の響きは鋭さを増している。それは木刀を果敢に打ち込む秀一郎の踏み込みの鋭さと、受け止める長兵衛の強い足腰のおかげもあるだろう。二人の横顔を眺めながら、よく似た親子だと改めて思った。
しばらく好きなように攻めさせていた長兵衛だが、秀一郎の剣が大ぶりになった時ゆらりと動いた。打たれると思った時、長兵衛の剣は秀一郎の手首を捉えていた。秀一郎が顔を歪めて剣を落とす。続いて長兵衛は軽く息子の頭を叩いていた。
「勝負あり」
微笑ましいものを感じながら辰次郎は宣言した。秀一郎は叩かれた手首をさすりながら木刀を拾っていた。
「手を叩かれたぐらいで痛そうな顔をするな。それを耐えたらまだ勝機はあったぞ」
父の教えに秀一郎は甲高い声で返事をした。正毅と同じ四歳だが、痛みを我慢して返事ができるのは立派なものだろう。温和な気質が災いしてめげやすい正毅に見習ってほしいぐらいだった。
「秀一郎、あいさつはどうした」
辰次郎に言われ、思い出したようにありがとうございましたと頭を下げる。堅い動きと舌足らずな声にこぼれる笑みを隠しながら、正毅とはちがうかわいらしさが愛しく思えた。
日が落ちてから、辰次郎は長兵衛を湯屋に誘った。佑と寅之介はそれぞれの仕事から戻っておらず、同じ場所で働く二人が長屋には残っていた。
湯屋で温まってから帰路に就くと、話題は互いの息子のことになった。
「秀一郎は元気が良いな。結構なことだ」
「手がかかって大変だよ。お前のところはいいな、正毅は聞き分けが良さそうだ」
「しかし気が弱い。剣を扱うより文字の読み書きの方が得意なぐらいだ。俺よりも兄上に似ている気がするよ」
平素愛想が悪いと言われる自分よりも、正毅はかわいらしく笑う術を身につけている。気の弱さはもどかしいが、その分物事の覚えが早く、周りに馴染みやすい素直さもある。あと二年経てば日新館に通うようになる正毅は、その素質を活かして下北半島にて学問で身を立てるかもしれなかった。
「妙なことを言う奴だな」
長兵衛は声を上げて笑った。冴えた空気の中で、男の豪放な笑い声はよく響く。
「しかし誰がどこに生まれようと、いずれは一つ屋根の下で暮らすことになっていただろうな」
戊辰の役と会津藩の敗戦が決まり切っていたことと言うようで、佑なら怒るだろうかと辰次郎は苦笑した。
「であれば、秀一郎も俺の息子のようなものか」
「そうだ。正毅も俺の息子だ」
廃屋を直した長屋に集った四家族は、成り立ちから構成まで全てが違う。ただ同じ土地に生まれ、同じ事情を背負って流れてきたというだけだ。しかしたった一つ、敗戦という事実を共に背負っている。それだけで共に支え合っていきていくには充分であった。
「辰次郎よ、俺はここで一生を終えても良いと思っている」
長兵衛は星空を見上げていた。相変わらず星宿の形などわからないが、春になればどこかに北斗七星が現れる。山川浩ら指導者たちがお家再興の願いをかけた七つの瞬きだ。季節が巡るごとに最果ての地を見下ろす位置に現れる星宿を仰ぎ、お家再興が成れば星の瞬きを手がかりに往時の苦楽を偲ぶ。子供たちに後を託した大人たちが老いていく時間として相応しいように思えた。
「良いのか、それで」
穏やかな時間に希望を感じながら、辰次郎は素直に認められなかった。山川浩ら指導者たちの目標がお家再興にあるのは、斗南藩の名前を見ても明らかだろう。それが信じられないほど途方もないことは、わずかな冬を暮らすだけで身に染みた。少なくとも自分たちの代では叶わないだろうとさえ思う。
それでも口にはできない。適当なところで妥協しようなどと考えたら、せいぜい今の暮らしを維持するのが精一杯で、今より良くなることなど有り得なくなってしまう。
「お前は、もう諦めてしまったのか」
辰次郎の言葉が釘となったように、長兵衛は一瞬顔を歪めて立ち止まった。そのままの姿勢で一歩先から振り返る。無理に笑みを作るのが見て取れる、苦しげな表情だった。
「もしそうでなく、お家再興の気持ちがまだ少しでもあるなら、軽々しいことは言うな。諦めていない者も多い。そして、未だ事実を受け入れられない者もいる」
脳裏に浮かんだのは実父の惣太郎だった。長屋で共に暮らすようになっても会うことはほとんどないが、壁一枚を隔てて聞こえる音から普段の様子はわかる。苦しい暮らしを強いられていることへの不平から始まり、由緒正しい会津藩が外様大名の藩に敗れた責を兄に追わせようとなじる言葉へと続く。
惣太郎の歯止めの利かない声が聞こえた日の翌朝、兄に事情を聞いたが、お前は口を出すなとしか言わなかった。いくら兄弟とはいえ、所詮別の家族だと言われたようで寂しくもあったが、互いに守るべき家族がある中で、余計な心労を抱える必要はないと気遣われたような心地だった。そして、父にとっての戊辰の役は未だ終わっていないのだと暗澹たる気持ちになった。
「俺とて権大参事以下会津武士たちが、昔の輝きを取り戻すことを願っている。この斗南の名前も、俺たちの目標にするのに良いと思う」
「ならば何故、この地で一生を終えても良いなどと」
「住めば都とは思わないか」
普段の調子に戻って放たれた一言が辰次郎の気を削いだ。わからない言い分ではなかったが、認めるわけにはいかない言葉でもあった。
「江戸もはるか昔、家康公が入った頃は未開の地であった。その荒れように怖じ気づくことなく地の利を活かしたからこそ幕府が生まれ、二六〇年十五代も続いたのだ。ここも同じとは思わないか」
北条氏が滅亡した後の関東入封は、住み慣れた土地から追われることでもあった。しかし体の良い厄介払いにもめげず、築いた城を発展させ、ついには全国を治めるほどになった。科をおわされた転封である自分たちと背負った事情は違うが、逆境にあるのは共通しているだろう。
「だとしても、俺たちに何ができる」
明日の食事にも苦労するような土地で、江戸幕府の開祖と肩を並べるような偉業を達成できるとは信じがたい。
「長兵衛、お前は責を負おうと考えているのではないか」
今度は長兵衛が言葉を失う番であった。ふとひらめいたことを口にしただけだが、核心を突いたらしい。一瞬彼は笑みを消した。
「子供たちの礎になることが罪滅ぼしだと思うのか」
「違うと言いたいのか」
長兵衛の反応は思いの外強かった。
「そうではないよ。それも責の負い方だろう。権大参事以下は会津藩を戦に巻き込んだ責を負っている。そして俺たちも、藩の方針に乗って家族を巻き込んだ責を負っている。たどる道はどうであれ、俺たちは家族だけは守らなければならないからな」
いずれ長兵衛とは袂を分かつ時が来るかもしれない。それでも変わらないのは、守るべき家族がいるということだ。
守るための方法は選んでいられない。我が身と引き替えでも構わないのだ。
「できれば長くお前や佑、兄上とは同じ道を行きたい。この土地に生きるにせよ、新たな土地へ向かうにせよ、知っている顔がないのは寂しいからな」
言いながら辰次郎は、思い詰めた感じが解けていくのを感じた。流刑のようにたどり着いたこの土地で成すべき事が何なのか、わずかに見えたような気がした。
菊右衛門から分けてもらった蕗を前に、正毅は美味しそうと素直な乾燥を漏らした。それだけなら微笑ましいが、手を伸ばした時は思わず強い調子で払った。正毅が泣きそうな顔をしたのを見て、力加減がうまくいかなかったことを悔いながら、厳しい調子で語り出す。
「うかつに手を出すな。蕗をそのまま食べたら死ぬぞ」
この一言は刺激が強すぎたらしい。正毅は謝ったが、感情の振幅が振り切れたように泣き出した。
「お前様、もっと言い方を考えてくださいまし」
正毅を守るように手を回しながら、初は咎めるような視線を送ってきた。まっとうなことを言ったのに責められるのを理不尽に思いながら、本当のことだ、と辰次郎は声を落とした。
「少し苦いだけで、死ぬほどではないでしょう」
「多くはそうだ。しかし時々、うかつにそのまま食べて死ぬ者もある。どちらにせよ煮なければ食べられまい」
そう言い、辰次郎は居間へ向かった。あく抜きを初に任せ、火の側から正毅を遠ざける。秀一郎と遊んでこいと言うと、ぐずりながら出ていった。二人は近い性格をしているわけではないが、不思議と気が合うようだった。
「秀一郎とは仲が良いようですね」
蕗が煮えてきたのを見ながら初は微笑んだ。
「もっぱら正毅はついていくだけのようだが」
親としてはもっと積極的になってほしいところだ。正毅はきっと、誰かを立てようとする生き方が自然なのだろう。それを悪いとは思わないが、時には前に出るようなしっかりした部分があってほしい。そうでなければ物足りない人生になるだろう。
「正毅は平気でしょうか」
生来の気の弱さを心配していると思い、秀一郎から何かを得てくれたら良いが、と答えたが、
「そうではなく、体のことです」
と、初は眉根を寄せた横顔を見せた。
「どういうことだ。具合が悪いのか」
「いいえ、至って健康です。でもこの土地のことですから。わたしたちの周りは平気でも、街から離れた土地に住まわされている家族の中には死人が出ているそうです」
支援者に恵まれ、仕事も見つかり、暮らしも安定してきている中で忘れかけている事実であった。会津藩からの移住者は一万人を超え、その中には老人や子供も多い。環境の変化に耐えられない者も多いと聞いていたが、その顛末までは敢えて深く知ろうとしなかった。
「正毅は平気でしょうか」
繰り返された問いは、辰次郎の胸に不安を生んだ。
不安が顔を歪ませようとしたが、それをこらえて辰次郎は笑った。
「平気だ」
表情は努めて笑顔を作り、声を張った。それは不思議と辰次郎自身の不安をはねのけ、初の横顔に差した影を晴らした。
「子供を信じよう。信じられなければ、私たち自身も信じられないことになる」
結婚自体は家同士の取り決めであったし、最初から好き合って一緒になったわけではない。それでも子供が生まれ、何も知らずにこの世に生まれ落ちた正毅が幸せに生きていくために、夫婦で力を合わせて四年を過ごした。その事実は自分たちの自信を育てることになった。
「私たちにもこれまで、出会う前からさえ多くの苦労があっただろう。それでも乗り越えてここに来た。正毅も同じだ。私たちの子供なら、平気だ」
初は微笑んだ。その表情のまま、煮えている蕗を見つめた。
その横顔には再び影が差して見えた。
「でも、やはりかわいそう」
今度は哀れみが表れていた。
「戊辰の役の前は、満足に食べられないことなんてなかったのに」
正毅があく抜きをする前の蕗に手を伸ばしたのは、空腹に突き動かされてのことだったのかもしれないと辰次郎は思った。思えば正毅は素直で、親の言うことに反発することは稀であった。教えの中には、食べ物を前にしてがつがつするなというものもあった。
正毅はそれをよく守ってきたが、過酷な環境の中で教わった事実が壊れかけているのかもしれない。現実には長く斗南藩で生きていかなければならないだろうが、長兵衛のように今の環境に根付くような生き方は子供を思うと考え物であった。
「最近では今まで食べなかったものも食べなくてはならなくなりました。それが不憫です。援助はありがたいし文句を言える立場にはありませんが」
冬の備えが不充分だった自分たちが暮らしていけるのは、菊右衛門の援助によるところが大きい。菊右衛門は地元民たちを取りまとめる立場にあり、会津からの移住者たちへの不満を鎮める役割も担ってくれている。新参者である自分たちが入会を滞りなくやれるようにしてくれて、凍えることがないようにしてくれたのも菊右衛門のおかげだ。彼が温かな心根の持ち主でなければ、薪や柴を採る量も減って冬はなおさら過酷になっただろう。
そんな彼の援助も、自分たちの望みを全て叶えるものではない。食糧はあくまで、田名部で長く食べられてきたものである。それに慣れていけなければ、心身の変調の元になるだろう。
「耐えるしかない。きっといつか、権大参事らが何とかしてくれる」
中央政治から最も遠い場所にいる自分たちには可能性がなく、権大参事として斗南藩の責任者となった山川浩らに期待するしかない。現状を変える力がなく、自分や家族を守るしかできないことが歯がゆかった。
港町である田名部に集まる人は、外郭である港を目指す。そこには運ばれてくる品があり、それを扱うことで生きていく人が集まるからだ。
田名部の人の流れの多くは外へ流れるものだが、内側へ留まることもある。その時は決まって馬のいななきと、馬を引き出す男の声、競り人と客の値付けの応酬が街の中心から聞こえてくる。早口で繰り広げられる訛りの強い言葉による値段の遣り取りは、斗南藩の暮らしに慣れてきた辰次郎にも聞き取りづらく、具体的な評価はわからない。それでも決して少ない金額がつけられることはないのはわかる。命じられるままに客の前へ引き出す馬は、どれも足腰がしっかりしていて、うまく気を引かないと動かすのに苦労する。少し前まで刀を持ち馬にも親しんでいた身としては、時々主人の目を盗んで乗ってみたくなるほどであった。
「なかなか手こずらせてくれるじゃないか」
長兵衛は言いながら楽しそうにしていた。簡単には言いなりにならない馬は、それだけ乗りこなせた時の喜びが強く、苦労に見合った活躍をしてくれる。長兵衛もまた、馬の覇気と交わってひとときかつてのことを思い出しているようであった。
競りにかけられている馬は田名部馬という。下北半島の東、尻屋崎で放牧されている半野生の馬である。力強い脚力を生む太い骨格に、厳冬を乗り越える厚い肉と深い毛が特徴で、下北半島では荷役から食糧まで様々に使われている。田名部の他には野辺地、七戸、五戸、三戸で競り市が開かれており、元は南部藩の領地であった土地の人々にとっては、親しみ深い馬であるようだった。
「何をしている。早く出せ」
楽しんでいる様子の長兵衛へ、競りを取り仕切る主人の低い声が浴びせられた。なじるように陰湿な響きがどこかに感じられ、反発する気持ちが否応なしに生まれる。
「申し訳ありません、ただいま」
長兵衛は真剣な表情で返事をした。何かぶつぶつと言いながら持ち場へ戻った競り人が背を向けると笑みを戻す。その器用さが少しうらやましくなった。
長兵衛と辰次郎は同時に二頭の田名部馬を曳き出した。表へ出して競りにかけてしまえば、あとは競り人の仕事である。辰次郎と長兵衛は次に競りにかけられる馬の元へ向かった。
「こいつも良い馬だな」
言いながら辰次郎は手綱を引いた。気性を測るつもりで無造作に引っ張ると、強い抵抗感があった。簡単に人には慣れないとその身で語っているのがわかる。馬にも人で言うところの誇りや矜持のようなものがあって、従わせるには相応の方法を採らなければならないものだ。田名部馬は半野生で、完全に飼い慣らされたわけではないのだから当然だろう。
「厳冬をくぐり抜けてきたからな。裸になって雪の上を走り回ることもできない人間なんぞに従いたくはないだろう」
長兵衛は何気なさを装っていたが、案外馬の心理を的確に言い表しているような気がした。野生を残したまま自然の中で暮らしていたのに、人間の都合で人間の街へ連れてこられ、人間の感覚で価値を付けられる。馬に人間社会がわかるはずもないが、自分の身に何が起きようとしているのか、感覚で理解することぐらいはできそうだった。
「俺たちに似ているとでも思うのか」
「そこまでは言わんよ。ただ、馬にも馬なりの魂はあるだろうと思ってな」
慣れた場所を他の者の都合で引き出されたのは自分たちと共通している。似た境遇の者に望まぬことを強いていると思うと少し心は痛むが、そうでもしなければ自分たちの明日は見えない。まだ闇の中にあるお家再興の命運も、闇が晴れれば遙かな明日へつながっているのだ。
「馬に同情している場合か」
辰次郎は呆れた声を出しながら、自らを戒める心地であった。馬であろうと命を慈しむことの大切さは、かつて惣太郎が教えたことだ。その教えは兄に受け継がれているはずだし、自分も正毅に同じことを教えた。しかし馬に慈しんでいる間に家族が凍えては目も当てられない。
「馬に馬の魂があるなら、俺たちにも魂はある」
かつてそれは故郷や主君を外圧から守るためであった。それが成し遂げられなかった今は、家族を無事に生きながらえさせることに変わっている。どちらにせよ、何かを守るという本質に変わりはない。
馬が不意にいななき、辰次郎は競り市の会場がざわついているのに気がついた。出てくるはずの馬が現れないので客たちが訝しんでいるのだ。
「いかん」
長兵衛が短く言った直後、雇い主である競り人が馬の待機所に飛び込んできた。
「お前ら、何をしている」
高圧的な物言いだったが、関係の無い会話に気を取られて決められた段取りの通りに動けなかった自分たちに非がある。辰次郎は素直に頭を下げたが、
「会津のゲダカめ。こんなことだから戊辰の役に敗れて女子供を死なせたのだろう」
戦の結果をどうこう言われるのは聞き捨てならなかった。下げた頭を思わず上げかけたが、上から押さえつけられて形を保つ。
謝罪の形を崩させなかった長兵衛に促され、辰次郎は馬を曳き出した。競り人は客の前に出た辰次郎に向け、聞こえよがしに会津のゲダカと言った。それで何名かが嘲笑するのが見えた。にらみの一つぐらいくれてやりたかったが、それが元で仕事を失えば本当に家族を死なせることになりかねない。屈辱ならば戊辰の役で味わったし、それがいつまで続くかわからないと思うと気が晴れなかったが、耐えた分だけ正毅や秀一郎、多くの子供たちの幸せにつながるなら、少しは甲斐があった。
待機所へ引っ込んだ辰次郎は、競り人と客の威勢の良いかけ声の応酬を聞きながら大きく息をついた。
「お前らしくもない。俺がいなかったらせっかく見つかった仕事を失っていたかもしれんぞ」
「その通りだな、済まん」
長兵衛まで巻き込むことになっていたかもしれないと思うとぞっとしない。辰次郎は改めて頭を下げた。
「そんなことしないで良いさ。気持ちは同じだ」
長兵衛は明るく笑った。
やがて一つの競りが終わり、次の馬を曳いてくるように指示が出る。手綱を引くが、今度の馬は抵抗が強く動かせない。
「代わってみろ」
長兵衛が位置を入れ替え、手綱を引く。すると苦労が嘘のようにすんなり前へ進ませることができた。
「腕尽くで曳くのではなく一緒に歩いてやろうとすれば、いかに田名部馬でも楽に曳けるものだ」
長兵衛は言い、ゆっくり競りの場へ曳きだしていく。そしてかけ声の応酬が始まる。かなり早く値が付き、馬は再びどこかへ曳かれていった。
「あれを食べさせてやりたいものだな」
競り落とした男には見覚えがあった。田名部で小料理屋の主人をしている男で、酒の肴として出すつもりだろう。
「押布や山菜ばかりでは、ごちそうとは呼べんからな」
押布は海藻の根を細かく刻んだもので、凶作時の非常食として下北半島では広く食べられてきたものである。定期的に凶作の時が訪れる土地柄だけに、非常時の対策はとてもしっかりしているようであった。
しかし非常食は非常食である。それも食べ慣れていない。子供たちの我慢がいつ解き放たれるかわからないのが不安であった。
「しかし辰次郎よ、俺はあの田名部馬を使ってみたいと思うぞ」
その言葉の意図するところがわからずに長兵衛を振り返る。彼は目の前の相手の向こう、競りにかけられている馬を眺めているようだった。
「あのしっかりした体格と足腰なら荷役になるだろうし、馬鍬を使わせても良さそうだ」
「田畑に入るつもりか」
武士であったことに頓着せず、新しい生き方を探せと権大参事直々に達せられたばかりであるが、経験もないまま百姓として生きていくには抵抗があった。長兵衛に同意を求める眼差しを送ったが、彼は臆せずそれも良いかもしれんと気楽に言った。
「田畑に入って成果が出れば、子供らを飢えさせずに済むだろう」
そのまっすぐな眼差しに辰次郎は何も言えなかった。経験のなさで躊躇していたことが恥ずかしくなる。馬の競り人に使われることを選んだのも、全ては金を得て子供たちを生かすためだが、その金でいつも食糧を賄えるとは限らない。田名部やその周辺は昔から凶作を繰り返してきた土地だ。いくら金があっても保障はないのだ。
そんな土地に暮らしていくなら、農業の道を志す長兵衛の方が余程現実を見ているような気がした。
仕事を終えて帰路に就くと、稗に加えて押布が夕餉であった。黙々と食べる正毅に、
「美味いか」
おもむろに訊いてみた。
「はい。とても」
正毅は笑顔を見せたが、親の目から見ると務めて明るい表情を見せているのが見て取れた。
嘘を感じる笑顔ほど見ていて痛々しいものはない。息子の笑顔を正面から見られるような日々を作りたいと辰次郎は強く思った。
戊辰の役が終結した年は戸惑いと苦しさの中で過ぎていき、それに慣れると年が明けた感動も薄れてしまう。それでも節目だからと言って、初はお祝いがしたいと言った。正毅の健気さが少しでも報われれば良いと思って、田名部で魚を買ってやり、それを夕餉にした。その時の笑顔は、押布を食べている時とは違って嘘の混じらない表情であった。
周りの家族も苦しさに慣らされないようにと祝いの席を設けたらしい。それぞれが日常に埋没しないようにしているのは希望であった。
「しかし秀一郎は心配だな」
競り市の準備に出た長兵衛と三が日のことを話している時、互いの子供の話になって、風邪を引いたという秀一郎に触れた。仲の良い正毅が少し元気のない様子を見せていたので訊いてみて知ったことであった。
「子供は簡単に病気になるが、その分早く治るものだ。心配は要らんよ」
長兵衛は楽観的であった。誰よりも近くにいる実の親が言うなら、他人の親が口を差し挟む余地はない。短く返事をして、辰次郎は仕事に戻った。
気楽に見えた長兵衛の表情が険しくなってきたのは、それから四日後のことであった。
競り市の仕事や馬の世話を休むことはなかったが、明らかに笑顔が少なくなっていた。見かねて秀一郎が心配なら休んだらどうだと言ったが、
「それでは他の家族を路頭に迷わすかもしれん」
そう、余裕のない声で言った。
「俺の両親もいるし、子供の世話なら心配ない」
自分の言葉で希望があることに気がついたのか、ようやく笑顔を見ることができた。
仕事を終えて帰路に就く間に秀一郎の様子を訪ねると、すぐに治ると思っていた風邪が長引いているということであった。
「医者が言うには、栄養失調も理由の一つだと言うのだがな」
満足に食べられなかったことと、あまり慣れていない食べ物で心身に負担がかかっていたせいだと言われたという。責められたわけではないが、結果的に自分の息子を追い詰めたようで少し辛いと長兵衛は顔を伏せた。
「寒さもあるからな。誰かがいずれこうなると思っていたが」
三が日の後数日間断続的に雪が降り、辰次郎らは雪かきに追われた。会津に降る雪とは質が違うのか、かなり軽い雪であったため作業ははかどったが、その分量が多く、実質的な負担は変わらない。
「たかが風邪だろう。多少長引くと言っても、子供ならいずれ治る。親の先を越すなどあるわけがない」
長兵衛の心配は痛いほどわかる。野生動物のように取って食われることはないだろうが、同じだけの危険がある。務めて明るく言った辰次郎だが、
「そうだな、あるはずがないな」
そう返事をした長兵衛の表情は、長屋に着くまで晴れなかった。
数日間は楽観的に長兵衛とその家族を見ていたが、それが洒落にならないところへ行き着くまで時間はかからなかった。秀一郎が危ないという知らせを聞いたのは、自分の家族と夕餉を摂っている時であった。辰次郎はいても立ってもいられなくなり、雪のちらつき始めた夜道へ駆け出していた。
向かった先は菊右衛門の家であった。彼に医者を手配してもらうよう頼んだが、急では来られるかわからないという返事であった。
そこを何とか、と拝み倒すような言葉を寸前で押し込めた。何とかするのは菊右衛門ではなく自分なのだ。秀一郎との間に血のつながりはなくとも、長屋で共に暮らし、自分の息子が親しくしているなら他人ではない。辰次郎は秀一郎を救いたい一心で心当たりを探した。
「辰次郎」
秀一郎を助けられそうな薬や医者の都合をつけられないまま彷徨っていると、長屋の方から佑が現れて声をかけられた。常に感情の起伏が乏しい表情の男が、この時ばかりは険しい面差しであった。
「何か見つかったか」
その言葉へ正直な返事をすると心を刺されるような気がした。辰次郎は黙って首を振ることを選んだ。
「そうか。それなら戻るぞ」
辰次郎は耳を疑った。
「何を言っている。今のままでは秀一郎を救えんのだぞ」
佑に食ってかかる勢いで声を上げたが、彼は目を伏せるだけであった。勢いに飲まれたような気弱さではなく、どこか諦めが漂って見えた。
「佑、どうしたというんだ」
その佇まいの意味するところに気づきながら、辰次郎は言い募った。
ややあって佑は、
「秀一郎は、死んだ」
それだけを絞り出した。
辰次郎は駆け出していた。その直線上には佑が立っていたが、突き飛ばすことも構わずに走って長屋へ戻った。
関家の部屋へ駆け込むと、いくつもの視線が集まる。秀一郎の両親や祖母、兄弟たちだ。対して辰次郎の目は、部屋の中央の一点に注がれた。
小さな布団であった。そこに収まっている体は頭だけが露出しているが、白い布が被せられている。
「秀一郎」
唇を震わせ、辰次郎は子供の名前を呼んだ。年が明ける前、父親の長兵衛と寒稽古をしていた頃ならば瑞々しい笑顔で振り向いてくれただろう。その様子が胸に浮かぶだけに、冷たい無反応が余計に悲しかった。
「辰次郎」
立ち尽くしていると後ろから佑に呼ばれた。
振り向くとまるで咎めるような眼差しに気がついた。
佑が訴えかけることの意味は、視界の外にこもる感情によって気づいた。長兵衛をはじめとする秀一郎の家族は、辰次郎を拒むような視線を送ってきている。たとえ助け合う家族としても、今だけは他人に立ち入ってほしくないのだろう。
その場を離れると、外では寅之介が立ち尽くしていた。彼も長兵衛の様子を訊いたが、
「今は家族だけにしてほしいようです。近しい者が死んだら、せめてその日ぐらいはそっとしておいてほしいものです」
その言葉は何よりも重い力があった。自分の家族と妻子を失った他ならぬ男の、実感を帯びた声であった。
「そうか。下手な気遣いは要らないか」
そう言い、寅之介は踵を返した。兄のあまりに淡泊な動きを呼び止める。寅之介は怪訝そうな顔で振り向いた。
「何か長兵衛に伝えることはないのですか」
辰次郎としてはせめて悼む言葉が要ると思ったが、
「直接言うこともできないのに、何を言えと言うんだ。それにもう遅い。戻らなければ。子供一人が死んだぐらいで日新館は休みにならん」
辰次郎は頭に血が上るのをはっきり感じた。手や足が動かなかったのはぎりぎりのところで理性が止めたからだ。兄上、と叫んだような気がする。しかし彼が振り返るまでの時間が妙にゆっくり流れて感じられた。
「兄上にとり、秀一郎とは取るに足らぬ命ですか」
寅之介には大きな仕事がある。日新館において子供たちを教え導き、将来の若い力を育てる役目だ。多くの藩士が一日ずつ生きていくのが精一杯の状況において、未来を見据えて働き続けるのは尊敬に値する。しかし近しい者の死に心を動かされないほど心が凍てついてしまっていたとしたら、話は別であった。
「秀一郎は長兵衛の子供です。しかし我々の子供でもあったはずです。それを守り切れなかった。子供の命一つを守れず、何がお家再興ですか」
「ここは此岸だ」
寅之介に一喝され、辰次郎は口を噤んだ。
「大事なのは今を生きている子供たちだ。お前は秀一郎を悼むが良い。しかし俺は、此岸で生きていく子供たちを導く役目がある。人を導くとは、一つ一つを丁寧に見ていられないこともある」
反論の余地はいくつもあるような気がした。小さいとはいえ、近しい命を大切にできない人間に育てられた子供がどんな心を持つのかと思うと空恐ろしいとも思う。その思いを口にできないのは、寅之介の射貫くような眼差しに射貫かれたせいであった。
「しかし、それでは秀一郎がかわいそうではないですか」
ようやく絞り出せたのは、感情に根ざす弱い言葉であった。
「俺たちは礎になるのではなかったか」
対する寅之介は、低い声で言い返した。
「秀一郎もそうだ。ここに暮らしながら死んでいった者たちもまた、礎だ。全ては生きていく者たちのためだ」
お前自身のためでもあるのだと暗に言われたような気がして、今度こそ反論を封じられた。自分もまた、死んでいった者たちを顧みずにいなければ生きていけないのだ。
「そこまでにしておけ」
佑が間に入った。その直前、寅之介は弟を険しい眼差しで貫き、黙った。反論を待っているかのようであったが、ややあって踵を返した。今度は引き留める気にさえならなかった。
「少し休め。どちらの言うことにも正しさはある」
今のままではどこまで行っても平行線をたどるだけに過ぎないということであろう。それは立場の違いでもあるような気がした。会津藩の頃から大局に立った仕事をしてきた兄に対し、弟はその足下で生きてきた。目の高さが違えばそれだけ見える者や育てられる感性も変わってくる。
「救えなかったのは大人たちの力が及ばなかったせいだ。お前がその責を負うなら、俺も負わなければならない。実父の長兵衛はもちろん、寅之介さんもそうだ」
新政府への怒りが強かったせいで忘れがちだったが、佑は誰よりも妻子を失った悲しみを知っている男であった。それだけに、すぼめた肩に手を乗せるような言葉は胸に染みた。
「お前の優しさも、寅之介さんの冷徹さも、この土地で生きていくには必要だ。優しいばかりでは弱い者たちを食わせていくことはできないが、厳しいだけでは弱い者たちが傷つくばかりだ」
食糧事情の悪さを言っているのだと思った。到着が遅れたことで、冬に対する備えが不充分で、菊右衛門をはじめとする地元民の支援なしには生きていけない状況なのだ。それを耐え抜いて春を迎えたら、彼らへの恩返しが必要だろう。
春を思うと、北斗七星が思い浮かぶ。実際目にしたことはないものの、権大参事らが希望を見出した星だ。それを待つだけでも生きる力になる気がした。
「しかし、いつまでここでの暮らしが続く。どうしたら抜け出せる」
佑に訊いても仕方が無いと思いながら、言わずにいられなかった。朝敵となったとはいえ、その後は新政府の指示に従って慎ましく生きているのだ。新政府を形作る藩の人間たちを大勢斬ったとはいえ、それはお互い様なのだ。いつかは水に流そうと言う人が現れて、許されてもいいはずだ。
「さてな。しかし」
佑は言葉を切り、星空を仰いだ。
「いよいよとなれば、考えがある」
その言葉に不穏なものを感じ、辰次郎は声を上げた。
「そう思う者が現れても不思議ではないということだ。それをやるには捨て身にならなければならん。背負う者がある俺たちには到底不可能だがな」
佑は笑みを見せたが、底の知れない表情に不気味なものを感じた。辰次郎にはそれ以上の言葉が継げず、気遣いのにじむ言葉を信じることしかできなかった。
秀一郎の死から一夜明け、辰次郎は喪に服す間もなく日常へ戻ることになった。長兵衛と共に仕事を休み、葬儀の手伝いをしたいところであったが、主人がそれを許さなかった。ここでも会津のゲダカという言葉を聞かされ、屈辱を通り越して憤りを感じたが、将来へつなげるには全てを抑えてでも生きていくしかない。今更ながら、寅之介が冷徹に残した礎という言葉が重く感じられた。
「長兵衛、お前は平気か」
気遣いを向けると、気にするなと長兵衛は笑った。
「俺たちと死んだ者は礎だからな」
改めて聞くと悲しい言葉であった。戊辰の役で勝った藩に生まれていれば味わうことのなかった苦労であろうし、人として生まれたにもかかわらず自身の望みを封じられているように息が詰まる心地であった。
「それもこれも、俺たちが戦に敗れたからか」
長兵衛は低く唸り、沈黙した。返す言葉を探しあぐねているような間の後に、全ての原因がそこにあるわけではないだろう、と言った。
「いくら嘆いてももう遅い。それよりやるべきなのは、秀一郎を悼むための時間を作ってやることだ。それが今、俺たちの役目だろう」
「そうだな」
秀一郎の死を悲しむ間もなく、生きるために追い立てられる悲壮感がにじむ言葉であった。しかしそこに父親としての愛と責任を見ることもできて、同じ立場にある者として頷く他になかった。
やがて競り市が始まる。客や主人は、自分たちが昨夜感じた悲しみなど知らずにいつものように威勢の良いかけ声を応酬する。彼らに自分たちの大事なものを踏みにじられている気分であったが、長兵衛が言うように余裕を作るためには何も言わず耐えるしかなかった。
言われたとおりに馬を曳きだし、それを競りにかけていく。あまり代わり映えしない客を何気なく眺めた時、辰次郎はある一人に違和を覚えた。
その男の面差しは気性の荒い田名部馬を扱うには優しすぎるように見えた。そして周りの男たちが先を争って値段をつけていくのに、その様子を微笑みながら見守っているだけであった。
「あの男、何をしに来たんだ」
長兵衛の服の裾を引いて、辰次郎は言った。
「物見高いだけだろう」
余計なことに気を取られるなと言うように、長兵衛は静かに応じた。
辰次郎もいつまでも気を取られているつもりはなく、自分の仕事に戻ったが、最後まで立ち尽くしているのに気づくと関心が戻る。今度は違和感だけでなく、親近感まで覚えた。もしかしたら同郷ではないかと思えたのだった。
競りが終盤に近づき、周りを見る暇が出てくると、男の顔を記憶から探す余裕も生まれた。見覚えのある顔にも思えたが、名前や素性までは思い浮かばなかった。
その男の正体を知ったのは、仕事が終わってからのことであった。関心がないと思っていた長兵衛が、
「競り市に広沢小参事がいらっしゃっていたな」
思わず片付けの手を止めるようなことを言ってきた。
「どこにいらっしゃった」
「お前が気にしていただろう。あのお方、見覚えがあると思ったら広沢小参事だった」
同郷ではあったが、まさか権大参事の片腕とも言われる人とは思いもしなかった。いくつもの疑問が湧いたが、
「一体何をしに来たのだ」
「物見遊山ではないか。小参事ともなれば忙しいから、息抜きも要るだろう」
「競りが見世物になるのか」
広沢は温和な顔をしていたが、それは馬を見て楽しむような表情ではなかった。斗南藩の誕生に関わり、維持に奔走し続けていると聞くが、そのような人がいくら息抜きとはいえ競りの見物などするものだろうか。
「藩士たちの暮らしぶりを見に来たのならわかるが、どういうつもりか」
長兵衛の考えも手詰まりになったようで、辰次郎の問いかけにさあな、と投げ遣りな返事をした。
辰次郎も言葉を交わしたことさえない、それこそ雲の上のような人の考えなど想像もつかない。
しかしわからぬことと言って無関心を決め込むことはできない。まるで関わりのなかった人と、馬を通してわずかながら接点を持つことができた。それだけで辰次郎は胸が躍る心地を味わう。それは過酷な暮らしの中で忘れかけていた熱い気持ちであった。
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