牛人

「ぐもおおおおおおおおおお……」


 雄叫びの主は牛の頭を持ち、そこから生える角はねじれて渦を巻いている。体は人と同じような形をしているが、身体中が焦げ茶色の毛でおおわれており、手足にはヒズメがある。

 もちろん二足歩行で、手にはヒズメを器用に使いながら巨大な斧を携えている。見た瞬間にこいつが何ものなのかを理解した。目の前にいるのは、牛頭人身のモンスター『ミノタウルス』。


「あれは、中ボスかなんかなの?今までのと比べて、格段に強そうじゃない」


 アカリの頬を一筋の汗が伝う。さすがのアカリも目の前のモンスターに対しては緊張が隠しきれないようだ。

 かく言う僕も既に手が震えていた。武器を持ったモンスター何て今までに戦ったことが無い。どう考えたってこれまでのモンスターとは訳が違う。


「トオル、あんた一旦私の後ろで待機して。武器もしまって、魔導書をアイリスに戻して。まずは私が時間を稼ぐから、アイリスにあのモンスターの解析をやってもらうわ」


 僕は言われるがままに、持っていたラビット・ナイフを魔導書の中に戻し、魔導書の姿をしたアイリスに妖精の姿に戻るように促す。

 アイリスも魔導書の姿でもこちらの話は聞こえていたらしく、すぐさま無言で僕の元を離れてアカリの元へと急ぐ。

 アイリスの浮かべる表情は、いつものふざけている様子は欠片も見られず、かなり強張った表情になっていた。目の前の敵はそれだけ危険な奴だということがひしひしと伝わってくる。


「すぐには解析できないわよ。何度か攻撃して、相手の動きを少し見させて。無茶はしちゃだめよ。少なくとも、攻撃力は今までのモンスターの比じゃないわ」


 アイリスとアカリの会話を、僕は遠目でしか見ることが出来ない。僕は結局役立たずでしかないのか……。

 きっとアカリにそんな弱音を吐けば「アイリスが必要だったから、あなたが戦えなかっただけじゃない」と優しく慰めてくれるんだと思う。でもそんなの僕からすれば優しさでも何でもない。僕が余計みじめになるだけだ。

 でも今の僕には、実際何もすることはできなくて、離れたところから戦う二人(ユナンは魔導書になっている)を見ることしかできないのだ。

 アカリはまず距離を取りながら、ミノタウルスの周りをグルグルと走り出す。まずは相手の反応を試しているようだ。ミノタウルスはアカリから視線を外すことなく、アカリの姿を追っている。

 反応はそこまで悪くないと悟ったアカリは、アイリスの指示によりミノタウルスに接近する。そしてアカリの接近に気が付いたミノタウルスは、持っていた斧を自らの頭上に大きく振り上げて、アカリの接近を見計らってその斧を力強く振り下ろした。

 しかし、アカリもミノタウルスのこの動きは想定済みだったので、最接近する前にブレーキを掛けて後ろに飛び退く。そしてミノタウルスの斧が振り切れたのを合図に、もう一度地面を蹴って次こそレイピアの間合いに入る。


「りゃああああああああ!!」


 アカリの切っ先はミノタウルスの肩の肉をえぐり、しっかりとした手ごたえを与えた。


「反応は割といいし、知能も低い訳じゃなさそうね。でも耐久だけは低いわ。付与魔法を使っていないあんたの攻撃でも、十分にダメージを与えられているわ。後は攻撃パターンを読んで、付与魔法で強化すれば十分倒せると思うわ。でも相手の敏捷がまだわからないから、相手の動きには十分注意を払って」


 今までアイリスの言われたとおりに行動していたアカリの元からアイリスが離れる。アイリスは僕の元へと急いで戻ってきて、言うまでも無く魔導書へと姿を変える。そして僕はその魔導書から、刀身の小さなナイフを引き抜く。

 僕もミノタウルスの近くへと接近する。ミノタウルスは雄叫びを上げながら、アカリに向けて斧を振り回している。アカリはそれを寸でのところでかわしながら、攻撃の機会を覗っていた。攻撃力の乏しい僕ができるのは、ミノタウルスの気を引いてアカリが攻撃する隙を作ることだ。

 僕はラビット・ナイフを携えて戦況に身を投じる。しかしミノタウルスは僕に目をくれようともしない。野生の本能が僕をそれほど危険でないことを悟っているのか、それともアカリが危険すぎると判断しているのか。どちらにせよ舐められたものだ。


「お前の相手は、一人じゃないんだっ!!」


 僕は力を込めて手に持っていたナイフをミノタウルスに向けて投げつける。普段の僕ならナイフをこんな数十メートル離れた標的に当てることなんてできないだろう。しかし、パラメータによって補正された僕の腕力は、それを可能にしていた。


「ぐもおおおおおおおお」


 ナイフはミノタウルスの右の横腹に突き刺さり、その瞬間悲鳴にも似た叫びを上げる。そして、やっとミノタウルスがこちらに視線を向けた。これでアカリの攻撃の隙ができた。


「ヴィント・スパーダ」


 すかさずアカリは付与魔法を唱えて自らのレイピアに風を纏わせる。ミノタウルスは、照準を僕に合わせると、地面を力強く蹴って跳躍し僕の元へと飛んできた。そしてその勢いを利用して斧を頭上から振り下ろす。

 僕は咄嗟に飛びながら避けた。そのまま身体を丸めて転がることで、ミノタウルスとの距離を取る。僕がさっきまでいた地面に、巨大な罅が入っていた。地割れを起こすなんてどれだけの力で地面に叩きつけたんだ。あんなの喰らったら本当にひとたまりもない。

 ミノタウルスの赤い瞳がギロリとこちらを睨む。僕の仕事は戦うことじゃない。あくまでもアカリの攻撃の隙をつくることだ。怒りのせいか完全に僕しか見ていないミノタウルスを、背後からアカリの斬撃が襲う。


「喰らいなさい。えりゃあああああああああ!!」


 風を纏ったアカリの斬撃は、ミノタウルスの背中をえぐる。


「ぐもおおおおおおおおおおおおおお」


 悲鳴にも似た叫び声を上げながら、しかし、ミノタウルスもそこで片腕を思い切り振り切って、ゼロ距離にいたアカリを殴り飛ばす。凄まじい勢いで、アカリはこのフロアの壁まで飛ばされ、土埃を上げながら壁に叩きつけられた。


「うっ……」


 肺から空気を無理矢理に吐き出され、嘔吐となってアカリを襲っていた。アカリはその場で動きを止めたが、命に別状は無さそうだ。

 アカリの攻撃を受けてなお、ミノタウルスの目は僕を放そうとはしない。格下の相手から不意打ちされたのが余程頭にきているのか、今の奴の目には僕しか映っていない様子だった。


「ウソだろ……。とにかく、アカリが体制を立て直すまで逃げなきゃ」


 僕はすぐさま起き上がるとミノタウルスに背を向けて走り出す。今は、何とかミノタウルスの攻撃から逃げることだけ考えろ。あいつの攻撃はあの斧しかないんだ。なら距離を取り続けていれば、あいつの攻撃が当たることはない。

 僕は必死に逃げ続けた。距離を取っていれば大丈夫だと思っていたから……。でも、それは大きな勘違いだった。焦りのあまり考えが単純になっていた。だって、ナイフしか攻撃手段がなかった僕がやったことじゃないか。

 僕がパッと後ろを振り向いて、ミノタウルスとの距離を確認しようとしたその時、ミノタウルスは斧を持った右腕を引き、ブーメランのように僕に向かって投げつけた。

 そう、距離が縮まらないなら投げればいい。僕がやった攻撃手段と全く同じこと。

 僕は目を見開いて瞬きひとつせず、その斧の軌道を追った。何故か自分を含めた全ての動きが恐ろしくゆっくりに感じられた。僕は凄まじい勢いで回転しながら襲い掛かる斧を、身をかがめることで何とか避けることに成功した。斧は向かい側の岩壁に勢いに任せて突き刺さった。

 しかし、僕は斧を避けたことで気を抜いてしまった。床に転がっていた小さな石ころに躓いて足を取られ、顔から地面にヘッドスライディングをするような形でこけてしまった。もちろんミノタウルスは、足を止めることなく近づいてきている。


 やばい、やばい、やばい、やばい……。


 いくら斧を持っていないと言っても、あれだけの破壊力を生み出すミノタウルスは元々攻撃力が尋常じゃないに決まっている。あの腕で思い切り殴られれば十分死んでしまう可能性がある。かといって今から立っても、もう逃げ切ることはできない。

 僕は下手に逡巡してしまったため、その場から動くことが出来なくなってしまった。

 やばい、このままじゃ本当に死んじゃう。死にたくない。まだ死ぬ訳にはいかない……。

 ミノタウルスはその黒光りするヒズメを突き出し、僕まであと数メートルと言ったところまできた瞬間、僕は死を覚悟し、今まで記憶が僕の頭の中を駆け巡った。


「ごめん、アカリ……」


 僕は最後に一言その言葉を絞り出すと、目を瞑った。ヒズメが空を切る音だけが、僕の鼓膜を震わせていた。

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