第3話 エルピス・ラフラ

 エアロックが開くのと同時に数種の香水の匂いが漂ってきた。左右に四人の侍女を従えた女主人が進み出て、スカートの裾をつまみたおやかに腰を折った。

「危ない所を助けていただき、感謝の言葉もございません。わたくしはエルピス・ラフラと申します」

 リュカは少し、息を呑む思いがした。エルピス・ラフラの清純な美しさは、身構えていたリュカでさえ一瞬忘我の状態に追いやってしまった。

「このような、無粋な姿で参上したことをお許し頂きたい……エドガー・ドートリッシュと申します。お見知りおきを」

 すぐに我に帰り、片膝をついて彼女の手をとる。内心の動揺を押し殺すような真似はしなかった。瞬間的に抱いた動揺や驚愕を隠すことほど、見苦しいことはない。それにこの場合、リュカの示したような反応を見せない方が不自然というものだ。

 彼が顔を寄せると、ゆったりとした紫色のローブが揺れ、バニラの香りがリュカの頬を撫でて行った。流体なのではないかと思えるほどに滑らかな肌を感じながらリュカは彼女の手の甲に唇を触れさせる。両者とも、全く自然だが無作法も無い完璧な所作だった。

「どうかお気になさないでください。わたくしにとって、着物はさほど大切なものではありませんから」

 エルピスは均整のとれた美しい肢体を純白のシュミーズドレスに包み、その上から金刺繍入りの紫色のローブを羽織っている。肌はミルクのように白く、しみも傷跡も一切無く、ほんのりと桜色に染まった指先以外は作り物めいた冷たさを感じさせた。対して、腰まで届く髪は金を溶かしたような燦然たる輝きを放っており、冷ややかな印象を相殺している。桃色の唇は艶めかしく、そこから覗く歯は真珠が並んでいるかのようだ。

 だが、そうした表面上の印象は、確かにエルピスにとっては無意味だろう。整った鼻梁の上の両目は閉じられている。彼女は盲目なのだ。

 左右に控えた侍女もエルピスと似た衣装を着せられており、皆器量も良い。単純な美しさを比べるだけなら、エルピスも侍女たちも大して差はないだろう。それでも彼女と同じ風景に入ると霞んで見えてしまう。やはり、本来ならば様々な感情を映し出すはずの眼がとじられているという一点が、換言すれば盲目であることの静けさがエルピスの神秘性を引き出していた。

「…………」

「どうかなさいましたか?」

「いえ、ずいぶん麗しい方だと……驚きました」

「そう言っていただけると、自分で鏡を見られないことが残念です」

 この女、試すつもりか。エルピスが何気なく放った言葉の意図にもリュカは即座に気づいた。声色に妬みも僻みもないが、ある種の自虐ではあるのだ。それに対して慌てて台詞を継ぎ足せば、無思慮に言葉を垂れ流す男だと軽蔑される。かといって、返しが遅ければ頭の鈍さと初心さを笑われる。

「困りますね、そういう言い方は」

 やや苦笑まじりにリュカは言った。実際には、舐めるなよ、と言ったのとそう変わらない。会ったばかりの貴人に対して取るには少々馴れ馴れしいところがある。だが、逆に言うと、相手に対して余裕を失っていないということでもあるのだ。それにある程度周囲から野蛮と思われている方が、かえってエドガーというキャラクターには似合っているとリュカは思った。

「ふふ、ごめんなさい」

 エルピスは気分を害したようでも無く笑ってそう返した。含むところのない、むしろ無垢な感じさえする微笑だった。だが、男を試した後にこういう表情を自然と浮かべられるという所に、エルピス・ラフラの魅力と怖さがあるようにリュカには思えた。

「わたくしの部屋にご案内致します。あんなことがあった後なので、少々散らかっておりますが」

 どうしようか、とリュカは思案する。社交界への渡りを作るためという目論見こそがわざわざここまで来た理由であったが、愛人とはいえ簡単に部屋へ通してもらうというのは、さすがに踏み込み過ぎではないだろうか。しかし、安易に断るのも惜しい。戦闘における判断力には最高のものをもっているリュカも、こういう場面の対応には全く不慣れだった。元より、あまり人の心情を読むのに長けた男ではない。

(受けるべきだよ、リュカ)

 カーリーが頭のなかでささやいた。こういう時のためにカーリーを連れてきているのだ。モルモット扱いとはいえ、社交界を間近に見て来た身である。それからもずっと、文章や映像を通して、その手の作法を飽くまで詰め込んで来た。要するに生きたカンニングペーパーなのだ。

(女性からの誘いを断るべきじゃない。向こうだって儀礼でやってるんだからさ。それを無碍にするのは、常識知らずということになるよ)

 アドバイスを受け、リュカは即座に決断した。

「分かりました。では、ご厚意に甘えて」

「こちらへ」

 エルピスに導かれ、リュカは船の奥へと進んだ。船内は細かい装飾に至るまで全て人の手を持って造られているようで、所々、イミテーションや鍍金ではない、本物の金や銀まで使われていた。貴種のなかでもこれほどの資金を持っている者はそう多くない。

 今の人類社会はドミナとセルヴィに大きく二分されているが、総人口約百五十億のうち、ドミナと認定されている人々はわずかに五千万人程度である。無論、それだけではEHSという巨大な国家を回転させることは出来ないから、貴種の世界にも劣種が食い込める狭間があるのだ。

例えばこの船にしても、建造から内装までほとんどセルヴィの手によるものだろう。船員の中にもいるかもしれない。これはミクロな一例で、マクロな視点で見ると、貴種社会への食い込み具合は相当なものがあるはずだ。

 その最たるものに軍隊がある。いくらドミナの持つスペルとクルスタが強力とはいえ、圧倒的大多数のセルヴィに反逆されてはどうしようもない。

五百年前はまだ解放者であるという大義名分もあったし、そもそも現代ではドミナの能力自体が比べ物にならないほど衰えている。その上、海賊達がクルスタを使っていたことからも明らかな通り、すでにクルスタはドミナだけの兵器ではなくなっているのだ。故に、セルヴィの反乱という潜在的な脅威を抑圧するためにも、軍隊の存在は必要不可欠である。しかし、無論食い込ませるだけというわけではない。

 セルヴィの団結を防ぐため、ドミナは数種類の身分を導入しそれを妨害している。ドミナの中でも特に高貴な者をドゥクス、つまり貴族階級として扱い、一般市民をルジェと呼んで区別している。ルジェ階級から横並びか、あるいはやや下にあるのが戦士階級のベラートルであり、ここにドミナとセルヴィの両者が参画出来るようにして、奴隷階級のシミアと差別化しているのだ。

 ドゥクス階級はドミナによる社会……EHSの頂点に立つ階級である。立法を統括する中央星府議会の議員職をはじめ、内政を担当する各省庁の高級官僚、至天教の高僧、そして将軍職等々、公権力は全てドゥクスによって独占されている。これらの職務は伝統的に貴族の職務として認識されており、ルジェ階級やベラートル階級の者が就任する場合は、その階級をドゥクスまで引き上げられるのだ。

 ベラートル階級は、ドミナにとってもセルヴィにとっても重要な意味を持っている。ルジェ階級の者がドゥクスへと昇格する場合、最も手っ取り早いのが赤と黒、すなわち軍人か聖職者の道で栄達することだ。しかし後者は禁欲的な生活を押し付けられることもあり、ドゥクスになれたとしても今一つ旨味は薄い。そういう俗的な判断から、必然的に軍人からドゥクスになろうとする者が後を絶たない。この場合、士官学校に入学した者のみがベラートルとして扱われる。給金の平均値では、ベラートル階級はルジェ階級よりもやや高いという統計があるが、軍閥化を阻止するために参政権の面ではいくつかの制限がかけられている。

 また、先述した通りこの階級にはセルヴィも食い込むことが出来る。兵卒から士官学校への推薦をもらって、無事卒業出来た者のみベラートルとして扱われる。

 当然、ドミナの社会で生きようとするセルヴィ達はベラートルになろうとするが、その門戸は狭く険しい。セルヴィは皆例外無く一兵卒として扱われ、その中で特に優秀な者だけが士官学校への推薦状を与えられる。

 無論、優秀さの中には賄賂やご機嫌取りの能力も含まれており、世渡りが得意でない者が士官学校へと進む可能性は限りなく低い。ともあれ、そうして士官学校に入学したとしても、待っているのは年下のドミナ達に延々と頭を下げ続けなければならないという現実だ。クルスタによる模擬戦も、幼少時から鍛えられているドミナとは比べ物になるはずがなく、ほとんどが落第させられる。

 そうした数々の逆風や試練に耐え、士官となることで、初めてベラートルの称号を得られるのだ。だが、そのベラートルの階級もセルヴィに限って世襲ではなく、家にドミナが生まれない限り一世代限りで剥奪される。そんな危うい地位であっても、ただ延々とこき使われるだけのシミアや賤民から見れば羨ましい。羨ましいからこそ妬みの感情が生まれ、同族同士で延々と憎み合う結果となってしまうのだ。

 そんな現実を顧みる時、リュカは、自分は不幸中の幸いだったのだ、と思う。少なくとも、真の敵を見失わず、戦うための力も持ち合わせているのだから。

「あの」

「ン……何か?」

「ハーブはお嫌いですか?」

「ハーブ?」

 オウム返しになったのは、やや間抜けだったかもしれない。エルピスがクスリと笑い声を洩らした。

「お疲れのようでしたから。レモンバームが効きますよ?」

「お任せします」

 思考の海から這い出したリュカは、通されたエルピスの部屋を何気なく観察した。

 船室と呼ぶには広すぎるが、一般的なドゥクスの居室に比べるとやや狭い。それでも、一人で過ごすには広すぎるほどのスペースがある。二人どころか、その倍乗せても良さそうなベッドが一角を占めているが、圧迫感はほとんどない。

 内装の色調は白を基調に整えられていて、落着いた印象を与える。部屋の一面に大きな食器棚が置かれていて、中にはティーカップやハーブの容れ物が飾られていた。観賞用ではなく実用品なのだろうが、遠目にも見事と分かる物ばかりだ。その隣には無数の香水を収めた棚があり、七色の匂いが漂って来る。それでもくどさや不揃いを感じさせないあたり、エルピスの調香師としての腕前を感じさせた。ただ、戦闘の揺れは確かにあったようで、棚の中は乱れていたし、本棚に置かれた本も慌てて入れた様子がうかがえる。

 リュカは部屋の中心にある丸机の前に座らされた。果物を入れた籠と、一冊の本が伏せられたまま置かれている。背帯に金文字で『聖書』と書かれていた。

「ここはスターストリームの傍流。護衛もつけずに航行するのは、少し不用心だと思いますが。それに、ヴェローナに着くにも時間がかかる。何故です?」

 ポットに茶葉を入れるエルピスにリュカは尋ねた。彼女の手つきは遅いものの、危うさは感じなかった。

「侍女に朗読をさせていました。こんな目ですから、自分で好きな時に、というわけにもいきません。それに、本を読むには、ヴェローナは少し騒がしいですから……」

 侍女が湯を持ってくると、エルピスは手ずからそれを注いだ。亜麻色の色素が透明なポットの内側を満たし、レモンバームの他にも数種類のハーブの香りを含んだ湯気が立ち上る。

 リュカは聖書を取り上げた。

「ずいぶん古風な趣味だ。今時、こんな本を読むなんて」

「分かりますか?」

「大昔の宗教書ですね。耳に優しいことが書いてある……」

「ええ。でも、綺麗な言葉を使っています。篤信な方なら至天教の公認定本を開くのでしょうけど、文章を楽しむなら古代宗教の聖典の方が格別です。お好きな章はありますか?」

 ヨブ記です、と喉元まで出かかったところで、カーリーから制止がかけられた。

(ヨブ記が好き、とか言っちゃ駄目だよ。君が好きな箇所じゃなくて、エドガーが好きな箇所にしないと)

「……ヨナ書、でしょうか」

「鯨に飲まれてしまう話ですね」

「ええ。船のなかにいると、ヨナと同じような気分になります。それに、ヨナの人間臭いところにも好感が持てる。友人に薦められた程度なので、そこまで深く読んだわけではありませんが」

 カップに液体が注がれ、リュカの前に置かれた。籠の中から林檎を取出し、ナイフで切り分けていく。危なくないか、と思ったが、彼女の手つきは非常に手馴れていた。

「生憎、今はこんなことしかできません。ヴェローナに着いたら、わたくしだけでなく、侍女たちや乗組員を助けて下さったお礼をさせてください」

 苦味と酸味を舌で味わいながら、カップの裏で、リュカは小さく唇を釣り上げた。そんな真似をせずともエルピスには見えないはずなのだが、エドガーの名前を名乗り始めてからついてしまった癖だった。

「それはありがたい。では、図々しいですが、一つだけお願いしたいことがあります」

「なんなりと」

「私も今、ヴェローナへ向かっている最中なのです。恥ずかしい話、船乗りでありながらこれまでヴェローナを訪れたことがありませんでした。無論、社交界とのつながりも無いに等しい」

「それで?」

「ええ。そこで貴女に、社交界との橋渡しをお願いしたいのです」

「喜んでお引き受けさせていただきます。でも……わたくしでよろしいのですか? わたくしはサヴァス様の恩寵で生かされている身。階級も正式にはベラートルです。そんな女が引き連れてきた男と見られると、返って悪い印象を作ってしまうかもしれません」

「構いません。全く繋がりを持たずに入って行く方が、印象が悪いに決まっています。それに私は……」

 リュカは少し逡巡した。エルピスが小さく首をかしげ、次の言葉を待っている。結局、彼は何も言わないことにした。

「失礼、何でもありません……素朴な味がしますね」

「珍しいですか?」

「そうですね、こういう物はあまり口にしないので」

「レモンバームは、育てるのに手間がかからないハーブなんです。精油にしても良いですね」

「しかし、採油率は低いから、それなりに量を集めないといけないはずです」

「あら、御存じだったのですか?」

「植物にはそれなりに興味があって……趣味で読む本は、専ら機械か植物に関するものばかりです。もっとも、育てるつもりはありませんが」

「どうして?」

「宇宙を旅していると、さっきのようなこともあります。絶対に生きて帰れるという保証はありません。もし私が死んだとしたら、残された花は枯れるほかないでしょう」

「任せられる人はいないのですか?」

「ええ、いませんね。それに、任せるというのはいかにも無責任じゃないですか」

 カップの中身がなくなったのを契機に、リュカは立ち上がった。

「美味しかった。是非、また淹れていただきたいものです」

「では、その時はヴェローナで」

「ええ」

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