横田等のロサンジェルス・ダイアリー =3=
*** 8月17日 木曜日 ***
昨夜はきりの悪いところで眠り込んでしまって…。(そこからはほんの四、五メーター先にある隣の大きな倉庫のレンガ壁しか見えない)窓のわきに備えてある六〇センチメーター四方ぐらいの小さなテーブルの上に投げ出した両腕に顔を埋めるようなかっこうで。
きょうは真紀と話す日だから、あまり時間が取れないけど…。
とにかく、話をつづけるよ。
※
で、僕はきのう、編集長の態度がなんだかおもしろくなかった。
だから、「実際、あちこちで読者が、野茂に関する君のストーリーはいい、興味深い、情報が多様で、統計も添えてあるから、話題のネタとしても使うことができる、などと評するのを耳にしてるよ」と重ねてほめられても、ほとんど嬉しくなかったよ。…場合が場合だったから、あの人は口からでまかせを言っているんじゃないかって疑う気持ちもあったしね。
僕はこたえた。「実は、いま書いているのは野茂のことじゃないんです」
たちまち編集長の表情が曇った。…バーが遠くなったように感じていたのかもしれない。
「正直にいいますと」と僕はつづけた。「最初は、また野茂のことを書こうとしたんですけど、新しいストーリーが[海流]のスペースを埋めるほど見つからなくて…。だから、マイク・ピアッツアのことで何かを書くことに方針を変えて…」
「それ、たしか…」。編集長は自信がなさそうだった。「野茂のキャッチャーね」
「〔野茂の〕ってわけじゃないんですけど、ええ、[ドジャーズ]のキャッチャーです」
「オーケー」。かすかにであれ自分が知っている野球選手の名前が野茂と関連して出てきたことに安心したのだろう、編集長の表情がさっと明るくなったよ。「それで行ってもらおう。…で、ピアッツアの何を書いてるの?」
「そこなんですけど…」。今度は僕がいくじのない声を出す番だった。「ピアッツアは優秀なキャッチャー、というか、ホームランも打てる、いい打率もあげられる、大リーグ史上にまれな、何十年間に一人しか現れないだろうという、すごいキャッチャーで、その野球にかける意気込みがまた立派なんです。シーズン中はもちろん、オフ・シーズンの自己鍛錬も厳しくて、アメリカ人ならたいがい家族団欒を楽しむクリスマスにも一人で何時間もバットを振って過ごすぐらいなんだそうです。しかも、というとちょっと変ですが、このピアッツアは、実は、億万長者の息子なんだそうです。父親は、その価値が一億五千万ドルとも二億ドルともいわれる中古車販売チェーンだけでなく、ほかにも不動産会社とコンピューター・サービス会社をそれぞれ一つずつ所有しているということです」
ピアッツアに、なんというか、そう、見当違いの嫉妬心でも抱いたのか、編集長が突然、<それがどうした〉といわんばかりの難しい顔つきになったものだから、僕は急いでつづけた。「僕が言いたいのは、編集長、ですから、ピアッツアは野球選手になる道を選ばなくてもよかった、ということです。そんなに厳しい鍛錬をしないで楽に生きていける立場にあったんです。どこかで気楽な仕事をしながら時を過ごして、そのうちに父親のビジネスを継ぐ、という生き方もあったんです。…でしょう?〔億万長者の息子で、大リーグを代表するすごいキャッチャー〕。おもしろいでしょう?何かと言っては、〔ハングリー〕でないといいスポーツ選手にはなれない、と主張するどこかのだれかにぜひ聞かせてやりたい、そんな話だと思いません?」
「いや、まったくそのとおりだ」。僕にはそんなつもりはなかったんだけど、〔どこかのだれか〕というのが、ほら、現実に〔日本に住んでいる〕特定のだれかを指した皮肉なんだろう、とでも独り合点したものか、編集長はまた、あの〔お人好しのおじさん顔〕になった。…僕のことを、日本を批判しつづける[海流]の伝統継承者、とでも思ってか。
「でも」。僕は言った。「編集長、話がそれで終わってしまったら、[海流]はいつもの半分ぐらいの長さになってしまいます。それに、この話は、[ロサンジェルス・タイムズ]なんかを読む人なら、たいがいはもう知っているはずなんです。いくら、『日報』の日本語ページは、そもそも、英語が読めない人たちのためにあるんだ、だとか、[タイムズ]などに英語で書かれていることを、日系・日本人の読者に日本語で読んでもらおうというのが『日報』の本来の役割なんだ、だとか言っても、それだけじゃ、つまんないじゃないですか」
「だから?」。編集長はじれったそうだった。
「だから、何かがつけ足せればいいなと思って、材料を探しているんですけど、それが、見つからないんですよね。過去の偉大なキャッチャー、たとえば、ヨギ・ベラやジョニー・ベンチの終世打率やホームラン数なんかが分かれば、ピアッツアの成績と比べることができるから、少しはましになると考えたんですが、スペースを埋めるにはそれでもまだ足りません。…それに、ただ、〔ハングリー〕でなくたっていいスポーツ選手になれる、という結論じゃ、角度を変えたもう一つの精神論になってしまうだけで、おもしろくもなんともないし、まして、ピアッツアってなんてすごいキャッチャーなんだろう、だけで終わってしまっては、なんだかなさけないでしょう?」
※
僕は一瞬、〈ちょっとまずいことを言ってしまったかな〉と思ったよ。だって、編集長は、どちらかといえば、その〔ピアッツアってなんてすごいキャッチャーなんだろう〕スタイルで、つまりは、情に訴えて、ものを書く人だからね。ほら、あの〔恥ずかしい。恥ずかしい〕がそうだったように。…純粋に仕事に関することに話が集中し始めているときだったから、あてこすりかなんかを言っているようには受け取られたくなかったんだよね、僕は。
でも、心配することはなかった。編集長はむしろ、機嫌がますますよくなっていた。というか、そこまで僕の考えがまとまっていれば、書きあげるまでにはもうそれほど時間はかからないだろう、と読んでいるようだった。だからすぐに退社できる、と浮き足立っているようにさえ見えたよ。
たしかにね。…考えてみれば、編集長は自分が書いたものに(とてつもないほど)自信を持っていて、自分の仕事についてだれかが〔あてこすり〕を言うかもしれない、などとは絶対に考えない人なんだよね。それに、実際、編集長がそんなふうに自信を持っているからこそ、(内容については問題があることもあるかもしれないけど)記事や[海流]がいきいきしたものになるんだ。…あの人、そのことが自分でもよく分かっているんだろうな。〔自信〕が自分の財産だってこと。
※
僕はつづけた。「だからですね、〔ピアッツアってなんてすごいキャッチャーなんだろう〕と書かずにピアッツアのすごさを読者に読み取ってもらえるように書けないものか、と考えているわけですが、そこで行き詰まってしまって…」
昨夜、編集長の(野茂に触れた)エッセイを批評したときには元気がよかった僕も、自分が何かを書くとなると、話は別。…ほら、他人が書いたものをいくらか分析することができるからといっても、自ら良いものが書けるとは限らないじゃない。
というか、僕は、優秀な姉と兄を見ながら育ったものだから、(ひどくひがんでいたというわけじゃないんだけど)自然に(家族の中で精神的に楽に生きていくための知恵が働いて、つまりは、自己弁解のための一手段として)そういう人たちの欠点とかアラとかを見つけ出すことが、言ってみれば、変に得意になってしまっただけで、そもそも、創造性などというものはあまりない人間なんだよね。
編集長は、(たぶん、僕に早く書き終えてもらおうというんで)ほめ言葉をいろいろ並べてくれたけど、僕のエッセイは、統計を引き写したり、他人にユニークな意見を(その人の名前を出して)引用し、最後にちょっとだけ自分の意見や感想を述べる、というのが基本の形になっていて、オリジナリティーは乏しいんだ。…この新聞社で働きだして間もないころ、編集長にいきなり、〈あさっての[海流]は君の担当だから、何か書いておくように、横田君〉といわれたとき、たちまち(文字どおり)青ざめてしまったぐらい、もの書きとは無縁に暮らしてきていたんだもんね。いや、翻訳の方は、まあ、努力すればなんとかなるんじゃないか、と思っていたわけだけども…。
※
「そんなところで行き詰まっていたのか、君は」。編集長は少し失望したような口調で言った。でも、その目は、むしろ、輝いているように見えたよ。「横田君、ところで、日本にもそんな選手はいるの?」
分かるよね。編集長はそこで僕に、例の〔筆が進まないときは太平洋の向こう側に視線を向けよ〕という金言を思い出させようとしたわけだ。
なるほど、と思いながら僕はこたえた。「ピアッツアみたいな、大金持ちの息子で野球の大プレイヤーですか?」
編集長は大きくうなずいた。
「僕が知っている限りでは、あそこまでのプレイヤーはいませんし、過去にもいなかったんじゃないでしょうか」
「そこだよ。そんな選手は日本にいない、となると、君のエッセイはもう書き終わったのも同然だ。そういう対比は、それ自体が読者に何かを伝えるものだからな。読者は、日本とアメリカの大きな違いを示され、あとは自分たちでさまざまに、そりゃあすごいことだ、と感じてしまう。君が〔こいつはすごい〕などと書くことはないんだ」。そういうと、編集長はすっくと立ち上がった。「横田君、ボクら急いだ方がいい。とにかく、それでまとめるといいな」
僕はここでも〔ボクら〕という言い方があまりおもしろくなかったし、読者がそんなふうに〔感じてしまう〕 かどうかについても判断がつかなかったけど、(早く書きあげてしまいたい、という潜在的な思いに引きずられたのか)頬に笑みを浮かべ、〈そうか、たしかに、そういう締めくくり方もなるな〉と考え始めていたよ。
僕の表情のそんな変化を読み取ったんだろう、編集長は「じゃあ、あとはよろしく」というと、出口に向かってさっと歩きだした。
僕には、編集長が立ち去る前にはっきりさせておきたいことがもう一つあった。僕は編集長の背に向かって言った。「あすの[海流]はどうするんですか?書いていただけるんでしょうね」
編集長はゆっくりふり返った。あの〔お人好しのおじさん顔〕をつくっていたことはいうまでもない。「事は、横田君、一度に一つずつ解決していけば、自ずとなんとかなるもんだよ」
※
結局、僕は自分一人だけになった日本語編集室で、〈そうなんだよな。あの人がコップ酒をしだしたのに気づいたときすぐに、逃げ出しておけば良かったんだよな。ホテルの、あの息詰まるような小さい部屋ではあまり仕事はしたくないな、だとか、いや、たしかに小さい部屋だけど、いまは僕が持っているただ一個所のプライベイトな空間なんだから、そこでは会社の仕事はなるべくしたくないな、だとかぐずぐず考えていずに、さっとここを出ておくべきだったんだよな〉などと頭の片隅で思いながら、ワープロのキーを打ちつづけた。
エッセイになんとか結末をつけ、原稿を(早い夕食から戻ってきていた)辻本さんに校正してもらったあと(タイピストの)田淵さんに渡したときには、時間はもう六時半近くになっていた。(日本語ページレイアウト係の)江波さんが版下を貼りあげ、貼り間違いがないことを(光子さんが外で取材しているから)辻本さんが確認し終えたのは、それからさらに一時間ほどあとだった。…江波さんによると、[海流]などのいわゆる〔囲み記事〕の大きさが決まらないと、ページ全体のレイアウトができないそうだから、きのうみたいな仕事の流れは、時間の使い方という点から見れば、最低なんだよね。編集長も当然、そのことは知っているんだけど…。
できあがった版下を持って(いつもよりうんと遅く)印刷所に向かう辻本さんを僕は、〈遅れに何の責任もない辻本さんがウォンさんに嫌味をいわれたりしなきゃいいが〉と思いながら見送ったよ。
※
で、そのエッセイの結末はどんなふうにしたのかって?
〔ピアッツアみたいなスポーツプレイヤーは日本にはいない〕だけでは物足りないように感じたから、〔そういえば〕とつづけて、フットボールの[サンフランシスコ・フォーティーナイナーズ]のスティーヴ・ヤングはNFLを代表するクォーターバックでありながら、オフ・シーズンには大学の法学部で勉強をしつづけ、この夏そこを修了したから、近い将来に弁護士の資格を取るはずだし、おなじチームのオフェンス・ラインマンであるバート・オーツはとっくの昔から弁護士としてもちゃんと仕事をしているスター・プレイヤーだ、ということを読者に告げ、最後は〔アメリカのスポーツプレイヤーの仕事に対する考え方や取り組み方にはどこかゆとりがあるようだ。その道ひと筋、ということに多大の価値を見ることが多い日本人とのこの違いはどこからきているのだろう〕と締めくくってみたんだけど…。あれでよかったのかどうか。
※
けさ出社してきた編集長は(やはり、スージーさんの昨夜のもてなしがよかったのか)すこぶる上機嫌で、一番に僕のエッセイを読み終えると、満面に笑みを浮かべて、「いやいや、よく書けているじゃない」とほめてくれたよ。でも、僕の胸の中には、ほら、〈この人、きょうの[海流]も僕に書かせようという魂胆があって、僕をほめているんじゃないか〉という警戒心があったから、すなおには喜べなかった。
※
いや、ほんとうのことをいうと、編集長にきょうまた逃げられた場合に備えて、僕はきのう、最初のやつを書きあげたあと、さらに居残り、へとへとになりながらも、二つ目もなんとか書き終えていたんだけどね。…こちらの新聞から記事を二つ選び出し、その書きだしの部分を翻訳し、別に手許にあった『朝日新聞』のある記事の書きだし部分と比べて、(ほら、きのうしゃべったように)アメリカの新聞は必ずしも〔いつ、どこで、だれが、何を、どうした〕という型にはまった書き方はしないと述べて、〈こういう違いがあるのは、こちらでは、記者の書き方の個性や独創性を尊重しようという考えが日本よりはうんと強いからなのだろう〉と締めくくった、〔太平洋の向こう側に視線をむけた〕(ほとんど引用だけで文章ができあがった、日もちのする)やつをね。
編集長の〔事は、横田君、一度に一つずつ解決していけば、自ずとなんとかなるもんだよ〕という言葉はそのまま認めたくはなかったけども、そういう(安直な)手でいこうというアイディアが浮かぶまでには(不思議なことに)たいした時間はかからなかったんだよね。
窮すれば通ず、だとかいうのは、実際にあるんだね。
※
だけど、問題のきょうの[海流]は編集長がちゃんと書いたんだよ。きのう僕に無理を言って悪かったと、いくらかは反省してくれたんだろうか。…午前十一時ごろからほんの四十分間ほどで書きあげたものだったし、頭の方の準備も十分とはいえなかったみたいで、出来具合は、あの人のものとしてはあまりいいものじゃなかったと思うけど、けっこうおもしろいものだったよ。
何を書いたのかって?
タイトルは《失って知る…》。内容は、短くまとめてしまうと、〈南カリフォルニアに進出してきている日本の新興宗教団体をいくつか、数年前に取材したことがある。話を聞かせてもらおうと、ある団体のある若い女性信者とノースハリウッドのあるコーヒーショップで会ったのだが、コーヒーをすすっていたとき、以前からゆるんでいた前のさし歯が一本、ちょっとした弾みでぽろりと外れ、口の下五インチほどのところに構えていたカップの中にぽちゃんと音を立てて落ちてしまった。それを見てていたその女性信者の思いやりを欠いた、あざけるような、冷ややかな笑い方。この十数年間を振り返ってみても、あんなになさけない、不快な思いは、ほかにした覚えがない。すっかり嫌気がさし、新興宗教団体の取材は結局、全部中止してしまった。…それにしても、年は取りたくないものだ〉というもの。
肩肘を張らない文章も書くんだよ、あの人。
※
ところで、その〔この十数年間〕には、(法的な離婚に同意してくれない奥さんとの関係のもつれなんかも含まれているはずだけど、児島さんは、そちらの方ではあまり〔なさけない、不快な思い〕はしたことがないのかな。
働いているのが『日報』じゃなくてもっと給料のいいところ(はっきり言ってしまえば、ほら、『日米新報』)だったら、歯医者にかかるカネもあっただろうから、あの人も、前のさし歯をゆるんだままにはしておかなかっただろうし、その女性信者にそんなふうに笑われることもなかっただろうにね。…気の毒に、というか、かわいそうに、というか。
待てよ。そのコーヒーショップでそこまで嫌な思いをしたのは、もしかしたら、編集長、自分のいまの『日報』での境遇に、実は…。
ちょっと唐突に響いたあの結び〔それにしても、年は取りたくないものだ〕というのは、文章を書く上でのある種の飾りで…。
そうだとすると、なんだかつらい話だな、これ。
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