祥国伝
@v_alpha
第1話 嵐の前
時は
もとは
さあさあ、皆様お立ち会い。ご用とお急ぎでなければよってらっしゃいみてらっしゃい。ただ今より語られますは、かの偉大なる古代の賢帝と、その麗しき皇妃の出会いの物語。巷に流れる伝説のあれやこれなんてのは嘘っぱち。これこそ本家本元、あんまり外聞悪いってんで秘された、ほんとのところ。じっくりたっぷり聞いてきな。
いいかい。それじゃあ始めるよ。———まずは、始まりのその前のこと。
空が燃えている。
祥国首都、
皇宮たる瑶樹宮の
日はすでに地平線から顔を出し始め、東の空を
さらに腕も通さず黒の
歳の頃は十代半ばから二十代前半か。
少年から青年への過渡期も終わりに迫り、今まさに成熟せんとする男子である。
やや細面ながら、きりっと引き締まった顔。意志の強そうな眉の下には切れ長の目。
その涼しげな目元を覗き込めば、黒と灰が、水と油を混ぜたように混じり混じらず散った虹彩がみてとれるだろう。精悍な中に僅かな幼さを残した、女人に騒がれていることが想像に難くない容貌である。
と、物憂げに日の出を見つめる青年の脇に、今ひとつの気配が降り立った。
一見、屋根に同化してしまいそうな、漆黒の
「
影が呼ばう。
「なにか」
「ツェイに放った密偵より報告が。西方の獣に動きがございました」
「詳細を」
「主要十氏族のうち、カクン族、ギャロ族、テーラウ族の若年層にて謀反の兆しがあります。最も緊迫しているのがカクン族。現族長の孫フージンを軸に既に全体の半数を取り込みました。三氏族以外は、今は様子見のようですが、先の戦の記憶があるものはもはや族長含め、年嵩の一部のみ。どの氏族も長年、先帝が強権的に抑えつけて来たこともあって、潜在的な鬱憤は貯まっています。此度のカクン族の革命が成れば堰を切った様に
「……西には
「はい。
返答を聞いた、主人と呼ばれた青年は、寝衣の内に縫い付けてある袋より、手の平大の竹紙と小ぶりの毛筆を取り出すと、毛筆の先を口に含んでから紙にさらさらと何やら書き付けていく。墨の一滴もついてない毛筆の走った跡は、当然なんの文字も形作っていない。
しかし青年はそんなことを気にする素振りもなく、一通り腕を動かし、最後まで白紙のままのそれを小さく折り畳むと、額に当てて目を閉じた。
待つことしばし。
手中の紙片が明滅する燐光をまとったのを確認すると、青年はそれを影に向けて放り投げた。
「速やかに西に赴き、それを周明に渡せと鄭嘉に」
「畏まりました」
捧げ持った紙片を懐へ入れる影に、青年は首だけ振り返った。
先程は黒灰の入り交じった
「それだけか。何か意見は?お前のことだから私の手の動きくらい読んだだろう」
「ございません」
青年は顔を戻すと、つまらなそうに鼻を鳴らす。
「お前はいつもそればかりだ。まあいい。他には」
「江北省は常州に続き、
「省統がすげ替えられた時から見えていた流れだが、相変わらず機と見ると行動が早いな」
青年は無感動に呟くと、未だ言うことがある、という顔をしている影に視線で続きを促す。
「
「構わない。何度も言うが地仙達の差配はお前に任せている。少々予期していたものよりも早かったが、水害についての方策は既にある。明日からでも根回しをさせよう。……して、天炉は息災か?」
「はい、主人様のお蔭をもちまして。近頃は夢を視ても、身体の不調を訴えることがなくなったようでございます」
「そうか。なによりだ。長の眠りについているのは分かっていたが、このところ、顔を見ていなかったからな。分かっていると思うが、天炉は今後の計画の遂行に欠かせぬ者だ。何かあればすぐに
「はっ」
「そういえば、先日、
「主人、卑小な
「
気付けば、太陽はもうすっかりと空にその全貌を現していた。
長ったらしい口上を
よくよく目を凝らせば、薄ぼんやりとした影が屋根の上を飛ぶように高速で移動しているのが辛うじて分かるだろうか。
直裰や直身といった、腰ほどまで上衣に切れ目の入った装束に比べれば、直裾は格段に動き難い。
香扇のその身のこなしは、正に神業と評するに相応しいものであったが、唯一その場に居た青年は、最早見慣れたそんなものに興味はなく、立ち上がった拍子に体からずり落ちた
お耳に入れるべきか迷ったのですが、と前置きをした上で香扇が告げたのは、ほんの一言。
『
内容も告げないということは、すぐに、まともに自分の耳にも入る程度には広まっているということ。そして緊急性はなく、予断が生じる情報はないほうがよいと香扇は判断している。
上は国家転覆から、下は隣りの者の夕飯の献立まで、ここ瑶樹宮に集いし文武百官の間に飛び交う流言なんてものは、本来ならば一々取り上げて、気かけるものではない。
けれど、その一つをあえて、あの《・・》香扇が拾い上げ、今こうして自分が知ったことはきっと偶然ではない。何かがあるのだ。
三代に渡って我が国に仕え、皇朝の棟梁たる臣、
近頃とみに力をつけ、いよいよその権勢が揺るがし難くなった宰相、
真っ白な髭を蓄えた好好爺然としたの
何かが変わっていく予感を漠然と覚えながら、青年は、その時、昏君はどうするのだろうかと、胸の内で一人つぶやいた。
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