ショートショート「ホワイトバランス」
「落ち着いて聞いてください」
医者は重々しい口調でいった
「あなたは、結膜炎です」
いつもの夕食。
目がかゆい、と申し出たら、母が卒倒した。
顔面蒼白の父が病院に電話をかけ、真っ黒な救急車がきた。
挙げ句ぶち込まれた集中治療室で、私はこうして医者と対峙している。
「結膜炎、ですか」
「眼の病気です。眼を覆う膜が充血してかゆみを生じます」
「その、結膜炎、ってのは、不治の病なんですか」
「いえいえ!決してそんなことは!点眼薬と休養で治療できます」
医者はぐっと声を落として続けた。
「ただ、メガネをはずす必要があるんですよ」
なるほど。確かに一大事だ。
私は無意識に、メガネのフレームに触っていた。
たとえば、今日の予定。
たとえば、教科書とノート。
たとえば私から医者の顔までの距離(1m53センチ)。
メガネは、様々な情報を視覚に表示してくれる。
さらに重宝されているのが、視覚の変容だ。
メガネに映る映像は、ある程度、好きなように修正できる。
眼を大きく、とか。髪の毛を黒く、とか。
ただ、今のところ、特定の人を完全に消去することはできない。
交通法とかいろいろの兼ね合いらしいけど。いずれ撤廃されるだろう。
「結膜炎というのは、感染力の強い病気でしてね」
医者は淡々と説明を続ける。
「放っておくと、二次感染でメガネを使えない人が増えてしまいます」
だから父は、あんなに怯えていたのか?
「ですから、発見し次第、こうして隔離している、という訳です」
「私はどうなるんでしょうか」
「このまま入院していただきます。最低でも一週間はかかります。学校は休むように。なお治療中は面会謝絶です。ご理解ください」
無茶苦茶な要求だ。それでも、そこまで腹がたたない。
医者の表情を、私一押しの若手俳優に置き換えているからだ。
これも、メガネなしではできないライフハックだ。
病院での一週間は、極めて退屈かつ平穏に過ぎていった。
壁も天井も真っ白で窓もない。極めて気が滅入る部屋。
唯一の娯楽は読書。紙の本に触れるなんて実に久し振りで、ちょっと興奮してしまったけれど、すぐに慣れてしまった。
回診にくる医者は宇宙服のごとき重装備だった。
二次感染リスクの徹底排除、と、フルスモークの防護ガラス越しに言っていた。
やがて、目の充血が消えたと言われ、私は退院した。
友達と実家がそれぞれ、軽い快気祝いをしてくれた後。
眠りにつく前にふと、私はメガネに触れてみた。
いま、メガネを外したら、どうなるんだろう。
これまで考えたことも無かった。口を思い切り開け続けるとか、くるぶしをなで続ける、みたいな、する必要もやる意味もないことだったから。
でも、やるとしたら今だった。
18歳になればみんな視覚アップデートを受ける。メガネの機能を丸ごと脳内に埋め込む手術だ。その前に。
私は目をつぶり、思い切ってメガネを外した。
そして、ゆっくりと眼をあけた。
壁も床も天井も、すべてが真っ白だった。
病室?戻ってきたのか?私の部屋にいたのに。
小学校から使っている机があるべき場所に、白い箱が置かれている。
怖々と撫でる。覚えのある感触。小学生のときつけた彫刻刀の傷だ。
これは、机だ。
私はずっと、メガネが投影する映像の中で暮らしていたんだ。
「どうしたんだ!悲鳴が聞こえたぞ」
「なにがあったの!」
父母の慌てた声と乱暴なノック。
私は泣きながら床を這い、真っ白なドアをなんとかこじ開けた。
「ねえ、これ、どういう」
ことなの、とは言えなかった。
戸口にいたのは人形だった。
輪郭とサイズだけを模倣しただけの、番の人型だった。
その口元に埋め込まれたスピーカーから、両親の声が流れた。
「メガネを外したのか、おまえ」
「メガネを外したのね、あなた」
逃げなければ。
真っ白なカーテンを開き、真っ白な窓枠に足をかけ、裸足のまま庭に飛び降りた。感触は芝生なのに地面は真っ白だった。
対象が逃げるぞ、と、父の声が叫んだ。
私は咆哮しながら駆けだした。
道も街も空も真っ白だった。
どこまでもどこまでもどこまでも、真っ白だった。
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