ショートショート「フェイスレス」
「あれは、夏の蒸し暑い晩でした。
アルバイトから帰宅していた僕は、路上にうずくまる女性を見かけました。
随分と具合が悪そうだったし、思わず声をかけてしまったんです。
『すみません、どうしたんですか?』って。
すると、女性はゆっくりと立ち上がり、僕に顔を見せました。
その顔は、そ、その顔は、目も鼻も口もない、ノッペラボウだったんです!」
私は暗澹たる気持ちになる。
ここからの展開を、全て知っているからだ。
「僕は悲鳴を上げて逃げ出し、近くにあった蕎麦屋に駆け込みました。
あんまり酷い様子だったのでしょう。
店主は驚いた顔で、僕に何かあったのか尋ねてきました。
僕はなんとか呼吸を整え、路肩で出会った化け物のことを話したんです。
店主は黙って話を聞き終えると、僕に言いました。
『お客さん――その化け物ってのは、こんな顔でしたか』
その顔は、ああ、あの化け物と同じ、ノッペラボウだったのです!」
やかましい。大仰に声を張り上げるな。
「僕は再び全力で逃げ、半死半生の体で我が家に駆け込みました。
玄関に飛び込んだ僕を迎えたのは、母の怒鳴り声でした。
仕事は見つかったか、だの、また近所の物笑いの種になる、だの。
何をしていたか説明するよう強要されたので、僕はありのままを話しました。
一言一句を詰り続けていた母は、突然静かになり、ぽつりと一言呟きました。
『おまえ、その化け物ってのは、こんな顔だったかい』
母は、ノッペラボウになっていました。僕はとうとう、気を失いました」
何もかも知っている。
この男の話し声も身振り手振りも、何もかもがおぞましい。
両腕を縛られていなければ、今すぐヘッドホンをかなぐり捨てている。
「目が覚めたら、朝になっていました。
母は相変わらずノッペラボウのままで、黙って座っていました。
そりゃそうです。口がないんだから。
罵声で人格を否定されない朝は久しぶりでした。
その晩、僕は大手を振って外出しました。
顔のない母は相変わらず、じっとしていました」
この男の母親は、現在、我々が保護している。
発見当初からほとんど動かず、生命機能だけが活動している状態だ。
もっとも、その後の息子の蛮行を、見聞きせず済んだのは幸いだった。
「道を歩いていると、千鳥足の中年男性が歩いてきました。
僕は金を払って、彼に話を聞かせました。女のこと、蕎麦屋のこと、母のこと。
中年男はいちいち野次を飛ばし、僕を小突き、最後に笑いながら言いました。
『バカみてえな話だな、おい!その化け物ってのは、こんな顔だったのかい』
ノッペラボウになった中年男を目の当たりにして、僕は震えました。
恐怖ではなく、歓喜で震えたのです。
僕は、恐怖体験を話すことで、他人の顔を消滅させる能力を得たのです」
「何が能力だ、くそったれ」
話し続ける男に、私は悪態をついた。
椅子に拘束され、身動きは取れないが、口はふさがれていない。
男はニヤリと笑い、手にしたマイクにふたたび言葉を吹き込む。
私にかぶせられたヘッドホンから、男の自白が延々と流れ込んでくる。
「――そうやって十人目の顔を奪ったあたりから、困ったことが起こりました。
話が長くなりすぎてしまったのです。
最初のノッペラボウにあったところから話さないと、顔を奪えませんから」
「――とてもきれいな女が、十八番目に話を聞いてくれました。
刃物で脅し、路肩に連れ込んで、話を聞かせました。
彼女は震える声で僕に尋ね返し、きれいな顔はノッペラボウになりました」
「――二十六人目の元の顔は知りません。
大手家電メーカーの、カスタマーセンターの社員です。
僕を頭の可哀想なクレーマーだと勘違いして、延々と話を聞いてくれました。
電話口から他のオペレーターの絶叫が聞こえてきたので、とても満足しました」
「――三十四人目と三十五人目は母娘でした。
まず母親を縛りあげて口を塞ぎ、その眼前で娘をノッペラボウにしました。
そして、これから自分に何が起こるのか悟った母親に話を聞かせました。
母親は僕を呪い、喚き散らし、最後は泣きながら許しを乞うていました。
そして明け方、娘の話を聞かされてノッペラボウになりました。
とても、とても楽しかったです」
もはや怪談ではない。狂人の自白だ。自白が、私を追い詰めているのだ。
妻と子を化け物にされた夫は、精神を病んで入院している。
被害者はみな、言葉を発せず、物を見ることも、涙を流すこともできない。
捜査は遅々として進まず、警察の名声は地に落ちた。そして、犠牲者は増え続けた。
男は自白をやめない。目を輝かせながら、自らの犯行を誇らしげに語り続ける。
「――というわけで、六十二人目の犠牲者までお話しました!
刑事さんが化け物にトランスフォームするまで、いよいよ残り三名です!
なあ、今のうちに泣いたり笑ったりしとけよ。
これから一切の表情を作れなくなるんだからさぁ」
憤怒を押し殺し、私はできるだけ静かに切り出した。
「……すぐに応援が来る。もう逃げられない。悪あがきはやめろ」
「その前にてめえもノッペラボウにしてやるよ。
残り恐怖体験、あと三人な。これは全部、オマエと同じ間抜けな、けーかん☆」
「……きっと、こんなはずじゃなかった、って悲しんでいたんだ。
自ら出頭してきてな、警察の待合室で顔を覆って。痛々しい姿だったなあ……」
「何の話をしてんだオッサン!?」
マイクで額を殴られた。
そのまま連続で殴打され、さらに椅子を蹴り倒される。
身体中を走る痛み。だが、結果として、男と私の間の距離が広がった。
唇が切れ、血の味がした。それでも私は話すのをやめない。
「だから――随分と具合が悪そうだったし、声をかけたんだよ。
『すみません、どうしたんですか』ってな」
男が驚愕に目を見開き、私の首を締めようと手を伸ばす。
だが、もう遅い。
「女はゆっくりと立ち上がり、私に顔を見せた。その顔は」
躊躇いはなかった。
「目も鼻も口もない、ノッペラボウだったんだ」
一瞬の静寂が、永遠のように感じた。
私の首にかけられた手が、ゆっくりと降ろされた。
「……その女は、こんな顔でしたか」
「ああ」
先ほどまでの饒舌が嘘のように、沈黙しているノッペラボウ。
私は倒れ伏したまま、化け物を見上げていた。
あまりにも、何の感慨も沸かない。
「悪く思うなよ……警察の総意なんだ」
守り通した表情筋を動かす。
口の端に皮肉な笑みを浮かべてみた。
「これ以上、顔を潰されてたまるかってな」
増援のサイレンが、遠くで聞こえた。
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