第8話 贈る言花
夜が完全に明ける前の、薄暗い寝室。そのベッドの横にあるパソコンの前で男は真剣な表情で画面を見詰めていた。右手はマウスを握ったまま。左手には本を持っている。
男は時折マウスから右手を離し、代わりにペンを持った。黒いインクで、液晶画面の光に照らされているメモ帳に何事かをさらさらと書き記していく。
徹夜作業だったのだろうか。大きな欠伸が出た。
二度三度と欠伸を噛み殺しながら、男はメモ紙にペンを走らせ続ける。やがて、紙の三分の二程度が文字で埋まったところで手を止めた。
何度かメモを見直し、「よし」と呟く。そして、車のキーを手に、立ち上がった。
# # #
『地域初の大型ショッピングモールのオープンに居合わせようと、早くも多くの人が列を作っています。それでは、開店前のお店をちょっとだけ覗いてみましょう』
バックヤードに置かれたテレビから、リポーターのウキウキとした声が聞こえてくる。今日は平日だというのに、朝からショッピングモールに並ぶ人間が大勢いるらしい。
「そりゃ、サービス業だと平日休みの人の方が多いだろうし、本当に行きたいから休みを取る人だっているでしょ。あとはほら、和樹君みたいに講義の無い曜日がある学生なんか、近所に大型ショッピングモールができた、なんて言われたら行くでしょ、大半は」
「俺、今こうしてバイトに来てますけど、急遽休みにして学生らしくここ行ってきて良いですか?」
少しだけ膨れたような顔で、花に水をやりながら和樹が言った。すると、バックヤードで書類の整理をしていた乾が「ご冗談を」とおどけた様子で笑う。
「シフトに入る事を了解してくれたからには、入ってもらわないと。まぁ、今回はショッピングモールのオープンと、講義の無い日が被った事に気付かなかった和樹君自身を恨んでください、という事で」
「ちぇーっ」
苦笑しながら、水をやり終えた和樹はジョウロを用具入れに片付ける。乾も笑いながら書類をトントンと整え、棚に仕舞った。何だかんだと言いつつ乾もオープンしたてのショッピングモールが気になるのか、テレビの電源は入れたままだ。
時間は十時を少し過ぎたところ。開店したばかりのフェンネルには、窓から陽の光がさんさんと降り注いでいる。
カランコロン、と、ドアのベルが鳴った。本日最初の客の到来に、和樹と乾ははっと振り向く。そして、にっこりと笑った。
「いらっしゃいませー……」
そして、その笑顔はすぐに凍り付いた。
「何だい、その顔は。折角朝早くから客が来たってのに、失礼なんじゃないのかい?」
朝一番の客は、佐倉だった。
佐倉はな……フェンネルの常連にして、難問を持ってくる事で恐れられている年配の女性である。
「い、いえ……決してそんな……その、佐倉様、本日はどのような花をお求めでしょうか?」
しどろもどろになりながら接客を始める乾に、佐倉は「ふん!」と鼻を鳴らした。
「悪いけど、今日用事があるのは私じゃないよ。……そこのあんた!」
佐倉に指を指され、和樹はびくりと震えあがった。
「は、はい。何でしょうか?」
「あんた、たしか頓知がきくんだったね」
以前和樹は、佐倉の求めた無理難題に近い要望に、半ば強引な解釈を付けて何とか応えた事がある。その時の事を言っているのだろう。
「いや、頓知がきくかと言われたら、まったくきかないタイプではないと思いますけど、ご期待に添えるほど頭が回るかと言われますと、その、何と言いますか……」
「ごちゃごちゃと煩いねぇ。良いから、この子の相談に乗って欲しいんだよ」
そう言って、佐倉は店の中にずんずんと入ってくる。その後ろに、四十前後の女性が続いた。
「えっと……?」
「室井露子といいます。いつも、母がご迷惑をおかけしているようで申し訳ありません」
「娘さんですか!?」
乾が素っ頓狂な声をあげると、佐倉がじろりと彼を睨み付けた。
「何だい。私に娘がいたらおかしいってのかい?」
「い、いえ……そういうわけじゃ……」
佐倉に娘がいた事はそれほどおかしくないが、娘も佐倉と同じようなキャラだったら……という事を懸念しているのだろう。しかし、それを言ったところで失礼な事にかわりはない。
「いいから、さっさと話を進めとくれ。露子、この若造にさっきの紙、見せてやんな」
「はいはい」
溜め息を吐きながら頷くと、佐倉の娘――室井は、ハンドバッグの中から一枚の紙切れを取り出した。小さな紙だ。一辺が破り取られたようになっている。恐らく、メモ帳か何かから破り取った紙なのだろう。
室井から差し出されたそれを、和樹は流れに逆らえず受け取った。半分に折られていた紙を広げ、中を見る。
ツユクサ たくさん
アルストロメリア 四輪
イチゴ 一輪
ウツボグサ 八輪
ガーデンダリア・ミッドナイトムーン 六輪
ツキミソウ 二輪
トチノキ 七輪
モンツキヒナゲシ 三輪
リュウキンカ 五輪
カキツバタの絵が描かれたメッセージカード
「……何ですか、これ……」
紙から目を放し、和樹は眉根を寄せて室井に問うた。後ろから覗いていた乾も、怪訝な顔をしている。
植物の名の羅列。丁寧な文字で、横書きに書かれている。真っ白な紙なのに、方眼紙にでも書いたかのように文字が綺麗に揃っているのが驚きだ。
カキツバタの絵が描かれたメッセージカード、という言葉だけ、一行分空けて書かれているのが気にかかる。
一見花屋の買い物メモだが、それにしたって少々妙である。
「夫が出掛ける時に忘れていったみたいなんですよ。……変ですよね。花の関連性が見当たりませんし、トチノキなんて木だし……」
そう……一見植物の名が並んでいて、花屋で何を買うか記した物に見える。……が、たしかに花は咲くが花というよりは木のイメージが強い物、果物のイメージが強い物もあり、違和感がある。サイズがまちまち過ぎて、花束にするのも難しそうだ。
「あの……旦那さんは、何故こんなメモを? どこに行かれる際に忘れていかれたんですか……?」
「知りませんよ!」
室井が、急に声を荒げた。そのあまりの落ち着きの失いっぷりに、和樹と乾は揃ってびくりと体を強張らせる。二人の様子に、室井は「すみません……」と肩をすくめた。
「今朝、六時に私が起きた時にはもう出掛けた後だったんです。それで、玄関にこれが落ちていて……」
六時に既に家を出ていたとなると、やや早いように思える。だが、仕事の都合で早くでなければならない日もあるだろう。今日は平日なのだから、可能性は高い。
なら、このメモの意味を仕事から帰った旦那さんに訊けば良いではないか。もし仕事で必要な物かもしれないと思うのなら、すぐにメールなり電話なりしてみた方が良い。
そう、乾が言うと、室井は激しく首を振った。どこか苛立たしげだ。
「今日は、有休を取ってたんですよ。てっきり、結婚記念日だから休みを取ってくれたんだと思っていたのに……!」
どうやら、乾は非常にまずい事を問うてしまったようである。
「えぇっと……俺にはまだわかりませんけど、結婚記念日に一緒に過ごしてくれないのって、やっぱり嫌なもの……なんですかね……?」
言った途端、和樹は室井に睨まれた。佐倉もどこか呆れた顔をしつつ、和樹の事を睨んでいる。
「旦那が結婚記念日に、仕事でもないのに自分の事を放っておく。それだけならまだ良いですよ。問題は、どこに行ったのか、です!」
そう言って、室井は和樹が手にしているメモを指差した。
「どう見ても花屋に花束を買いに行くメモじゃないですか! 車に乗って出掛けてまで買うなんて、誰に贈る花束なんだか……」
ここまで言われて、和樹はやっと、室井が何を言いたいのか察した。どうやら彼女は、旦那の浮気を疑っているようである。
「いや、それでしたら……結婚記念日に、室井さんに贈る為の花束と考えるのが普通では……」
「結婚して十八年! 今まで結婚記念日を祝ってくれた事なんて無いんですよ! それが今年は有休を取ったって言うから、どういう風の吹き回しかと思っていたのに!」
段々ヒートアップしていく室井を宥めつつ、和樹は改めてメモを見た。
花の名前に統一性は無い。指定された数も、花束のバランスを考えて決めたとは考えにくい。……というか、この場合のイチゴとは白い花の事で良いんだろうか。食用の部分の方が可愛いとか考えていないだろうか。大体、ツユクサをたくさん、とはどういう事なのだろうか。
「数……数か……」
ふと、何かが頭を過ぎったのだろう。和樹がぽつりと呟いた。その様子に、乾が「おっ」と興味深げな顔をする。
「その様子だと、スイッチが入ったみたいだね? ひょっとして、もう答がわかりかけてたりする?」
問われれば、和樹は難しそうに「うーん」と唸った。
「わかりかけた……というか、多分わかった……と思うんですが……」
「わかったんですか? もう!?」
「でも……〝が〟?」
佐倉と室井が同時に目を見開き、それに続いて乾が怪訝そうな顔をする。乾は、和樹の歯切れの悪さが気になるようだ。
「パッと見はわかりやすい暗号になってるんですよ。けど、何て言いますか……それだけじゃなさそうと言うか、これだけでは物足りない感じがすると言うか……」
どうにも煮え切らない。そして、その物足りない部分が埋まらない限り、和樹は現時点で解けている暗号の答えも教えてくれそうにない。発表する時は全部まとめて、というのが和樹なりのこだわりらしい。
ならば、自分が解いてみせようと乾もメモを見て考え込む。だが、悲しいかな、和樹が解けたらしい最初の段階にすらたどり着けない。
男二人で唸っていると、それをかき消すようにカランコロンとドアベルが軽快な音を立てた。
「いらっしゃいま……あれ?」
音に振り向いた和樹が、首を傾げる。出入り口には、和樹と同じ大学、同じゼミで学ぶ三宅友美が立っていた。
「三宅さん? 今日は講義がある日じゃなかったっけ?」
和樹は全く講義が無い日だが、三宅は教養の講義を入れていたはずだと、和樹は言う。三宅はまず乾に挨拶を済ますと、和樹の記憶を肯定するように頷いた。
「教授の急用で、休講になったのよ。それよりも……間島君?」
少しだけ困惑した顔で、三宅はバッグから一冊の本を取り出した。掲げて見せたその表紙から、それが花の図鑑だとわかる。
「同じ講義を取ってる子から、間島君に返しておいて、って頼まれたんだけど……」
その女子学生は、和樹や三宅とは違うゼミだ。しかし、今日の講義とはまた別の講義で、和樹と一緒になるらしい。
「……何で花の図鑑?」
大学生が貸し借りする本のイメージではない。乾が首を傾げると、和樹はたはは……と苦笑して見せた。
「講義が始まる前に、女子が花言葉の話題で盛り上がっていまして……。それで、色々な花言葉も載っている花の図鑑を持っている、ってアピールしてみたんですが……「じゃあ貸して」で終了しました」
「……相変わらずだね……」
呆れた顔で乾が言えば、三宅はため息を吐きながら図鑑の背表紙で軽く和樹の頭を小突いてくる。
「……これ、前にうちの店で買ってくれた図鑑よね? 買った人の自由とは言え、自分が売った本が下手なナンパの道具に使われたって思うと複雑だから、こういうの、やめてくれる?」
「あ、はい……すみません……」
思わず敬語になって縮こまる和樹に、三宅は再度ため息を吐いた。それからふと視線を上げ、「あっ」と声を上げる。
「接客中だったんですか? 済みません、割り込んじゃって……」
三宅が慌てて佐倉達に頭を下げた。特に機嫌を悪くした様子も無く、佐倉は「構わないよ」と言った。
「この男どもの頓知を試しに来たようなもんだしね。それに、行き詰まってたんだ。あんたが来て喋って、良い息抜きになっただろ」
「頓知?」
首を傾げた三宅に、皆で交互に事態を語って聞かせる。佐倉や室井にしてみれば、考えてくれる人間が一人でも増えて欲しいといったところなのだろう。
女性三人が話しているうちに、和樹は三宅から返された花図鑑をパラパラとめくった。ひょっとしたら、何かヒントが見つかるかもしれない。
そして、その勘は当たっていたのだろうか。突如和樹は、「あっ!」と短く叫んだ。
「なっ……何何何?」
乾が飛び上がるかのような勢いで振り向き、女性三人も和樹に視線を遣る。だが、そんな事は意にも介さず、和樹はもの凄い勢いで図鑑のページをめくり始めた。
図鑑を確認し終わったかと思えば、レジの下に収納している備品の植物図鑑を取り出し、またページをめくりだす。そして、それでも足りなかったのか、最後にはバックヤードの中へと入ってしまった。
乾が中を覗いてみれば、何やらパソコンで検索している。指はもの凄いスピードでキーボードの上を滑り、画面が目まぐるしく切り替わっていく。その傍らで、時折右手でペンを取り、メモ紙に何事かをどんどん書きつけていく。
やがて和樹はペンを止め、メモを片手に立ち上がった。「よし」という短い呟きに、明るい色が見える。
「その様子だと、和樹君……」
期待に満ちた目で乾が名を呼ぶと、和樹はニッと笑い、そして頷いた。
「えぇ、何とかわかりましたよ。俺の推理が間違っていなければ、ですけど……室井さんの旦那さん、随分思い切った花束を作ろうとしていたみたいですね」
言いながら、和樹はバックヤードを後にする。和樹の言葉の意味を考え、そしてわからなかったのか、乾が首を傾げながらそれに続いた。
# # #
「あのメモの意味がわかったんですか!?」
室井が目を丸くして叫んだ。見れば、佐倉も微かに目を瞠っている。それに対して、和樹は「えぇ」と頷いた。
「俺の解釈が間違っていなければ、ですが……。とりあえず、旦那さんの浮気を心配する必要はありませんよ」
「余計な事は言わなくて良いから、さっさと答えを言いな」
「間島君、最後の一言はデリカシーが無いんじゃないかしら?」
佐倉と三宅に口々に責められ、和樹は「あ、はい……」と肩をすくめた。そして、気を取り直すと室井が持参したメモを取り出す。
「えっと、ではまず……室井さんが持参された、このメモ。花の名前と、希望する数であろう数字が書かれていますよね?」
全員が頷いたのを確認してから、和樹は言った。
「この数……何となく気になりません? 花に統一性は無く、失礼ですが室井さんの旦那さんに花束作りの知識やセンスがあるようには思えません」
室井が、激しく頷いた。センスが無いのは確実だと思って良さそうだ。
「そんな人が、わざわざ数を指定している。そして、よくよく見てみれば同じ数字は一つとしてありません。……これって、偶然なんですかね?」
その問いかけに、一同は顔を見合わせた。和樹は一つ頷き、「そこで」と言葉を継ぐ。
「考えてみました。この数字は、何を意味するのか。俺は、並び順なんじゃないかな、と感じたんですが、どうですかね?」
「並び順?」
三宅が首を傾げると、和樹は「そう」と口元をゆるめて見せる。
「花の名前を、この数字の少ない順、もしくは多い順に並べ替えてみると、どうだろう? ……あぁ、カキツバタは花ではなくて文具か雑貨扱いみたいですから、並べ替えには参加させないでおきますね」
そう言って、和樹は自分のメモ帳を取り出し、あるページを開いて見せた。先ほど、バックヤードで書いていた物だ。
イチゴ 一輪
ツキミソウ 二輪
モンツキヒナゲシ 三輪
アルストロメリア 四輪
リュウキンカ 五輪
ガーデンダリア・ミッドナイトムーン 六輪
トチノキ 七輪
ウツボグサ 八輪
ツユクサ たくさん
カキツバタの絵が描かれたメッセージカード
「……並べ替えてみて……これで、何がわかるんですか?」
数が少ない物から順に並べ替えられたメモを見ても、和樹以外はまだピンとこないのか、首を傾げている。
「じゃあ、ヒントで。皆さん、伊勢物語を読んだ事は?」
その問いに、全員が顔を見合わせ、そして頷いた。古典の教科書に載っている事の多い作品であるし、流石に知名度は高い。年配の佐倉も、読んだ事があると答えた。
すると、和樹は「うん」と頷き、そして言う。
「じゃあ、かきつばた、って言われて、何の事か覚えてますか? このメモにも、カキツバタって言葉が出てきますけど……」
問われて、三宅と佐倉が「勿論」という顔をした。そして、ハッとした顔をする。
乾と室井は、少々怪しいかもしれない。そこで、和樹は簡単に説明をする事にした。
「えぇっと、伊勢物語というのは平安時代初期に書かれた歌物語で、色々な歌と、それに関するエピソードが全百二十五段からなっています。……だったよね?」
和樹に確認され、三宅が頷いた。文学ゼミの仲間同士、ここは話が通じやすい。
「その中に、から衣、という段がありまして。そこでのエピソードでは「かきつばた」の五文字を句の上に据えて和歌を詠め、というシーンが出てくるんですよ。そこで詠まれた歌が、こんな歌なんです」
から衣、きつつなれにし、つましあれば、はるばるきぬる、たびをしぞ思ふ
丁寧に読点を振りながら、和樹は和歌をメモ帳に書き記していく。それを見た乾が「あっ」と声を上げた。
「か、き、つ、は、た……すごい! 五七五七七の頭文字を抜き出すと、かきつばた、って読めるようになってる!」
「そんなに驚いて……古典の授業を、ちゃんと聞いていたのかい?」
佐倉に呆れた顔で言われ、乾はバツが悪そうな顔をして肩を竦めた。そして、その横では……室井が、目を丸くしている。
和樹が、ニヤリと笑った。
「もうお解りですね? そう、これもかきつばたの歌と同じですよ。最近だと、インターネットとかで縦読みって遊び方をする人もいるのかな? こうして、数が少ない順に並べ替えた後、その頭文字だけを抜き出すと……」
イツモアリガトウ
乾と佐倉が、「ほう」と感嘆の声を発した。三宅は、どこか期待に満ちた眼差しで室井の事を見ている。
その視線に気付いたのか、室井が少々頬を染めた。そして、染めながらも反論する。
「けっ……けど、最後のこのツユクサは? これも加えたら、イツモアリガトウツになってしまいますよ? まさか、小さい「つ」じゃありませんよね? 最後を飛び跳ねるように読むとか、そんな子どもじゃあるまいし……」
「あ、その発想はありませんでした」
苦笑し、和樹は首を横に振った。
「最後のツユクサだけは、特別ですよ。数字じゃなくて、たくさん、って書いてありますよね? これは、ツユクサがこの「イツモアリガトウ」からは独立している事を示しています。更に言うなら、このツユクサに限って言えば、文頭に持ってきても文末に持ってきても、どちらでも構いません」
そこで一旦言葉を切り、確認するように室井の顔を覗きこんだ。
「室井さんの下のお名前……露子さん、でしたよね?」
「!」
どうやら、通じたらしい。そう、このツユクサだけは、頭文字ではなく、その花の名前自体が意味を持っている。
イツモアリガトウ、ツユコ
こんなところだろうか。
「旦那さん、この花束を室井さんに渡して、感謝の気持ちを贈るつもりだったみたいですね。カキツバタのメッセージカードがヒント……のつもりだったのかもしれません」
だからこそ、方眼紙に書いたかのように綺麗に文字が書かれていた。恐らくは暗号を作る際に、旦那さん自身が混乱しないよう、丁寧に書いた結果だろう。
「ん?」
メモ帳を覗き込みながら、乾が首を傾げた。そして、「これだけ?」と和樹に問う。
「さっき図鑑やらパソコンやらで色々調べてたけど、結局何を調べてたの? 和樹君が解読した結果だと、あんまり検索した意味が無かったように思えるんだけど……」
検索したとしても、精々伊勢物語の詳細や、かきつばたの和歌を調べる程度だろう。あれほど検索して図鑑をめくって、メモ帳に文字を綴り続けていたのには違和感がある。
そう言うと、和樹は「あぁ」と事も無げに頷いた。
「三宅さんが来る前に俺、多分わかったけど物足りない感じがする、って言ったじゃないですか」
「あぁ……言ってたね、そう言えば」
佐倉が頷き、和樹は無言のまま頷き返す。
「それで、何が物足りないのか考えていた時に三宅さんが花の図鑑を持ってきてくれて、ピンと来たんです。ひょっとして、花言葉から調べたら面白い事がわかるんじゃないか、って」
「花言葉?」
乾の呟きに、和樹は苦笑しながら三宅の持ってきた花図鑑と、備品の植物図鑑を差し出して見せた。
「色々な本と、インターネットと……調べるのに骨が折れる花も何種かありましたけどね。それでも何とか、全部わかりました。……こんな感じに」
和樹が自分のメモ帳をめくり、びっしりと文字が並んだページを見せた。そこには、贈り先である室井を示すツユクサと、暗号解読のヒントであるカキツバタ以外の花の言葉が記されていた。
イチゴ → 幸福な家庭
ツキミソウ → 素晴らしい魅力
モンツキヒナゲシ → 感謝
アルストロメリア → 幸福な日々
リュウキンカ → 必ず来る幸福
ガーデンダリア・ミッドナイトムーン → 私の心は喜びにあふれている
トチノキ → 安心感
ウツボグサ → 優しく癒す
「えぇっと、これだけでも充分伝わるかとは思いますが、一応俺の拙い文才で翻訳するとこんな感じになります」
『いつもありがとう、露子。君には今でも素晴らしい魅力があって、君といるだけで僕は安心感を得る事ができるし、癒される。君と築いた家庭は幸福で、本当に感謝しているよ』
それだけ口にすると、和樹は照れ臭そうに頬を掻いた。旦那さんがこんなまどろっこしい暗号にしたのも、わかる。これを相手に直接口で言おうと思ったら、かなり恥ずかしい。
「多分旦那さん、すごく苦労して調べたんだと思いますよ。いつもありがとう、の八文字が頭文字になる花で、幸せな花言葉を持つ花が無いかって」
言われた室井は、恥ずかしそうに頬を赤く染めている。言うのもかなり恥ずかしいが、言われるのも相当恥ずかしかったようだ。
そんな娘を呆れたように見ていた佐倉が、不意に「ちょっと」と声を発した。指差す先には、バックヤード。そう言えば、扉を開けたまま出てきてしまったような気がするな、と乾は思った。
バックヤードに置かれたテレビは朝から電源を入れたままで、相変わらず今日オープンしたばかりの大型ショッピングモールの映像が流れている。
『それでは、本日このケーキ屋さんに一番に並んでいた方に話を伺ってみましょう』
そう言って、リポーターが男性客にマイクを向けた。その男性の姿に、室井が素っ頓狂な声をあげる。
「ちょっと、藤也くん!?」
どうやら、この男性は藤也という名であるらしく。そして、恐らく彼こそが、あの暗号を作った室井の旦那さんだ。
『どうでしたか? お目当てのケーキは買えましたか?』
『はい。事前にネットである程度は下調べをしていたんですけど、いざ入ってみたら予想以上に綺麗なケーキが多くて……ついつい買い過ぎちゃいました』
『本当! たくさん買われましたねぇ。ご家族へのお土産になさるんですか?』
『えぇ、偶然今日が結婚記念日なので、妻に綺麗なケーキをあげたくて!』
『わぁっ、素敵な旦那さんですね! ケーキ以外にも、何かプレゼントをご用意されていたりするんですか?』
『はい。この後、花屋に行って花束を……あぁっ!』
『どっ……どうされました!?』
『どの花で花束を作ってもらうか決めてきたのに、メモをどこかで落としてきてしまったみたいで……』
しゅんと項垂れる藤也を、リポーターが苦笑しながら慰めている。その様子を一通り目に納めてから、佐倉が深い溜め息を吐いた。
「何だい、深刻な顔して実家に帰ってきて、大騒ぎしたと思ったら……何の心配も要らないじゃないか。露子、今日の夕飯は、藤也くんの好きな物を作っておやり」
「わ、わかってるわよ、そんな当たり前な事!」
顔を真っ赤にしながら叫び、室井が佐倉に食って掛かった。あの佐倉に食って掛かるとは、流石は実の娘と言ったところか。
室井は和樹と乾に向き直ると、やや神妙な顔をして頭を下げる。
「あの……ありがとうございました。それから、その……もし良ければ、その図鑑……ちょっと貸して頂けますか? あと、できればペンとメモも……」
「これですか? 構いませんけど……」
首を傾げながら和樹がペンとメモ帳、そして二冊の図鑑を渡すと、室井は隅に寄って図鑑をめくり始めた。そして、何事かをメモに記していくと、それを和樹に手渡してきた。
「あの……この花で花束を作って頂きたいんですけど、可能ですか?」
和樹と乾、二人して覗き込んでみれば、差し出されたメモには、九種の花の名前が並んでいる。
ゼラニウム(赤)
ベゴニア(色不問)
アザレア(白)
ヒヤシンス(黄)
ペチュニア(色不問)
ルピナス(色不問)
クチナシ(色不問)
フジ
ツユクサ
「……ははぁ……」
したり顔で唸る乾を、室井がキッと睨んだ。すくみ上りながらも乾は可能であると答え、店内から花を集めてくると手早く綺麗な花束を作り上げた。
金を払って花束を受け取ると、室井は申し訳なさそうな顔で佐倉の事を見る。
「あの、お母さん……」
「私の事は気にしなくても良いよ。さっさと帰って、藤也くんに美味しいご飯を食べさせてあげな」
「……うん……ありがとう」
そう、照れ臭そうな声で告げて。室井は店から出て行った。カランコロン、という軽やかなドアベルの音に送り出された室井の足取りは、心なしか軽そうだ。
室井が帰ったのを確認した瞬間、残された四人は視線を図鑑へと遣る。話の流れを考えれば、室井が花を選んだ基準は花言葉だ。一体どんな花言葉なのだろうか……?
ゼラニウム(赤) → 君ありて幸福
ベゴニア(全般) → 幸福な日々
アザレア(白) → 充足、あなたに愛されて幸せ
ヒヤシンス(黄) → あなたとなら幸せ
ペチュニア(全般) → あなたと一緒なら心がやわらぐ
ルピナス(全般) →いつも幸せ、あなたは私の安らぎ
クチナシ(全般) → とても幸せです
フジとツユクサは、間違いなく藤也と露子、という名を表しているのだろう。つまり、翻訳するならこんなところだ。
『藤也くん、あなたといると心が安らぎます。あなたと一緒で、あなたがいて、私はとても幸せです。 露子』
全員で、くはぁっとため息を吐いた。皆、どこか頬が緩んでいる。
「まったくあの子は……済まないね、騒がせて」
「いえいえ、結果的に随分たくさんお買い上げ頂きましたし……」
佐倉と乾のやり取りを眺めながら、三宅が和樹の横に並び立った。
「室井さん、素敵なご夫婦だったわね」
「そうだね。旦那さんは、ちょっと手抜かりがあったみたいだけど」
まさかこんなにも頑張って作った暗号のメモを、忘れていくだなんて。ついでに言うと、室井はヒントであるカキツバタ……伊勢物語の内容の事をすっかり忘れていたようなので、フェンネルにメモが持ち込まれなかったら、まず藤也が何を言いたいのか伝わらなかった可能性もある。
色々な偶然が重なって、最高の形になったかな。そう言う和樹に、三宅は「そうね」と頷いた。
「けど、例えばの話。三宅さんが奥さんだったら、あんな暗号の花束を作るまでもなく見抜かれそうだよね。鋭いし」
「えっ!?」
突如褒められ、三宅の頬が紅潮した。その様子を、乾と佐倉が興味深そうに見詰めている。
「ちょっ……もう! 変な事言わないでよ!」
照れ隠しなのか、三宅が和樹の背を思い切り叩いた。不意打ち、しかも結構強い力で叩かれたのか、和樹が「うごっ!」と変な声を発する。そして、「強いよ……」と苦笑しながら呟いた。
「三宅さん……女性でも力が強いのは良い事だと思うけど、ほどほどにしとこうよ……。折角、面倒見が良い、文学ゼミの頼れる姐御ってポジションなのに、これじゃあ台無しだよ……?」
その瞬間、三宅の右手が素早く宙を走り、乾いた破裂音を立てた。
「どっちが台無しよ!」
頬を赤く腫らしてぽかんとしている和樹を後に、三宅はさっさと店を出ていってしまう。カランコロンという軽やかなドアベルの音と、「お邪魔しました!」という声が店内に響いた。
「この若造、男ぶりはまぁまぁ良いし、頭も良いがね。発言が迂闊過ぎやしないかい?」
「えぇ、まぁ……ですよね……」
呆れた様子の佐倉に、同じく呆れた様子で乾が返して。そんな二人の、憐れむような視線に気付く事も無く、和樹はしばらくの間、呆然と立ち尽くしていたのだった。
(了)
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