第36話
目の前に起きた事は、真実として受け止める。これが、大学の先生を目指していた私のモットーだった。例え太陽が西から昇っても、地球の自転や蜃気楼などの影響かもしれない、と推測を立て、もし魚が突然空を飛び始めても、新しい住処を求めた進化の証だ、と言う仮説を考えるだろう。例えおとぎ話のような事でも、様々な物理法則にのっとる形で現実に起きてしまう事だってありえるかもしれない。
何かのミスや見間違いでもない限り、実際に起きてしまった物事を否定するのは、現実から目を背けて逃げてしまうのと同じだ、そこまで私は考えていた。
でも私は、その信念を自ら裏切ってしまった。
「……大丈夫か、敦子?」
「……う、うん……」
頭の中に宿らされた『イケメンさん』が今まで経験した記憶の詰め合わせによって、私は彼の名前、住所、そして正体――のようなものを知る事が出来た。いや、知らされてしまった、と言ったほうが良いかもしれない。それはあまりにも私の予想を超えたものであり、あまりに常識を逸脱したものだったからだ。
彼の体に支えられ、再びいつものベンチに戻った私だけれど、心配してくれる声にどのように返せばよいか、私には分からなかった。『イケメンさん』の言葉を信用しない、嘘をついていると疑ってしまう事なんて、私には到底出来ない事だ。でも、今回ばかりは、その記憶の中に刻まれていた光景を、私は真実として受け止める事が出来なかったのである。
それでも、ここでじっと黙り込んでしまっては話も続かないし、真相を確かめる事もできない。緊張と不安、そして悲しさを抑えながら、私はなんとか言葉を発する事ができた。
「……あ、あの……これって……」
「……仕方ないさ、怖いよな。未知のものに出会うと……」
ただ、そんな私の心は、既に『イケメンさん』――いや、私の学校の飼育小屋に住んでいるはずの『ブタさん』に読まれてしまっていた。未知のものに触れる、自分の常識を超えた存在と遭遇する事がどんなに恐ろしい事か、と彼は私に優しく言ってくれた。
でも、その上で彼ははっきりと告げた。あの記憶は、全て『真実』だ、と。
「……あの藁も……」
「ふかふかだっただろ……?」
「……あの野菜も……」
「美味しかったぜ……」
「じゃ、じゃぁ……」
今までずっと、私がブタさんに語ってきた全ての事を、イケメンさんは覚えていた。ううん、この状況だと『覚えてくれていた』と言ったほうが良いかもしれない。私が覚えていなかった嬉しい事も、悲しい事も、そして飼育小屋で起きたあの日の出来事も、何もかも把握していたからだ。
何度かの言葉のやり取りの末、ようやく私はこの真実を受け入れ始めた。あれだけ親身になって私に付き添ってくれたのも、些細な事でもしっかりアドバイスをしてくれたのも、全てはイケメンさんの正体が、あのブタさんだったからなのだ、と。それ以外に解釈できる方法は、私の頭には無かった。
「あ、あの……ぶ、ブタ……さん?」
そして、私は初めてイケメンさんの『本名』を呼んだ。
照れくさい気持ちや恥ずかしい気持ちもあったけれど、やはりその名前で呼ぶとどこか慣れず、他人行儀になってしまいそうになってしまう。それでも、イケメンさん――ううん、ブタさんは顔を赤くしてしまった私を優しく見つめてくれた。あまり気遣う事はない、今までどおりでも自分は全然大丈夫だ、と。
でも、その『今まで』と言うのが、今日を持って終わりを告げるであろう事を、私は薄々と感じ始めていた。これまでのように、勘の鈍かった私にブタさんが直接言わなくても、今回ばかりは。
「……聞きたい事が……あるんですけど……」
今までの日常を終焉に導いたのは、イケメンさんが自らの正体、そして本当の名前を私に告白した事がきっかけとなった。では、どうして今までずっとイケメンさんは、飼育小屋のブタさんから姿を変えて、私をずっと支えてきてくれたのだろうか。頭に浮かんだ疑問を、しどろもどろになりながらも私ははっきりとした言葉でイケメンさんに投げかけた。
「……あ、あの、別に、どうして人間に変身できたのかみたいな科学的なことじゃなくて……」
「心配すんなよ、ちゃんと質問の内容は伝わったからさ」
相変わらず、イケメンさん――ブタさんは優しく、そして儚げな顔を私に見せ続けていた。
そして、その綺麗な唇から出たのは、私にとって思いもよらない言葉だった。
ブタさんがイケメンさんになり、こうやって私の元に現れたのは、命の恩人への『恩返し』だ、と。
でも、私の口から出たのは、イケメンさんの言葉を真っ向から否定してしまうものだった。
私はそんな事なんて、一度もしたことが無い、と。
私がイケメンさんの命を救った?そんな事は有り得ない。むしろ私の方が、いつもイケメンさんに助けてもらってばかりだった。生物を研究したいという夢を見つけることが出来たのもイケメンさんのお陰だし、学校で耐えられないほど酷い目に遭った時も、イケメンさんは真剣に話を聞いてくれた。普段の日常会話でも様々なアイデアを私に与えてくれたし、誤った道に進もうとしたときにはたしなめてくれた。そして、『ブタさん』として、学校でいつも私の話を聞いてくれた。嬉しい事も、悲しい事も、その円らな瞳で受け止めてくれた。
今こうやって私がいる一番の要因は、イケメンさん=ブタさんだ。それなのに、いつも世話になりっぱなしの私が、どうしてこのような不思議な出来事を起こすほどの『恩』を作ったのだろうか。信じられないし、有り得ない。
絶対に私は違う、そんな人じゃない。
必死に否定し続ける私が、涙が出かけるほどムキになっていた事を教えてくれたのは、イケメンさんの暖かい掌の感触だった。何かが大きく変わろうとしているのを受け入れ切れないと言う私の心を、イケメンさんは和らげてくれたのだ。
「……そうだよな、敦子は知らなくて当然だ」
「……え?」
「でも、これだけははっきり言える。
今こうやって俺が生きていられるのは、敦子のおかげだ、ってな」
そして、イケメンさんは語り始めた。彼と私が、今のような関係を持つ、ずっと前に起きた出来事を……。
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