第3章 イケメンさんとテスト・前

第10話

「じゃ、行ってきます」

「いってらっしゃい。気をつけてね」


 制服を身に着けた私は、お母さんに見送られながら家を出て、学校へと歩き始めた。


 数日前までの私は、この道を進むのがとても嫌だった。どうせ目的地に着いたとしても、そこで待っているのは『ブタ子』を待ちわびていたかのような様々な『おもてなし』しかない。図書館に行っても目に付くのは自分が同類扱いされる様々な動物の本ばかり、そして飼育小屋などもっての外だった。それでも、勉強のため、将来の夢のためには絶対に学校に行かなければならない。悲壮な想いを胸に通い続けていた私は、きっと内側だけではなく外側もボロボロだったに違いない。


 でも、あの日のイケメンさんとの会話を境に、私の心は少しづつ変わり始めた。


「あ、もうここのお花、咲いてるんだ……」


 心に少しでも余裕を持つと、周りの様子もしっかりと見回すことが可能になる。たった一人の通学の中で、私は様々な発見をすることが出来た。あの時のイケメンさんが、凍りついた私の心を溶かしてくれた結果かもしれない。


 結論から言うと、結局私は『ズル休み』をすることは無かった。確かにわざと休んで、そこで心を整理させると言う方法もあったかもしれないけど、私にはどうしても会いたい存在、行きたい場所があった。と言うよりも、それを思い出したと言うのが正しいかもしれない。

 今までの私は、そこへ向かったりそれと会ったりするために勇気を振り絞る必要があった。でも、イケメンさんは私にとても大事なことを教えてくれた。少しのんびり、マイペースに進んでも、私の目指す夢はきっと遠くで待っていてくれるはずだ、と。だから、私は自分の進むままに進む事を決めた。だからこそ、私はのんびり休める『図書館』や、大好きな動物たちが待つ『飼育小屋』を、もう一度大事な場所だと思いなおすことが出来たのだろう。


 ただ、私自身がそのように考えが変わっても、他の人たちが同じように変化を起こすなんていう都合の良いことは起こらなかった。


「あ……」


 いつものように私――太めで眼鏡で内気な『ブタ子』を待っていたのは、机の上にばら撒かれたシャーペンの芯の山だった。それを静かに見続ける私の耳は、ドアの影でその様子を嘲り笑う女子生徒たちの声を見逃さなかった。あの日の飼育小屋の出来事を、私は結局誰にも言わなかった。だから、いつまでも彼女たちは変わらないままだったのかもしれない。

 だけど、その声を私は今までより意識しないようになっていた。まるで耳元で聞こえるセミの音色やカエルの鳴き声のような感じにとらえ始めていたのだろう。


 そしてもう一つ、あの日を境に変わったものがあった。あの時は全くそういう考えに至らなかったけど、今思い直せば、あの女子生徒自身ではなく、その身の回りの方で様々な『異変』が起き始めていた気がする。それはまるで、今までの代償が返ってくるようなことばかりだった。


   


「ね、ねぇ、どこにあるか知らない?」

「知らないよ!」

「どうなってるの!?」


 授業の合間の休憩時間のことだった。普段は私の元に向かい、悪口を並べたり私のものを勝手にいじったりするはずの女子生徒が、なにやら慌てていた。しかも一人だけではなく、私をいじめの対象にしている女子生徒の全員が、まるで地球の終わりのような様相で騒ぎ始めたのだ。一体何が起きたのかとこっそり耳を傾けると、どうやら彼女たちがやってきたはずの宿題が、鞄の中にも机の中にも無いのだと言う。


「どうしよう……あの先生凄い厳しいよね……」


 私の前では絶対に見せない弱気な発言だけど、無理も無かった。次の授業の担当の先生は普段はとても優しいけど、宿題を忘れたり約束を理由無しに破ると、烈火の如く怒るのだ。昔そういうことで友達が大失敗を犯したことがトラウマになったって先生は言っていたけど、今思い返しても本当に怖いと言う記憶が残っている。

 幸い今回の宿題をこなす期限は長く設けてくれたので、私はばっちり仕上げることが出来た。そして、やはり女子生徒たちの怒りの目線は私――『ブタ子』に向けられた。


「ちょっとブタ子!あんた食べたんでしょ!」

「ふざけんなよ!早く吐き出せ!」


 そう言いながら私の元に駆け寄ろうとした瞬間、教室のドアが開き、その先生がやって来た。


「あ、授業はじめるよー」 


 あっという間に女子生徒たちの顔色が変わったのを、私ははっきりと覚えている。


 案の定、クラスの中には先生の罵声が響き渡った。そして宿題を忘れた張本人である女子生徒たちは、罰として教科書のページを大量に書き写す羽目になった。



「……ブタ子、明日覚えてなさい」

「来なかったら……分かるよね」


 その日の授業が終わった後、彼女たちはそう言って教室から去っていった。手出しをしなかった理由は、多分その書き写しだけで精一杯だったからだろう。その怒りの形相から、私は明日の自分がどのような事態になってしまうのか、と言う不安でいっぱいになってしまった。あの日、両親や先生に告げ口をすればどうなるか分からない、と脅された事が頭の中に蘇ってしまったのだ。

 

 でも、不安や恐怖でおどおどしながらも、図書館で本を読んだり、飼育小屋の動物、そしてブタさんたちと触れ合う事を救いに私は次の日も学校に向かった。しかし、そこで私は予想もしなかった事実を先生の口から聞くことが出来た。


 女子生徒たちが風邪を引いてしまい、揃って学校を休んだと言うのである。

 当然なし崩し的に、女子生徒たちからの約束も無かったことになる。


「……」


 昨日まで彼女たちは毎日一切休みもせず学校に来ては、同じように学校に来ている『ブタ子』を相手に色々なことをしていた。私にとって、あの女子生徒がいない学校と言うのは初めての経験だった。


 確かに、他の人から見れば、今まで私に散々酷い言葉を言ったりやりたい放題してきた女子生徒が先生に怒られ、しかも翌日風邪でダウンしたと言う状況は、ざまあみろ、いい気味だ、と言う感じかもしれない。でも、当の本人である私は、そのような嬉しさも、逆に悲しさも無く、その一日を不思議な気分で過ごしていた。


「今日は、何にも無い一日だったよ……」


 今までずっと何をやっても他人から馬鹿にされたり貶されたりし続けた私にとって、そういう状況が学校で一切起きなかったと言うのは、逆に慣れないものだったのかもしれない。他のクラスメイトからは事務的なこと以外は話しかけられる事が無かったけれど、それでも誰も私の事をのけ者にしようとはせず、ごく普通の同じクラスの一人として扱ってくれた。

 だから、私は飼育小屋の動物たちに、何も無かった、と言う報告をしたのかもしれない。


 でも、嬉しいことは勿論あった。学校の図書室に新しい生物の本が入荷していたのだ。少し難しい本のために誰も手を出していなかったので、私は喜んでその本を借りた最初の人となった。


「ふふ……」


 イケメンさんに励まされた後、私は再びこうやって飼育小屋の動物たち――カメや小鳥、そして広い空間を占拠しているブタさん――の元に通うようになった。風邪が治って、女子生徒たちが学校に戻ってきたとき、またこの場所にやって来る可能性が無いわけではない。でも、お父さんやお母さん、そしてイケメンさんのような理解者が、ここで待っている。その事を、私は再認識することが出来たのだ。



 その中でも、特にブタさんは私の話に今日も耳を傾けているようだった。



 あの日、実質的にイケメンさんに紹介してもらった『ブタ』の専門書を、私は毎日読み続けていた。その中には、今まで私の知らなかったことが宝箱の中身のように詰まっていた。そして、私自身の『ブタさん』に対する認識も大きく変えることが出来た。

 私につきまとう女子生徒のように、ブタと言うのは太って卑しく、そして頭の悪い動物と言うイメージが世間一般には強い。私のお母さんも、片付け忘れた私の部屋を『ブタ小屋』と言ってとても怒っていた事が何度かある。でも、そのイメージとは裏腹に、実はブタさんはとても頭の良い動物なのだ、とその本には記されていた。人間がちゃんと教えれば芸もこなし、自分の名前もしっかり覚えてくれるのだ。しかも、大半の動物たちが『鏡』に映った自分の姿を別の仲間やライバル、もしくは怖い敵と勘違いしてしまう一方で、ブタさんは私たち人間やチンパンジー、ゴリラ、ゾウさんたちのような頭の良い動物たち同様、鏡に映っているのは自分自身の姿なんだ、としっかり認識する事が出来るらしい。


 あの時、女子生徒は私をブタさんと恋人同士だと言い、飼育小屋の中でも貶し続けた。でもそれは、ある意味では非常に見当違いだったのかもしれない。もしブタさんが人間だったら、私はとても頭の良い人と恋人同士と言う事になるからだ。


「じゃあ、また明日ね」


 さすがに人間の言葉の全てが分かるほどの知性の持ち主、とまではその本に書いていなかった。でも私はそう信じていた。飼育小屋を後にしたとき、今日もブタさんは一声優しい声で鳴き、私を見送ってくれたからだ。 

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