第9話 砂糖と塩は人間の生命維持に欠かせない
翌朝、ナオは俺が出勤するまで部屋から出て来なかった。仕方ないんでナオの部屋の方に「行って来まーす」って小さく声をかけて城を出た。
職場に向かう電車に乗っていると、雨に濡れる車窓からナオの学校が見えて、俺はますますどんよりした気分になってしまった。
しかも。雨でショーが中止になったお陰で、今日は昼から時間が空いてしまった。
どうしようか考えながら電車に乗っていたら、またナオの学校が見えた。そうだ、学校行ってみよう。用も無いけど……。
キャンパスの中を傘を差して歩いていると、前方からトロルのような風貌の男がまっすぐ歩いて来る。その男はこっちを真っ直ぐ見ているにもかかわらず、全く俺に焦点が合っていないと言うか、俺の存在に気づいていないと言うか、俺を景色の一部として認識……いや、寧ろ認識すらしていない様子でこっちに向かってくるわけで。
つーかさ。
昨日に引き続き、人間界のトロルにさえその存在をルシフェルの羽未満にされてる俺って、もしかして自分で思う以上に存在感無い?
俺がコイツを避けるのは簡単なんだが、俺が避けたらこのトロルはこのまま食堂の壁に激突して食堂を破壊し、その事実にさえ気づかずに歩き続ける事が容易に想像できたんで、それは流石に魔王的にほっとけないっつーか、そんな非魔道的(ここでは非人道的というのか)な事はできない性分つーか。
「おい」
「うああ! びっくりしたぁ!」
トロルはあからさまに驚いて後ろにひっくり返りそうになった。……ので思わずトロルの手首を掴んでなんとかヤツが水浸しになるのだけは回避してやった。
「ちゃんと前見て歩かないと危ねーし」
「前は見てたけど……いつ現れた?」
「ずっと正面に居たじゃん。てかそーゆーの、見てたって言わんし。ボーっとしてると食堂の壁と仲良くなっちまうぜ? まあ、被害を被るのは食堂の方だろーけど……って、ちょっと聞いてる?」
「あ? ああ、なんだっけ?」
「……お前、俺をバカにしてる?」
「そっ、そんな事無いよ」
このトロルはトロルだけにアタマ弱いのか?
「なんか知らんけど、考え事してる時はじっとしてた方が良いんじゃね? ……って、ちょっと聞いてる?」
「あ? ああ、ごめん」
「……お前、俺をバカにしてる?」
「そんな事無いって」
「な、食堂行こうぜ」
なんか俺はこのトロルが妙に心配で、と言うかこのボケーっとしたトロルの被害に遭う人が出るんじゃねーかって寧ろそっちが心配で、トロルを食堂に引っ張り込んだ。
「飯食った?」
「うん。牛丼特盛と鶏の唐揚げ定食と豚の生姜焼きランチ……」
「お前マジでトロルだろ」
「……と、ロールキャベツ」
「トロールキャベツ?」
「まだ足りない」
やっぱこいつトロルだ。
「で、なんであんなにボケーッとしてたんだ?」
「うん、ちょっと悩んでて」
「俺で良かったら相談に乗るよ。役に立つかどうかは別として」
って何で俺、人間界に来てまで魔王的仕事やってんだよ?
「え、ホント? っていうか、あんた何科?」
「俺はここの学生じゃないよ。ここの学生の……保護者……かな」
いや、正確には被保護者だな。でもここでそれ言っても怪しまれるだけだし、それで良しと言う事にしておこう。うん、俺はナオの保護者だ。なんか妙に気分いいな。
「僕、指揮科の佐藤って言うんだけど……」
「ぬわにぃ? 指揮科の佐藤だとぉ!?」
「え? 何、僕の事知ってんの?」
「いや、知らん」
中途半端に知ってるけど……。
「なんだよ、おどかすなよ。あんた名前は?」
「あ、俺? 真央。真央大。漢字で書くとシンメトリーになる」
「なんかどっかの大学みたいだね」
それ言うなって……。
「ほっとけ。で、どうした?」
「どう振るか悩んでる」
「昨日振ったんじゃねーの?」
「なんで知ってんの?」
「ナオから聞いた」
「ああ、あの作曲科の眼鏡の子の友達か。彼女勉強熱心だよね。終わってからも僕のところにいろいろ聞きに来てくれたんだよ」
「ふーん。で? 何悩んでんだよ」
「グリーグのさ、ペール・ギュントってあるじゃん? あれの第一組曲を振るんだけどさ……知ってる?」
おお、なんという幸運。昨日ナオがさっぱり口利いてくんねーもんだから、そこらにあった本を読んでたんだよ俺は。そこに書いてあったさペール・ギュント! どうしようもねえ放蕩息子のどうしようもねえ馬鹿話につけた、すんばらすぃ曲だそうじゃないか。
「ん、まあ、知ってる」
「でさ、でさ、でさ、悩んでるのは四曲目、『山の魔王の宮殿にて』なんだよ。魔王のイメージがさ、なんかこう過去に演奏されてる魔王はなんかちょっとステレオタイプでつまんないっていうか、もっとこう、リアリティのある魔王であって欲しい訳なんだ」
なんと! 人間界での魔王のイメージを払拭したいと言っているのかこのトロルは!
「で、具体的に佐藤の持ってる魔王イメージってどんなの?」
「うん、先ず魔王は『ぐわはははは』とは笑わない」
「うんうん」
「それで、無駄に人に危害を加えたり脅かしたりしない」
「うんうんうん」
「それで、魔族の王だから、魔族の平和の為に日々尽力してる」
俺は思わずこのトロルを抱きしめていた。
「お前、人間界で一番魔王をよく判ってる」
「あ、どーも。でもホモじゃないから放してくれる?」
「そ……そうだな」
危うく腐女子の喜ぶような真似を魔王自らしてしまうところだった……。
「この曲はペール・ギュントって言うくらいだから、ペールが主人公じゃん? つまりペール目線の解釈で振られることが多い訳。だけど、魔王目線だとどうなるんだろうって考えたんだ」
「何お前、魔王の気持ちになって考えてくれる訳?」
「うん」
俺はこのトロル……もとい、佐藤を一撃で好きになった。
「ペールはすっごい可愛い女の子を見つけて求婚するけど、それが魔王の娘だったわけで、魔王の宮殿に『王国付きで娘をくれ』ってメチャクチャな事を言いに行くんだよね。そんな事言われてもさ、魔王的には『え? 何言ってんの? いい病院紹介しようか?』って案件だろ? どこ馬の骨かわからないバカっぽい人間の男に娘と王国そのものをよこせって上から目線で言われるんだからさ。ありえないよ。ただでさえ魔界のために日々西に東に駆けずり回っているだろうに、そんなバカの相手なんかしていられない。でも魔界の責任者の立場から、変なことは言えない」
うんうん、いいぞ、佐藤!
「そしていざ、ペールが山に登って来る。魔王は流石に一族の王らしく、馬鹿人間相手に非常に紳士的に振舞う訳だ。その『上から目線の強欲馬鹿』に、なんとかして諦めて貰おうと、『ここでは牝牛の小便を飲んで尻尾を付けるのが習わしだ』とか無理っぽい事を尤もらしく要求するんだよな。それでも王国欲しさにこの馬鹿ペールは牛の小便飲んで尻尾付けるんだよ、アホだよなぁ。えーちょっとマジですかどうしたらいいですかこのキチガイ……って迷う魔王の心情に寄り添った指揮がしてみたいんだ」
目頭が熱いぜ、佐藤!
「大体、冷静に考えてもみろ、いきなりわが娘を連れてやって来たバカっぽい人間が『お前の娘はこの俺様が貰う、王国とともにな! はっはっはっは』とかアホな事を腰に手を当てて言う訳だ。それこそ『ぐわはははは』だよ。もうそれ見ただけで魔王はやる気無くすって言うか、『え、コイツと会話すんの?』って思うじゃん? 別にその場で張り倒したって、トロルのオモチャにくれてやったっていいんだよ? それでも魔王はその威厳を崩すことなく、このペールに誠心誠意、一族の王として話をしようとするんだ。その必死の祈りにさえ近い魔王の心情をこの練習番号Bの4小節前のストリングパート5連符の掛け合い辺りからBのティンパニにかけて持って行きたいんだけど、そこまでをどう表現するかなんだ」
俺はいきなり涙腺が崩壊しかけた。
「お前凄いよ。俺の出る幕無いほど佐藤は考えてるよ。佐藤は魔王の気持ちに寄り添える人間界唯一の存在だよ。俺、感動したよ。なんか久し振りに存在認めて貰えた気がするよ」
「悪い、意味がわからないんだけど」
ま、そうだわな。
「そこはわからなくていい。そんな事はどうでもいいんだ。大切なのは、お前が本当の魔王をよく理解していると言う事だ。完璧すぎて俺には相談に乗ってやれない。すまんが許してくれ」
「いや、いいんだ、聞いて貰っただけで随分自分でも整理できたような気がする。なんかこう漠然としたイメージだったんだけどさ、こうして説明する事で自分の中で明確になった部分があるよ。ありがとう真央」
「あ……いや……」
「また相談に乗ってくれる? 今日みたいに聞いてくれるだけでもいいんだけど」
「ああ、うん、いいよ、勿論だ、寧ろ俺が聞きたい」
「ありがとう、じゃ、僕、帰るよ。帰って魔王の心情をもっと具体的に掘り下げてみる。あ、言い忘れてた。僕の名前、
「ああ、またな」
俺はいかにも安っぽい透明のビニール傘を差して食堂を出て行く佐藤の大きな背中を見送った。
なんだか俺は少しだけ憂鬱な気分から抜け出した。
食堂には誰が点けたのか、テレビでオバサンが満面の笑顔で話している。
「熱中症対策として経口補水液の作り方もここで教えちゃいましょう」
ああ、俺がナオに拾われた時、ナオは確か「軽い熱中症だよ」って言ってたよな。そんでコーラを飲ませてくれたんだ。経口補水液ってなんだろう。コーラとはまた別の物なのか。
「水1リットルに対して、砂糖40グラム、塩3グラムの割合です。一気に飲まずに、何回かに分けて何度も飲む方が効果的ですよ」
砂糖と塩は人間の生命維持に欠かせないのか。
砂糖と塩……。
佐藤俊雄……。
トロルは
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