第32話:「黄埔軍校大飯店」

 (先輩……一体、あなたは何を考えているんですか……!)

 「そして、更にもう一つ軍令を下す……」


 「ふむ……なるほど」

 「だから、神父だってあんまりだと思うでしょう?」

 「私はまだあなた達の国家の決まりについては疎いので……なんとも言いかねますね」

 「俺らはみんな不公平だって感じてるんですぜ!」

 別の水兵が口を挟んでいった……「それはともかく、神父の中国語はよくできてますね。なのに俺らの国にまだ来たことがないなんて、却って残念ってやつだなぁ」

 「私たちは今まさにあなた達の国に向かっているところでは?」

 「ああ、言われてみりゃそうだった」そういうと、周りの連中も大声で笑い出した。

 中山艦のゲストルームでは、整った黒の神父装束に身を包んだボロディンが、白のベッド

腰かけ、綺麗な発音の中国語で立ったままの水兵たちと会話をしているところだった。彼らは世間話をしている内に、話題は李之龍のことへと触れることになっていたのだ。

 「それで、つまりその事があったせいで仕事をする気にはなれない、ということですね?」

 「その通りさ……李艦長は俺らに良くしてくれたからね。俺ら乗組員全員と兄弟の契を交わしてくれただけじゃなくて、普段の仕事も偉そうにしないし、特別に支給された高級軍官用の酒や料理なんかも分けてくれてたんだ! 今の新しい艦長はえばっているばかりで、俺らのことなんかてんで気にかけてもいないのさ!」

 「はぁ……李艦長が乗ってた時期のことが懐かしいなぁ……」

 「ということは、あなた達は未だに李之龍艦長と連絡をとり続けているということですか?」

 「もちろん! 神父、あんただから教えるけどさ……実は俺らは全員、共産主義小組のメンバーになっているんだ」

 「共産主義小組?」ボロディンはその単語を耳にすると、意識を集中させた。「聞いた話では李之龍も小組のメンバーだそうですね」

 「そうさ!」また別の水兵がそう補足してみせた。「まさか神父も小組のことを知っているだなんてね。今この艦ではあなたと艦長以外は、全員小組のメンバーなんだ。俺たちは秘密で互いに連絡を取り合っているのさ」

 さっき口を挟んで来た水兵がまたこういった……「ふん、まあ俺たちとしても腹が立つところだけど、だからってこんな気の滅入る話ばっかりするべきじゃないだろ。それより、ロシアの金髪美女はほんとに綺麗だよな!ウラジオストクに行った奴らは、ほとんどもう国に帰りたくないって言ってたぐらいだぜ!」

 「バカッ、お前神父の前で美女がどうとかなんてそんな話するなよ!」

 水兵たちの間でまた笑い声が沸き起こった。ボロディンはポケットの中から懐中時計を取り出し、それを一瞥するとこういった……「もう遅い時間ですね。あなた達も明日は早いのでしょう。今晩のお話はここまでとしましょうか」

 「ああ、じゃ俺たちもお暇するとしますよ」

 「おやすみなさい、神父」

 「良い夢を」

 人々がそうやって立ち去ってしまうと、ボロディンはベッドの上で横になり、今まで見せていた笑みを引っ込めた。

 蒋中正の発した第三の軍令とは、中山艦の艦長を新たに任命し、ウラジオストクまでボロディンを迎えに行かせる、というものだった。

 表面的には汪精衛の命令と同じものだが、現在執行されているのは蒋中正の命令であり、国軍は国民政府に従っているが、その実、事は蒋中正の命令で動いているというわけだ。この事があった後、汪精衛のやり方は通用しなくなり、再度軍官に対して命令を下すということも起こらなかった。

 そして現在、中山艦は広州に向かって舵をとっている。ボロディンはその二週間あまりの船旅の中で、中山艦の乗組員たちと親しい関係を築いていた。彼らは神父に対して強い興味を示していた。偉そうにしない態度などからも、李之龍の影を連想していたのだ。そうして彼らはあっという間に、心を通わす友となっていたのである。

 ボロディンは毎晩のように休憩時間の乗組員たちを彼の部屋に誘って話をしていた。表面上は乗組員の精神衛生を心配して、ということになっていたが、実際は更に多くの情報を収集するためだった。何度かそういった場を経たことで、乗組員たちは警戒心を解き、自分からボロディンに話をするようになっていたのだった。

 (この艦の人間たちはみんな李之龍になついている……もし李之龍にここの連中を扇動するだけの能力があれば……ふむ……これは利用価値がありそうだぞ)

 ボロディンは広州でとるべき事柄について検討しながら、眠りについていった。


 「開けろ」

 「はい!」

 蒋中正は看守に監獄の門を開けるように命令すると、一人で監房の一つへと足を踏み入れた。

 ここは黄埔軍校にある収監用の小型監房だった。十平方ていどの広さの個室が十数個あるだけのものである。平時であれば、ここに収監される犯人というのは上司に楯突いたことで、数日間頭を冷静にするために軍人が送り込まれるような場所だった。監督にあたっているのは看守一人で、警備も簡単なものである。女性の軍人も収監されることも想定され、決して快適というわけではないものの、全体的には清潔にされていて、軍人たちの間では密かに「大飯店」と呼ばれている所だった。

 今回、彼女は初めてこの監獄を訪れることになっていた。黄埔軍校が落成した際にも、部下の反対によってここまで巡視することができなかったこともあり、彼女はこの「大飯店」というものに好奇心を寄せてもいた。

 その日を担当していた看守にとっては、とてもそんな気持ちではなかった。まさか蒋中正が訪れるなどとは考えてもいなかった彼は、乱れた軍服を整える隙もなかった様子で、実に気まずそうな顔付きで彼女を出迎えることとなった。そして、戦々恐々といった体で彼女の後を着いて回っていた。

 彼は監獄の門を開けると、蒋中正の命令によって監房の外で待つようにと言われ、火の粉が飛ぶような速度で彼女の視線の外へと逃げ出していった。

 彼女は監房の様子をみると、不満そうに眉を寄せた。

 (後で翔宇にいって、ここも整頓させた方が良さそうだな)

 彼女は監房に入り、自ら入り口を閉めてしまうと、身を翻してここに収監されている毛沢東へと近づいていった。

 軍靴がコンクリートを踏みしめ、重々しい音を立てた。

 毛沢東は体に合わない黒と白の囚人服を着たまま、冷たく堅い床で横になっていた。彼女はトレードマークの二つのおさげを結んでおらず、棕櫚色の綺麗な髪は彼女の背中に滑り落ちていた。

 彼女は蒋中正がやって来たのを見ると、背中を向けていった……

 「何しに来たんだ? お前に話すことなんかないぞ」

 「私はあるんだ」

 「…………」

 蒋中正は彼女が反応を示さないのを見ると、自分で監房に唯一ある椅子を引き、足を組んで座った。

 「ここでの生活はもう慣れたか?」

 「お前のお蔭で、ここ数十日というもの野菜とマントウばかりの生活でね。肉はおろか骨すら齧ってもいない。私はほとんど肉の味を忘れてしまったよ」

 「それはお前に対する罰だ。お前には軍校とは規矩を守る場所だということを理解して貰わないといけないからな」

 「ああ、下らない話ならごめんだよ。お前だって暇な人間じゃないんだ。私と世間話をするために来たわけじゃないんだろ」

 毛沢東は鬱陶しそうに頭を掻きながら、蒋中正には依然として背中を見せたままだった。

 二人はしばらく沈黙を続けた後、蒋中正はこういった……

 「お前のどの辺が神聖なのかってことに興味が湧いてな。それでこうして話をしに来たというわけだ。

 「はぁ?」

 毛沢東はとうとう堅い床から起き上がると、迷惑そうな顔付きで蒋中正を見た。

 「お前……それはどういう意味だよ」

 「そのままの意味だ」蒋中正は腕組みをしながらいった。「お前には言うが、お前がここに収監されてからというもの、翔宇……周恩来は事あるごとに、お前のために、お前に一刻も早く特赦を与えてやって欲しいと願い出ていてな。私は毎回拒絶しているんだが、今に至るまで、翔宇は放棄しようとはしていないんだ」

 「そんなの私じゃなくて、周恩来に訊けば分かることだろ」

 蒋中正は彼女の言葉に応えることなく、こう続けた……

 「私もあいつとの付き合いは長い。これまでずっと、どんな事であれ、奴は道理で私に対して来た。今回のように純粋に自分の感情で私に何かを求めて来たことなど、一度もない」

 「え……?」

 毛沢東はその話を聞くと、ぱっと目を見開いた。内心では動悸がしてもいた。

 「奴もお前のことは自業自得だと言っていた。私の怒りも理解していたようだ。私としても奴には、奴が情に訴えようが仕事には影響しないし、あの時の決定は変わらないと答えている。しかし奴はそれでも続けて訴えを寄越して来るんだ。それで興味を惹かれてな。一体お前にはどんな魔力があって、翔宇にこんな異常な行動をとらせるんだとね」

 「……ふん、ふん!」毛沢東はぐっと胸を張っていった。「だったら答えてやるよ。それこそが小組メンバーの力ってやつなのだ!」

 蒋中正は興奮した様子の毛沢東を見ると、内心面白くなかった。

 「絆がどうとか言う気か? お前たちは学校の部活でもやってるつもりなのか?」

 「ある仲間の一人が獄に繋がれるという災難に見舞われている時に、その他の仲間がそのことに不平不満を抱く、そんなのは当たり前のことじゃないのか?」

 「私には理解できんな。お前たちが李之龍のことに対して不平を抱くっていうのなら、私にも分かる。だがお前に関して言えば、翔宇も言っているように、身から出たサビというものだ。但し奴はそれでいて、李之龍のためではなく、お前のために私に訴えを寄越して来る。これは一体どういうことだ? お前たち共産主義小組の人間というのは、どいつもこいつも道理が分からない連中だということか?」

 「だったら逆にお前に訊いてやるよ。まさかあいつもお前にとってはその『道理が分からない連中』の一人だっていうのか?」

 蒋中正はその場で言葉に詰まってしまった。毛沢東はその様子を目にすると、こうつつげた……

 「やつが李之龍同志についてお前に訴えを寄越さないのは、最初から一貫して李之龍同志は何も間違ったことはしてないと考えているからだ。私に関して言えば……お前の態度でその答えは出てるだろ、違うか? お前は内心では最初からやつがどうしてそんなことをするのか分かっているはずだ。お前が、共産主義小組という身分からそうしているということを認めたくないから、自分では理解できないだなんて言っているだけなんだ。はは、分かったぞ。言ってしまえば、お前は拗ねているだけなんだ」

 「そんなはずがあるか。翔宇はそんな人間ではない。そんなことは誰よりも私が分かっている。だからこそ私は分からんのだ。お前のやったことは間違ったことだと分かっていながら、どうして訴えを寄越すのかとな」

 「その通りかもな。お前のように友達もいない、付き添ってくれる人間もいない寂しい奴には、もちろん互いに支え合い相手のことを思いやる人間の考えは理解できないんだろうさ」

 「私にどうして分からないなどということがあるんだ。私は孫中山女史の遺志を継ぎ、周りには多くの志を持った人間たちがいる。私と共に北伐という大任を担っている人間たちだ。民衆は軍閥が割拠することによって苦労を強いられていて、私がこの国家を統一することを期待してもいる。さらに言えば、ここには私の個性と気質を理解してくれている翔宇だっているんだ。奴が私の傍にいる限り、私が寂しい人間などということはない」

 「それは本当のことか?」

 「……何が言いたいんだ?」

 「私から見れば、お前の傍にいる志を同じくする人間たちな、あいつらも悪くはないけど、結局はお前の部下、側近でしかないってことさ。

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