第29話:「孫中山なんかどうでもいいでしょう!」
「翔……宇……?」
「僕にはあなたとあいつの関係がどういったものか分からないし、あいつがあなたに何を言ったかもよくは知りません……僕に分かっているのは、先輩があいつと結婚してしまったら、幸福になることなんて絶対に不可能だってことだけです!」
「だ、だけど、万が一これが中山女史の遺志だったとしたら……」
「だったらどうだっていうんです!」周恩来は激しく腕を振り回し、身体言語で蒋中正の言葉を否定した。「先輩は中山女史の遺志を受け継ぐ人間というだけで、彼女の傀儡なんかでは決してないはずでしょう! 万歩譲って、それが本当に彼女の遺志だとしても、あなたがそれを認めることができず、幸福を手にすることも叶わなくなってしまうのだとしたら、そんなバカげた言い付けを守る道理なんかない!」
「私の願いは復国という彼女の理想を体現することなんだぞ! それは私自身の理想でもある! 私は中山女史の傀儡などでは決してない!」
蒋中正は周恩来の心の声に触発されたのか、知らず知らずのうちに声のトーンを上げていた。
「これは国家の大事に限った話じゃないですか! 先輩は彼女の建国の理想を認めて、彼女の遺志を継ぐ決意をしたんでしょう。だけど、あなたが汪精衛の元に嫁ぐという話の真偽をとやかくする前に、先輩自身がそれを望んでいないのだとしたら、先輩は自分の心に従うべきなんじゃないんですか!」
「自分の……心……」
「今はもう許嫁だの他人が決めた結婚相手にあわせるような、封建時代じゃないんですよ! 先輩のような魅力ある新時代の女性が、不合理な、自分の気持ちに沿わない結婚をする必要があるんですか! 先輩は絶対に本当に幸せを掴み取ることのできる女性なんです!」
蒋中正はその瞬間、リンゴのように顔を真っ赤にさせ、憤然と周恩来を指さしていった。
「お、お前は一体何を言っているんだ!」
(しまった、僕は何を口走っているんだ!!)
周恩来は我に返ると、自分が口にした言葉に自分で驚き、蒋中正と同じように、顔を真っ赤にさせることになった。
「す、すみません! ついカッとなってしまって、おかしな話を……」
蒋中正は俯いて黙ったまま、周恩来もそれ以上言葉を重ねることもできず、二人はしばらくそのまま沈黙を維持することになった。
室内では、置時計の「カチカチ」という音だけがしていた。
(なんとかしてこの雰囲気を変えないと……だけど一体何を言えば……全く思い付かない、僕のアホ!)
周恩来がそうして焦燥に見舞われている時だった。
「ぷっ」
と、蒋中正の噴き出す声がこの気まずい沈黙を打ち破った。
「えっ……せ、先輩?」
彼女は周恩来のそんな疑問に答えることなく、体を折り曲げ、口元を覆って笑うのを堪えている様子だった。
「翔、翔宇……ほ、ほんとは……お前……バカなんじゃないのか? ……うぅ、ははは!」
「せ、先輩! 僕をからかっているんですか? そうでしょう!」
「……お前の考えすぎじゃないか?」
「ほんとですか、それ!」
蒋中正はまたひとしきり笑ってみせると、背筋を伸ばし、長く伸ばした自慢の黒髪を払い、気を奮い立たせるように周恩来に向かって微笑んでみせた。
今の彼女の様子は、まるで暴風雨が通り過ぎてしまった後の晴天のようで、彼女の表情を覆っていた憂愁は、いまやすっかり一掃されてしまっていた。
「ふん、もう平気だ。翔宇、命令を与える!」
「はい!」条件反射で、周恩来はすぐさま敬礼の姿勢をとった。
「今回の暴動事件に関するさっそくの調査を命じる。明日の朝に報告するようにしろ」
「了解!」
「いつまでそこに立っている気だ? はやく行かないか」
「あ、あの……はい!」周恩来は一瞬反応しきれず、狼狽した様子だったが、すぐに向きを変えるとその場を離れようとした。
けれど彼は校長室を出る直前、蒋中正に顔を向けた。
「先輩、本当に大丈夫ですか……?」
「私のことは心配しなくていい。お前は自分の仕事をしっかりやればいいんだ」
周恩来は彼女がそんな風に言うのを聞いて、それ以上何も言わずに校長室を出て行った。
「……私のような魅力のある新時代の女性……か……ふふ」
蒋中正はそんなことを一人呟くと、思わず口元を持ち上げてしまった。
けれど、彼女はそんな笑みをすぐに引っ込めた。
(ありがとう、翔宇。それと、すまない、真実を全て話してやれなくて。けれど今回の暴動がタイミングよく発生してくれたおかげで、汪精衛に対抗するために考えを練る時間を得ることができた……そうだ。これからどうするべきなのかな)
蒋中正は難しい顔で腕組みをすると、校長室の窓辺から、夜空に浮かぶ満月を見上げた。
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