245区 前へ進む努力

「こら! 澤野。ペースが速過ぎる。あくまでジョグだと言っただろうが!」

私がペースを上げると永野先生からお叱りが来た。


先ほど説明を受けたとおり、私だけ別メニューが用意されており、今週はひたすらジョグと流し、筋トレのみとなっている。


焦ってはいけないと分かっていても、他の部員がポイント練習をやっているのを見ると、ついついペースを上げたくなってしまう。


ただ、思っていた以上に、この一ヶ月間走っていなかったダメージは大きかった。

食事をほとんど食べていなかったのも、大きな原因の一つではあるが……。


最初の10分くらいは、ついついペースを上げて永野先生に怒られていたが、それから20分もすると、あきらかにペースが落ちているのが分かった。


脚が前へと出て行かないのだ。


「こら澤野、ペースはゆっくりでも良いからフォームは絶対に崩すな」

さっきとまったく別の理由で注意を受けてしまう。


それでもなんとか60分ほどジョグをしたのち、流しと筋トレを行って今日の練習は終了となる。


「やっぱり聖香が戻って来ると、部の雰囲気が変わるわね」

練習が終わり、部室で着替えていると、麻子が妙に嬉しそうに語り出す。


「と言うより、麻子さんが変わり過ぎですし。聖香さんがいないと、あきらかに落ち込んでいましたし」


「ちょっと紘子。適当なこと言わないでよ」


「アリス的にも同意見ですね。あさこさんがようやく元気になった感じがします。普段は元気だけが唯一の取り柄なのに、昨日まではそれすらなくて、精神も頭脳並に悲惨な状況でしたから。まぁ、つまりはこの世にこれ以上悲惨なものはないってことですけど」


「そんなことないわよ! てかアリス。あんたいつにもまして毒舌ね」

紘子とアリスに思わぬ攻撃を受け、麻子はふて腐れていた。


と、紗耶が私の側に来て、そっと耳打ちをして来る。

「実はあさちゃん。せいちゃんまでいなくなったらどうしようって、わたしの前でわんわん大泣きしてたんだよぉ~」


にわかに紗耶の言葉が信じられなかった。

私の部屋に来てあれだけ怒っていたのに。

それに駅伝の時でも、麻子は声を殺して静かに泣いていた。

そんな麻子が声を上げて泣くなんて、正直想像すらも出来ない。




私が部活に復帰して3日目。


永野先生に指示され、私は急遽1000mを一本やることになった。

今週はジョグだけの予定だったが、永野先生にも思いがあるのだろう。


永野先生が意味もなくそんな指示を出すはずがないと分かっているので、私は素直に従う。


永野先生に言われ、時計を付けず、途中のタイムなどいっさい気にせず全力で走りきる。


久々に全力で走り、息もかなり上がってしまう。

それでも、それなりにタイムは出ている気がしていた。


だが、タイムを聞いて愕然とする。


もちろんベストタイムが出るとは思っていなかったが、まさかベストよりも30秒も遅いとは……。


1年生の時に県駅伝1区6キロを走ったが、その時の1キロ平均よりも今の1000m一本の方が遅かったのだ。


「まぁ、焦るな。フォーム自体は崩れてなかったから問題はない。これから何度も心肺機能に刺激を入れて行けば、タイムも自然と上がっていくさ」

永野先生は優しくフォローしてくれるが、自分の中ではかなりのショックだ。


でも、こればかりは仕方ない。

前へしっかりと進むと決めたのだ。

落ち込む暇があったら前へと進む努力をしよう。

それにこの道が平坦ではないことは分かっていたはずだ。


その日の練習終了後に、県高校選手権のエントリー種目が発表される。


3000mに紘子、梓、紗耶。

1500mに麻子とアリス。

800mに朋恵が出場することになった。


紗耶と梓はお互いが3000mに出場すると分かると、視線をスッと合わせていた。


きっと2人ともこの3000mで勝った方が駅伝のレギュラー最後のイスをつかみ取れるというのが分かっているのだろう。


別に永野先生がそうだと明言したしたわけではないが、2人にとって、これがレギュラー獲得のための重要なレースだと言うのは、私にも容易に想像がついた。


「あの……。わ……わたし、800mって走ったことないですよ」

朋恵は自分のエントリー種目を聞いて怯えるような眼をしていた。


まぁ、朋恵は高校から走り始めたのだし、出るたびに初めての種目になるのも仕方ない。


とは言え、各種目学校から3名のエントリーが出来るということは1500mの枠が一つ空いているはずだ。


なのにあえて朋恵を800mに持って行く辺り、永野先生にもなにか考えがあるのだろう。

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